「名は」
「ち、沈春蕾と申します」

軽く喉の調子を整えて、低めの声でそう答えれば手をひらひらと振ってあしらわれた。

「違う違う。それは仮の名であろう。何が悲しくて女が男の名を名乗らねばならん」
「えっ、と。わたくし、いや? 僕は──」

そう言われてしまうとどこまで春蕾のふりを続けるべきかわからなくなってきて、一人称すら覚束なくなってきた。
確かにもうこれはバレている。しかしこれは春蕾のお役目なのだ。もし何かの弾みで皇帝陛下ご本人や官吏にまで発覚したら。
倒れ伏す人々の間に視線を走らせると、飛龍は興味なさげに彼らを見遣る。

「この者達は起きぬ。我が望まねばな」
「生きては……いるんですよね?」
「ん? 滅してほしいのか」
「ひっ」

肩の埃を払うように生命を奪いかねないその発言に固まると、飛龍はずいと畳み掛けてきた。

「戯言よ。して、名は」
「……暁蕾。暁の蕾と書きます」

気圧されたまま素直に答えれば、飛龍は興味深そうに何度も頷き押さえきれないといった風の笑い声を喉の奥から響かせた。

「そうか、そうかそうか! やはりお主は我が目覚めに相応しい暁をもたらしたのだな!」

哄笑収まらぬ中、ぐいと背中を引き寄せられて顔が近づく。

「暁蕾。我が妻となれ。もっとお主の音色を聴きたい。朝な夕なに臥し所で奏でる調べはさぞかし極上であろうよ」
「な──」

にいと細めた黄金色の瞳に私が映っている。
そう認識できた時には、熱いくちびるが押しつけられていた。

「……っん、む!」

熱い。
くちびるが。覆われた後頭部が。抱え込まれた肩が熱い。
自分のものではない体温がどっと押し寄せて、触れ合っているところから発火しそうだ。
ちろりと柔らかいものでくちびるのあわいをくすぐられ、頭の芯で何かが弾けた。

「──っ、やっ!」

咄嗟に腕を突っ張って突き飛ばす。飛龍は笑いながら離れてくれた。

「威勢がいいな。そのくらいでないと困る」
「あ、あなたどういうつもりなんですか……龍とか暁とか、つ、妻だとか──わからないことだらけよ!」
「そう癇癪を起こすな。眠気覚ましに聞かせてやるから」

さらりと髪を掻き上げた気怠げな色気に文句を押し込められる。ここで口答えしても堂々巡りになることは目に見えていたので、おとなしく聞くことにした。

「代が替わる度にもう人の体はうんざりだ、加護なんてお行儀の良いことは仕舞いにして暴れてやろうとうずうずしておった。だが、こやつに至るまで連綿と受け継がれている初代の器とやらは、抜け出すには居心地が良すぎる。認めたくはないが、我の力が器に馴染みきっておるのだろうな。それに上手いこと鎮めの楽士がいる。まあ正直なところ、野郎の音色なんて飽き飽きだ。鎮まっていた──というかふて寝だふて寝」

ケッと毒づいて結びとした飛龍の語りに私は愕然とした。

「……楽士の力なんて関係無かったということなの? 男が奏でていればうんざりしてふて寝して……それが鎮めだったなんて」

私の、春蕾の努力はなんだったのか。
うなだれ絶句していると飛龍は「言っておくがな」と続ける。

「女の音色だから起きたわけじゃない。まあ、少しは目新しい響きだから誘われたとも言えるが──ともかく、お主の音色に惹かれたのだ」
「……え」
「お主の調べは晴れやかで清々しい。いい楽士で、いい女だ」

しっかりとまっすぐ目を見据えられて告げられた言葉を、心の奥で何度も繰り返す。

私には春蕾のような才はない。
奏でるのは好きだけれど、誰かに私の音色を求められているわけではない。
浮いた話ひとつもないまま母様の役目を引き継いで、父様と春蕾の面倒を見て、あんなことになった春蕾の代わりを引き受けて──
誰かの代わりを努めることで成り立っていた自分。
それをこのひとは──代わりではなく、私自身の音色を聞いてくれたのだ。

「あ……ありがとうございます」
「なんだ、やけに素直だな」
「私の音色、あまり褒められたことがなくて。あ、でも貶されたこともないですけど」

もじもじと俯きながらの要領を得ない答えだったが、飛龍は遮ることなく聞いてくれた。

「女の頬を染めるのは気分がいい。決めた。褥では存分に褒めてやろうな」
「はい?」
「はは、照れるな照れるな」

なんだかとんでもないことを宣言された気がして恐ろしさのあまり正せないでいると、扉の向こうから弱々しい声がくぐもって聞こえてきた。

「皇帝陛下におかれましては儀式は恙無く──」

さっと冷水を浴びせられたように我に返った。
この状況を外部に見られたらどうなる?

倒れ伏す官吏たち。
別人の髪と瞳を持つ皇帝陛下に口説かれる鎮めの楽士。
だめだ、説明できる気がまったくしない。

「も、戻って! 皇帝陛下を戻してください!あとこの皆さんも。こんなところ見られたら首と胴体がお別れしちゃう!」
「断る。折角目覚めたのにまた眠れと言うか」
「笛なら吹きます! また目覚めさせてあげるから!」

売り言葉に買い言葉。
そう口走ったことに気づいた時には既に遅く、にいとつり上がった口の端が邪悪に微笑んだ。

「龍に嘘をついたらただでは済まぬぞ」

念押しとばかりにくちびるが塞がれる。
短く啄むようなそれは音がして余計に恥ずかしかった。

「今日はこれで手を打とう」

長い金糸がさらりと頬を撫でて離れる。柔らかいその感触を名残惜しく感じた頃には、再び黄金色の光があたりを包み込んでいた。