◆
「先輩、新しい写真、見せてください」
春。新しいクラスでの自分の新しい立ち位置を探しながら過ごす時期に、それまでの僕の世界にはいなかった人物が現れた。
彼女は真新しいセーラー服を身にまとい、肩に届きそうな黒髪を揺らす。
インドアな僕とは違って、活発そうな少女の名は、古賀依澄。
数日前から、放課後になると僕のクラスに来ては、同じようなことを繰り返し言ってくる。
古賀が“写真”という単語を発する度に、周りから鋭い視線を向けてくるのだけど、彼女はそれに気付いていないのか。
僕は耐えられそうになくて、逃げるように引き出しに視線を落とし、教科書やノートを取り出しながら答える。
「……僕、写真はもう撮らないから」
ふと視界に入った古賀は、口を尖らせている。
彼女が僕の写真にこだわるのは、去年の文化祭で、僕の写真に一目惚れしたからだそうだ。
聞いたとき、最初は嬉しかった。
だけど、写真の感想繋がりで、その喜びを掻き消してしまうほどの言葉まで思い出してしまった。
それはいわゆる、僕のトラウマというもの。
だから、できることなら、僕は古賀と関わりたくなかった。
「じゃあ、私にカメラを教えてください」
そんな僕のささやかな願いなんて届かなくて、古賀は紺色のデジカメを手に、言った。
強引な申し出の割に、その表情は柔らかい。
ただ、どうしてそんな顔をするのかなんて、気にしていられなかった。
久しぶりにカメラを見て、手が伸びそうになる。
それを引き止めるのは苦い思い出で、僕はカメラを見ないようにした。
「僕みたいな素人に教わるより、写真部に入って、矢崎先生に教えてもらったほうが、上達できるよ」
僕は古賀の膨れた頬に気付かないふりをして、立ち上がる。
少しでも早く、この場から離れたかった。
「でも写真部には、夏川先輩はいないじゃないですか」
だけど、僕は簡単に彼女の声に引き止められた。
“どうしてそんなに、僕にこだわるの?”
答えが予測できるこの質問は、言わなかった。
結果、僕は古賀を無視することとなり、そのまま教室を出た。
「今日も熱烈なアプローチだったな」
追いかけてきたのは、古賀ではなく、友人の佐伯。
僕は佐伯のにやけ顔と、さっきの古賀の言葉を思い返して、ため息をつく。
「……あんなに求められても困るんだよ……早々に諦めてくれたらいいんだけど」
「どうだろうな。お前に会うために、この高校に来たらしいから」
佐伯の返答に、ため息が止まらない。
どうして僕なんだ。
そう思わずにはいられなかった。
「気が向いたら、教えてやれば?」
きっと向くことはないとわかっている顔をするなんて、人が悪い。
すると、佐伯は僕の左肩に手を置いてきた。
「まあ、古賀ちゃんだけじゃなくて、矢崎先生も俺も、映人の写真待ってるから」
まったく嬉しくない報告をして、佐伯は僕を追い越していった。
僕は一人でゆっくりと、昇降口に向かった。
部活動に勤しむみんなの声を聞きながら、上履きからシューズに履き替える。
去年はその輪に混ざっていただけに、疎外感を酷く感じてしまう。
心のかさぶたが、少しだけ刺激される。
この痛みにはもうしばらく、慣れそうにない。
気を抜けば闇に引きずり込まれそうな気がして、不甲斐ないことに、僕は足早にその場から離れた。
みんなの声が届かなくなってから、やっと息ができた気がした。
ふと足を止めて、振り返る。
何人もの生徒の喜びと悲しみを見守ってきた校舎は、僕を見下ろしている。
僕の中にだって楽しい記憶はあるはずなのに、思い出が溢れる学校は、すっかり忘れてしまったように思えた。
腹の奥から込み上げてくる寂しさに蓋をして、僕は帰路に着く。
『先輩、新しい写真、見せてください』
無心で足を進めていたつもりなのに、古賀のさっきの言葉を思い出した。
古賀は出会ったときから、僕がどれだけ断っても、諦めなかった。
『夏川先輩、どうして写真部にいないんですか』
初対面で、彼女は僕に詰め寄ってきた。机に手をついて、僕に顔を近付けて。
彼女の頬は綺麗に膨らむ。
『私、先輩の写真が見たくて、この高校に来たのに』
『僕の?』
こう返したのが、間違いだった。
そこから、古賀のプレゼンが始まってしまったのだ。
あのときの輝く目は、しばらく忘れられそうにない。
まさに、あの青空に浮かぶ太陽のように、眩しかった瞳。
「久しぶりに、撮りたいって思ったんだよなあ……」
空を見上げて、僕はこぼした。
自分の発言に、慌てて右手で口を塞ぐ。
そのままあたりを見渡して、誰にも聞かれていなかったことに安堵する。
「……なにやってんだろ、僕」
また余計なことを考えてしまわないように、イヤホンで耳を塞ぐ。
お気に入りの音楽を流して、足を進めた。
◇
家の鍵は開いていたのに、リビングには人気がない。
不用心だなと思いながら、いるはずの母さんの姿を探す。
「映人、おかえり」
母さんは二階のベランダに干していた洗濯物を取り入れていたらしい。
「ただいま。手伝おうか?」
「手を洗って、着替えたらお願いしてもいい? 今日、少し凝ったもの作っちゃって」
母さんはリビングのソファに洗濯物を置きながら言う。
僕は「わかった」と短く応えると、洗面所で手を洗ってから、階段を登って、自分の部屋に入った。
僕の部屋の床には、衣類が散らかっている。
恋人とのデート前、服に迷ったわけではない。
クローゼットに服以外のものを詰め込んだ結果、こうなった。
長時間過ごすには不向きなこの部屋は、僕だってキライだ。
意識はクローゼットのほうに引っ張られるけど、必死に背を向けて、僕は部屋着に着替えていく。
そして制服を壁にかけ、部屋の電気を切った。
リビングに戻ると、母さんはもうキッチンに立っていた。
僕が洗濯物を畳むのかと思ってソファに視線を移すと、綺麗に畳まれているどころか、分類までされている。
そこまで着替えに時間をつもりはなかったけど、母さんが洗濯物を畳むほうが早かったらしい。
「なにしてるの?」
「唐揚げ、揚げようと思って」
母さんの姿が見えなくなっていたけど、カチカチという音がすることから、コンロに火をつけているのだろう。
「僕、やるよ」
唐揚げで凝ったものとはどういうことだろうと考えながら言うと、母さんの嬉しそうな顔が見えた。
キッチンに入ると、母さんから箸を受け取る。
「優しい映人に、ご褒美あげる」
ご褒美で喜ぶ歳じゃないと言うより先に、口になにかを入れられた。
ほんのりと甘さが口に広がる。
それで僕は、口に入っているのはチョコだと理解した。
「今日はなに作ったの?」
「ザッハトルテ。簡単に言えば、チョコケーキかな」
母さんの趣味は、お菓子作りだ。
凝ったのは夕飯ではなく、デザートだったらしい。
今、僕に食べさせたのは、余った材料だろう。
「また、父さんが文句言いそう」
油の中できつね色に変わった唐揚げを、いくつかひっくり返す。
「映人もそう思う? まったく、大輔さんったらいつまで経っても、甘いもの好きになってくれないのよね。私、ずっとお菓子作りが好きなのに」
母さんは文句を言っているけれど、その声からは幸せそうな雰囲気を感じる。
「どうしたら食べてくれるかすごく悩んで、結局、ビターなお菓子をマスターしたのよね」
母さんの声はどんどん弾んでいくけど、この話題は、僕には糖度が高すぎる。
僕は「そうなんだね」なんて、適当にあしらうような言葉を使った。
「遥哉も甘いものは苦手みたいだし、結果オーライなのかもしれないけど」
ハル兄の存在が口にされ、僕は一瞬固まってしまった。
無意味に唐揚げをつつく。
「……そうだっけ」
母さんならきっと気付くような、微妙な間。
気付かないでと願いながら、会話を続ける。
「そうだよ。いつも、甘いお菓子を出したら不満そうな顔してたもの」
その返しに胸を撫で下ろすと同時に、僕のほうが、違和感を覚えた。
母さんは絶対、気付いている。気付いていながら、なにも知らないフリをしている。
根拠もなくそんなことを思ったけど、確かめるのも怖くて、僕は目の前の油に集中することにした。
◇
夕食の時間が終わると、父さんは風呂に入り、母さんは鼻歌を歌いながら皿を洗っている。
今日のザッハトルテを、父さんが完食したことが嬉しいらしい。
「父さん、今日のは食べれる甘さだったのかな」
食卓から、母さんが水を止めたタイミングで声をかける。
僕でも甘いと感じたから、小さかったとはいえ、父さんがすべて食べたのは意外だった。
「顔を顰めてたから、ちょっとだけ、無理してたんじゃないかな」
母さんはそのときの父さんの顔を思い出しているのか、クスッと笑う。
僕にはそんなふうには見えなかったから、母さんはよく父さんを見ているなと思った。
「映人、無理するくらいなら、食べなきゃいいのにって思ったでしょ」
皿洗いが終わったようで、母さんは僕の前に座った。
母さんは僕の心を見透かした目をしている。
「いや、まあ……少しだけ」
誤魔化せないだろうから、本心を言おうとするが、はっきりとは言えなかった。
「私もね、美味しく食べてほしいから、無理しなくていいよって何回か言ったんだけど……大輔さんが、私が作ったものは全部食べてみたいって言ってくれてね」
また惚気けの時間だ。
察したのはいいけど、止めることはできなさそうだ。
「だったら、大輔さんが美味しいって思えるものを作ろうって、甘さ控えめなものばっかり作るようになったの」
そのときにビターなお菓子をマスターしたのだろうと思いながら、話を聞く。
「そしたらある日、大輔さんに言われたの。僕は君に我慢をさせたいわけじゃないんだって」
それは、今の僕に向けて、言われているような気がした。
「楽しいこと、好きなことを我慢して、楽しくないことにしてしまうのは、きっと苦しい。僕は、君を苦しめたくないんだって。素敵でしょ? 私の旦那さん」
母さんは幸せそうに微笑んでいるけど、そこに対して感情を抱く余裕はなかった。
昔の父さんの言葉を聞いて、無性に泣きたくなった。
「……母さん、気付いてるよね」
もう、聞かずにはいられなかった。
「二人揃って様子がおかしいのと、映人がまったくカメラに触らなくなったのを見れば、鈍感な大輔さんでもわかる」
確かに、ハル兄と気まずくなって話さなくなったし、カメラを持って出かけなくなったから、気付かないほうが変な話だ。
「……聞かないの?」
「映人は、聞いてほしいの?」
質問に質問で返され、僕は、それに答えられなかった。
母さんは席を立つ。
「遥哉、ゴールデンウィークには帰ってくるって」
母さんはそれ以上は言わず、冷蔵庫からまだ残っていたザッハトルテを取り出す。
「映人も食べる?」
僕にそう聞いてくるということは、さっきのハル兄の話題は、ただの報告だったらしい。
「いや、遠慮しておく」
僕は一方的に気まずさを感じて、二階に上がる。
さすがに電気をつけなければ不便で、部屋の明かりをつける。
散らかり放題な部屋がしっかりと目に映るが、そんなものはどうでもよく、僕はクローゼットに手を伸ばした。
中には服の代わりに入れた、僕の大切なものたちが並べられている。
じいちゃんから譲り受けたカメラに、僕が撮ってきた写真のアルバムや、データが詰まったノートパソコン。
どれも大切だけど、一番はやっぱり、じいちゃんのカメラだ。
僕がカメラに興味を持ったのは、じいちゃんがきっかけだった。
じいちゃんはよく、僕たち家族を写真に収めていた。
家族旅行で綺麗な景色を見ても、じいちゃんはそれを写真には撮らなかった。
ばあちゃんも母さんも景色を撮っている中で、そんな二人にカメラを向けるじいちゃんを、昔の僕には変な人に見えた。
『どうしてじいちゃんは、景色は撮らないの?』
『これからも遺る景色には、興味ないからね。それよりも、変化していく大切な人たちの表情を写したい』
幼い僕には、言葉の内容は難しかったけど、ばあちゃんたちを優しい目で見つめるじいちゃんの横顔が印象的で、今でも覚えている。
そして、その質問をきっかけに、じいちゃんは僕が写真に興味を持ったと思ったのか、カメラを触らせてくれるようになった。
それでもやっぱり、綺麗な景色を撮ることのほうが、僕には魅力的に感じていた。
じいちゃんの言っていたことを理解したのは、三年前にじいちゃんが死んだときだ。
『お父さんの写真、全然ないね』
『どれもこれもムスッとしちゃって……選ぶのが難しいわ』
遺影を探しながら、母さんとばあちゃんがボヤいていた。
僕はじいちゃんの優しい顔を知っているからこそ、もどかしかった。
『人との思い出は記憶にしか残らない。でも、人は忘れる生き物だ。だから、記録を残すんだ』
僕は、じいちゃんの写真を撮っていなかった後悔と、もうじいちゃんに会えない悲しさで、しばらく泣くのを止められなかった。
それをきっかけに、ばあちゃんに頼んで、じいちゃんのカメラを譲ってもらい、僕はじいちゃんが残そうとしていたものを写すようになった。
僕が出会ってきた人たちの喜怒哀楽を写真に収めていくのは、思い出を形にしているような気がして、楽しかった。
その中でも笑顔が特段好きだったけど、もう、僕に自然な笑顔を向けてくれる人はいないだろう。
僕は笑顔が好きで。みんなと笑えるように過ごしていくうちに、みんな、僕に自然な表情を見せてくれて。それを写真に残すと、僕の写真でまた、みんなが笑顔になる。
その幸せな日常のサイクルは、半年前に壊れた。
僕の写真のせいで、僕とハル兄は気まずくなってしまったのだ。
カメラに手を伸ばすと、ハル兄の苦しそうな顔が脳裏によぎる。
だから僕は、カメラに触れられなかった。
今も、指先が震えている。
もうしばらくは、写真とハル兄とは距離を置いたほうがよさそうだ。
そんなことを思いながら、僕はクローゼットの扉を閉めた。
「先輩、新しい写真、見せてください」
春。新しいクラスでの自分の新しい立ち位置を探しながら過ごす時期に、それまでの僕の世界にはいなかった人物が現れた。
彼女は真新しいセーラー服を身にまとい、肩に届きそうな黒髪を揺らす。
インドアな僕とは違って、活発そうな少女の名は、古賀依澄。
数日前から、放課後になると僕のクラスに来ては、同じようなことを繰り返し言ってくる。
古賀が“写真”という単語を発する度に、周りから鋭い視線を向けてくるのだけど、彼女はそれに気付いていないのか。
僕は耐えられそうになくて、逃げるように引き出しに視線を落とし、教科書やノートを取り出しながら答える。
「……僕、写真はもう撮らないから」
ふと視界に入った古賀は、口を尖らせている。
彼女が僕の写真にこだわるのは、去年の文化祭で、僕の写真に一目惚れしたからだそうだ。
聞いたとき、最初は嬉しかった。
だけど、写真の感想繋がりで、その喜びを掻き消してしまうほどの言葉まで思い出してしまった。
それはいわゆる、僕のトラウマというもの。
だから、できることなら、僕は古賀と関わりたくなかった。
「じゃあ、私にカメラを教えてください」
そんな僕のささやかな願いなんて届かなくて、古賀は紺色のデジカメを手に、言った。
強引な申し出の割に、その表情は柔らかい。
ただ、どうしてそんな顔をするのかなんて、気にしていられなかった。
久しぶりにカメラを見て、手が伸びそうになる。
それを引き止めるのは苦い思い出で、僕はカメラを見ないようにした。
「僕みたいな素人に教わるより、写真部に入って、矢崎先生に教えてもらったほうが、上達できるよ」
僕は古賀の膨れた頬に気付かないふりをして、立ち上がる。
少しでも早く、この場から離れたかった。
「でも写真部には、夏川先輩はいないじゃないですか」
だけど、僕は簡単に彼女の声に引き止められた。
“どうしてそんなに、僕にこだわるの?”
答えが予測できるこの質問は、言わなかった。
結果、僕は古賀を無視することとなり、そのまま教室を出た。
「今日も熱烈なアプローチだったな」
追いかけてきたのは、古賀ではなく、友人の佐伯。
僕は佐伯のにやけ顔と、さっきの古賀の言葉を思い返して、ため息をつく。
「……あんなに求められても困るんだよ……早々に諦めてくれたらいいんだけど」
「どうだろうな。お前に会うために、この高校に来たらしいから」
佐伯の返答に、ため息が止まらない。
どうして僕なんだ。
そう思わずにはいられなかった。
「気が向いたら、教えてやれば?」
きっと向くことはないとわかっている顔をするなんて、人が悪い。
すると、佐伯は僕の左肩に手を置いてきた。
「まあ、古賀ちゃんだけじゃなくて、矢崎先生も俺も、映人の写真待ってるから」
まったく嬉しくない報告をして、佐伯は僕を追い越していった。
僕は一人でゆっくりと、昇降口に向かった。
部活動に勤しむみんなの声を聞きながら、上履きからシューズに履き替える。
去年はその輪に混ざっていただけに、疎外感を酷く感じてしまう。
心のかさぶたが、少しだけ刺激される。
この痛みにはもうしばらく、慣れそうにない。
気を抜けば闇に引きずり込まれそうな気がして、不甲斐ないことに、僕は足早にその場から離れた。
みんなの声が届かなくなってから、やっと息ができた気がした。
ふと足を止めて、振り返る。
何人もの生徒の喜びと悲しみを見守ってきた校舎は、僕を見下ろしている。
僕の中にだって楽しい記憶はあるはずなのに、思い出が溢れる学校は、すっかり忘れてしまったように思えた。
腹の奥から込み上げてくる寂しさに蓋をして、僕は帰路に着く。
『先輩、新しい写真、見せてください』
無心で足を進めていたつもりなのに、古賀のさっきの言葉を思い出した。
古賀は出会ったときから、僕がどれだけ断っても、諦めなかった。
『夏川先輩、どうして写真部にいないんですか』
初対面で、彼女は僕に詰め寄ってきた。机に手をついて、僕に顔を近付けて。
彼女の頬は綺麗に膨らむ。
『私、先輩の写真が見たくて、この高校に来たのに』
『僕の?』
こう返したのが、間違いだった。
そこから、古賀のプレゼンが始まってしまったのだ。
あのときの輝く目は、しばらく忘れられそうにない。
まさに、あの青空に浮かぶ太陽のように、眩しかった瞳。
「久しぶりに、撮りたいって思ったんだよなあ……」
空を見上げて、僕はこぼした。
自分の発言に、慌てて右手で口を塞ぐ。
そのままあたりを見渡して、誰にも聞かれていなかったことに安堵する。
「……なにやってんだろ、僕」
また余計なことを考えてしまわないように、イヤホンで耳を塞ぐ。
お気に入りの音楽を流して、足を進めた。
◇
家の鍵は開いていたのに、リビングには人気がない。
不用心だなと思いながら、いるはずの母さんの姿を探す。
「映人、おかえり」
母さんは二階のベランダに干していた洗濯物を取り入れていたらしい。
「ただいま。手伝おうか?」
「手を洗って、着替えたらお願いしてもいい? 今日、少し凝ったもの作っちゃって」
母さんはリビングのソファに洗濯物を置きながら言う。
僕は「わかった」と短く応えると、洗面所で手を洗ってから、階段を登って、自分の部屋に入った。
僕の部屋の床には、衣類が散らかっている。
恋人とのデート前、服に迷ったわけではない。
クローゼットに服以外のものを詰め込んだ結果、こうなった。
長時間過ごすには不向きなこの部屋は、僕だってキライだ。
意識はクローゼットのほうに引っ張られるけど、必死に背を向けて、僕は部屋着に着替えていく。
そして制服を壁にかけ、部屋の電気を切った。
リビングに戻ると、母さんはもうキッチンに立っていた。
僕が洗濯物を畳むのかと思ってソファに視線を移すと、綺麗に畳まれているどころか、分類までされている。
そこまで着替えに時間をつもりはなかったけど、母さんが洗濯物を畳むほうが早かったらしい。
「なにしてるの?」
「唐揚げ、揚げようと思って」
母さんの姿が見えなくなっていたけど、カチカチという音がすることから、コンロに火をつけているのだろう。
「僕、やるよ」
唐揚げで凝ったものとはどういうことだろうと考えながら言うと、母さんの嬉しそうな顔が見えた。
キッチンに入ると、母さんから箸を受け取る。
「優しい映人に、ご褒美あげる」
ご褒美で喜ぶ歳じゃないと言うより先に、口になにかを入れられた。
ほんのりと甘さが口に広がる。
それで僕は、口に入っているのはチョコだと理解した。
「今日はなに作ったの?」
「ザッハトルテ。簡単に言えば、チョコケーキかな」
母さんの趣味は、お菓子作りだ。
凝ったのは夕飯ではなく、デザートだったらしい。
今、僕に食べさせたのは、余った材料だろう。
「また、父さんが文句言いそう」
油の中できつね色に変わった唐揚げを、いくつかひっくり返す。
「映人もそう思う? まったく、大輔さんったらいつまで経っても、甘いもの好きになってくれないのよね。私、ずっとお菓子作りが好きなのに」
母さんは文句を言っているけれど、その声からは幸せそうな雰囲気を感じる。
「どうしたら食べてくれるかすごく悩んで、結局、ビターなお菓子をマスターしたのよね」
母さんの声はどんどん弾んでいくけど、この話題は、僕には糖度が高すぎる。
僕は「そうなんだね」なんて、適当にあしらうような言葉を使った。
「遥哉も甘いものは苦手みたいだし、結果オーライなのかもしれないけど」
ハル兄の存在が口にされ、僕は一瞬固まってしまった。
無意味に唐揚げをつつく。
「……そうだっけ」
母さんならきっと気付くような、微妙な間。
気付かないでと願いながら、会話を続ける。
「そうだよ。いつも、甘いお菓子を出したら不満そうな顔してたもの」
その返しに胸を撫で下ろすと同時に、僕のほうが、違和感を覚えた。
母さんは絶対、気付いている。気付いていながら、なにも知らないフリをしている。
根拠もなくそんなことを思ったけど、確かめるのも怖くて、僕は目の前の油に集中することにした。
◇
夕食の時間が終わると、父さんは風呂に入り、母さんは鼻歌を歌いながら皿を洗っている。
今日のザッハトルテを、父さんが完食したことが嬉しいらしい。
「父さん、今日のは食べれる甘さだったのかな」
食卓から、母さんが水を止めたタイミングで声をかける。
僕でも甘いと感じたから、小さかったとはいえ、父さんがすべて食べたのは意外だった。
「顔を顰めてたから、ちょっとだけ、無理してたんじゃないかな」
母さんはそのときの父さんの顔を思い出しているのか、クスッと笑う。
僕にはそんなふうには見えなかったから、母さんはよく父さんを見ているなと思った。
「映人、無理するくらいなら、食べなきゃいいのにって思ったでしょ」
皿洗いが終わったようで、母さんは僕の前に座った。
母さんは僕の心を見透かした目をしている。
「いや、まあ……少しだけ」
誤魔化せないだろうから、本心を言おうとするが、はっきりとは言えなかった。
「私もね、美味しく食べてほしいから、無理しなくていいよって何回か言ったんだけど……大輔さんが、私が作ったものは全部食べてみたいって言ってくれてね」
また惚気けの時間だ。
察したのはいいけど、止めることはできなさそうだ。
「だったら、大輔さんが美味しいって思えるものを作ろうって、甘さ控えめなものばっかり作るようになったの」
そのときにビターなお菓子をマスターしたのだろうと思いながら、話を聞く。
「そしたらある日、大輔さんに言われたの。僕は君に我慢をさせたいわけじゃないんだって」
それは、今の僕に向けて、言われているような気がした。
「楽しいこと、好きなことを我慢して、楽しくないことにしてしまうのは、きっと苦しい。僕は、君を苦しめたくないんだって。素敵でしょ? 私の旦那さん」
母さんは幸せそうに微笑んでいるけど、そこに対して感情を抱く余裕はなかった。
昔の父さんの言葉を聞いて、無性に泣きたくなった。
「……母さん、気付いてるよね」
もう、聞かずにはいられなかった。
「二人揃って様子がおかしいのと、映人がまったくカメラに触らなくなったのを見れば、鈍感な大輔さんでもわかる」
確かに、ハル兄と気まずくなって話さなくなったし、カメラを持って出かけなくなったから、気付かないほうが変な話だ。
「……聞かないの?」
「映人は、聞いてほしいの?」
質問に質問で返され、僕は、それに答えられなかった。
母さんは席を立つ。
「遥哉、ゴールデンウィークには帰ってくるって」
母さんはそれ以上は言わず、冷蔵庫からまだ残っていたザッハトルテを取り出す。
「映人も食べる?」
僕にそう聞いてくるということは、さっきのハル兄の話題は、ただの報告だったらしい。
「いや、遠慮しておく」
僕は一方的に気まずさを感じて、二階に上がる。
さすがに電気をつけなければ不便で、部屋の明かりをつける。
散らかり放題な部屋がしっかりと目に映るが、そんなものはどうでもよく、僕はクローゼットに手を伸ばした。
中には服の代わりに入れた、僕の大切なものたちが並べられている。
じいちゃんから譲り受けたカメラに、僕が撮ってきた写真のアルバムや、データが詰まったノートパソコン。
どれも大切だけど、一番はやっぱり、じいちゃんのカメラだ。
僕がカメラに興味を持ったのは、じいちゃんがきっかけだった。
じいちゃんはよく、僕たち家族を写真に収めていた。
家族旅行で綺麗な景色を見ても、じいちゃんはそれを写真には撮らなかった。
ばあちゃんも母さんも景色を撮っている中で、そんな二人にカメラを向けるじいちゃんを、昔の僕には変な人に見えた。
『どうしてじいちゃんは、景色は撮らないの?』
『これからも遺る景色には、興味ないからね。それよりも、変化していく大切な人たちの表情を写したい』
幼い僕には、言葉の内容は難しかったけど、ばあちゃんたちを優しい目で見つめるじいちゃんの横顔が印象的で、今でも覚えている。
そして、その質問をきっかけに、じいちゃんは僕が写真に興味を持ったと思ったのか、カメラを触らせてくれるようになった。
それでもやっぱり、綺麗な景色を撮ることのほうが、僕には魅力的に感じていた。
じいちゃんの言っていたことを理解したのは、三年前にじいちゃんが死んだときだ。
『お父さんの写真、全然ないね』
『どれもこれもムスッとしちゃって……選ぶのが難しいわ』
遺影を探しながら、母さんとばあちゃんがボヤいていた。
僕はじいちゃんの優しい顔を知っているからこそ、もどかしかった。
『人との思い出は記憶にしか残らない。でも、人は忘れる生き物だ。だから、記録を残すんだ』
僕は、じいちゃんの写真を撮っていなかった後悔と、もうじいちゃんに会えない悲しさで、しばらく泣くのを止められなかった。
それをきっかけに、ばあちゃんに頼んで、じいちゃんのカメラを譲ってもらい、僕はじいちゃんが残そうとしていたものを写すようになった。
僕が出会ってきた人たちの喜怒哀楽を写真に収めていくのは、思い出を形にしているような気がして、楽しかった。
その中でも笑顔が特段好きだったけど、もう、僕に自然な笑顔を向けてくれる人はいないだろう。
僕は笑顔が好きで。みんなと笑えるように過ごしていくうちに、みんな、僕に自然な表情を見せてくれて。それを写真に残すと、僕の写真でまた、みんなが笑顔になる。
その幸せな日常のサイクルは、半年前に壊れた。
僕の写真のせいで、僕とハル兄は気まずくなってしまったのだ。
カメラに手を伸ばすと、ハル兄の苦しそうな顔が脳裏によぎる。
だから僕は、カメラに触れられなかった。
今も、指先が震えている。
もうしばらくは、写真とハル兄とは距離を置いたほうがよさそうだ。
そんなことを思いながら、僕はクローゼットの扉を閉めた。



