「よし、映人。靴脱いで海に入れ」

 波打ち際に近寄った途端、佐伯はいい笑顔で僕に命令した。

「嫌だよ」

 撮影に協力するとは言ったけど、海に入るのは抵抗があった。

 僕が即答するとわかっていたようで、佐伯は笑いながらカメラの準備を始める。

 なにも持っていない僕は、ただ海を眺める。

 穏やかな波を見ていると、ハル兄から逃げてきたことを忘れそうになる。

 逃げたところで現実は変わらないのに、僕は古賀たちを巻き込んで、なにをやっているんだろう。

 そんな自己嫌悪に陥っていると、隣からシャッターの音がした。

 古賀が海にデジカメを向けている。

「映人、ちょっと向こうに立って」

 古賀の不安そうな横顔が気になって声をかけようとすると、佐伯に呼ばれてしまった。

 古賀に声をかけても、僕にできることなんてないだろうから、僕はそのまま佐伯の指示に従って、浜辺を歩く。

 後ろから下手くそだの、もっと海に寄れだの、文句が飛んでくる。

 言い返すために振り向くと、古賀のつまらなそうな表情が見えた。

 僕はあの表情を知っている。

 思うように写真が撮れていないときの顔だ。

「佐伯、ちょっと休憩」

 僕は佐伯が答えるより先に、足を進める。

 だけど、すぐに止まった。

 あんなにはっきりと写真には関わらないと言っておいて、簡単に声をかけてもいいのか?

 そもそも、どんな言葉をかけるつもりだ?

 僕が自問自答している間に、古賀はもう一度、シャッターを切る。

 ますます古賀の表情は険しくなる。

「納得のいく写真は撮れた?」

 迷っている場合ではないと思った。

 古賀は少し驚いて、僕を見る。

 僕の言葉が信じられないみたいだけど、僕だって、こんな言葉をかけるとは思っていなかった。

 だけど、せっかく写真に興味を持ったのに、上手に撮れなくて辞めてしまうのは、もったいないと思うから。

「……先輩、私に写真を教えたくないって言ったじゃないですか」

 古賀は小さく両頬を膨らませる。

 感動したり、不満そうにしたり。

 こんな感情の動く人、久しぶりに見た。

 ああ、どうして僕は今、カメラを持っていないんだろう。

 海を背景に、向日葵のような笑顔を見せる彼女はきっと、美しいのに。

「……教えたくないとは言ってないよ。僕の撮る写真は完全に自己満足の写真だから、参考にはならないだろうなって思っただけだから」

 古賀は不思議そうに、首を傾げた。

「私には、そんなふうには見えませんでした」

 古賀は視線を落として、柔らかく微笑む。

「だって、夏川先輩に撮られているみんな、楽しそうだった。生き生きしてた。先輩が本当に自分のために写真を撮っている人なら、誰もあんな自然な表情は見せないと思います」

 もう一度その大きな黒い瞳に僕を写すと、僕が惹かれた笑顔を見せる。

 なんて眩しいんだ。

「私は、先輩の写真は、先輩が素敵な人だから撮ることができた写真だと思います。先輩自身が否定したら、ダメですよ」

 僕は泣きたくなった。

 眩しくて仕方ない景色が、滲んでいく。

 そんな中で、古賀の表情がまた不満そうになるのが見える。

「それに、私が好きになった写真を、本人にそう言われると悲しいです」

 真っ直ぐに伝えられた“好き”という単語は、しっかりと僕の涙腺を刺激してきた。

 我慢しようとしていたのに、頬に一筋の涙が流れる。

 久々の肯定の言葉が、酷く心に染みた。

 僕の涙に気付き、古賀は慌てている。

「ご、ごめんなさい、私、なにか嫌な思いにさせるようなこと……」
「違うよ。逆だ」

 僕は食い気味に否定し、右手の親指で左頬に流れた涙を拭う。

 そして、古賀を安心させるために、笑顔を作る。

「ありがとう、凄く……嬉しい。ありがとう」

 長いこと笑っていなかったから、ぎこちなかっただろうに、古賀は最高の笑顔になった。

 僕はやっぱり、この表情を撮りたい。

 正直、写真を撮るのはまだ少し怖いし、わだかまりが残ったまま写真を撮るのは抵抗がある。

 でも、古賀の今の表情を残せないほうが後悔する。

「そのカメラ、少しだけ借りてもいい?」

 古賀は迷わず、僕にカメラを差し出した。

 どれだけ僕の写真を楽しみにしてくれているのか、言葉にされずとも、その表情を見ればわかる。

 数ヶ月ぶりにカメラを持ち、僕は数歩、後ろに下がる。

 太陽の光が反射している広い海と、その手前で目を輝かせている古賀。

 僕はどちらもフレームに収まるように調整し、シャッターを押す。

 すると、古賀はなにかに気付いた。

「先輩、今の、私まで撮ってません?」

 確認がしたいのか、古賀は僕に近寄ってくる。

「さあ、どうだろう」

 僕はわざとらしく、そんなことを言ってみる。

 自分が被写体になるのは嫌だったようで、古賀は両頬を空気で膨らませている。

 あまり嫌な思いはさせたくないのに、僕はもう一度、古賀を撮った。

「もう、夏川先輩! 私、写真撮られるのは苦手なんです!」

 古賀の大声を聞いて、僕は笑ってしまう。

「でもほら、綺麗に写ってるよ」

 僕がカメラを渡すと、古賀は写真を確認する。

 僕の写真を見て、少し複雑そうにしながらも、照れて笑ってくれた。

 それにつられて、僕も嬉しくなる。

 この感覚も、懐かしい。

 古賀は凄い。僕に、いろんなことを思い出させてくれる。

 ここまで思い出してくると、今日までカメラを触らないでいられたことが不思議でならない。

 こんなにも楽しいことを、どうして僕は辞めてしまったんだと思わずにいられない。

『楽しいこと、好きなことを我慢して、楽しくないことにしてしまうのは、きっと苦しい』

 あのとき母さんから父さんの言葉を聞いたときは、ただ納得しただけだったけど、今は理解できる。

 僕は、嫌なことがあって苦しかっただけじゃなくて、楽しくて好きなことができなくて、苦しかったんだ。

 そう思うと、一気に心が軽くなった。

 一人では抜け出せなかった沼から、古賀が救い出してくれた。

 今なら、僕は過去に向き合えそうだ。

「……ありがとう、古賀」

 唐突にお礼を言ったから、古賀はきょとんとしている。

 素直な反応に、思わず笑ってしまう。

 すると、スマホのシャッター音がした。

 その音がしたほうを向くと、スマホを持った氷野と、佐伯が冷めた目をして立っている。

「リア充かよ」
「アオハルかよ」

 氷野が先に言い、佐伯が悪ノリをして続ける。

「ちょっと咲楽、今の写真、消してよ?」

 古賀が氷野に近寄るが、写真を消されたくない氷野は、古賀から逃げていく。

 楽しそうに砂浜を駆けている二人のほうこそ、青春しているじゃないか。

「まさか、映人が写真を撮るとはな」

 そんなことを思いながら二人にカメラを向けていると、佐伯が言ってきた。

 驚いているような、喜んでいるような表情に対して、僕は微笑み返す。

「僕も、思わなかったよ」

 古賀たちに視線を戻すと、古賀が氷野を捕まえ、スマホを奪っていた。

 古賀は取り戻されないように、右手を高く上げている。

 身長差があることから、氷野はそれに届いていなくて、怒りながら取り返そうとする氷野を見て、古賀は笑っている。

「でも、あの笑顔を前にしたら、僕のくだらないプライドなんてどうでもいいなって思ったんだ」
「へえ?」

 佐伯はからかう声を出して、相槌を打つ。

 少しだけ、言葉を間違えたかもしれないけど、本当に思ったことだから、訂正するのも違う気がした。

「……遥哉さんのことはいいのか?」

 からかわれると思ったのに、佐伯は声のトーンを落として、本気で心配した面持ちで言った。

 それは、僕も気にしていたことだ。

「ちゃんと話すよ」

 ハル兄と向き合うのは、まだ怖い。

 でも、このまま逃げ続けて、後ろめたさを感じながらカメラを持つことは、したくなかった。

「なんにせよ、古賀ちゃんに感謝だな」

 佐伯は僕の右肩を軽く叩いてから、歩き始める。

「……本当にね」

 佐伯は僕をからかうつもりで言ったのかもしれないけど、実際に救われた以上、それしか言えなかった。