すると、ただまっすぐ遠くを見ていただけの氷野の瞳に、僕が映される。

 変わらず切ない瞳で、僕はどこまでも暗闇に引きずり込まれてしまいそうな気分になる。

「依澄、写真に撮られるのはキライって言ってたでしょ?」

 二度ほどはっきりと言われたから、覚えている。

 ただ、もう僕の声は上手く出てこなくて、首を縦に振ることしかしなかった。

「あれは、自分の姿が残るのが怖かったからだよ」

 写りが悪いからとかではなく、怖いから。

 それはそうだろう。

 何人いたのかは知らないが、ただでさえ攻撃力の高い人たちから集中攻撃をされたら、トラウマものだ。

 古賀があんなに嫌がっていたのも、当然の話だ。

「じゃあ僕は、古賀に相当嫌な思いをさせてたんだね……」
「いや……多分だけど、夏川映人に撮られるのは、嫌じゃなかったと思う」

 いくら氷野の言葉でも、さすがに信じられなかった。

 写真を撮られることにトラウマを抱いている人が、そう簡単に克服できるとは思えない。

「見てなかったの? ボウリングのあと、夏川映人の写真を確認する依澄。すごく嬉しそうだったでしょ」

 氷野は逆に、僕が素直に受け止めなかったことが信じられなかったらしい。

 言われてみれば、素直な古賀が、あのときは言葉を濁してスマホを返してきた。

 少しは、氷野の言ったことを信じてみてもいいのかもしれない。

 氷野はため息をつきながら、視線を戻した。

「で、話を戻すけど……まあその中には、依澄を落としたい人もいたわけで。『下手くそ。レギュラーになれたなのは運でしかない。もっと練習したら?』こんな、最低な言葉を平気で投げる奴もいた」

 想像を絶する攻撃力だった。

 僕に向けて言われたわけではないのに、僕の心は抉られる。

 これを実際に言われた古賀の心の傷は、きっと深すぎるだろう。

「そしたら依澄、狂ったように練習するようになっちゃって。あんなヤツらに負けてられないって。私でも止められなかった」

 古賀がどんなことでも真剣に取り組むことを知っているから、その姿を想像するのは容易だった。

 ただ、氷野が止めてしまうほどの努力は、褒められたものではないだろう。

 それほどまでに練習にのめり込むのは、美談にしてはならない。

 そんな状況になるまで追い込んだ人たちに、怒りが芽生えてくる。

「去年の夏、中学最後の試合でシュートをしようとしたとき、依澄は倒れたの。練習のしすぎで足を痛めてたみたいで、その瞬間に限界がきた。でも、他のヤツらにはそんなの関係なくて、依澄はただただ攻められた」

 話を聞いているだけの僕でさえ怒りを覚えるのだから、氷野が怒りを顕にするのも、当然の話だ。

 それにしても、最後の最後まで、古賀は環境に恵まれなかったのか。

 そんなの、地獄でしかないじゃないか。

 氷野はそのときのことを鮮明に思い出してしまったのか、瞳に怒りが滲んでいった。

「私はあのときの依澄の涙は忘れられない。どうしてもっとはやく、依澄を止めなかったんだろうって、後悔もした」

 氷野の抱く怒りは、バスケ部員に向けられているのか、過去の自分に向けられているのかわからなかった。

 氷野が少しだけ言葉を止めたことで、僕の耳に周りの声が聞こえてきた。

 こんなにも賑わっているのに、まったく気にならなかった。

「それから夏休みの間、依澄は部屋に引きこもってたんだって。私は会うこともできなかった」

 そのちょっとした間で氷野の心は落ち着いたらしく、話が再開される。

「それから夏休みが終わってからも、依澄は元気なくて。どう声をかければいいのかわかんないって依澄ママに相談したら、依澄ママが気分転換になるかもねって、ここの文化祭に連れてきてくれたんだ」

 氷野は僕を見て、穏やかに笑う。

 それはこれから話される内容が、苦しいものではないと教えてくれているようだ。

「そこで、依澄は夏川映人の写真を見つけた。そのときからだよ。少しずつ、依澄に笑顔が戻ったの」

 僕にとって苦しいだけだった文化祭が、一気に特別なものに塗り替えられる。

 あれだけの地獄にいた古賀を、僕の写真が救った。

 その事実だけで、僕は写真を撮ってきてよかったと思えた。

「私も依澄ママも依澄パパも、依澄に笑顔が戻って、すごく嬉しかった。依澄ママたちは、依澄が写真を撮りたいわけじゃないのに、入学祝いにカメラを買っちゃうくらい、喜んでた」

 あのカメラにそんな想いが込められていたと知り、古賀が優しく微笑んでいた理由がわかった気がした。

 素敵な話だと思ったけど、一つ、気になることがあった。

「古賀は、僕に写真を教えてほしいって言ってきたんだけど、撮ることには興味なかったの?」
「夏川映人に写真を撮らせるために、いろいろ試してたんじゃない?」

 その話に、妙に納得した。

 猪突猛進なところがある古賀らしい理由だ。

「まあ、それくらい必死だったんだよ、依澄は。それなのに……」

 氷野は視線を落として、落ち込んだように見せる。

 氷野の調子が戻った。

 わざとらしい演技に、僕はそう思った。

「当の本人に写真を撮らないって突っぱねられて、さぞ悲しかっただろうね」

 氷野は容赦なく、僕の痛いところを突いてくる。

「……僕にもいろいろあったんだよ」

 氷野が鼻で笑ったことで、信じてもらえていないのだとわかる。

 まあ、氷野からしてみれば、僕が気まぐれに写真を再開したように映ったのかもしれないけど。

 氷野に僕の過去を話す義理はないと思い、僕は今の氷野の反応を流した。

「氷野は、古賀がどんなに変わっても、傍を離れなかったんだね」
「当たり前でしょ」

 氷野の声は強かった。

 その瞳は、バカにするなと言っているようだ。

「私はなにがあっても、依澄の味方でいるって決めてるから」

 その存在が、どれほど心強いか。

『俺は、映人がそんな奴じゃないって知ってるからな』

 みんなが離れていってしまったとき、佐伯は変わらず笑顔を向けてきた。

 それにどれだけ救われたのか、きっと佐伯は知らない。

 古賀だって、同じ気持ちだっただろう。

「依澄が笑っていられるなら、私は今後一切、依澄の過去に触れる気はなかった。依澄が気にしていることだって、そう。それなのに」

 だけど、僕が触れた。

 ただ一方的に、心の中を土足で踏み荒らすように。

 僕を見つめる視線から、憎しみが伝わってくる。

「……だからって、古賀が間違ったことをしようとしているときに、黙って見守るのは違うと思う」

 あのとき、僕は古賀の気持ちを考えているつもりだった。

 古賀の過去を知らなかったから、古賀を傷付けるようなことを言った。

 それに関しては、後悔したって仕方ないとわかっているけど、後悔してしまう。

 でも、古賀を止めなければよかったとは、思わない。

 もしあのままだったら、篠崎さんの表情を見て、古賀はまた自分を責めていただろうから。

「……わかってる。でも、依澄自身が自分を責めてるなら、私はただ、依澄に寄り添うだけ」

 僕には、氷野が共に地獄に堕ちる覚悟を決めているように見えた。

「今の古賀にはきっと、寄り添うだけじゃなくて、引っ張り上げてくれる存在が必要だよ」

 氷野は僕の発言が気に入らなかったようで、僕を睨む。

「……なに? 夏川映人も、正論を突きつけるタイプ? 依澄に正直すぎはダメとか言っておきながら」
「いや……そんなつもりは……」

 氷野の迫力に圧倒されて言い淀んでしまった。

 ただ、これは正論というより、僕自身の体験から、そう考えずにはいられなかったことだった。

 あのころの佐伯は、僕の味方でいてくれただけでなく、僕を引き上げようともしてくれた。

 佐伯だけじゃない。矢崎先生もだ。

 でも僕は、立ち上がれなかった。立ち上がる勇気がなかった。

 そんな弱虫な僕の背中を押してくれたのが、他でもない、古賀だ。

 古賀がいてくれたから、僕は今、こうして写真を撮れている。

 だから、古賀にも背中を押してくれる誰かが、必要なんだと思う。

「夏川映人が、依澄を引っ張り上げてくれるんでしょ」

 氷野はため息混じりに言い、僕に背を向ける。

「依澄、昇降口の近くにある外階段に居るから。今度こそ、言葉を間違えたら許さない」

 そして氷野は僕から離れていく。

 最後まで氷野は、僕を敵視しているような態度だった。

 だけど、あんなふうに言ってくれたということは、少しは信用してくれたのかもしれない。

 そんなことを思いながら氷野の背中を見送っていると、試合終了の笛が鳴った。

「……しまった」

 僕のカメラには、ほとんど今の試合の写真が残っていなかった。

 試合を頑張った人たちには申しわけないと思いつつ、僕はその場を離れる。

 氷野に教えてもらった場所に行くと、古賀は外階段で膝を抱えて座っていた。

 言われていなければ見つけられなかっただろう。

「……古賀」

 僕が声をかけたことで古賀は顔を上げる。

 落ち込んでいることは、見ればわかった。

「夏川先輩……」

 表情だけでなく、声までも泣きそうだ。

 僕は階段を登り、古賀の隣に座る。

「氷野に聞いたよ」

 古賀は視線を泳がせて、また丸まった。

 これほど落ち込んでいる古賀に、なにを言えばいいのだろう。

 いろいろと伝えたいことはあるはずなのに、古賀を前にすると、どれも言うと傷付けるような気がしてくる。

 僕も古賀も言葉を発しないから、ただ時間が過ぎていく。

『私、夏川先輩の写真、好きです』

 ふと、古賀のまっすぐな言葉を思い出した。

 そうだ。僕が思っていることを、正直に言えばいい。

 下手に取り繕うよりもきっと伝わるだろうし、迷ってしまって不信感を与えるより、全然いい。

 ただ、どうやって話を切り出せばいいのかが、わからない。

 どんな話なら、古賀は耳を傾けてくれるだろうか。

「ねえ、古賀。少しだけ、僕の過去話に付き合ってくれる?」

 古賀がずっと知りたそうにしていたことを思い出して、僕は古賀にすべてを話した。