◆
「依澄!」
声援をかき消すほどの大声で、氷野が古賀を呼ぶ。
その声をきっかけに古賀は動き、シュートをしようとしていたはずなのに、背後にきた氷野にパスをする。
氷野が放ったボールは、見事にゴールに吸い込まれた。
それからすぐに相手ボールとなり、みんな走っている中で、古賀は動かなかった。
そんな古賀の背に、氷野は手を添える。
僕からは二人の背中しか見えない。
なにがあったのか気になって見ていると、古賀は振り向いて、みんなの背を追った。
僕が気にしすぎただけかもしれないと思い、カメラを構える。
だけど、僕は古賀の写真が撮れなかった。
どのシーンの古賀も、苦しそうに見えて仕方なかったから。
それから任された仕事をこなしながら、古賀の様子を見守り続けた。
古賀はボールを受け取り、華麗なドリブルをしながら、最後は絶対にシュートを決めなかった。
絶対、直前に味方にパスを出す。
身のこなし方からして、古賀は経験者だろうに、どうしてシュートをしないのか。
古賀がシュートをすれば、きっと今よりも点が取れているはずなのに。
そんなことを思いながら見守った試合は、ギリギリで古賀のクラスの勝ちとなった。
それなのに、戻ってくる古賀の表情があまりにも暗くて、お疲れ様と声をかけることすら躊躇ってしまう。
「古賀さん、代わってくれてありがとう」
試合中に転けてしまった子が、古賀を呼び止める。
すると、古賀は笑顔を作った。見てて痛々しい笑顔だ。
「ううん。足、大丈夫?」
「歩けるくらいには大丈夫だよ」
「そっか、よかった」
そして古賀は会話を一方的に終わらせ、体育館を出ていく。
「古賀さんって、ちょっとクールな人なんだね」
その子は近くにいた、古賀を呼びに来た子に、小声で言った。
といっても、声援の中でも聞こえる程度の大きさだったから、僕にも聞こえてきた。
「私は、ただの自分勝手な人にしか思えないけどね」
話しかけられた子は、古賀のことを嫌っているのではないかと思わされる顔で言った。
ただ、どちらも僕が知っている古賀と一致しない。
なにがあったのか気になったけど、僕が口を挟むのはおかしい話だとわかっていたから、言えなかった。
すると、恐らく僕と同じような、もしくはそれ以上の感情を抱いたであろう氷野が、二人に鋭い視線を向けているのに気付いた。
ケンカが勃発しそうな雰囲気に見えたけど、氷野はただ静かに、怒りを押さえ込んで出入り口に向かう。
「……なんだったの」
「由紀ちゃんが言ったことが間違ってたんじゃない?」
そんな声を聞きながら、僕は氷野の背中を追う。
たくさんの生徒がいるから、進みにくくて、氷野に追いつくのは容易ではなかった。
「映人、いぇーい」
体育館を出ようとしたところで、名前を呼ばれた。
振り向くと、去年のクラスメートたちがピースサインを掲げてくる。
「ごめん、ちょっと急いでるから、あとで!」
少しずつ噂が誤解だったと伝わっていったことで、こうして笑顔を向けられるのは喜ばしいことではあるけど、今はそれどころではなかった。
僕が体育館を出ると、まだ氷野の背中は見えていた。
体育館シューズ入れを腕に引っ掛け、両手をズボンのポケットに入れて歩いている。
「氷野!」
絶対聞こえているはずなのに、氷野は足を止める素振りを見せなかった。
直接引き止めないことには、止まってくれそうにない。
こういう、急いでいるときに限って、僕の上履きはなかなか見つからなかった。
「氷野、待って」
僕は言いながら、上履きに履き替える。
顔を上げると、氷野の姿はない。
ただ、向かっていた先は学年棟だとわかっていたから、僕は走って追いかける。
予想通り、氷野は廊下を歩いていた。
「氷野、止まってって」
氷野の肩に手を置くと、ようやく氷野は立ち止まった。
少しだけ顔を動かしたことで見えたその視線は、鋭い。
「……夏川映人はお呼びじゃないんだけど」
迷惑そうに、僕の手を払う。
あまりよく思われていないだろうという気はしていたけど、ここまで敵意をむき出しにされるとは思っていなかった。
「なんでそんなに、僕に敵意を向けるんだ」
氷野は大きなため息をついて、僕と向き合った。
真正面で睨みつけられると、みっともなく圧倒されてしまう。
ただ、その瞳に込められた感情は、怒りだけには見えなかった。
その中に、悲しみが揺れ動いているように感じた。
「夏川映人、依澄に言ったんでしょ? 依澄の言葉は正しすぎるって」
一瞬、なんのことかわからなかった。
『正しすぎる言葉は、ときに他人を傷付けるんだよ』
古賀が泣きそうになった、あの言葉のことだろうか。
「……言った。でもそれは」
「それのせいで」
氷野は僕の言い訳すら聞いてくれなかった。
僕の言葉を遮ったその声は、感情を押さえ込んでいるように思えた。
「その言葉のせいで、依澄からまた笑顔が消えた」
「また……?」
氷野は、さっき女子二人に向けたような、冷たい眼をする。
それだけではない。
隠れていたはずの悲しみが伝わってきて、僕まで苦しくなる。
「もう、依澄には近寄らないで」
ここまではっきりした拒絶をされるのは、初めてだった。
氷野はまた僕に背を向ける。
今までの僕だったら、このまま氷野の背中を見送っただろう。
でも、不思議と僕は動き出し、氷野の前に立って道を塞いだ。
氷野は目を見開いて、僕を見上げる。
「あんな古賀を見て、はいそうですかって頷けないよ」
「……どうして」
少し面倒そうに見えるのは、きっと気のせいではない。
だけど、大人しく引き下がることはできそうになかった。
「放っておけないから。僕は、古賀には笑っていてほしいんだよ」
氷野はただ黙って、僕を見つめてくる。
僕の想いが少しでも伝わっていると思ってもいいのだろうか。
僕は若干不安になりながら、話を続ける。
「お願いだ、古賀になにがあったのか、教えてほしい。それを知らないと、僕はまた、古賀に間違った言葉を言ってしまう」
僕はあのとき、古賀のことを考えながら話をしていたつもりだ。
だけど、古賀のことを知らないから、知らない間に古賀を傷付けていたのかもしれない。
「もう、古賀を傷付けたくないんだ……」
僕の声は小さかった。
僕の言葉のせいで、古賀が笑わなくなってしまった。
氷野が告げたそれが、喉に刺さった魚の骨みたいに、ずっと心に引っかかっている。
でもきっと、言われたほうの苦しみは、こんなものではないのだろう。
古賀が今でも苦しんでいると思うと、胸が張り裂けそうだ。
「……それ、仕事なんじゃないの?」
ふと、氷野は僕のカメラを指さした。
「そう、だけど……」
どうして氷野がそんなことを気にするのかわからなくて、戸惑いながら答える。
「仕事より依澄を優先したら、依澄が気にする。ちゃんと働いてきて。その間に、依澄に今のこと伝えておくから」
氷野は言いながら、僕の横を通り過ぎていく。
「ありがとう」
僕が氷野の背中にお礼を言っても、氷野は反応しなかった。
きっと届いているだろうと信じて、僕はサッカー場に向かった。
◇
「抜け殻みたい」
試合の盛り上がりに置いていかれながら、サッカー場の隅でただシャッターボタンを押していたら、横から僕を嘲笑するかのような声が聞こえてきた。
氷野が隣に来たことに気付かないくらい、僕はボーッとしていたらしい。
「よく、僕がここにいるってわかったね」
氷野は試合のほうに視線を向けているけど、その目にはなにも映っていないように感じる。
心配になるくらい、ただ遠くを眺めている。
「佐伯センパイに聞いた」
声に気力がなくて心配になってしまう。
ただ一つ、それよりも気になることがあった。
「あの……どうして佐伯はセンパイって付けるのに、僕は呼び捨てなの?」
前に『夏川センパイ』と呼ばれた記憶があるからこそ、不思議でならなかった。
「中学のときからずっとそう呼んでたから」
氷野の言い方的に、フルネームで呼び捨てをしていることに、罪悪感は抱いていないようだ。
ただ、僕は中学時代の氷野に会った覚えはない。
だから、どういうことか尋ねようと思ったけど、なんとなく予想がついたから、やめた。
「手、止まってる」
氷野はカメラを指す。
この状況で写真を撮れだなんて、無茶を言う。
『仕事より依澄を優先したら、依澄が気にする』
反論してやろうかと思ったけど、僕はその言葉を思い出し、ファインダーを覗く。
さっきよりも集中できなくて、まともに写真なんて撮れたものじゃない。
「夏川映人は、依澄のこと好きなの?」
「え……え?」
声援に紛れて聞こえてきた言葉に驚き、氷野を見る。
氷野は無表情のようで、なにを考えているのか、まったく読み取れない。
ここまで感情が見えない子ではなかったはずなのに、なにが氷野をこんなふうにしているのか、気になって仕方ない。
「だって、依澄には笑っててほしいって言ってたから」
「いや、まあ……そうだけど……でもなんで?」
すると、氷野は懐かしそうに微笑んだ。
僕の質問に答えてくれる気はないらしい。
「依澄の笑顔、見てると元気出るもんね。私もそうだから、わかるよ」
そして静かに、氷野から笑顔が消える。
「でもね、中学時代の依澄は、全然笑わなかったんだ」
氷野が言っていた“また”というのは、そういうことかと理解した。
氷野の横顔には悲しみと、悔しさが滲んでいるように感じる。
僕はその表情から、目がそらせなかった。
楽しい空間の中で、僕たちは真逆の空気に囚われる。
「夏川映人も言った通り、依澄の言葉は良くも悪くも伝わりすぎる。相手の心に刺さる」
氷野の纏う空気から、言葉を発して相槌を打つことすら、はばかられた。
僕はただ、首を縦に振る。
「でも、昔はあんなにはっきりと物を言うタイプじゃなくて、素直で明るくて、笑顔が可愛い子だったんだよ」
素直で明るくて、笑顔が似合うことは、最近出会った僕でも知っている。
つまり、今の古賀は昔に戻ったということだろうか。
「依澄が変わったのは、中学でバスケ部に入ったから。そこでは、自分のことははっきり言わなきゃ負けみたいな空気があって。私はそれが気に入らなくて逃げたんだけど……」
「古賀は逃げなかったんだね」
氷野が苦しそうに言葉を止め、僕が続きを言う。
氷野は小さく頷いた。
「こんなことで、大好きなバスケを嫌いになりたくないからって」
好きなものを嫌いになりたくない。
その感覚は、僕もそうだったからわかる。
古賀も同じだったなんて、思いもしなかった。
どうせ古賀にはわからないだろうって決めつけて、あんな突き放し方をしてしまったことを、今さらながらに後悔する。
「最初は依澄なりに周りと打ち解けようとしてたんだけど、そんな簡単にはいかなくて。結局、依澄は周りの空気に飲み込まれて、どんどん依澄の言葉は強くなった」
そのときの古賀の葛藤を想像するだけで、胸が締め付けられる。
好きなものを諦めないためにその選択をするなんて、どれだけ勇気が必要だったんだろう。
そして、どれだけ苦しかっただろう。
僕はますます言葉が出なかった。
「それから徐々に部活中だけじゃなくて、普段から言い過ぎるようになり始めたせいで、依澄の周りからどんどん人が減っていった」
古賀の苦しみを傍で見てきたからこそだろうか、氷野も険しい表情をする。
僕のときとは違った、人の離れ方。
勘違いされてしまうのも苦しいけど、相手を傷付けてしまったことで離れてしまうのは、もっと苦しいだろう。
「依澄は人間関係でよく悩んで、苦しんでた。それでも、依澄は部活を辞めなかった。もう取り返しがつかないって思ってただけかもしれないけど」
僕よりも苦しい思いをしただろうに、逃げなかったなんて尊敬する。
今すぐ古賀のもとに向かって、“よく頑張った”と伝えたいところだけど、氷野の話はまだ終わらなかった。
「人間関係が最悪な中で、依澄は実力でレギュラーになったんだけど……レギュラーはプレーを映像とかで残されて、分析されて、部員から集中攻撃をくらう。それは依澄も例外じゃなかった」
ただでさえお互いに攻撃をし合っている環境で、そんなことをされるなんて、考えただけで背筋が凍る。
「依澄!」
声援をかき消すほどの大声で、氷野が古賀を呼ぶ。
その声をきっかけに古賀は動き、シュートをしようとしていたはずなのに、背後にきた氷野にパスをする。
氷野が放ったボールは、見事にゴールに吸い込まれた。
それからすぐに相手ボールとなり、みんな走っている中で、古賀は動かなかった。
そんな古賀の背に、氷野は手を添える。
僕からは二人の背中しか見えない。
なにがあったのか気になって見ていると、古賀は振り向いて、みんなの背を追った。
僕が気にしすぎただけかもしれないと思い、カメラを構える。
だけど、僕は古賀の写真が撮れなかった。
どのシーンの古賀も、苦しそうに見えて仕方なかったから。
それから任された仕事をこなしながら、古賀の様子を見守り続けた。
古賀はボールを受け取り、華麗なドリブルをしながら、最後は絶対にシュートを決めなかった。
絶対、直前に味方にパスを出す。
身のこなし方からして、古賀は経験者だろうに、どうしてシュートをしないのか。
古賀がシュートをすれば、きっと今よりも点が取れているはずなのに。
そんなことを思いながら見守った試合は、ギリギリで古賀のクラスの勝ちとなった。
それなのに、戻ってくる古賀の表情があまりにも暗くて、お疲れ様と声をかけることすら躊躇ってしまう。
「古賀さん、代わってくれてありがとう」
試合中に転けてしまった子が、古賀を呼び止める。
すると、古賀は笑顔を作った。見てて痛々しい笑顔だ。
「ううん。足、大丈夫?」
「歩けるくらいには大丈夫だよ」
「そっか、よかった」
そして古賀は会話を一方的に終わらせ、体育館を出ていく。
「古賀さんって、ちょっとクールな人なんだね」
その子は近くにいた、古賀を呼びに来た子に、小声で言った。
といっても、声援の中でも聞こえる程度の大きさだったから、僕にも聞こえてきた。
「私は、ただの自分勝手な人にしか思えないけどね」
話しかけられた子は、古賀のことを嫌っているのではないかと思わされる顔で言った。
ただ、どちらも僕が知っている古賀と一致しない。
なにがあったのか気になったけど、僕が口を挟むのはおかしい話だとわかっていたから、言えなかった。
すると、恐らく僕と同じような、もしくはそれ以上の感情を抱いたであろう氷野が、二人に鋭い視線を向けているのに気付いた。
ケンカが勃発しそうな雰囲気に見えたけど、氷野はただ静かに、怒りを押さえ込んで出入り口に向かう。
「……なんだったの」
「由紀ちゃんが言ったことが間違ってたんじゃない?」
そんな声を聞きながら、僕は氷野の背中を追う。
たくさんの生徒がいるから、進みにくくて、氷野に追いつくのは容易ではなかった。
「映人、いぇーい」
体育館を出ようとしたところで、名前を呼ばれた。
振り向くと、去年のクラスメートたちがピースサインを掲げてくる。
「ごめん、ちょっと急いでるから、あとで!」
少しずつ噂が誤解だったと伝わっていったことで、こうして笑顔を向けられるのは喜ばしいことではあるけど、今はそれどころではなかった。
僕が体育館を出ると、まだ氷野の背中は見えていた。
体育館シューズ入れを腕に引っ掛け、両手をズボンのポケットに入れて歩いている。
「氷野!」
絶対聞こえているはずなのに、氷野は足を止める素振りを見せなかった。
直接引き止めないことには、止まってくれそうにない。
こういう、急いでいるときに限って、僕の上履きはなかなか見つからなかった。
「氷野、待って」
僕は言いながら、上履きに履き替える。
顔を上げると、氷野の姿はない。
ただ、向かっていた先は学年棟だとわかっていたから、僕は走って追いかける。
予想通り、氷野は廊下を歩いていた。
「氷野、止まってって」
氷野の肩に手を置くと、ようやく氷野は立ち止まった。
少しだけ顔を動かしたことで見えたその視線は、鋭い。
「……夏川映人はお呼びじゃないんだけど」
迷惑そうに、僕の手を払う。
あまりよく思われていないだろうという気はしていたけど、ここまで敵意をむき出しにされるとは思っていなかった。
「なんでそんなに、僕に敵意を向けるんだ」
氷野は大きなため息をついて、僕と向き合った。
真正面で睨みつけられると、みっともなく圧倒されてしまう。
ただ、その瞳に込められた感情は、怒りだけには見えなかった。
その中に、悲しみが揺れ動いているように感じた。
「夏川映人、依澄に言ったんでしょ? 依澄の言葉は正しすぎるって」
一瞬、なんのことかわからなかった。
『正しすぎる言葉は、ときに他人を傷付けるんだよ』
古賀が泣きそうになった、あの言葉のことだろうか。
「……言った。でもそれは」
「それのせいで」
氷野は僕の言い訳すら聞いてくれなかった。
僕の言葉を遮ったその声は、感情を押さえ込んでいるように思えた。
「その言葉のせいで、依澄からまた笑顔が消えた」
「また……?」
氷野は、さっき女子二人に向けたような、冷たい眼をする。
それだけではない。
隠れていたはずの悲しみが伝わってきて、僕まで苦しくなる。
「もう、依澄には近寄らないで」
ここまではっきりした拒絶をされるのは、初めてだった。
氷野はまた僕に背を向ける。
今までの僕だったら、このまま氷野の背中を見送っただろう。
でも、不思議と僕は動き出し、氷野の前に立って道を塞いだ。
氷野は目を見開いて、僕を見上げる。
「あんな古賀を見て、はいそうですかって頷けないよ」
「……どうして」
少し面倒そうに見えるのは、きっと気のせいではない。
だけど、大人しく引き下がることはできそうになかった。
「放っておけないから。僕は、古賀には笑っていてほしいんだよ」
氷野はただ黙って、僕を見つめてくる。
僕の想いが少しでも伝わっていると思ってもいいのだろうか。
僕は若干不安になりながら、話を続ける。
「お願いだ、古賀になにがあったのか、教えてほしい。それを知らないと、僕はまた、古賀に間違った言葉を言ってしまう」
僕はあのとき、古賀のことを考えながら話をしていたつもりだ。
だけど、古賀のことを知らないから、知らない間に古賀を傷付けていたのかもしれない。
「もう、古賀を傷付けたくないんだ……」
僕の声は小さかった。
僕の言葉のせいで、古賀が笑わなくなってしまった。
氷野が告げたそれが、喉に刺さった魚の骨みたいに、ずっと心に引っかかっている。
でもきっと、言われたほうの苦しみは、こんなものではないのだろう。
古賀が今でも苦しんでいると思うと、胸が張り裂けそうだ。
「……それ、仕事なんじゃないの?」
ふと、氷野は僕のカメラを指さした。
「そう、だけど……」
どうして氷野がそんなことを気にするのかわからなくて、戸惑いながら答える。
「仕事より依澄を優先したら、依澄が気にする。ちゃんと働いてきて。その間に、依澄に今のこと伝えておくから」
氷野は言いながら、僕の横を通り過ぎていく。
「ありがとう」
僕が氷野の背中にお礼を言っても、氷野は反応しなかった。
きっと届いているだろうと信じて、僕はサッカー場に向かった。
◇
「抜け殻みたい」
試合の盛り上がりに置いていかれながら、サッカー場の隅でただシャッターボタンを押していたら、横から僕を嘲笑するかのような声が聞こえてきた。
氷野が隣に来たことに気付かないくらい、僕はボーッとしていたらしい。
「よく、僕がここにいるってわかったね」
氷野は試合のほうに視線を向けているけど、その目にはなにも映っていないように感じる。
心配になるくらい、ただ遠くを眺めている。
「佐伯センパイに聞いた」
声に気力がなくて心配になってしまう。
ただ一つ、それよりも気になることがあった。
「あの……どうして佐伯はセンパイって付けるのに、僕は呼び捨てなの?」
前に『夏川センパイ』と呼ばれた記憶があるからこそ、不思議でならなかった。
「中学のときからずっとそう呼んでたから」
氷野の言い方的に、フルネームで呼び捨てをしていることに、罪悪感は抱いていないようだ。
ただ、僕は中学時代の氷野に会った覚えはない。
だから、どういうことか尋ねようと思ったけど、なんとなく予想がついたから、やめた。
「手、止まってる」
氷野はカメラを指す。
この状況で写真を撮れだなんて、無茶を言う。
『仕事より依澄を優先したら、依澄が気にする』
反論してやろうかと思ったけど、僕はその言葉を思い出し、ファインダーを覗く。
さっきよりも集中できなくて、まともに写真なんて撮れたものじゃない。
「夏川映人は、依澄のこと好きなの?」
「え……え?」
声援に紛れて聞こえてきた言葉に驚き、氷野を見る。
氷野は無表情のようで、なにを考えているのか、まったく読み取れない。
ここまで感情が見えない子ではなかったはずなのに、なにが氷野をこんなふうにしているのか、気になって仕方ない。
「だって、依澄には笑っててほしいって言ってたから」
「いや、まあ……そうだけど……でもなんで?」
すると、氷野は懐かしそうに微笑んだ。
僕の質問に答えてくれる気はないらしい。
「依澄の笑顔、見てると元気出るもんね。私もそうだから、わかるよ」
そして静かに、氷野から笑顔が消える。
「でもね、中学時代の依澄は、全然笑わなかったんだ」
氷野が言っていた“また”というのは、そういうことかと理解した。
氷野の横顔には悲しみと、悔しさが滲んでいるように感じる。
僕はその表情から、目がそらせなかった。
楽しい空間の中で、僕たちは真逆の空気に囚われる。
「夏川映人も言った通り、依澄の言葉は良くも悪くも伝わりすぎる。相手の心に刺さる」
氷野の纏う空気から、言葉を発して相槌を打つことすら、はばかられた。
僕はただ、首を縦に振る。
「でも、昔はあんなにはっきりと物を言うタイプじゃなくて、素直で明るくて、笑顔が可愛い子だったんだよ」
素直で明るくて、笑顔が似合うことは、最近出会った僕でも知っている。
つまり、今の古賀は昔に戻ったということだろうか。
「依澄が変わったのは、中学でバスケ部に入ったから。そこでは、自分のことははっきり言わなきゃ負けみたいな空気があって。私はそれが気に入らなくて逃げたんだけど……」
「古賀は逃げなかったんだね」
氷野が苦しそうに言葉を止め、僕が続きを言う。
氷野は小さく頷いた。
「こんなことで、大好きなバスケを嫌いになりたくないからって」
好きなものを嫌いになりたくない。
その感覚は、僕もそうだったからわかる。
古賀も同じだったなんて、思いもしなかった。
どうせ古賀にはわからないだろうって決めつけて、あんな突き放し方をしてしまったことを、今さらながらに後悔する。
「最初は依澄なりに周りと打ち解けようとしてたんだけど、そんな簡単にはいかなくて。結局、依澄は周りの空気に飲み込まれて、どんどん依澄の言葉は強くなった」
そのときの古賀の葛藤を想像するだけで、胸が締め付けられる。
好きなものを諦めないためにその選択をするなんて、どれだけ勇気が必要だったんだろう。
そして、どれだけ苦しかっただろう。
僕はますます言葉が出なかった。
「それから徐々に部活中だけじゃなくて、普段から言い過ぎるようになり始めたせいで、依澄の周りからどんどん人が減っていった」
古賀の苦しみを傍で見てきたからこそだろうか、氷野も険しい表情をする。
僕のときとは違った、人の離れ方。
勘違いされてしまうのも苦しいけど、相手を傷付けてしまったことで離れてしまうのは、もっと苦しいだろう。
「依澄は人間関係でよく悩んで、苦しんでた。それでも、依澄は部活を辞めなかった。もう取り返しがつかないって思ってただけかもしれないけど」
僕よりも苦しい思いをしただろうに、逃げなかったなんて尊敬する。
今すぐ古賀のもとに向かって、“よく頑張った”と伝えたいところだけど、氷野の話はまだ終わらなかった。
「人間関係が最悪な中で、依澄は実力でレギュラーになったんだけど……レギュラーはプレーを映像とかで残されて、分析されて、部員から集中攻撃をくらう。それは依澄も例外じゃなかった」
ただでさえお互いに攻撃をし合っている環境で、そんなことをされるなんて、考えただけで背筋が凍る。



