「……そういうわけで、僕は去年の文化祭辺りから、写真を撮るのが怖くて、避けてたんだ」

 夏川先輩がどうして写真を撮らなくなったのかを聞いて、私は言葉が見つからなかった。

 お互いに無言になってしまって、遠くから聞こえてくる声援が、やけに大きく聞こえた。

「ごめん、こんな話されても困るよね。でも、古賀には言わないと、というか、知っておいてほしいって思ったんだ」

 すると、先輩は申しわけなさそうに笑った。

 それが見ていられなくて、私は足元を見る。

 自分の周りから人が離れていく怖さ。好きなことを、好きなようにできないつらさ。

 それは、私もよく知る感覚と同じだと思った。

 だからこそ、写真を見たいというわがままが、どれだけ夏川先輩を苦しめていたのかがわかってしまう。

「私……先輩の気持ちも考えないで、写真を撮って見せてほしいって何度も言って、ごめんなさい……」

 もっとちゃんと、先輩の表情変化に気付けていたら、先輩を苦しめることなんて、なかったのかもしれない。

 どうして私は、相手のことを見て、話すことができないのだろう。

 自分の欲のままに、突っ走ってしまったのだろう。

 そんな後悔しか出てこない。

「たしかに、最初はイヤだったよ。一回断ったんだし、はやく諦めてほしいって思ってた」

 先輩の正直な言葉に、胸が痛くなる。

 つくづく、先輩の言葉の通り、正直すぎるのはよくないと思い知らされる。

 それすらわかっていなかった自分が、嫌いになる。

「でもね」

 先輩のはっきりとした声に、思わず顔を上げる。

 先輩はまっすぐに私を見ていた。

「古賀に何度も僕の写真を認められて、僕は嬉しかったんだ」

 先輩の表情は穏やかで、そのおかげなのか、先輩の言葉はすんなりと私の心に入ってくる。

「古賀の言葉、行動のおかげで、僕はもう一度、写真を撮りたいって思った」

 先輩は視線を外さないで、一生懸命に伝えてくれる。

 こんなふうに私の嫌いなところが認められて、否定する心と、喜ぶ心が葛藤をした。

 その複雑な表情を読み取られたくなくて、私は少しだけ俯いた。

「古賀、ありがとう」

 先輩の感謝の言葉は、私の葛藤を吹き飛ばした気がした。

『……ありがとう、古賀』

 夏川先輩は、海でもそう言っていた。

 今なら、どうして先輩がお礼を言ってきたのか、ちゃんとわかる。

 私の素直な言葉が、誰かを傷つけるだけのものではなかったのだと思うと、不思議と涙がこぼれた。

 そうか、人は嬉しいときも泣きたくなるのか。

 夏川先輩はきっと、私の涙に気付いていただろうけど、なにも言ってこなかった。

 私の中で落ち着くまで、私たちはお互いになにも言わなかった。

 さっきまで耳を塞ぎたくなるような賑やかな声も、今は聞いていられる。

 私はゆっくりと深呼吸をする。

 ああ、今日の空は、こんなにも青かったのか。

 これはたしかに、クラスマッチ日和だ。

「……私にとって、世界は暗くて、しんどくて、灯りなんてない、地獄みたいなものでした。こんな地獄なら、いっそのこと消えてしまおうかとも思ったくらいに」

 小さく弱音をこぼしたことで、視界の端に見える先輩は、不安そうな目をしている。

 それでも、私のどんな言葉も流さずに真正面から受け止めてくれるそうで、私は話を続ける。

「そんなどん底にいたとき、先輩の写真に出会ったんです」

 夏川先輩の写真は、いつだって私の心を癒してくれた。

 出会ったときが一番癒されたけど、目を閉じて思い出すだけでも、十分、満たされる。

 それくらい、私にとって夏川先輩の写真の効果は、絶大だ。

「私は、先輩の世界が羨ましかった。どうしてこんなにも明るくて、楽しそうなんだろう。私の世界は暗くてしんどいのに。いいな、いいな。私も、明るい世界に行きたい。入れてほしい」

 あのときは言語化せずにただ、一目惚れをしたと思っていた。

 だけど、少しずつその理由が見えてきて、言葉にすると、それはただの羨望でしかなかった。

 どうしようもなく重たい感情を認めたくなくて、私は“夏川映人の写真が好きだ”と、綺麗な感情で誤魔化していたんだと思う。

「……夏川先輩が撮った、柚木先輩の写真を見て、私はそんなことを思ったんです」

 先輩にどう思われるかを考えると、急に怖くなって、声が小さくなる。

「その明るい世界を写した人間が、あんなに暗い奴でがっかりした?」

 先輩から返ってきたのは、予想外の言葉だった。

 先輩の表情を見ると自嘲している。

 私はどうしてそんなことを言うのか疑問に思いながら、首を横に振る。

「過去になにかあったんだろうなって、なんとなく思っていたので……」
「うん、そうだろうなって思った」

 気付かれていたとは、思わなかった。

 驚く私を見て、夏川先輩は小さく笑う。

「古賀、いかにも気になりますって顔をしながら、絶対に聞いてこなかったよね」
「だって、他人の過去なんて、簡単に聞いていいものじゃないじゃないですか」

 私だったら、知り合って間もない人に、根掘り葉掘り聞かれたくない。

 だから、気になっても聞けなかった。

「そうだね。だから僕は、古賀はただ素直にものを言う人じゃないと思うよ」

 唐突に、私が気にしていることに触れられて、反応に戸惑ってしまった。

「古賀は相手の立場になって考えられる、優しい人だよ」

 私自身はそんなことはないと思うのに、丁寧なお膳立てをされてしまったせいで、否定ができない。

 むしろ、先輩の強い眼差しに、そうなのかもしれないと思わされる。

 だけど、やっぱり過去に私に向けられた視線を思い出してしまって、受け入れられなかった。

「でも……怖いです。また失敗したらどうしようって、考えるだけで怖いです」

 私の声は、少しだけ震えていた。

 中学時代の知り合いはここには少ないはずなのに、誰かに見張られているような気分。

 さっきの清々しい気分が、どこかに消えてしまっている。

 空気が薄くなってきた気がして、若干、呼吸が乱れる。

「僕も、また拒絶されたら……前みたいにみんなの和に入れなかったらどうしようって、怖かったなあ」

 対して、先輩の声は変わらず穏やかだった。

 本当に怖いと思っていたのだろうかと疑いたくなるくらい、落ち着いた声だ。

「でも案外、不安に思ったようなことにはならなかった。みんな、僕たちが思っているほど、僕たちのことに興味がない」

 励ましの言葉でも綺麗事でもなかった。

 ただの先輩の感想だからだろうか。

 その言葉は、自然と私の心に入ってきた。

「なにより、古賀が真剣に取り組む姿はちゃんとみんなに届いてるから、古賀が失敗しても、誰も責めないと思うよ」

 失敗をしたら、責められる。

 そんな記憶が強すぎて、私は信じられなかった。

「依澄」

 次の言葉を探していると、美優が階段を登ってきた。

「そろそろ試合始まるけど、行けそう?」

 その表情は心配を表している。

 申しわけなく思うと同時に、嬉しかった。

 私には、これほど心配してくれる人がいるのだと思うと、心強い。

 きっと、夏川先輩も私のことを心配して、ここに来てくれたのだろうし。

 こんなにも私の味方をしてくれる人がいるなら、大丈夫な気がしてくる。

 気持ちをリセットするように、大きく息を吸って、吐き出す。

 うん、大丈夫だ。

 勢いのまま、立ち上がった。

「夏川先輩、私の活躍、見ててくださいね」

 先輩は驚いた顔をした後、笑顔を返してくれた。

「任せて。最高の写真を残すよ」

 先輩に写真を撮ってもらえる。

 それはつまり、先輩の世界に入れるということ。

 私が憧れた、明るい世界。

 プレイの記録が残ることは嫌なはずなのに、憧れた世界に入れてもらえるのだと思うと、嬉しくなる。

 だから私も、先輩に笑顔を返した。

 そして私は美優と一緒に、体育館に向かう。

「もう大丈夫そう?」
「うん。夏川先輩と話して、少しだけ気が楽になったというか、頑張れそうな気がしてきたから」

 私の言葉に美優が優しい笑顔を見せるから、私も自然と笑顔を返した。

 そして体育館に着くと、もうみんな集まっていた。

「古賀さん、氷野さん」

 柊木さんは私たちに気付くと、手を挙げた。

 その笑顔に誘われるように、柊木さんのところに行く。

「柊木さん、次の試合はどうするの?」

 美優が聞いたことで、私は自分が補欠であったことを思い出した。

「古賀さん、出る?」
「いや、でも……」

 出たいという気持ちはあるけど、出しゃばる気はなかった。

 すると、柊木さんはくすくすと笑った。

「古賀さん、全然クールじゃないんだね」

 嘲笑う感じではなく、ただの感想みたいなもの。

 どうしてそんなことを言われたのかわからなかった。

「いいよ、古賀さんが出て。私より活躍してくれそうだもん」
「ありがとう。失敗したら、ごめん」

 柊木さんは首を傾げる。

「失敗って?」
「シュートとか、パスミスとか……」

 聞かれたから答えてみるけど、意外と出てこない。

 私はこの程度のことを怖がっていたのか。

「シュート失敗したくらいで、責めないから」

 近くで聞いていた浅見さんこそ、クールに言った。

「そんなので責めてたら、自分の足につまずいてこけた詩織(しおり)はどうなるの」

 浅見さんが言うと、柊木さんは顔を赤くする。

「由紀ちゃん、やめてよ、そんなはっきり言わないで。恥ずかしいんだから」

 私は柊木さんがケガをした瞬間を見ていなかったから、その原因を知って、驚かずにはいられなかった。

「いや、少しね、少しだけ、運動が苦手なだけなんだよ。だから、本当に古賀さんに出てもらえると、嬉しいなって、ちょっとだけ思ってたりする……」

 照れて笑う柊木さんは、とても可愛らしい。

 そして柊木さんは、私の前に立つ。

 私よりも背が低い柊木さんは、私を見上げて優しく笑いかけてくれた。

「全力で応援してるね。頑張って」

 柊木さんの笑顔を見ていると、私は受け入れられたのだと思えた。

 柊木さんだけではない。

 私に拒絶するような視線を向ける人は、ここにはいなかった。

 たったそれだけのことなのに、私は泣きそうになる。

 柊木さんの言葉に答えられないでいると、美優が私の背中に触れた。

 美優の微笑みが、“よかったね”と言ってくれているような気がした。

「ありがとう。柊木さんの分まで、頑張るよ」

 そして前の試合が終わり、私たちはコートに入る。

 第一試合のときのより、気持ちが軽い。

「依澄、大丈夫?」

 だけど、さっきの試合では思いっきり停止してしまったから、美優の不安は消えていないらしい。

「意外と大丈夫。勝つことも大事かもしれないけど、今は大好きなバスケを、全力で楽しみたい」

 そう答えると同時に、試合開始を告げる笛が鳴る。

「ぶちかましてやろうぜ、親友」
「なにそれ」

 お互いに笑い合い、私たちはポジションにつく。

 そっと目を閉じて、ゆっくりと息を吸い、目を開いた。

 いい緊張感だ。

 今回のジャンプボールは、私たちのチームが取った。

 美優の元にボールが行き、美優はドリブルで攻めていく。

 私はそのペースより少し速めに走り、ゴール下に向かった。

 空いている場所を探り、美優からパスを受け取る。

 失敗するビジョンは相変わらず過ぎる。

『古賀が失敗しても、誰も責めない』

 夏川先輩の言葉を信じて、私はボールを投げた。

 そのボールはゴールに弾かれた。

「依澄、もう一回!」

 素早くボールをキャッチした美優が、また私にボールをパスした。

 さっきのは惜しかったんだ。次は、大丈夫。

 自分に言い聞かせて放したボールは、今度こそゴールに吸い込まれた。

 美優は私に駆け寄ってきて、抱きついた。

「ナイスシュート」

 私は美優とハイタッチをする。

 ほかのみんなも喜んでくれていて、シュートは成功して当たり前という空気だった記憶が、塗り替えられていく。

 なんだか、わくわくしてくる。

「美優。ぶちかまそうか」

 楽しくなってきた私は、さっきの美優に言われた言葉と似たものを返す。

 美優はにやりと笑った。

 お互いにバスケに触れていなかった時期が長いから、現役時代のように動くことはできていない。

 それでも、最高に楽しかった。

 スリーポイントシュートを狙ってみたり。

 その場の勢いで浅見さんを「由紀」と呼んでみたり。

 美優とスピードで無双してみたり。

 どんなことも楽しくて、気付けば失敗なんて怖くなかった。

 やっぱりバスケが好きだと再確認したこの試合の結果は、私たちの負けとなった。

「あと一点とか、悔しすぎる!」

 美優はコートを出ると、周りに気を使わずに叫んだ。

「でも、すごく楽しかった」
「私を呼び捨てにするくらい?」

 私に続けた浅見さんの言い回しは、少しだけ意地悪だった。

 一緒にバスケをした効果か、その意地悪に怯える私はいなかった。

「ごめんね、勢いでつい」

 そんな私たちのやり取りを見て、柊木さんが微笑んでいた。

「それくらい許してあげなよ、由紀ちゃん」
「そうそう。カリカリしないで、ユッキー」

 柊木さんに対して、美優はからかうつもりしかない言葉。

 美優らしい悪い笑顔だ。

「ほら、ユッキーは呼ばないの? 依澄って」

 美優が煽ると、浅見さんは堪えているように見えた。

 美優はますます楽しそうに、浅見さんをからかい始める。

「古賀、お疲れ様」

 それを微笑ましく思いながら見ていると、夏川先輩に声をかけられた。

「かっこよかったよ」

 その褒め言葉が嬉しくて、口元が緩む。

 個人的にはかっこいい見せ場は少なかった気がするけど、夏川先輩に言われると、照れくささが勝った。

「夏川映人、写真撮って」

 美優は人前だというのに、夏川先輩のことを呼び捨てにした挙句、若干命令口調で言った。

 優しい夏川先輩は気にせず、私たちにカメラを向けてくれる。

 全員の集合写真や、美優とのツーショットといった、たくさんの写真を撮ってくれた。

 私と美優以外とは初対面なはずなのに、夏川先輩はあっという間に打ち解けて、みんなの笑顔を写真に収めていた。

 とんでもない、人たらしだ。

 でも、夏川先輩がこうして緊張を解してくれるから、あんなにも素敵な写真になるのだと思うと、さすがだと思った。

「楽しかった?」

 一通り写真を撮って、夏川先輩は私に聞いた。

「はい、すっごく楽しかったです」

 自分でもわかるくらい、全力の笑顔を見せた。

「そっか、よかった」

 対して、夏川先輩が優しく微笑んだことで、私の顔は熱くなる。

 これが、運動後だったり、体育館の熱気のせいではないことくらい、わかる。

「じゃあ、次があるから、僕はもう行くね」

 夏川先輩はそれに気付いていないのか、笑顔で去っていく。

「依澄、どうした?」

 夏川先輩の背中を見送っていると、美優は不思議そうに聞いてきた。

「美優……私、夏川先輩が好きだ」

 思ったことをただ正直に告白すると、美優は複雑そうな顔をしていて、私は照れるより先に、笑ってしまった。