◆
「よし、映人。靴脱いで海に入れ」
波打ち際に近寄った途端、佐伯はいい笑顔で僕に命令した。
「嫌だよ」
撮影に協力するとは言ったけど、海に入るのは抵抗があった。
僕が即答するとわかっていたようで、佐伯は笑いながらカメラの準備を始める。
なにも持っていない僕は、ただ海を眺める。
穏やかな波を見ていると、ハル兄から逃げてきたことを忘れそうになる。
逃げたところで現実は変わらないのに、僕は古賀たちを巻き込んで、なにをやっているんだろう。
そんな自己嫌悪に陥っていると、隣からシャッターの音がした。
古賀が海にデジカメを向けている。
「映人、ちょっと向こうに立って」
古賀の不安そうな横顔が気になって声をかけようとすると、佐伯に呼ばれてしまった。
古賀に声をかけても、僕にできることなんてないだろうから、僕はそのまま佐伯の指示に従って、浜辺を歩く。
後ろから下手くそだの、もっと海に寄れだの、文句が飛んでくる。
言い返すために振り向くと、古賀のつまらなそうな表情が見えた。
僕はあの表情を知っている。
思うように写真が撮れていないときの顔だ。
「佐伯、ちょっと休憩」
僕は佐伯が答えるより先に、足を進める。
だけど、すぐに止まった。
あんなにはっきりと写真には関わらないと言っておいて、簡単に声をかけてもいいのか?
そもそも、どんな言葉をかけるつもりだ?
僕が自問自答している間に、古賀はもう一度、シャッターを切る。
ますます古賀の表情は険しくなる。
「納得のいく写真は撮れた?」
迷っている場合ではないと思った。
古賀は少し驚いて、僕を見る。
僕の言葉が信じられないみたいだけど、僕だって、こんな言葉をかけるとは思っていなかった。
だけど、せっかく写真に興味を持ったのに、上手に撮れなくて辞めてしまうのは、もったいないと思うから。
「……先輩、私に写真を教えたくないって言ったじゃないですか」
古賀は小さく両頬を膨らませる。
感動したり、不満そうにしたり。
こんな感情の動く人、久しぶりに見た。
ああ、どうして僕は今、カメラを持っていないんだろう。
海を背景に、向日葵のような笑顔を見せる彼女はきっと、美しいのに。
「……教えたくないとは言ってないよ。僕の撮る写真は完全に自己満足の写真だから、参考にはならないだろうなって思っただけだから」
古賀は不思議そうに、首を傾げた。
「私には、そんなふうには見えませんでした」
古賀は視線を落として、柔らかく微笑む。
「だって、夏川先輩に撮られているみんな、楽しそうだった。生き生きしてた。先輩が本当に自分のために写真を撮っている人なら、誰もあんな自然な表情は見せないと思います」
もう一度その大きな黒い瞳に僕を写すと、僕が惹かれた笑顔を見せる。
なんて眩しいんだ。
「私は、先輩の写真は、先輩が素敵な人だから撮ることができた写真だと思います。先輩自身が否定したら、ダメですよ」
僕は泣きたくなった。
眩しくて仕方ない景色が、滲んでいく。
そんな中で、古賀の表情がまた不満そうになるのが見える。
「それに、私が好きになった写真を、本人にそう言われると悲しいです」
真っ直ぐに伝えられた“好き”という単語は、しっかりと僕の涙腺を刺激してきた。
我慢しようとしていたのに、頬に一筋の涙が流れる。
久々の肯定の言葉が、酷く心に染みた。
僕の涙に気付き、古賀は慌てている。
「ご、ごめんなさい、私、なにか嫌な思いにさせるようなこと……」
「違うよ。逆だ」
僕は食い気味に否定し、右手の親指で左頬に流れた涙を拭う。
そして、古賀を安心させるために、笑顔を作る。
「ありがとう、凄く……嬉しい。ありがとう」
長いこと笑っていなかったから、ぎこちなかっただろうに、古賀は最高の笑顔になった。
僕はやっぱり、この表情を撮りたい。
正直、写真を撮るのはまだ少し怖いし、わだかまりが残ったまま写真を撮るのは抵抗がある。
でも、古賀の今の表情を残せないほうが後悔する。
「そのカメラ、少しだけ借りてもいい?」
古賀は迷わず、僕にカメラを差し出した。
どれだけ僕の写真を楽しみにしてくれているのか、言葉にされずとも、その表情を見ればわかる。
数ヶ月ぶりにカメラを持ち、僕は数歩、後ろに下がる。
太陽の光が反射している広い海と、その手前で目を輝かせている古賀。
僕はどちらもフレームに収まるように調整し、シャッターを押す。
すると、古賀はなにかに気付いた。
「先輩、今の、私まで撮ってません?」
確認がしたいのか、古賀は僕に近寄ってくる。
「さあ、どうだろう」
僕はわざとらしく、そんなことを言ってみる。
自分が被写体になるのは嫌だったようで、古賀は両頬を空気で膨らませている。
あまり嫌な思いはさせたくないのに、僕はもう一度、古賀を撮った。
「もう、夏川先輩! 私、写真撮られるのは苦手なんです!」
古賀の大声を聞いて、僕は笑ってしまう。
「でもほら、綺麗に写ってるよ」
僕がカメラを渡すと、古賀は写真を確認する。
僕の写真を見て、少し複雑そうにしながらも、照れて笑ってくれた。
それにつられて、僕も嬉しくなる。
この感覚も、懐かしい。
古賀は凄い。僕に、いろんなことを思い出させてくれる。
ここまで思い出してくると、今日までカメラを触らないでいられたことが不思議でならない。
こんなにも楽しいことを、どうして僕は辞めてしまったんだと思わずにいられない。
『楽しいこと、好きなことを我慢して、楽しくないことにしてしまうのは、きっと苦しい』
あのとき母さんから父さんの言葉を聞いたときは、ただ納得しただけだったけど、今は理解できる。
僕は、嫌なことがあって苦しかっただけじゃなくて、楽しくて好きなことができなくて、苦しかったんだ。
そう思うと、一気に心が軽くなった。
一人では抜け出せなかった沼から、古賀が救い出してくれた。
今なら、僕は過去に向き合えそうだ。
「……ありがとう、古賀」
唐突にお礼を言ったから、古賀はきょとんとしている。
素直な反応に、思わず笑ってしまう。
すると、スマホのシャッター音がした。
その音がしたほうを向くと、スマホを持った氷野と、佐伯が冷めた目をして立っている。
「リア充かよ」
「アオハルかよ」
氷野が先に言い、佐伯が悪ノリをして続ける。
「ちょっと咲楽、今の写真、消してよ?」
古賀が氷野に近寄るが、写真を消されたくない氷野は、古賀から逃げていく。
楽しそうに砂浜を駆けている二人のほうこそ、青春しているじゃないか。
「まさか、映人が写真を撮るとはな」
そんなことを思いながら二人にカメラを向けていると、佐伯が言ってきた。
驚いているような、喜んでいるような表情に対して、僕は微笑み返す。
「僕も、思わなかったよ」
古賀たちに視線を戻すと、古賀が氷野を捕まえ、スマホを奪っていた。
古賀は取り戻されないように、右手を高く上げている。
身長差があることから、氷野はそれに届いていなくて、怒りながら取り返そうとする氷野を見て、古賀は笑っている。
「でも、あの笑顔を前にしたら、僕のくだらないプライドなんてどうでもいいなって思ったんだ」
「へえ?」
佐伯はからかう声を出して、相槌を打つ。
少しだけ、言葉を間違えたかもしれないけど、本当に思ったことだから、訂正するのも違う気がした。
「……遥哉さんのことはいいのか?」
からかわれると思ったのに、佐伯は声のトーンを落として、本気で心配した面持ちで言った。
それは、僕も気にしていたことだ。
「ちゃんと話すよ」
ハル兄と向き合うのは、まだ怖い。
でも、このまま逃げ続けて、後ろめたさを感じながらカメラを持つことは、したくなかった。
「なんにせよ、古賀ちゃんに感謝だな」
佐伯は僕の右肩を軽く叩いてから、歩き始める。
「……本当にね」
佐伯は僕をからかうつもりで言ったのかもしれないけど、実際に救われた以上、それしか言えなかった。
「よし、映人。靴脱いで海に入れ」
波打ち際に近寄った途端、佐伯はいい笑顔で僕に命令した。
「嫌だよ」
撮影に協力するとは言ったけど、海に入るのは抵抗があった。
僕が即答するとわかっていたようで、佐伯は笑いながらカメラの準備を始める。
なにも持っていない僕は、ただ海を眺める。
穏やかな波を見ていると、ハル兄から逃げてきたことを忘れそうになる。
逃げたところで現実は変わらないのに、僕は古賀たちを巻き込んで、なにをやっているんだろう。
そんな自己嫌悪に陥っていると、隣からシャッターの音がした。
古賀が海にデジカメを向けている。
「映人、ちょっと向こうに立って」
古賀の不安そうな横顔が気になって声をかけようとすると、佐伯に呼ばれてしまった。
古賀に声をかけても、僕にできることなんてないだろうから、僕はそのまま佐伯の指示に従って、浜辺を歩く。
後ろから下手くそだの、もっと海に寄れだの、文句が飛んでくる。
言い返すために振り向くと、古賀のつまらなそうな表情が見えた。
僕はあの表情を知っている。
思うように写真が撮れていないときの顔だ。
「佐伯、ちょっと休憩」
僕は佐伯が答えるより先に、足を進める。
だけど、すぐに止まった。
あんなにはっきりと写真には関わらないと言っておいて、簡単に声をかけてもいいのか?
そもそも、どんな言葉をかけるつもりだ?
僕が自問自答している間に、古賀はもう一度、シャッターを切る。
ますます古賀の表情は険しくなる。
「納得のいく写真は撮れた?」
迷っている場合ではないと思った。
古賀は少し驚いて、僕を見る。
僕の言葉が信じられないみたいだけど、僕だって、こんな言葉をかけるとは思っていなかった。
だけど、せっかく写真に興味を持ったのに、上手に撮れなくて辞めてしまうのは、もったいないと思うから。
「……先輩、私に写真を教えたくないって言ったじゃないですか」
古賀は小さく両頬を膨らませる。
感動したり、不満そうにしたり。
こんな感情の動く人、久しぶりに見た。
ああ、どうして僕は今、カメラを持っていないんだろう。
海を背景に、向日葵のような笑顔を見せる彼女はきっと、美しいのに。
「……教えたくないとは言ってないよ。僕の撮る写真は完全に自己満足の写真だから、参考にはならないだろうなって思っただけだから」
古賀は不思議そうに、首を傾げた。
「私には、そんなふうには見えませんでした」
古賀は視線を落として、柔らかく微笑む。
「だって、夏川先輩に撮られているみんな、楽しそうだった。生き生きしてた。先輩が本当に自分のために写真を撮っている人なら、誰もあんな自然な表情は見せないと思います」
もう一度その大きな黒い瞳に僕を写すと、僕が惹かれた笑顔を見せる。
なんて眩しいんだ。
「私は、先輩の写真は、先輩が素敵な人だから撮ることができた写真だと思います。先輩自身が否定したら、ダメですよ」
僕は泣きたくなった。
眩しくて仕方ない景色が、滲んでいく。
そんな中で、古賀の表情がまた不満そうになるのが見える。
「それに、私が好きになった写真を、本人にそう言われると悲しいです」
真っ直ぐに伝えられた“好き”という単語は、しっかりと僕の涙腺を刺激してきた。
我慢しようとしていたのに、頬に一筋の涙が流れる。
久々の肯定の言葉が、酷く心に染みた。
僕の涙に気付き、古賀は慌てている。
「ご、ごめんなさい、私、なにか嫌な思いにさせるようなこと……」
「違うよ。逆だ」
僕は食い気味に否定し、右手の親指で左頬に流れた涙を拭う。
そして、古賀を安心させるために、笑顔を作る。
「ありがとう、凄く……嬉しい。ありがとう」
長いこと笑っていなかったから、ぎこちなかっただろうに、古賀は最高の笑顔になった。
僕はやっぱり、この表情を撮りたい。
正直、写真を撮るのはまだ少し怖いし、わだかまりが残ったまま写真を撮るのは抵抗がある。
でも、古賀の今の表情を残せないほうが後悔する。
「そのカメラ、少しだけ借りてもいい?」
古賀は迷わず、僕にカメラを差し出した。
どれだけ僕の写真を楽しみにしてくれているのか、言葉にされずとも、その表情を見ればわかる。
数ヶ月ぶりにカメラを持ち、僕は数歩、後ろに下がる。
太陽の光が反射している広い海と、その手前で目を輝かせている古賀。
僕はどちらもフレームに収まるように調整し、シャッターを押す。
すると、古賀はなにかに気付いた。
「先輩、今の、私まで撮ってません?」
確認がしたいのか、古賀は僕に近寄ってくる。
「さあ、どうだろう」
僕はわざとらしく、そんなことを言ってみる。
自分が被写体になるのは嫌だったようで、古賀は両頬を空気で膨らませている。
あまり嫌な思いはさせたくないのに、僕はもう一度、古賀を撮った。
「もう、夏川先輩! 私、写真撮られるのは苦手なんです!」
古賀の大声を聞いて、僕は笑ってしまう。
「でもほら、綺麗に写ってるよ」
僕がカメラを渡すと、古賀は写真を確認する。
僕の写真を見て、少し複雑そうにしながらも、照れて笑ってくれた。
それにつられて、僕も嬉しくなる。
この感覚も、懐かしい。
古賀は凄い。僕に、いろんなことを思い出させてくれる。
ここまで思い出してくると、今日までカメラを触らないでいられたことが不思議でならない。
こんなにも楽しいことを、どうして僕は辞めてしまったんだと思わずにいられない。
『楽しいこと、好きなことを我慢して、楽しくないことにしてしまうのは、きっと苦しい』
あのとき母さんから父さんの言葉を聞いたときは、ただ納得しただけだったけど、今は理解できる。
僕は、嫌なことがあって苦しかっただけじゃなくて、楽しくて好きなことができなくて、苦しかったんだ。
そう思うと、一気に心が軽くなった。
一人では抜け出せなかった沼から、古賀が救い出してくれた。
今なら、僕は過去に向き合えそうだ。
「……ありがとう、古賀」
唐突にお礼を言ったから、古賀はきょとんとしている。
素直な反応に、思わず笑ってしまう。
すると、スマホのシャッター音がした。
その音がしたほうを向くと、スマホを持った氷野と、佐伯が冷めた目をして立っている。
「リア充かよ」
「アオハルかよ」
氷野が先に言い、佐伯が悪ノリをして続ける。
「ちょっと咲楽、今の写真、消してよ?」
古賀が氷野に近寄るが、写真を消されたくない氷野は、古賀から逃げていく。
楽しそうに砂浜を駆けている二人のほうこそ、青春しているじゃないか。
「まさか、映人が写真を撮るとはな」
そんなことを思いながら二人にカメラを向けていると、佐伯が言ってきた。
驚いているような、喜んでいるような表情に対して、僕は微笑み返す。
「僕も、思わなかったよ」
古賀たちに視線を戻すと、古賀が氷野を捕まえ、スマホを奪っていた。
古賀は取り戻されないように、右手を高く上げている。
身長差があることから、氷野はそれに届いていなくて、怒りながら取り返そうとする氷野を見て、古賀は笑っている。
「でも、あの笑顔を前にしたら、僕のくだらないプライドなんてどうでもいいなって思ったんだ」
「へえ?」
佐伯はからかう声を出して、相槌を打つ。
少しだけ、言葉を間違えたかもしれないけど、本当に思ったことだから、訂正するのも違う気がした。
「……遥哉さんのことはいいのか?」
からかわれると思ったのに、佐伯は声のトーンを落として、本気で心配した面持ちで言った。
それは、僕も気にしていたことだ。
「ちゃんと話すよ」
ハル兄と向き合うのは、まだ怖い。
でも、このまま逃げ続けて、後ろめたさを感じながらカメラを持つことは、したくなかった。
「なんにせよ、古賀ちゃんに感謝だな」
佐伯は僕の右肩を軽く叩いてから、歩き始める。
「……本当にね」
佐伯は僕をからかうつもりで言ったのかもしれないけど、実際に救われた以上、それしか言えなかった。



