「これが切り取った世界だよ」
 僕の目の前にいる綾香(あやか)はそう言って、進路希望調査表をハサミで切り刻んだ。午後の夕日になり始めている日差しが包む教室の中で綾香と二人きりのまま、教室の後ろ、窓側の席に座って、ダラダラとしている。切り刻まれたコピー紙が刻む音がしたあとすぐ、ひらひらと舞い、机の上に落ちていく。

「ねえ、玲汰(れいた)、ドン引きした? 私のこと」
「いや、別に。どうするんだよ。それ」
「明日、先生に無くしましたーって言って、新しいの貰えばいいだけだよ」と綾香はそう言って、微笑んだ。色素が薄い茶色のショートボブが微笑んで首を少しだけかしげたときに揺れた。僕の後ろの席に座る綾香は、またハサミで進路希望調査表を切り始めた。僕は左の窓側に両足を置き、右腕を自分の机の端に頬杖をついて、そんな綾香の様子をずっと見ていた。窓の外に見えるグラウンドでは野球部と陸上部が練習しているのが見えた。グラウンドの脇に生えている木々は秋色をしていて、時折、吹く風でそっと輝くように揺れていた。

 僕と綾香がこうやって、二人っきりで学校に残っているのはたまたまだった。同じ方向、というか、同じ街出身だから、夏場は自転車で一緒に帰ることが多い。網走(あばしり)から藻琴(もこと)へ帰る道は7キロある。何もない海沿いの国道を自転車に乗っていても寂しすぎるから、自然と綾香と一緒に帰って寂しさや夜の真っ暗な国道を進む心細さを紛らわせていた。綾香とは幼なじみで、小中高とすべて一緒だ。そして、高校3年生になり、最後の最後でまた同じクラスになるとは思わなかった。小学校で6回、中学校で3回、そして、高校で1回――。

 綾香はそうこうしている間に進路希望調査表を紙切れにした。綾香は満足そうな表情をして、すべてを終えた。

「ねえ」
「なに?」
「私、本当にやることなんて、ないんだ。人生の中で」
「へえ、じゃあ、どうするの?」
「そう言う、玲汰はどうするの?」
「普通に生きるよ。札幌の普通の大学に行って、普通の会社に入って、惰性で人生を終わらせる」
「へえ、夢があっていいね」
「皮肉かよ」と僕は言ったあと、小さく息を吐いた。少しだけイラッとした。綾香はそんな僕を見つめながら、ふふっと、笑ってきた。僕は今朝、綾香の夢を見たことを思い出した。その夢の中で、僕と綾香は何か得体の知れない怪獣から逃げていて、暗い森の中を手を繋いで走っていた。左手を広げて、手のひらをじっと見つめたけど、今朝の感触は戻らなかった。

 最近の綾香はいつもそんな感じだった。夢も希望もない。そんなことばかり言って、未だに何も決めていないみたいだった。どこかに進学してこの小さな街を出るのか、それとも就職するのか、本当に何も考えていないようにみえた。現実逃避するみたいに12月になったら、免許を取りに行くとか言ったり、かと思えば、今日みたいに何もしたくないと口にしたり、情緒が意味不明だった。だけど、綾香の家は農家だから、たとえ進路が決まらなくても家の手伝いをやっていれば怒られないはずだ。

「家でじゃがいも作るの手伝えばいいしょや」
「玲汰ってバカだね。こんな北海道の片隅でさ、そんなこと始めてみなよ? 一生、私、ここに住むことになるんだよ。スタバもイオンもないこんなところで」
「スタバもイオンも頑張れば行けるだろ」
「車で1時間……」と綾香はそう言ったあと、ため息をついた。たしかにこんなところに居てもって思うことはたまにある。だから、溜息つくのもわかる。

「だったら、札幌の大学でも道外の大学でも行けばいいじゃん」
「なんの勉強するって言えばいいの?」
「それは自分で決めろよ」
「だから、やりたいことなんてないんだって。そう言う玲汰は何するの?」
「経済学部に入って適当に4年間過ごすよ」
「へえ、つまらなさそう」
「札幌に行くのが目的だからね。俺だって将来、何がやりたいかなんてわからないよ」

 僕がそう言い終わると、教室は静かになった。いじけてばっかりの綾香は机の上に頬杖をついた。こぶりな顔を右手に乗せて、ふてくされた表情をして、外を眺めていた。白いセーターの裾で手の半分が隠れていて、温かそうだった。中学生だったとき、一瞬、綾香のことを好きになりそうな瞬間があった。綾香を呼んだときに肩にかかった長い髪で弧を描いたその茶色の線がやけに印象に残って、自分から声をかけたのに一瞬、なんで声を声をかけたのか忘れてしまうくらい可愛く見えた。
 そう言っても、通っていた中学校はもともと小学校からずっと一緒のやつがほとんどだし、そうやって、仲間のことを好きになったって、言ったりするのはなんか違う気がしたから、その一瞬感じたことは、気のせいってことにした。

「帰ろうっか」と綾香は小さな声でそう言った。そして、頬杖をやめて、両手で机の上にバラバラに広がっていた進路希望調査表だった紙切れを寄せ集めた。


 自転車でどんどん、網走の街から離れていく。片側二車線の広い道道(どうどう)を北海道特有の広い歩道を横並びで綾香と二人で自転車で走っている。
「ねえ」
「なに?」
「なんで私達、こんな田舎に生まれたんだろうね」
「いいじゃん、別に。生まれたもんは仕方ないし」
「私、都会の子がよかったな」
「東京?」
「いや、札幌。というか旭川、いや、北見でも十分だわ」
「札幌以外、田舎じゃん」
「あー、嫌だ嫌だ! こうやって学校の帰り道にスタバ寄って、フラペチーノ飲む青春がしたかった!」と綾香は大声で言いながら、立ちこぎをして、僕よりも少しだけ前に出た。

「バカ、叫ぶなよそんなこと」
「いいじゃん。誰もいないし。てか、バカにバカって言われたんですけど」と綾香はわざわざ後ろを振り向いて、ニヤニヤした表情をしながらそう言った。だから、僕はサドルに座ったまま、両足でギアの回転数を上げて、すっと綾香の隣にまた追いついた。あっという間にロードサイドにあるスーパーや家電量販店、ホームセンターが集まっているところを抜けると一気に住宅街になった。そして、オホーツク海沿いの国道まで一気に降りる下り坂になり、僕と綾香は自転車をこぐのをやめた。
 下り坂の後半から森に入り、道も片側一車線になった。今日は行き来する車が少なくて、少しだけ寂しく感じた。坂を降りきると踏切の先にぼやけたオホーツク海が見えた。鼻で息を吸い込むと海のしょっぱくて爽やかな香りがした。


「今日、知床見えてるね」
「あ、本当だ」と僕は左手の奥に霞んで見えている細くて青い山を見た。隣には草むらから生えるように斜めに立っているバス停と、モスバーガーの緑色の看板が見えている。モスバーガーの看板に書いてある矢印はUターンしていて、『ここより2.5キロ』と書いてあった。僕と綾香はその横を簡単に通過した。この看板の先は本当にドライブインくらいしか建物がない。左手の砂浜を横目にだだっ広くて真っ直ぐな国道の歩道を突き進んでいく。

「ねえ」
「なに?」
「私、このまま、こんなところに暮らしてたら、きっと結婚もできないよね」
「そうかもね。出会いもないからな」
「そうなったらどうしてくれる?」
「え、俺?」と僕はびっくりして思わず綾香に聞き返した。
「そうでしょ。玲汰しかいないでしょ」

 綾香がそう言ったあと、すごいスピードでトラックが僕たちを抜き去っていった。甲高くてうるさい音と一緒に余計な風圧を受けた。その風は向かい風で、少しだけ自転車の速度が落ちた。

「――30歳まで相手がいなかったらってヤツ?」
「――違うよ。バカ。もういいよ」と綾香は冷たい声でそう言って、会話が途切れた。