それから数日が経った。

「延期、ですか」
「左様。楽士様にはこちらでごゆるりと英気を養われませ」

部屋を訪れ丁寧に説明してくれた官吏に深々と礼をして見送る。
なんだか気が抜けて寝台に寝転んでしまった。

予定が狂った。儀式直前になって凶の卦が顕れたため延期となった。
改めての日取りを占ったところ、まだ日があるとのことで、有難いことにそれまでの間はタダ飯喰らいにて過ごすことになった。我ながらいいご身分である。
凶の卦──まさか楽士が入れ替わり、力を持たぬ私が城中に居ることを指すのだろうか。
後暗いところがある身だ。ついつい悪い方向へ考えてしまう。
しかし、新たな日取りが決まったのは吉兆だ。私がいても恙無く執り行える天帝の御意思だと思うことにした。

鎮めの任は儀式当日のみ。失敗は許されない一発勝負だ。
任が特殊なことと、代替わりに伴う政務の引継ぎに忙しいこともあって、私はほとんどの時間をひとり宛てがわれた小部屋で過ごしている。おかげで変にボロを出して正体がバレずに済む。

皆さんお忙しそうなのに、僕のことまでお構いなく。女官さんの上げ膳据え膳も居心地が悪いから、いっそ扉の前に置いておいてください。

そう冗談で提案してみたら「罪人ではないのですから」「なんて謙虚なお方」「照れていらっしゃるのかしら」などと口々に言い寄られてウブな田舎者の少年を手ほどきしたい欲を刺激してしまったので、口を噤んでおとなしく上げ膳据え膳の立場に甘んじることにした。
口は災いの元とは誠である。
しかし、とりあえず女官さん達の目は誤魔化せているようだ。女の勘は鋭い。それを欺けているのは喜ばしかった。

そんな訳で、ひとり静かに窓辺から見える風景を相手に演奏の練習に励む日々である。
私は楽器より歌を得手としていたが、確実に声で女だとバレるし、何より皇城には春蕾は笛の名手との評判が既に広まっていた。
辻褄を合わせるためにも笛でなくてはならない。
もちろん吹けないわけでは無いので、練習を怠らずにいれば演奏自体に不安はないのだが──やはり、私には鎮めの才は無い。
木陰でまどろむ猫は、気付け薬でも嚥まされたように起きだしてしまった。これでは鎮まるものも鎮まらない。

「う……どうしよう」

ずんとのしかかる重責と、発覚した時の罰が否応なしに頭の中を駆け巡る。
知らず知らずのうちに背を丸めて頭を抱え込んで、呼吸が浅くなっていく。

「……はっ! まずい、どツボにハマる」

無理やりに上を向いて深呼吸する。
深刻な未来予想図を描いたからといって、先行きが明るくなるわけではない。
こういう時は気分転換に限ると窓を開け放った。
そよそよと流れ込む外の空気が頬を撫でていく。
小鳥も機嫌良さそうにさえずっていた。私の音色で叩き起こされたのとは違う鳥かもしれない。
しばらくはただ、自然にあるがままの音を聞いていた。
そこにふたつの声が寄り添うように木々の間を縫ってくる。無意識に耳をすませれば男女の会話のようだ。

「……あ」

目を凝らしてみれば木立の先、手入れされた池のほとりを歩くのは──皇帝陛下だった。烏の濡れ羽色が木漏れ日を浴びて静かな気品を漂わせている。
女の私より輝く黒髪のしなやかさはもはや嫉妬する気すら起こらない。
女官たちの感嘆を欲しいままにする美貌の白皙は、隣を歩く女性を慈しみ深く見つめていた。
誰だろう……と野次馬根性を出すまでもなかった。皇帝陛下の母君──皇太后陛下だ。
ゆっくりとした歩調は、先帝が崩御遊ばされた心痛の現れだろう。それに寄り添う皇帝陛下は今はひとりの息子としてお支えされているのだ。会話の中身は聞こえずとも、親子の睦まじい様子に記憶の蓋がかすかに開く。

──母様の子守唄が聞こえる。

悪い夢を見た時、抱きしめて歌ってくれたあの旋律。
懐深い海のようで、また爽やかな新緑をも思わせるあの歌声。
気づけば、思い出の旋律が口をついていた。

ねむねむねむれ、いとしごよ
ねむねむねむれ、よきゆめを
あすのおひさま、あなたをまつわ
いまはおやすみ、いとしごよ

「……まだ、歌詞も覚えているものね」

そう口に出せば、母様との別れの日から今日までの歳月が瑞々しい感傷と共にどっと押し寄せた。
しゃがみこんで嗚咽を堪える。

こんなところで泣いてはだめ。家族と離れ離れになって、感傷的になっているだけ。
儀式でお役目を果たせば帰れるのだから今は前を向いて──

必死に自分に言い聞かせていると、窓の外で女性が小さく声を上げた。
窓枠から目だけ覗かせて窺えば、皇帝陛下がよろめいたようだ。母君が休養をとるようにたしなめているのだろう。
大事に至るようなら人を呼ぼうかと身構えたが、すぐに持ち直した皇帝陛下はしゃんと背筋を伸ばして歩かれていた。

「きっとお疲れなのね」

先帝が病床に伏せった段階でお覚悟はされていらしただろうけど、即位から今まで働き通しなはずだ。
この国を支え、身に宿る龍を従えるのは並大抵のご苦労では無いことくらい、私にだってわかる。
やはり、鎮めの楽士は必要な存在なのだ。
改めて自らに課せられた責務に身を固くした。