「今日は夏川映人のところに行かないの?」

 放課後、自席でのんびりとしていたら、美優が空席となった私の前の席に座りながら、声をかけてきた。

 肩あたりで自由に揺れる、不自然に黒い髪に、つい目がいってしまう。

 高校生になっておしゃれに拍車がかかった美優は、登校初日から髪色を明るくしてきた。

 一応、進学校と言われるこの高校では、髪を染めることは許されなかった。

 ゆえに、美優は数日前に黒に染め直してきた。

 高校生になってからのおしゃれを楽しみにしていただけに、今でも少し、不機嫌そうだ。

 しかし、たとえ機嫌が悪くとも、先輩を呼び捨てするのは聞き捨てならない。

「夏川先輩ね。呼び捨てしない」

 やっぱり膨れた美優の頬を見ながら、昨日の夏川先輩のことを思い返す。

 カメラを見せたときの、先輩の表情。

「……先輩が写真に飽きたとか、そんな理由で写真部を辞めていたなら、もっと強く言えたんだけど……多分、先輩は私と同じ、だから」

 好きなことを好きなまま、辞めなければならなくなった。

 夏川先輩の、未練に染まった表情は、その苦しさを表しているようだった。

 私は、その苦しみは痛いほど理解している。

 だからこそ、無理強いはしたくないし、できない。

 それでも私は、夏川先輩の写真を諦めることはできなさそうだった。

「だとしても、少しくらいわがまま言ってもいいんじゃない?」

 美優は私の葛藤を見抜いたようで、頬杖を付きながら言う。

「美優……私の話、聞いてた?」
「聞いてたよ。でも、依澄は夏川映人の写真を見るために、ここに来たんじゃん。簡単に諦められないなら、諦めなくてもいいと思う」

 随分と自分勝手だと思う反面、美優の言うことも一理あると思ってしまった。

 だけど、夏川先輩のあの表情を知ってしまった今、初対面のときのように詰め寄ることはできない。

「よかった、古賀ちゃん、まだ教室にいた」

 これからどうしていこうかと考えていると、背後から声をかけられた。

 振り向くと、佐伯先輩がドアから顔を覗かせている。

「こんにちは、佐伯先輩」

 佐伯先輩は「こんにちは」と返しながら、教室に入ってくる。

「古賀ちゃんさ、ゴールデンウィーク、暇?」

 唐突なお誘いに、反応が遅れる。

「今のところ予定はないですけど、どうかしました?」
「撮影会に行かないかなと思って。映人もいるから」

 私は耳を疑った。

 頑なに写真を撮ると言わなかった夏川先輩が、撮影会に参加する?

 昨日の今日で心変わりするような表情は、していなかったのに。

 ということは、これは佐伯先輩の冗談だろうか。

 どうしてそんな冗談を言うのかは、まったくわからないけど。

「……先輩、その冗談は少しタチが悪いと思います」

 嫌悪感を抱いた私は、つい佐伯先輩を睨んでしまった。

「冗談じゃないよ。俺が写真を撮りに行くのについて行くって、映人が言ったんだから。まあ、映人が写真を撮るかはわからないけど」

 それを聞いて、私は夏川先輩がなにを考えているのか、わからなくなった。

 私が読み取った感情は、気のせいだったのかもしれない。

 でも、あの表情は絶対、演技ではない。

 夏川先輩のことはほとんど知らないのに、妙に自信があった。

「夏川映人はなんで、写真撮らなくなっちゃったんですか?」

 なにも言えずにいると、美優が佐伯先輩に質問をした。

 変わらず呼び捨てなところは気になるけど、質問の答えのほうが気になって、私は触れなかった。

 佐伯先輩は視線を上げ、悩んでいる。

 それはそうだ。夏川先輩の、触れられたくないところに勝手に触れてしまっているのだから、話していいか悩むに決まっている。

「行きます」

 私は話の流れを切って、さっきの誘いの答えを言った。

 突然答えたから、佐伯先輩は一瞬なんの話をしているのかわからなくなったらしい。

「撮影会。参加させてください」

 改めて言うと、佐伯先輩はにやりと笑った。

 なにかの企みに巻き込まれたのかもしれないと思うと、誘いを受けなければよかったと後悔する。

「古賀ちゃんがいると、映人が写真を再開してくれる可能性が上がるから、そう言ってくれて嬉しいよ」

 それを聞いて、悪巧みではなかったことに、少しだけ安心した。

 そして、佐伯先輩も私と同じように夏川先輩の写真を楽しみにしているのだとわかり、仲間意識のようなものが芽生えた。

「佐伯先輩も、夏川先輩の写真が好きなんですか?」

 恐らく、佐伯先輩は“好き”というワードに戸惑いを見せた。

 照れているようで、視線を泳がせる。

「古賀ちゃんほど熱烈なファンってわけじゃないんだけど……映人の写真見てるとさ、なんかこう、わくわくするじゃん?」

 私は大袈裟に頷く。

「あとは、カメラを持ってるときの映人が、一番輝いてるから」

 佐伯先輩は懐かしそうに呟く。

 佐伯先輩の優しい表情を見ていると、私も、その姿を見たいと思った。

 夏川先輩が望まない欲が、次々と溢れてくる。

 満たされるかどうか怪しいだけに、もどかしい気持ちになる。

「じゃあ、日程とかはまたあとで連絡するから。それと、撮影会以外の約束が増えるかもしれないから、もしよかったら予定空けといて」

 佐伯先輩は慌ただしく、教室を出ていった。

 少しだけ顔が赤くなっていたから、きっと恥ずかしくなったのだろう。

「約束が増えるって、どういうことなのなかな」
「デートのお誘いだったりして?」

 美優は弾んだ声で言ったけど、そんな気配は微塵も感じられなかったから、私は同調できなかった。



『撮影会は海に決定。それと、別日にボウリング行こう』

 ゴールデンウィーク数日前の夜、佐伯先輩が作った四人のグループトークルームに、佐伯先輩がメッセージを送ってきた。

 海で撮影会というのはわかるけど、ボウリングはいつ決まったんだろう。

『べんきょー会も追加で』

 それを聞くより先に、美優が送ってきた。

 美優らしくない発言だと思ったけど、今日の昼間に出された数学の課題を思い出した。

『勉強会?』
『数学の課題、1人だとできないです、確実に』
『私も少し、英語教えてほしいです』

 私はそこまで数学は苦手ではないけど、英語がわからなくなりつつあった。

 ここぞとばかりに、私はそんなメッセージを送る。

『映人、出番だ』
『僕より佐伯のほうが数学、得意でしょ』

 私のスマホに、夏川先輩からのメッセージが届いた。

 佐伯先輩に向けてのものだとわかっているけど、夏川先輩からこれほど砕けたメッセージが届くのは、不思議な感じがする。

『じゃあ、映人は英語担当だな』
『僕、教えるの得意じゃないから』
『可愛い後輩のためじゃん、頑張れよ』

 佐伯先輩と夏川先輩の、慣れたやり取りが流れていく。

 きっと美優も、この会話に混ざることができないのだろう。

 しばらく、二人だけのメッセージが飛び交う。

『よし、撮影会のときに他の日のこと決めよ。今日はおやすみ』

 佐伯先輩のそのメッセージにより、私たちの会話は終了した。

 おやすみのメッセージを送ると、私はトークルームを閉じる前に、会話を遡る。

 ちゃんと、約束のメッセージがある。

 こんなにもわくわくする連休は久しぶりだ。

『古賀ちゃん』

 すると、グループではない、個人宛に佐伯先輩からメッセージが送られてきた。

『映人、5月13日が誕生日だよ』

 佐伯先輩の意図が見えなくて、私は『そうなんですね』とだけ返した。

 もしかして佐伯先輩は、私が夏川先輩に対して、恋愛感情を抱いていると勘違いしているのかもしれない。

 まあ、無理もない。

『私、夏川先輩に会いたいんです』

 写真部に行ったとき、つまりは佐伯先輩との初対面でこう言ったら、誰だってそう思うだろう。

「そういうのじゃなくて、純粋に夏川先輩のこと知りたいだけなんだけどなあ……」

 きっとこの感覚を伝えたところで、からかわれるに決まっている。

 佐伯先輩にはっきりと言われるまでは、曖昧なままにしておこう。

 そんなことを思いながら、私は部屋の明かりを消し、眠りについた。



 ゴールデンウィーク初日、私と美優は電車に揺られていた。

 窓際に座る美優は、退屈そうに欠伸をする。

「寝不足?」
「連休がやってくると思ったら、つい夜更かししちゃったんだよね」

 美優は欠伸をもう一つする。

 美優らしい理由に、つい笑みがこぼれる。

 余程その夜更かしが楽しかったのか、美優は弾んだ声で一通りの報告をしてくれた。

 簡単に言えば、ネットサーフィンから抜け出せなかったらしい。

 あのブランドの化粧品が気になるだとか、可愛い服を見つけただとか、今日の髪型はやってみようって思ったものだとか。

 私の理解が届かないおしゃれの話に、私は頷くことしかできない。

「それにしても、美優が撮影会に参加するなんて、思わなかった」

 美優が満足したタイミングで、私は話を変える。

 私がどれだけ夏川先輩の写真の話をしても、興味なさそうに相槌を打つだけだったから、余計に美優がここにいることが不思議だった。

「だって、人が少ない海だよ? 絶対映える」

 悪いことを企むような顔をしているのに、可愛らしく見えてしまうのが、美優のずるいところだ。

氷野(ひの)ちゃんも写真撮るの?」

 美優に質問を重ねたのは、佐伯先輩だった。

「私は完全にSNS用なので。自己満ってやつです」

 佐伯先輩は美優の前へ、そして夏川先輩は若干気まずそうにしながら、私の前に座った。

 結構強引なことをしてきたから、あまりよく思われていないんだろうとは感じていたけど、視線を合わさないようにされると、さすがに傷付く。

「こんにちは、夏川先輩」

 だからといって先輩を無視をすることはできなくて、私は笑顔を作る。

「……こんにちは」

 “それ以上は話しかけないで”

 そんな壁を感じさせるような言い方だった。

 お互いに言葉に迷い、なにも言えなくなる。

「夏川センパイは撮るんですか?」

 その空気感を壊してくれたのは、美優だった。

 少しありがたいと思いながらも、誰もが触れにくいところを遠慮なく触れてしまい、内心穏やかではない。

「いや、僕は」

 “撮らないのに、来たの?”

 美優の無言の圧から、そんな声が聞こえてきた気がした。

 夏川先輩もそう感じ取ったらしく、それより先を言わない。

「……佐伯の手伝いで来たから、撮らないよ」

 そして美優は、夏川先輩から写真に関わるという言葉を引き出した。

 私は反応したくて仕方なかった。

 でも、私がなにかを言って訂正されても困るから、必死に堪える。

「映人、男に二言はないよな?」

 代わりに、佐伯先輩が肩を組み、確認をする。

 その表情には喜びが隠しきれていない。

 夏川先輩は嫌そうにしながらも「当たり前だろ」と答えていた。

 夏川先輩の新しい写真を見れる日も近いかもしれないという事実に心が踊っているのに、私はその感情を押し殺した。

 私がなにかを言えば、先輩は今の言葉をなかったことにしてしまいそうだったから。

 電車が目的地に着くまで、私は先輩に意識を引っ張られながら、美優と佐伯先輩と会話をしていた。

 電車を降りて五分程度歩くと、海が見えてきた。

「やば、海ってこんなに綺麗だっけ」

 美優は軽く感動しながら、早速スマホを取り出した。

 私も、美優と似たような感想を抱いた。

 電車からは見えなかった、踏み荒らされていない砂浜と、静かに揺れる水面。

 心地よい風が吹くと、穏やかな波音が聞こえ、潮の匂いがする。

 夏がやってくる前の海はこんなにも綺麗だったのかと、軽く感動すらする。

「依澄は撮らないの?」
「うん……」

 お母さんたちに入学祝いに買ってもらったデジカメは、カバンの中に入れてある。

 それを取り出す気にならないのは、この美しい景色を、カメラに収められる自信がなかったからだ。

 その変わり、しっかりと目に焼き付ける。

 ただ立ち尽くして海を眺めていると、佐伯先輩たちの背中が視界に入った。

 美優は律儀に待ってくれていたようで、私は美優と足を進める。

 海辺に近寄っても、私は海に見惚れるばかりだった。

 一定のリズムで砂浜を濡らしていく透明な海水。太陽の光が反射する水面。空との境界線が曖昧な青い海。

 私はようやく、カメラを手にした。

 海にレンズを向けて、シャッターボタンを押す。

 上手く撮れた気がしない。

 それでも、案外綺麗に撮れたかもしれないと思って、今撮った写真を確認しようとするけど、やり方がわからない。

 誰かに聞こうにも、美優は貝殻探しに集中しているし、佐伯先輩と夏川先輩はなにか言い合いをしながら写真を撮っていて、聞けそうにない。

 私は不安を抱えたまま、もう一度、海を写真に残す。

 今度は水面を写して見たけど、また自信がなくて、不安になる。

 やっぱり写真を確認したくなって、私は傍でしゃがみ、貝殻を探す美優の隣に座る。

「ねえ美優、撮った写真ってどうやって見るかわかる?」

 美優は自分のスマホと私のカメラを交換した。

 美優が操作してくれている間、私は美優が作業していたものを見る。

 羨ましいくらい器用な美優は、貝殻で可愛らしいハートを作っていたらしい。

 隣からは先輩たちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

 私だけが、楽しめていない。

 そんな疎外感を感じてしまって、私は美優から受け取ったカメラで写真を確認しても、つまらないという気持ちでいっぱいになってしまった。