「依澄!」

 声援をかき消すほどの大声で、氷野が古賀を呼ぶ。

 その声をきっかけに古賀は動き、シュートをしようとしていたはずなのに、背後にきた氷野にパスをする。

 氷野が放ったボールは、見事にゴールに吸い込まれた。

 それからすぐに相手ボールとなり、みんな走っている中で、古賀は動かなかった。

 そんな古賀の背に、氷野は手を添える。

 僕からは二人の背中しか見えない。

 なにがあったのか気になって見ていると、古賀は振り向いて、みんなの背を追った。

 僕が気にしすぎただけかもしれないと思い、カメラを構える。

 だけど、僕は古賀の写真が撮れなかった。

 どのシーンの古賀も、苦しそうに見えて仕方なかったから。

 それから任された仕事をこなしながら、古賀の様子を見守り続けた。

 古賀はボールを受け取り、華麗なドリブルをしながら、最後は絶対にシュートを決めなかった。

 絶対、直前に味方にパスを出す。

 身のこなし方からして、古賀は経験者だろうに、どうしてシュートをしないのか。

 古賀がシュートをすれば、きっと今よりも点が取れているはずなのに。

 そんなことを思いながら見守った試合は、ギリギリで古賀のクラスの勝ちとなった。

 それなのに、戻ってくる古賀の表情があまりにも暗くて、お疲れ様と声をかけることすら躊躇ってしまう。

「古賀さん、代わってくれてありがとう」

 試合中に転けてしまった子が、古賀を呼び止める。

 すると、古賀は笑顔を作った。見てて痛々しい笑顔だ。

「ううん。足、大丈夫?」
「歩けるくらいには大丈夫だよ」
「そっか、よかった」

 そして古賀は会話を一方的に終わらせ、体育館を出ていく。

「古賀さんって、ちょっとクールな人なんだね」

 その子は近くにいた、古賀を呼びに来た子に、小声で言った。

 といっても、声援の中でも聞こえる程度の大きさだったから、僕にも聞こえてきた。

「私は、ただの自分勝手な人にしか思えないけどね」

 話しかけられた子は、古賀のことを嫌っているのではないかと思わされる顔で言った。

 ただ、どちらも僕が知っている古賀と一致しない。

 なにがあったのか気になったけど、僕が口を挟むのはおかしい話だとわかっていたから、言えなかった。

 すると、恐らく僕と同じような、もしくはそれ以上の感情を抱いたであろう氷野が、二人に鋭い視線を向けているのに気付いた。

 ケンカが勃発しそうな雰囲気に見えたけど、氷野はただ静かに、怒りを押さえ込んで出入り口に向かう。

「……なんだったの」
「由紀ちゃんが言ったことが間違ってたんじゃない?」

 そんな声を聞きながら、僕は氷野の背中を追う。

 たくさんの生徒がいるから、進みにくくて、氷野に追いつくのは容易ではなかった。

「映人、いぇーい」

 体育館を出ようとしたところで、名前を呼ばれた。

 振り向くと、去年のクラスメートたちがピースサインを掲げてくる。

「ごめん、ちょっと急いでるから、あとで!」

 少しずつ噂が誤解だったと伝わっていったことで、こうして笑顔を向けられるのは喜ばしいことではあるけど、今はそれどころではなかった。

 僕が体育館を出ると、まだ氷野の背中は見えていた。

 体育館シューズ入れを腕に引っ掛け、両手をズボンのポケットに入れて歩いている。

「氷野!」

 絶対聞こえているはずなのに、氷野は足を止める素振りを見せなかった。

 直接引き止めないことには、止まってくれそうにない。

 こういう、急いでいるときに限って、僕の上履きはなかなか見つからなかった。

「氷野、待って」

 僕は言いながら、上履きに履き替える。

 顔を上げると、氷野の姿はない。

 ただ、向かっていた先は学年棟だとわかっていたから、僕は走って追いかける。

 予想通り、氷野は廊下を歩いていた。

「氷野、止まってって」

 氷野の肩に手を置くと、ようやく氷野は立ち止まった。

 少しだけ顔を動かしたことで見えたその視線は、鋭い。

「……夏川映人はお呼びじゃないんだけど」

 迷惑そうに、僕の手を払う。

 あまりよく思われていないだろうという気はしていたけど、ここまで敵意をむき出しにされるとは思っていなかった。

「なんでそんなに、僕に敵意を向けるんだ」

 氷野は大きなため息をついて、僕と向き合った。

 真正面で睨みつけられると、みっともなく圧倒されてしまう。

 ただ、その瞳に込められた感情は、怒りだけには見えなかった。

 その中に、悲しみが揺れ動いているように感じた。

「夏川映人、依澄に言ったんでしょ? 依澄の言葉は正しすぎるって」

 一瞬、なんのことかわからなかった。

『正しすぎる言葉は、ときに他人を傷付けるんだよ』

 古賀が泣きそうになった、あの言葉のことだろうか。

「……言った。でもそれは」
「それのせいで」

 氷野は僕の言い訳すら聞いてくれなかった。

 僕の言葉を遮ったその声は、感情を押さえ込んでいるように思えた。

「その言葉のせいで、依澄からまた(・・)笑顔が消えた」
「また……?」

 氷野は、さっき女子二人に向けたような、冷たい眼をする。

 それだけではない。

 隠れていたはずの悲しみが伝わってきて、僕まで苦しくなる。

「もう、依澄には近寄らないで」

 ここまではっきりした拒絶をされるのは、初めてだった。

 氷野はまた僕に背を向ける。

 今までの僕だったら、このまま氷野の背中を見送っただろう。

 でも、不思議と僕は動き出し、氷野の前に立って道を塞いだ。

 氷野は目を見開いて、僕を見上げる。

「あんな古賀を見て、はいそうですかって頷けないよ」
「……どうして」

 少し面倒そうに見えるのは、きっと気のせいではない。

 だけど、大人しく引き下がることはできそうになかった。

「放っておけないから。僕は、古賀には笑っていてほしいんだよ」

 氷野はただ黙って、僕を見つめてくる。

 僕の想いが少しでも伝わっていると思ってもいいのだろうか。

 僕は若干不安になりながら、話を続ける。

「お願いだ、古賀になにがあったのか、教えてほしい。それを知らないと、僕はまた、古賀に間違った言葉を言ってしまう」

 僕はあのとき、古賀のことを考えながら話をしていたつもりだ。

 だけど、古賀のことを知らないから、知らない間に古賀を傷付けていたのかもしれない。

「もう、古賀を傷付けたくないんだ……」

 僕の声は小さかった。

 僕の言葉のせいで、古賀が笑わなくなってしまった。

 氷野が告げたそれが、喉に刺さった魚の骨みたいに、ずっと心に引っかかっている。

 でもきっと、言われたほうの苦しみは、こんなものではないのだろう。

 古賀が今でも苦しんでいると思うと、胸が張り裂けそうだ。

「……それ、仕事なんじゃないの?」

 ふと、氷野は僕のカメラを指さした。

「そう、だけど……」

 どうして氷野がそんなことを気にするのかわからなくて、戸惑いながら答える。

「仕事より依澄を優先したら、依澄が気にする。ちゃんと働いてきて。その間に、依澄に今のこと伝えておくから」

 氷野は言いながら、僕の横を通り過ぎていく。

「ありがとう」

 僕が氷野の背中にお礼を言っても、氷野は反応しなかった。

 きっと届いているだろうと信じて、僕はサッカー場に向かった。



「抜け殻みたい」

 試合の盛り上がりに置いていかれながら、サッカー場の隅でただシャッターボタンを押していたら、横から僕を嘲笑するかのような声が聞こえてきた。

 氷野が隣に来たことに気付かないくらい、僕はボーッとしていたらしい。

「よく、僕がここにいるってわかったね」

 氷野は試合のほうに視線を向けているけど、その目にはなにも映っていないように感じる。

 心配になるくらい、ただ遠くを眺めている。

「佐伯センパイに聞いた」

 声に気力がなくて心配になってしまう。

 ただ一つ、それよりも気になることがあった。

「あの……どうして佐伯はセンパイって付けるのに、僕は呼び捨てなの?」

 前に『夏川センパイ』と呼ばれた記憶があるからこそ、不思議でならなかった。

「中学のときからずっとそう呼んでたから」

 氷野の言い方的に、フルネームで呼び捨てをしていることに、罪悪感は抱いていないようだ。

 ただ、僕は中学時代の氷野に会った覚えはない。

 だから、どういうことか尋ねようと思ったけど、なんとなく予想がついたから、やめた。

「手、止まってる」

 氷野はカメラを指す。

 この状況で写真を撮れだなんて、無茶を言う。

『仕事より依澄を優先したら、依澄が気にする』

 反論してやろうかと思ったけど、僕はその言葉を思い出し、ファインダーを覗く。

 さっきよりも集中できなくて、まともに写真なんて撮れたものじゃない。

「夏川映人は、依澄のこと好きなの?」
「え……え?」

 声援に紛れて聞こえてきた言葉に驚き、氷野を見る。

 氷野は無表情のようで、なにを考えているのか、まったく読み取れない。

 ここまで感情が見えない子ではなかったはずなのに、なにが氷野をこんなふうにしているのか、気になって仕方ない。

「だって、依澄には笑っててほしいって言ってたから」
「いや、まあ……そうだけど……でもなんで?」

 すると、氷野は懐かしそうに微笑んだ。

 僕の質問に答えてくれる気はないらしい。

「依澄の笑顔、見てると元気出るもんね。私もそうだから、わかるよ」

 そして静かに、氷野から笑顔が消える。

「でもね、中学時代の依澄は、全然笑わなかったんだ」

 氷野が言っていた“また”というのは、そういうことかと理解した。

 氷野の横顔には悲しみと、悔しさが滲んでいるように感じる。

 僕はその表情から、目がそらせなかった。

 楽しい空間の中で、僕たちは真逆の空気に囚われる。

「夏川映人も言った通り、依澄の言葉は良くも悪くも伝わりすぎる。相手の心に刺さる」

 氷野の纏う空気から、言葉を発して相槌を打つことすら、はばかられた。

 僕はただ、首を縦に振る。

「でも、昔はあんなにはっきりと物を言うタイプじゃなくて、素直で明るくて、笑顔が可愛い子だったんだよ」

 素直で明るくて、笑顔が似合うことは、最近出会った僕でも知っている。

 つまり、今の古賀は昔に戻ったということだろうか。

「依澄が変わったのは、中学でバスケ部に入ったから。そこでは、自分のことははっきり言わなきゃ負けみたいな空気があって。私はそれが気に入らなくて逃げたんだけど……」
「古賀は逃げなかったんだね」

 氷野が苦しそうに言葉を止め、僕が続きを言う。

 氷野は小さく頷いた。

「こんなことで、大好きなバスケを嫌いになりたくないからって」

 好きなものを嫌いになりたくない。

 その感覚は、僕もそうだったからわかる。

 古賀も同じだったなんて、思いもしなかった。

 どうせ古賀にはわからないだろうって決めつけて、あんな突き放し方をしてしまったことを、今さらながらに後悔する。

「最初は依澄なりに周りと打ち解けようとしてたんだけど、そんな簡単にはいかなくて。結局、依澄は周りの空気に飲み込まれて、どんどん依澄の言葉は強くなった」

 そのときの古賀の葛藤を想像するだけで、胸が締め付けられる。

 好きなものを諦めないためにその選択をするなんて、どれだけ勇気が必要だったんだろう。

 そして、どれだけ苦しかっただろう。

 僕はますます言葉が出なかった。

「それから徐々に部活中だけじゃなくて、普段から言い過ぎるようになり始めたせいで、依澄の周りからどんどん人が減っていった」

 古賀の苦しみを傍で見てきたからこそだろうか、氷野も険しい表情をする。

 僕のときとは違った、人の離れ方。

 勘違いされてしまうのも苦しいけど、相手を傷付けてしまったことで離れてしまうのは、もっと苦しいだろう。

「依澄は人間関係でよく悩んで、苦しんでた。それでも、依澄は部活を辞めなかった。もう取り返しがつかないって思ってただけかもしれないけど」

 僕よりも苦しい思いをしただろうに、逃げなかったなんて尊敬する。

 今すぐ古賀のもとに向かって、“よく頑張った”と伝えたいところだけど、氷野の話はまだ終わらなかった。

「人間関係が最悪な中で、依澄は実力でレギュラーになったんだけど……レギュラーはプレーを映像とかで残されて、分析されて、部員から集中攻撃をくらう。それは依澄も例外じゃなかった」

 ただでさえお互いに攻撃をし合っている環境で、そんなことをされるなんて、考えただけで背筋が凍る。