そしてとうとうバランスを崩し、二人揃って教室に入ってしまったことで、音が止まった。

 部員と僕たちはお互いに顔を見て、言葉に困る。

 重く気まずい空気に耐えられそうにない。

「……佐伯、戻ろう。僕たち、邪魔だよ」

 佐伯に声をかけるけど、佐伯は戻ろうとはしなかった。

 引っ張っても、頑なに動こうとしない。

「あれ。佐伯君と夏川君が部活中に来るなんて、久しぶりだね。どうしたの?」

 なんとしてでも帰ろうとしていると、同学年の七瀬さんが後ろからやって来た。

 完全に退路が断たれた状態になってしまった。

「久々に部活中の様子を撮らせてほしいなと思ってさ」

 僕が帰りたいと思っていることは伝わっているはずなのに、佐伯は勝手にそう言った。

 すると、何人かが鋭い視線を向けてきた。

 ここにも、あの噂を信じたままの人がいるらしい。

 なんて居心地が悪いんだろう。

「もちろん、好きに撮っていいよ」

 意外にも、七瀬さんはそう言った。

 あまりにも明るく言うから、僕のほうが戸惑ってしまう。

「いいの……?」
「うん。夏川君が撮ってくれる写真はどれも、みんな楽しそうに部活してるのが伝わってきて、それを見て私も頑張るぞ!って気持ちになってたんだ。またいっぱい撮って、私にやる気をわけてくれると嬉しい」

 七瀬さんの笑顔は、嘘偽りのない笑顔に見えた。

 そんなふうに思ってくれている人がいたなんて、知らなかった。

 嬉しくて、目頭が熱くなる。

「……私は、イヤ」

 歓迎ムードが作られてしまったがゆえに、遠慮気味にそんな声が上がった。

 同じクラスの篠崎(しのざき)さんが、七瀬さんとは真逆の雰囲気を醸し出している。

 七瀬さんは篠崎さんの様子が気になったのか、中に入って近くに行った。

「どうして? 美音(みお)だって、夏川君の写真好きだったじゃん」
「それは……そう、だけど……」

 七瀬さんに諭すように言われると、篠崎さんは口篭りながら、僕から視線を逸らす。

 これが、よく見る反応だ。

 何度経験しても、この辛さには慣れそうにない。

「……夏川、また私たちをカモフラージュに使おうとしてるんじゃないの」

 次に僕を見たときは、鋭い視線だった。

 原因は今朝の会話だろう。

 周りに聞こえないように話していたわけではないし、なにより、それなりに注目を集めてしまったから、知らないわけがない。

「カモフラージュって?」

 なにも知らない七瀬さんが、純粋な声で聞く。

「莉子、覚えてない? 夏川が写真を撮るのは、花奈先輩を撮りたい気持ちを隠すためってやつ」
「いや……どうだった、かな……」

 曖昧に答えるところを見ると、覚えていないわけではないらしい。

 だけど、七瀬さんはすぐに笑顔を作った。

「でもほら、それってただの噂でしょ? 夏川君が言ったわけじゃ……」
「でも、夏川は否定しなかった」

 篠崎さんは七瀬さんの言葉を遮った。

 その声色は厳しく、七瀬さんは口を閉じてしまう。

 僕も、反論の余地がなく口が挟めない。

「ねえ、夏川。私たちはどんな気持ちで撮られたらいいの?」

 その強い視線に圧倒されてしまい、僕は答えられなかった。

 誤解だと言っても、信じてくれないような雰囲気。

 この空気感に負けたくないと思っていた僕は、どこに行ってしまったのか。

「僕はみんなの自然な表情を残したくて、写真を撮ってる」

 すると、僕ではない芯の通った声で、聞き覚えのあるセリフが聞こえてきた。

 振り向くと、古賀が立っていた。

 怒っているようで、切なさを隠した瞳をしながら教室に入り、僕たちの前に立つ。

「夏川先輩は、先輩たちの素敵な表情を残したくて、写真を撮っていると言っていました。それは、私よりも先輩たちのほうが知っているんじゃないんですか」

 古賀は物怖じせず言ってくれたけど、ここまで明け透けにされると、恥ずかしくなってくる。

 ただ、このままではマズイと思った。

 僕は動かなかった身体に命令し、一歩踏み出す。

「古賀、もういいから」

 そっと古賀の肩に触れると、古賀は僕の手を容赦なく振り払った。

 そして僕と向き合う。

「なにもよくないです。誰かに嫌な思いをさせたかもしれないって悩むくらい、先輩は優しい人なのに……変な誤解されたままなのは、私は嫌です」

 古賀は本当に悔しそうな顔をしている。

 僕よりも悔しそうだ。

 僕の過去に触れる言葉は躊躇うのに、伝えなければいけないことはストレートに言うところを、僕は素敵だと思う。

 だけど、これ以上の素直な言葉は、強すぎる。言わないほうがいいに決まっている。

 篠崎さんたちに視線を移すと、古賀の思いはしっかりと届いたようで、申しわけなさそうにしている。

 ここで僕が弁明してしまうと、篠崎さんはますます立場が悪くなるだろう。

「ごめん、七瀬さん、篠崎さん。写真はまたの機会にするよ」

 そして僕は納得していない古賀の腕を引っ張って、教室を離れる。

 ある程度進むと、古賀が僕の腕を振り払った。

「夏川先輩、どうして逃げるんですか」

 古賀の強い声、まっすぐな瞳が僕に向く。

 これを向けられると、なにもしていなくても、責められているような気分になりそうだ。

 しかし負けてはいられない。

「……古賀が正しすぎるからだよ」

 僕が古賀を傷付けてしまわないように、言葉を選びつつ言う。

 すると、古賀の瞳に迷いが混ざった。

「でも、言わないと伝わらないじゃないですか」

 視線が泳ぎ、目が合わなくなる。

 声が小さくなり、古賀は僕の言おうとすることを既に理解しているのだとわかる。

 それでも納得できない理由が、きっとあるのだろう。

「……そうだね、その通りだ。でもあれ以上言うと、篠崎さんの立場がない。正しすぎる言葉は、ときに他人を傷付けるんだよ」

 思い当たる節があるのか、もう一度僕を見た古賀は、苦しそうに視線を落とした。

 古賀が口を噤んだことで、重い沈黙が訪れる。

 あとからやって来た佐伯はその空気を読み取り、少し離れた場所で止まった。

「古賀、あの……大丈夫?」

 ずっとこの空気のままというわけにもいかず、様子を伺いながら声をかける。

 表情を見ようと屈むと、古賀がさらに下を向いてしまい、見えなかった。

 余計に心配になるけど、無理に見るものでもないと思うと、どうすればいいのかわからなくなる。

 すると、古賀が急に顔を上げた。

「大丈夫です。すみません、頭冷やしてきます」

 古賀は泣きそうな笑顔で言い、小走りで去っていった。

 その場所に、佐伯が立つ。

「古賀ちゃん、大丈夫かな」

 古賀が走っていった方を見つめながら、呟いた。

 僕は、それに答えられなかった。

 古賀なら大丈夫だろうと思うくせに、心配が消えない自分がいた。

「……篠崎が、違うならちゃんと否定しろって怒ってたよ。あと、ちゃんと話を聞かなくてごめんって」
「そう……」

 古賀のことが気になって、僕は半分、それを聞き流してしまった。

 それからその場に留まる理由もないので、後ろ髪を引かれる思いで、荷物を取りに、写真部の部室に向かう。

「で、どうする? 撮影係やる?」

 やりたい気持ちは消えていない。

 だけど、さっきの篠崎さんの反応を思い出すと、引き受ける勇気がなかった。

「いや……やっぱり、やめとくよ。篠崎さんみたいな人もいるだろうし」

 否定しなかった僕が悪いのはわかってる。

 これから否定していけばいいこともわかる。

 だけど、その規模を考えるとクラスマッチに間に合うか怪しい。

 みんながみんな、篠崎さんみたいにすぐにわかってくれるとも限らないと思うと、余計に。

「……学校で古賀ちゃんを撮るチャンスなのに」

 佐伯は小声でそんなことを零した。

 ああ、そうか。この役を引き受けないと、僕は学校行事を楽しむ古賀の写真を残せないのか。

 その場面を見れば、撮りたくなるに決まっているのに。

 いや、古賀だけじゃない。

 七瀬さんや篠崎さんたち、みんなの写真だって残したい。

 僕を誘うには最適の言葉を使った佐伯は、にやりと笑う。

「映人、やりたいって思っただろ」

 こういうときの佐伯は目敏いらしい。

 僕がわかりやすくなっているだけかもしれないけど。

 それにしても、からかう気しかない顔は気に入らない。

 僕は佐伯を一瞥し、歩くスピードを上げる。

「おい、映人? 置いていくなって」

 そう言って、佐伯は部室に戻るまで、僕の隣を歩いた。

 矢崎先生と、撮影から戻ってきた部員が数名いた。

 僕が入ってきたことに戸惑う視線ばかりだ。

「夏川? どうして?」

 香田(こうだ)部長が代表して聞いてくるけど、僕はどう答えるのが正しいのかわからなかった。

「私が呼んだんです。夏川君、心は決まりましたか?」

 矢崎先生の表情は、どちらを選択しても構わないと言っているように見える。

 でもきっと、僕がどう答えるのか、お見通しなんだろう。

「……やらせてください」

 歩きながら導いた答えは、それだった。

 まんまと佐伯の言葉に乗せられたわけだ。

「夏川君なら、そう言ってくれると思ってました」

 変わらない笑顔で言う先生を見て、僕は敵わないと思った。