◆
「映人くんって、意外と来る者拒まずだった気がする」
日曜日の午後、少しでも夏川先輩の好みの人物に近付きたくて、楪先輩と美優と出かける約束をした。
楪先輩のオススメのカフェに入り、早速ストレートに夏川先輩のタイプを聞いた返答が、それだった。
「来る者拒まず……」
夏川先輩がそんなに軽い恋愛をしてきたことに、軽くショックを受けた。
私たちが注文した飲み物が届き、楪先輩はカフェオレを飲む。
「映人くんは、遥哉くんとは違って親しみやすくて、告白がしやすかったんじゃないかな。あと、映人くんは断るのがニガテな人だから」
「そうなの?」
美優のほうが、私より先に反応した。
美優はスマホで写真を撮ることに集中していると思っていたのに、違ったらしい。
「多分ね。告白されるたびに、悩んでたから」
美優はどうでもよさそうに返して、撮影を再開する。
楪先輩の印象に残るくらい、夏川先輩が人気だったとは知らなかった。
でも、クラスマッチの撮影会のときみたいなことを普段からしているのだとしたら、夏川先輩がモテるというのも、頷ける。
「まあ、映人くんは誰のことも特別扱いしなかったから、よく振られてたんだけど」
楪先輩はそのときのことを思い出しているのか、苦笑する。
ただ、これはどう反応すればいいのかわからない。
「役に立てなくてごめんね、依澄ちゃん」
「いえ、そんなことは」
楪先輩は優しく、かつ楽しそうに微笑んでいて、私は言葉を切った。
そんな視線を向けられる理由がわかるからこそ、急に照れくさくなる。
「ねえ、依澄ちゃんはメイクとかしないの?」
「ダメだよ、花奈さん。依澄はオシャレには興味持ってくれないから」
私ではなく、美優がつまらなさそうに言った。
「そう? 私はそうは思わないけどなあ」
その視線から“夏川先輩に可愛いと思われたくない?”と言われているような気がする。
ここまでお見通しなら、隠すだけ無駄だろう。
「……少しだけ、興味あります」
美優は驚きを隠さなかった。
そして、口を尖らせた。
「夏川映人のせいで、依澄がどんどん変わってく」
「映人くんのおかげ、じゃなくて?」
楪先輩に言われて、美優はますます不機嫌になる。
そんな美優の頭を、楪先輩は撫でた。
「美優ちゃんは寂しいんだね」
美優は不貞腐れたまま、りんごジュースに刺さったストローを咥える。
飲まずに、息を吹き出したことで、コップの底から泡が上がってくる。
「美優、私にメイクとか、服のこと教えてくれる?」
まだ、美優の機嫌は直らない。
相変わらず、美優のご機嫌取りは難しい。
「私、美優に教えてほしいな」
すると、美優はストローから口を離した。
なんとか成功したことに、私は安心する。
「依澄は笑顔が可愛いから、オシャレしなくてもいいよ」
さすがに、その返答は予想していなかった。
「ていうか、好きって自覚したのに、まだ言わないなんて、依澄らしくない」
流れるように暴露したから、思わず聞き逃すところだった。
でも、楪先輩に夏川先輩のタイプを聞いた時点で、楪先輩も察していたのだろう。
話を聞きながら、頷いている。
咳払いをして、一旦恥ずかしさを誤魔化す。
「今はまだ、自分に自信がないから言わない。ちゃんと、夏川先輩の隣に立つ自信を持ってから、言いたいの」
それは、私なりのプライドだった。
「そんなの待ってたら、誰かに取られちゃうよ。夏川映人が欲しいって、本人に言ってる人、いたし」
その内容と裏腹に、美優は呑気にストローで氷を押して遊んでいる。
「美優、それ、本当?」
「本当」
美優にとっては興味のないことなのは、わかる。
だから、淡々と話すのは当然だと思う。
でも、私にとってはどうでもいいことではなくて、その温度差に、思っていることを言っていいのか、わからなくなる。
「依澄ちゃん。自分に自信がないとダメっていうのは、私もわかるよ」
楪先輩でもそんなふうに感じていたのは、意外だと思いながら、続きを聞く。
「遥哉くんって、カリスマ性みたいなの凄いでしょ。他人を寄せ付けないオーラというか」
私は正直に頷いた。
「だからね、遥哉くんに釣り合うような人にならないと、告白しちゃダメだって、勝手に思ってたの。みんなもそう思ってるだろうって、勝手に決めつけて」
まさに私と同じ状況だった。
私は真剣に、楪先輩の話に耳を傾ける。
「でも、そんな暗黙のルールみたいなのを破って、遥哉くんに想いを告げた人がいたの。そのとき、目が覚めた。私の準備が整うのを、周りは待ってはくれないんだって」
「じゃあ、すぐに告白したんですか?」
楪先輩は首を横に振る。
そして、困ったように笑みを浮かべた。
「怖くて、できなかった」
楪先輩は過去を思い返しているのか、そっと視線を落とした。
「そうやって心の中に溜め込んでいた私の気持ちは、映人くんに気付かれた。あの、文化祭で飾られてた写真を撮られたときだよ」
あれは、恋人が告白されているところではなくて、好きな人が告白されているところだったのか。
それはたしかに、あんな不安な視線になる。
「そのとき、映人くんは私に遥哉くんの写真を見せてくれたの。私も見たことがないくらい、優しい眼をしている写真だった」
楪先輩は言いながら、スマホを見せてくれる。
私と美優はそれを覗き込む。
ロック画面が、遥哉先輩の写真だ。
私の知っている眼とは違う、穏やかな瞳をした横顔だった。
「この視線の先に、私がいるんだって」
楪先輩は照れながら、スマホを引く。
『花奈さんのはハル兄、ハル兄のは花奈さんにだけ見せていたから』
これを聞いたとき、恋人の写真を誰にも見せたくない思いに応えているのかと思った。
でも、違う気がした。
これは、他人に見せる写真ではない。
お互いだけが知っておくだけで十分な写真だ。
「そのとき、映人くんに言われたの。無理に遥哉くんに合わせる必要はない。今の私でも、十分魅力的な人だって」
そのセリフは、かっこよすぎる。
今の私の不安まで、取り除いてくれる。
「映人くんは一人一人のいいところを見つけて、それを写すのが上手な人だから、余計に自信がついた。そしてこの写真をお守りに、私は遥哉くんに言えたの」
楪先輩に幸せな表情が戻る。
前に見たときは可愛らしいとしか思わなかったけど、今は羨ましいと思った。
私も、楪先輩のように幸せになれるだろうか。
いや、なりたい。
「そんなふうに言ってくれる映人くんだから、きっと、不釣り合いだとか思わないはずだよ。まずは依澄ちゃんの素敵なところで勝負してみて、いいと思う」
「私の、素敵なところ……」
自分ではわからなくて、呟いた次の言葉が出てこなかった。
「素直。笑顔。可愛い」
すると、間髪入れずに美優が言った。
美優が真剣に言うから、照れてしまう私がおかしいみたいに思ってしまう。
「そうだね。依澄ちゃんは、笑顔が素敵」
楪先輩が笑いかけてきて、笑顔を促されている気がしたけど、私は上手く笑えなかった。
二人の視線から逃げるように、まだ口をつけていなかったカフェオレを飲む。
氷が溶けてしまって、若干薄味になっていた。
「そうだ。依澄ちゃんは、映人くんのどんなところが好きなの?」
この照れくさい時間は、まだ続くらしい。
楪先輩に言われて考えてみるけど、これといったものが思い浮かばない。
「夏川先輩は……私の光みたいな存在で。憧れだったはずなんですけど……夏川先輩のことを知っていくうちに、ただの憧れじゃなくなったというか……」
美優は聞きたくないという表情で、楪先輩は微笑ましく私を見ている。
「どこが、とか、わからないです。私は、夏川映人という人が好きだと思ったんです」
ちゃんと言葉にすると、夏川先輩に会いたくなってきた。
会って、伝えたい。
だけど、もう少しだけ、自信が欲しかった。
「あの、楪先輩。美優も。簡単なものでいいので、メイクのやり方を教えてください」
メイクで自信がつくのか、わからない。
でも、美優がいつか言っていた。
『メイクは、私を強くするための手段だから』
その言葉を信じたい。
「私はいくらでも協力するよ」
楪先輩は美優に視線を移す。
美優はまた氷で遊んでいる。
りんごジュースが減ったことで、氷がグラスに当たる音がした。
「……わかった」
美優は仕方ないという顔をして、そう言ってくれた。
「ありがとう、美優」
美優が承諾してくれたのが、自分でも思っているより嬉しかったみたいで、自然と笑顔がこぼれた。
◇
翌朝、スマホの目覚ましはいつもより一時間ほど早く鳴り始めた。
普段起きる時間ではないから、まだ瞼が重たい。
でも、まずは体を起こして目覚ましを止める。
予定より五分遅い目覚めだけど、おおむね予定通り。
ベッドを降りて、洗面所に向かう。
昨日、美優たちに教えてもらった手順で洗顔をしていく。
スキンケアと言われるものは、私にとって面倒なものだった。
だけど、必要なことらしいから、言われた通りに進めていく。
ここまでは覚えていたけど、メイクの手順までは覚えていない。
スマホで美優とのトークルームを開き、手順を確認する。
メイクをする前に、着替えるように注意書きがある。
私は自室に戻って、制服に着替えた。
自分の部屋にも手鏡があることを思い出し、ここでメイクをすることにした。
「あれ、今日は早いね。どうしたの?」
ある程度道具が揃ったところで、部屋の外から声がした。
ドアを開けっぱなしにしていたから、お母さんは驚いた表情で、そこに立っている。
「お母さん、おはよう」
「おはよう。それ、メイク道具?」
わからないままにローテーブルの上に広げていたそれらを、お母さんは不思議そうに見る。
「ちょっと、ちゃんと見た目を整えようと思って。あ、お金は大丈夫。何個か美優に借りたし。それに先生たちに怒られないくらい、薄めにするから」
怒られると思ってしまって、言い訳をしているように言った。
そのせいか、お母さんは小さく口角を上げた。
「メイクするくらいで、怒らないよ。わからないことがあったら、なんでも聞きなさい。あと、遅刻しないようにね」
そしてお母さんは、私の部屋の前を通り過ぎて行った。
お母さんの優しさに少し泣きそうになったけど、両頬を軽く叩いて、気合いを入れる。
まずは、下地。濃くしすぎないように、少しずつ塗るようにと書いてある。
半分塗ってから、全然印象が違うことに気付く。
ほんのわずかでも、こんなに変わるのか。
これは美優がすっぴんはイヤだと言うのも、わかるかもしれない。
下地を塗り終えると、次はアイシャドウ。何色も塗るとバレちゃうから、一色だけ。筆を使って、目の周りに色を乗せていく。
それから、アイライン。美優が初心者向けで私に似合う色を選んで、プレゼントしてくれたもの。
アイラインは難しくて、すぐには完成しなかったけど、いい感じに仕上がったと思う。
最後は、口紅。
だけど、結構濃い色に見えて、私はそれを付ける勇気がなかった。
代わりにリップクリームを塗っても、悪くない仕上がりだ。
見た目が整うだけで、こんなにも気分が上がるなんて、知らなかった。
髪型もアレンジしたかったけど、そこまではやり方を聞いていなかったから、櫛を通して終わった。
スクールカバンを持って、部屋を出る。
リビングに行くと、食卓で美優がトーストを咥えていた。
「美優? なんで?」
「依澄がちゃんとメイクできたか、確かめに来た」
美優はトーストを置き、手を叩くことで、手についた粉を払う。
そして私の前に立ち、じっと顔を見てきた。
さすがと言うべきか、美優の身支度は完璧だ。
逆に見惚れてしまっていると、美優が私の左目尻を親指で擦る。
「うん、上出来だね。後で髪やってあげる」
微笑んで言うと、美優は席に戻った。
今の笑顔が、私には無理して笑っているように見えた。
『美優ちゃんは寂しいんだね』
昨日、楪先輩が言っていたときには、美優が子供のように拗ねているようにしか見えなかった。
私が美優の趣味に興味を示した理由が夏川先輩ということが、気に入らないのだと思っていた。
今の笑顔も、同じ理由で作られたのかもしれない。
だけど、楪先輩が言った理由のほうが、しっくりときた。
「美優」
私は美優の前に座り、名前を呼ぶ。
トーストを食べきった美優は、水を飲みながら、視線だけ私に向ける。
「ありがとう。大好き」
動揺して、美優は少しだけ水をこぼした。
お母さんから布巾を受け取り、テーブルを拭く。
「……急にどうしたの」
照れ隠しで少しだけ冷たい言い方になるのが、美優らしくて可愛い。
「美優と友達で幸せだなって思ったから、伝えてたくなった」
照れて困った表情が本当に可愛らしくて、私は微笑ましくなる。
「……私だって、依澄のことが好きだよ」
美優にそう返されて、私も美優と似たような反応になってしまった。
お互いに恥ずかしい時間となり、それがおかしくて、私たちは吹き出すように笑う。
「仲良しさんたち、ゆっくりしてたら遅刻するよ」
お母さんに言われて、私は急いでトーストを食べきる。
そして洗面所に行き、美優に言われた通りに棒立ちをする。
美優はヘアアイロンを使って、私の髪を整えていく。
ショートカットだから、大きな変化はない。
でも、好きに跳ねていた毛先がまとまっていると、いつもと違って見える。
「よし、可愛い」
もう終わったらしく、美優は片付け始める。
「頑張れ」
美優に軽く両肩を叩かれて、気合いが入る。
改めて、自分は幸せ者だと感じながら、美優と学校に向かった。
いつもより美優のオシャレ論に耳を傾けながら、通学路を進んでいく。
私がちゃんと相槌を打つからか、美優は楽しそうだ。
「夏川センパイ、おはようございます」
校門が近くなってから、可愛らしくて明るい声が聞こえてきた。
名前に反応して、夏川先輩の姿を探す。
すぐに見つかったのはいいけど、その傍に可愛い子がいて、胸が苦しくなる。
「アイツ……諦め悪い」
美優の声のトーンが、一気に暗くなる。
あの子が、昨日美優が言っていた子だろうか。
私よりも上手で自然なメイクに、可愛い髪型。雰囲気も柔らかくて、女の子らしい。
あんなにも可愛い子に勝てる気がしなくて、勇気がしぼんでいく音がした。
「映人くんって、意外と来る者拒まずだった気がする」
日曜日の午後、少しでも夏川先輩の好みの人物に近付きたくて、楪先輩と美優と出かける約束をした。
楪先輩のオススメのカフェに入り、早速ストレートに夏川先輩のタイプを聞いた返答が、それだった。
「来る者拒まず……」
夏川先輩がそんなに軽い恋愛をしてきたことに、軽くショックを受けた。
私たちが注文した飲み物が届き、楪先輩はカフェオレを飲む。
「映人くんは、遥哉くんとは違って親しみやすくて、告白がしやすかったんじゃないかな。あと、映人くんは断るのがニガテな人だから」
「そうなの?」
美優のほうが、私より先に反応した。
美優はスマホで写真を撮ることに集中していると思っていたのに、違ったらしい。
「多分ね。告白されるたびに、悩んでたから」
美優はどうでもよさそうに返して、撮影を再開する。
楪先輩の印象に残るくらい、夏川先輩が人気だったとは知らなかった。
でも、クラスマッチの撮影会のときみたいなことを普段からしているのだとしたら、夏川先輩がモテるというのも、頷ける。
「まあ、映人くんは誰のことも特別扱いしなかったから、よく振られてたんだけど」
楪先輩はそのときのことを思い出しているのか、苦笑する。
ただ、これはどう反応すればいいのかわからない。
「役に立てなくてごめんね、依澄ちゃん」
「いえ、そんなことは」
楪先輩は優しく、かつ楽しそうに微笑んでいて、私は言葉を切った。
そんな視線を向けられる理由がわかるからこそ、急に照れくさくなる。
「ねえ、依澄ちゃんはメイクとかしないの?」
「ダメだよ、花奈さん。依澄はオシャレには興味持ってくれないから」
私ではなく、美優がつまらなさそうに言った。
「そう? 私はそうは思わないけどなあ」
その視線から“夏川先輩に可愛いと思われたくない?”と言われているような気がする。
ここまでお見通しなら、隠すだけ無駄だろう。
「……少しだけ、興味あります」
美優は驚きを隠さなかった。
そして、口を尖らせた。
「夏川映人のせいで、依澄がどんどん変わってく」
「映人くんのおかげ、じゃなくて?」
楪先輩に言われて、美優はますます不機嫌になる。
そんな美優の頭を、楪先輩は撫でた。
「美優ちゃんは寂しいんだね」
美優は不貞腐れたまま、りんごジュースに刺さったストローを咥える。
飲まずに、息を吹き出したことで、コップの底から泡が上がってくる。
「美優、私にメイクとか、服のこと教えてくれる?」
まだ、美優の機嫌は直らない。
相変わらず、美優のご機嫌取りは難しい。
「私、美優に教えてほしいな」
すると、美優はストローから口を離した。
なんとか成功したことに、私は安心する。
「依澄は笑顔が可愛いから、オシャレしなくてもいいよ」
さすがに、その返答は予想していなかった。
「ていうか、好きって自覚したのに、まだ言わないなんて、依澄らしくない」
流れるように暴露したから、思わず聞き逃すところだった。
でも、楪先輩に夏川先輩のタイプを聞いた時点で、楪先輩も察していたのだろう。
話を聞きながら、頷いている。
咳払いをして、一旦恥ずかしさを誤魔化す。
「今はまだ、自分に自信がないから言わない。ちゃんと、夏川先輩の隣に立つ自信を持ってから、言いたいの」
それは、私なりのプライドだった。
「そんなの待ってたら、誰かに取られちゃうよ。夏川映人が欲しいって、本人に言ってる人、いたし」
その内容と裏腹に、美優は呑気にストローで氷を押して遊んでいる。
「美優、それ、本当?」
「本当」
美優にとっては興味のないことなのは、わかる。
だから、淡々と話すのは当然だと思う。
でも、私にとってはどうでもいいことではなくて、その温度差に、思っていることを言っていいのか、わからなくなる。
「依澄ちゃん。自分に自信がないとダメっていうのは、私もわかるよ」
楪先輩でもそんなふうに感じていたのは、意外だと思いながら、続きを聞く。
「遥哉くんって、カリスマ性みたいなの凄いでしょ。他人を寄せ付けないオーラというか」
私は正直に頷いた。
「だからね、遥哉くんに釣り合うような人にならないと、告白しちゃダメだって、勝手に思ってたの。みんなもそう思ってるだろうって、勝手に決めつけて」
まさに私と同じ状況だった。
私は真剣に、楪先輩の話に耳を傾ける。
「でも、そんな暗黙のルールみたいなのを破って、遥哉くんに想いを告げた人がいたの。そのとき、目が覚めた。私の準備が整うのを、周りは待ってはくれないんだって」
「じゃあ、すぐに告白したんですか?」
楪先輩は首を横に振る。
そして、困ったように笑みを浮かべた。
「怖くて、できなかった」
楪先輩は過去を思い返しているのか、そっと視線を落とした。
「そうやって心の中に溜め込んでいた私の気持ちは、映人くんに気付かれた。あの、文化祭で飾られてた写真を撮られたときだよ」
あれは、恋人が告白されているところではなくて、好きな人が告白されているところだったのか。
それはたしかに、あんな不安な視線になる。
「そのとき、映人くんは私に遥哉くんの写真を見せてくれたの。私も見たことがないくらい、優しい眼をしている写真だった」
楪先輩は言いながら、スマホを見せてくれる。
私と美優はそれを覗き込む。
ロック画面が、遥哉先輩の写真だ。
私の知っている眼とは違う、穏やかな瞳をした横顔だった。
「この視線の先に、私がいるんだって」
楪先輩は照れながら、スマホを引く。
『花奈さんのはハル兄、ハル兄のは花奈さんにだけ見せていたから』
これを聞いたとき、恋人の写真を誰にも見せたくない思いに応えているのかと思った。
でも、違う気がした。
これは、他人に見せる写真ではない。
お互いだけが知っておくだけで十分な写真だ。
「そのとき、映人くんに言われたの。無理に遥哉くんに合わせる必要はない。今の私でも、十分魅力的な人だって」
そのセリフは、かっこよすぎる。
今の私の不安まで、取り除いてくれる。
「映人くんは一人一人のいいところを見つけて、それを写すのが上手な人だから、余計に自信がついた。そしてこの写真をお守りに、私は遥哉くんに言えたの」
楪先輩に幸せな表情が戻る。
前に見たときは可愛らしいとしか思わなかったけど、今は羨ましいと思った。
私も、楪先輩のように幸せになれるだろうか。
いや、なりたい。
「そんなふうに言ってくれる映人くんだから、きっと、不釣り合いだとか思わないはずだよ。まずは依澄ちゃんの素敵なところで勝負してみて、いいと思う」
「私の、素敵なところ……」
自分ではわからなくて、呟いた次の言葉が出てこなかった。
「素直。笑顔。可愛い」
すると、間髪入れずに美優が言った。
美優が真剣に言うから、照れてしまう私がおかしいみたいに思ってしまう。
「そうだね。依澄ちゃんは、笑顔が素敵」
楪先輩が笑いかけてきて、笑顔を促されている気がしたけど、私は上手く笑えなかった。
二人の視線から逃げるように、まだ口をつけていなかったカフェオレを飲む。
氷が溶けてしまって、若干薄味になっていた。
「そうだ。依澄ちゃんは、映人くんのどんなところが好きなの?」
この照れくさい時間は、まだ続くらしい。
楪先輩に言われて考えてみるけど、これといったものが思い浮かばない。
「夏川先輩は……私の光みたいな存在で。憧れだったはずなんですけど……夏川先輩のことを知っていくうちに、ただの憧れじゃなくなったというか……」
美優は聞きたくないという表情で、楪先輩は微笑ましく私を見ている。
「どこが、とか、わからないです。私は、夏川映人という人が好きだと思ったんです」
ちゃんと言葉にすると、夏川先輩に会いたくなってきた。
会って、伝えたい。
だけど、もう少しだけ、自信が欲しかった。
「あの、楪先輩。美優も。簡単なものでいいので、メイクのやり方を教えてください」
メイクで自信がつくのか、わからない。
でも、美優がいつか言っていた。
『メイクは、私を強くするための手段だから』
その言葉を信じたい。
「私はいくらでも協力するよ」
楪先輩は美優に視線を移す。
美優はまた氷で遊んでいる。
りんごジュースが減ったことで、氷がグラスに当たる音がした。
「……わかった」
美優は仕方ないという顔をして、そう言ってくれた。
「ありがとう、美優」
美優が承諾してくれたのが、自分でも思っているより嬉しかったみたいで、自然と笑顔がこぼれた。
◇
翌朝、スマホの目覚ましはいつもより一時間ほど早く鳴り始めた。
普段起きる時間ではないから、まだ瞼が重たい。
でも、まずは体を起こして目覚ましを止める。
予定より五分遅い目覚めだけど、おおむね予定通り。
ベッドを降りて、洗面所に向かう。
昨日、美優たちに教えてもらった手順で洗顔をしていく。
スキンケアと言われるものは、私にとって面倒なものだった。
だけど、必要なことらしいから、言われた通りに進めていく。
ここまでは覚えていたけど、メイクの手順までは覚えていない。
スマホで美優とのトークルームを開き、手順を確認する。
メイクをする前に、着替えるように注意書きがある。
私は自室に戻って、制服に着替えた。
自分の部屋にも手鏡があることを思い出し、ここでメイクをすることにした。
「あれ、今日は早いね。どうしたの?」
ある程度道具が揃ったところで、部屋の外から声がした。
ドアを開けっぱなしにしていたから、お母さんは驚いた表情で、そこに立っている。
「お母さん、おはよう」
「おはよう。それ、メイク道具?」
わからないままにローテーブルの上に広げていたそれらを、お母さんは不思議そうに見る。
「ちょっと、ちゃんと見た目を整えようと思って。あ、お金は大丈夫。何個か美優に借りたし。それに先生たちに怒られないくらい、薄めにするから」
怒られると思ってしまって、言い訳をしているように言った。
そのせいか、お母さんは小さく口角を上げた。
「メイクするくらいで、怒らないよ。わからないことがあったら、なんでも聞きなさい。あと、遅刻しないようにね」
そしてお母さんは、私の部屋の前を通り過ぎて行った。
お母さんの優しさに少し泣きそうになったけど、両頬を軽く叩いて、気合いを入れる。
まずは、下地。濃くしすぎないように、少しずつ塗るようにと書いてある。
半分塗ってから、全然印象が違うことに気付く。
ほんのわずかでも、こんなに変わるのか。
これは美優がすっぴんはイヤだと言うのも、わかるかもしれない。
下地を塗り終えると、次はアイシャドウ。何色も塗るとバレちゃうから、一色だけ。筆を使って、目の周りに色を乗せていく。
それから、アイライン。美優が初心者向けで私に似合う色を選んで、プレゼントしてくれたもの。
アイラインは難しくて、すぐには完成しなかったけど、いい感じに仕上がったと思う。
最後は、口紅。
だけど、結構濃い色に見えて、私はそれを付ける勇気がなかった。
代わりにリップクリームを塗っても、悪くない仕上がりだ。
見た目が整うだけで、こんなにも気分が上がるなんて、知らなかった。
髪型もアレンジしたかったけど、そこまではやり方を聞いていなかったから、櫛を通して終わった。
スクールカバンを持って、部屋を出る。
リビングに行くと、食卓で美優がトーストを咥えていた。
「美優? なんで?」
「依澄がちゃんとメイクできたか、確かめに来た」
美優はトーストを置き、手を叩くことで、手についた粉を払う。
そして私の前に立ち、じっと顔を見てきた。
さすがと言うべきか、美優の身支度は完璧だ。
逆に見惚れてしまっていると、美優が私の左目尻を親指で擦る。
「うん、上出来だね。後で髪やってあげる」
微笑んで言うと、美優は席に戻った。
今の笑顔が、私には無理して笑っているように見えた。
『美優ちゃんは寂しいんだね』
昨日、楪先輩が言っていたときには、美優が子供のように拗ねているようにしか見えなかった。
私が美優の趣味に興味を示した理由が夏川先輩ということが、気に入らないのだと思っていた。
今の笑顔も、同じ理由で作られたのかもしれない。
だけど、楪先輩が言った理由のほうが、しっくりときた。
「美優」
私は美優の前に座り、名前を呼ぶ。
トーストを食べきった美優は、水を飲みながら、視線だけ私に向ける。
「ありがとう。大好き」
動揺して、美優は少しだけ水をこぼした。
お母さんから布巾を受け取り、テーブルを拭く。
「……急にどうしたの」
照れ隠しで少しだけ冷たい言い方になるのが、美優らしくて可愛い。
「美優と友達で幸せだなって思ったから、伝えてたくなった」
照れて困った表情が本当に可愛らしくて、私は微笑ましくなる。
「……私だって、依澄のことが好きだよ」
美優にそう返されて、私も美優と似たような反応になってしまった。
お互いに恥ずかしい時間となり、それがおかしくて、私たちは吹き出すように笑う。
「仲良しさんたち、ゆっくりしてたら遅刻するよ」
お母さんに言われて、私は急いでトーストを食べきる。
そして洗面所に行き、美優に言われた通りに棒立ちをする。
美優はヘアアイロンを使って、私の髪を整えていく。
ショートカットだから、大きな変化はない。
でも、好きに跳ねていた毛先がまとまっていると、いつもと違って見える。
「よし、可愛い」
もう終わったらしく、美優は片付け始める。
「頑張れ」
美優に軽く両肩を叩かれて、気合いが入る。
改めて、自分は幸せ者だと感じながら、美優と学校に向かった。
いつもより美優のオシャレ論に耳を傾けながら、通学路を進んでいく。
私がちゃんと相槌を打つからか、美優は楽しそうだ。
「夏川センパイ、おはようございます」
校門が近くなってから、可愛らしくて明るい声が聞こえてきた。
名前に反応して、夏川先輩の姿を探す。
すぐに見つかったのはいいけど、その傍に可愛い子がいて、胸が苦しくなる。
「アイツ……諦め悪い」
美優の声のトーンが、一気に暗くなる。
あの子が、昨日美優が言っていた子だろうか。
私よりも上手で自然なメイクに、可愛い髪型。雰囲気も柔らかくて、女の子らしい。
あんなにも可愛い子に勝てる気がしなくて、勇気がしぼんでいく音がした。



