「おかえり。ねえ見て、ゴールデンウィークに花奈さんと言ったお店、SNSに上げたら過去一いいね貰えた」

 教室で待っててくれた美優は、嬉しそうにスマホの画面を見せてくる。

 正直、今はそんな気分になれなくて、私は美優の席の後ろに座り、机に突っ伏した。

「ん? どうした?」

 美優に聞かれ、さっきの夏川先輩の表情を思い出す。

『正しすぎる言葉は、ときに他人を傷付けるんだよ』

 夏川先輩は、悲しそうだった。

 あれは、戸惑いだろうか。それとも、失望か。

 なんにせよ、あまりいい感情を向けられたとは思えない。

「……夏川先輩に嫌われたかも」

 言葉にすると、辛さが増す。

「依澄が? 夏川映人に?」

 美優の意外そうな声を聞きながら、身体を起こす。

 大きく息を吐き出して、両手で顔を覆う。

「もう、なんで私、いつも言いすぎるんだろう。いつまで経っても学習しない自分が嫌い」

 今回と似たような失敗は、いくつかある。

 そのたびに後悔して、次は気を付けようって思うのに、なかなか上手くいかない。

 何度も同じことを繰り返す自分に嫌気がさすし、なにより夏川先輩の前でやらかしてしまったのが、ダメージが大きい。

「正直なのはいいことだよ」

 美優はいつだって、そう言ってくれた。

 だから私は私をとことん嫌いにならずに済んでいたけど、今回ばかりは自分にそう言い聞かせることができなかった。

「……正直すぎるのはよくないって、夏川先輩に言われたの」

 夏川先輩のあの悲しそうな眼は、しばらく忘れられそうにない。

 私はまた、机に額を当てる。

 こんな後悔をするために、夏川先輩に会いに行ったわけではないのに。

 私はただ、夏川先輩に直接お祝いの言葉を言って、欲しいものを調査したかっただけなのに。

 偶然、夏川先輩が責められている言葉を聞いてしまったから。それが聞き流すことのできないものだったから。

 なんて、言い訳しか出てこない。

 夏川先輩の表情を思い出して、またため息をつく。

「そんなことより、依澄」

 私が悩んでいるのを、そんなこと扱いするなんて酷くないか。

 そう思いながら顔を上げ、顎を机に付ける。

 美優は深刻そうな、申しわけなさそうな顔をしている。

「クラスマッチの競技なんだけど、私と依澄、バスケになった」

 私は背筋を伸ばし、数回瞬きをして、美優の言葉を反芻する。

 クラスマッチの競技が、バスケ。

「……え?」

 理解して、出てきた言葉はそれだけだった。

「バスケ」

 聞き間違いであってほしいと願ったのに、美優はゆっくり、はっきりとそう言った。

「私、それだけはイヤって……」

 私の声は震えていた。

 美優は気まずそうに視線を逸らす。

「わかってる。でも、依澄が話し合いに参加しなかったから……バスケ以外がいいって言っても、聞いてもらえなかった」

 そう言われてしまうと、美優を責められない。

 今日は踏んだり蹴ったりだ。

「嫌な思いさせてごめん、美優。明日くらいに自分で交渉してみるよ」

 そして私たちは教室を後にした。



浅見(あさみ)さん、おはよう。あの、クラスマッチの競技のことで話があるんだけど、時間いい?」

 翌朝、登校したばかりの浅見さんに声をかける。

 出席番号が一番だからという理由でクラス委員を押し付けられた彼女は、その役割に関してきっと、前向きではない。

 だからだろう。私の言葉を聞いて、舌打ちでもしそうな表情をした。

「なに?」

 そして目も合わせずに、椅子に座る。

 態度だけでなく、声色からも機嫌が悪いのが伺える。

「競技を変更したいなって思って」
「古賀さんは、バスケだっけ。なにがいいの?」

 そう聞かれると、答えられない。

 ただバスケ以外がいいとしか考えていなかったから。

 でも、すぐに答えられなかったから、浅見さんは大きなため息をついた。

「あのさ。特にやりたいものがないのに変えてほしいって、わがまますぎない?」

 その通りだ。

 話し合いに参加せず、決まったことに文句を言うなんて、わがまま以外のなにものでもない。

 なんだか、昨日私が先輩たちにしたことが返ってきたような気がする。

「氷野さんが、古賀さんはバスケじゃないほうがいいって言ってたけど、バスケしか余らなくて、古賀さんは補欠ってことになってる。それでもバスケが嫌なら、他の競技の人たちと交渉してみたら?」
「……わかった。ありがとう」

 私は少しでも早くその場から離れたくて、なにも解決していないのに、自分の席に戻った。

 昨日、夏川先輩がなにも解決しないままにあの場を離れたのは、これと同じだったのかもしれない。

 私が責めた先輩も、逃げたかっただろう。でもあそこは吹奏楽部の練習場所で逃げ場はない。

 つまり、もし夏川先輩が私を連れ出さなかったら、あの先輩は私からの一方的な攻撃に耐えるしかなかったことになる。

 私はそれに、気付けなかった。

 自分が未熟すぎて、嫌になる。

「依澄、変えてもらえた?」

 自己嫌悪に陥っていると、美優が声をかけてきた。

 一瞬なんの話かと迷い、反応に遅れる。

「……いや、変えてもらってない」

 美優は眉を八の字にする。

「どうして? やっぱり、ダメって言われた?」

 ダメ、とは言われていない。

 ただ正論を投げつけられ、私が逃げてきただけ。

 だけど、それを知ると美優は浅見さんに怒鳴り込みそうで、私は笑って誤魔化す。

「自分で交渉してって言われたんだけど、私、まだ美優以外で仲良い人いないし、諦めようと思って。それに、美優のおかげで補欠らしいし?」

 明るく言ったはずなのに、美優はしょんぼりとしている。

「無力でごめん……」
「美優は悪くないって」

 そう言っても美優は落ち込んだままで、私は美優の頬を両手で挟み、無理矢理口角を上げる。

 すると、美優は少しだけ笑ってくれた。

 私は安心して、両手を離した。



 あれから数週間が経った。

「最高のクラスマッチ日和だ」

 教室で体操服に着替えた美優は、窓際に立ち、青空を見上げて言った。

 私はそんな気分にはなれないけど、つい先日中間試験が終わり、その開放感から美優は嬉しそう。

 すると美優が振り向き、私がつまらなそうにしているのがバレてしまった。

 髪型までしっかり決めて、今日を楽しもうとしている美優は、頬を膨らませる。

「依澄、ちょっとここ座って」

 こういうときは刺激しないほうがいいので、大人しく言われる通りに椅子に座る。

 なにが起きるのか若干不安はあったけど、美優が机に櫛やゴム、ピン留めを並べたことで理解した。

 美優は私の髪に櫛を通す。

「花奈さんに依澄とお揃いの髪型をしたいって相談したら、前髪を三つ編みするのは?って提案してもらったんだ。運動したら前髪死ぬし、名案じゃん!と思って」

 美優は喋りながら、慣れた手つきで私の髪で三つ編みをしていく。

 髪が短いから、ヘアアレンジなんてできないだろうし、興味もなかったけど、こうしてやってもらっていると、わくわくしてくる。

 そして美優はピン留めを耳の上辺りに刺すと、数歩後ろに下がる。

「うん、上出来」

 前髪が結ばれたことで、視界が明るくなった気がする。

 どんな見た目になっているのか気になると、美優が手鏡を渡してくれた。

 受け取り確認すると、前髪で綺麗な三つ編みが出来上がっている。

 これは美優が満足そうな顔をするのも頷ける。

 ただ、美優とお揃いは嬉しいし、とても可愛いけど、一つだけ気になることがあった。

「美優、ピン留めを使わない髪型ってある?」
「あるけど、どうして?」

 美優は散らかした道具を片付けながら言う。

「いや、今からスポーツをするのに、ピン留めを使うのは危ないかなって」

 私がそう言ったことで落ち込む美優を見て、私はまたやってしまったのだと思った。

 指摘をするより先に、ありがとうくらい言えばよかった。

「あの、美優、その……嫌だったわけじゃなくて」
「わかってる」

 しどろもどろに伝えようとしていると、美優にはっきりとした声で遮られた。

 美優はさっきの位置に立つと、私の髪に触れ、ピン留めを取った。

「なんで私、そこまで考えが至らなかったんだろう。完全に浮かれすぎた。ケガするほうがイヤだよね」

 髪が解かれるのは速く、あっという間に私の前髪が戻ってくる。

 そして美優は私の横に立って、髪を結んでいく。

「ごめんね。ありがとう、美優」

 さっきは言えなかった言葉を伝えると、頭上から美優の照れ笑いが聞こえてきた。

 右側を結ぶと、今度は左側に移動する。

「依澄、今日は楽しもうね」

 その気持ちを押し付けるような言い方ではなく、そうなったら素敵だね、と言っているようで、私は小さく頷いた。

「よし、完成。依澄、記念写真撮ろう」

 美優は私に顔を近付けると、左手にスマホを持って手を伸ばし、位置を調整してシャッターを押した。

 撮られるのはニガテだと言い続けてきたけど、夏川先輩に撮られることが増えたからか、私は自然に笑うことができた。

 そして、私たちは体育館シューズを持って移動する。

 すでに体育館にいる人たちが練習を始めているようで、聞き慣れたドリブルの音が聞こえてきた。

 心が踊るような、怯えているような、不思議な感覚だ。

 足の裏が地面に引っ付いてしまいそうになると、美優がそっと私の右手を握った。

 その眼は心配そうに私に向けられている。

「大丈夫だよ」

 無理矢理笑って言ったそれは、自分に言い聞かせているようなものだった。

 当然、無理していることは美優に伝わっていただろうけど、美優は「よかった」と流してくれた。

 体育館シューズに履き替え、体育館に入る。

 クラスマッチだからか、私の知っている熱気とは違うものが、そこにはあった。

 ドリブルをして、シュートをしようとして、外れる。

 次に聞こえてくるのは、笑い声。

 ああ、そうか。これは真剣勝負ではなく、お祭りなんだ。

 そう思うと、一気に心が軽くなった。

 私たちは壁際に寄って、クラスメートが集まっている舞台側に移動する。

「私たちの試合って、一試合目だったよね」
「うん。たしか、二年と戦う」
「先輩か……ちょっと怖いけど、頑張ろうね」

 私は会話に入れなかった。

 バスケがイヤだという気持ちのせいで、今日までチームメイトになることすらできていなかった。

「依澄、私の活躍を見逃さないでね」

 疎外感を抱いている私に気付いたのか、美優は私にそう言った。

 今日の美優は、ちゃんとスポーツ仕様だ。

 気合いが入っているらしい。

「もちろん。頑張ってね」

 補欠である私にできることは、そんな美優を応援することだけだった。

 それからすぐに、コートに集まるように指示が出て、美優たちはコートに入る。

 コート中心に背の高い二人が並び、笛の合図とともに、審判がボールを真上に投げた。

 ジャンプボールは、二年生に取られた。

 ボールを取った先輩がドリブルをして攻めてきて、一年生チームはそれを邪魔する。

 そしてシュートは失敗し、跳ね返ったボールを美優が取った。

「美優、ドリブル! 攻めて!」

 大きな声なんて、久しぶりに出した。

 美優がドリブルをして相手ゴールを目指すと、コート内にいる全員がそれを追う。

 中学時代、数ヶ月しかバスケ部に所属していなかったにも関わらず、美優の動きは軽やかで、誰にも追いつかせることなく、ゴール下に辿り着く。

 美優が投げたボールは綺麗な放物線を描いて、ゴールに吸い込まれた。

 美優はチームメイトとハイタッチをし、私に向けてピースサインをする。

 ポジションはめちゃくちゃだし、作戦なんてない試合だけど、こうして応援していると、不思議と楽しくなってくる。

「氷野、いい笑顔だね」

 ふと横から声が聞こえてきて、見るとそこにはカメラを持った夏川先輩がいた。

 会うのは、夏川先輩の誕生日以来だ。

 あれからすぐにテスト期間に入ったことで話せていないから、妙に気まずさを感じてしまう。

 でもそれは私だけのようで、夏川先輩はコートにカメラを向ける。

『カメラを持ってるときの映人が、一番輝いてるから』

 夏川先輩の横顔を見て、佐伯先輩の言葉を思い出した。

 いつか見てみたいとは思っていたけど、今の私には、この夏川先輩は眩しすぎる。

「古賀は応援?」

 夏川先輩が少しだけ視線をずらしたことで、目が合ってしまう。

 慌てて目を逸らして、試合の様子を見ながら答える。

「……私、バスケはやらないって決めてるので」

 ほんの少し、本音をこぼす。

 先輩からはなにも返ってこない。

 困らせているのだろうけど、上手に誤魔化す自信もなく、私たちの会話は終わる。

 全意識を左側に持っていかれそうで、試合に集中ができなかったそのとき、歓声ではなく悲鳴に近い声が上がった。

 私のクラスの子が、柊木(ひいらぎ)さんが倒れている。

 みんなが柊木さんを心配するように集まっているのを見ながら、私は不安に飲み込まれそうになっていた。

「古賀? 顔色悪いけど、どうした?」

 夏川先輩のほうを向くと、夏川先輩は心配そうに私を見ている。

「古賀さん、交代できる?」

 言葉に困っていると、いつの間にか私のところに来ていた浅見さんが言った。

 その奥から、私を待っているような視線を感じる。

 美優だけが、私を心配する表情を浮かべていた。

「ケガした子がいるのに、続けるの?」

 私の迷いを読み取ってくれたのか、夏川先輩が言った。

 夏川先輩に話しかけられるとは思っていなかったようで、浅見さんは少し戸惑いながら答える。

「少し捻っただけみたいですし、本人もこの程度で大騒ぎにしたくないって言ってるので」
「……わかった」

 ここで時間を使うことだって、望まれていないだろう。

 そう思って私は腹を括り、コートに入る。

「依澄、無理はしないでね」

 すぐに美優は駆け寄ってきて、優しく声をかけてくれる。

 私が頷くと、それぞれポジションに付く。

 そして私は目を閉じて、深呼吸をする。

 大丈夫。ここは、過去とは違う。

 そう言い聞かせて、目を開いた。

 相手ボールで試合は再開する。

 あのころ対峙していた選手たちよりも、当然スピードは遅く、私は相手がパスを出したタイミングで、ボールを奪う。

 ドリブルをし、ディフェンダーを避けながら進んでいく。

 久しぶりにボールを触ったけど、身体が覚えているみたいで、衰えていなかった。

 ゴール下に着き、あとはシュートするだけ。

 ボールを頭の上に持ってきて、膝を曲げる。

 そのとき、失敗する映像が頭の中に流れた。

『ずっと下手だよね。いつも大事なところで失敗する。アンタ、練習が足りないんじゃない?』

 余計なことまで思い出して、私の身体は完全に、動けなくなってしまった。