(1)

 今年の東京の夏は、蒸し鍋に入れられてるのかと錯覚を起こすほどに暑い。

「ごめんなさいねえ、こんな暑い日に」
「いいえ。大丈夫ですよ。危ないので、少し下がっていてくださいね」

 脚立の上から声をかけると、暁は額の汗を拭って作業に入った。

 部屋の一角にある天板をよいしょと外すと、かすかにほこりの匂いが届く。
 持ち上げた板を横にずらし、そっと穴に頭を突っ込んだ。
 額に取り付けたヘッドライトのスイッチを入れると、暗がりだった空間がぱっと明るくなった。

「……」
「どうかしらね? やっぱりヤモリか何かがいるのかしら?」
「……ああ、そうみたいですね。作業に少し時間がかかると思いますので、別室でお待ちいただけますか。終わり次第声をお掛けしますので」

 あらかじめ用意していた言葉を告げると、谷中のおばあちゃんは柔和な笑顔で頷いた。

 扉が閉じたのを確認したあと、暁は再び薄暗い屋根裏に顔を突っ込む。
 ここ最近、天井裏から何やら小さな物音をが聞こえる。
 久しぶりに電話を受けた谷中のおばあちゃんからの話に、暁はふと思い当たることがあった。

「さてと。お話は聞いていたよね、『家鳴(やなり)』さんたち?」

 努めて優しく囁いた暁に、天井裏に潜んでいた生き物がばっとこちらを振り向いた。
 やばいな。最近ますますあやかしの勘が磨かれてきている。

 家鳴は「鳴家」「鳴屋」とも記され、家の軒下や縁の下に住まう妖怪だ。
 家のあちこちでみしみしと音を立てるいたずら者で、姿形は小鬼。
 暁の目の前にいる者は、こぶし大のサイズといったところか。

「ついつい住み着いちゃうのはわかるよ。私もこの家に来るのは好きだから。でもね、ここのおばあちゃん、君たちの立てる音に最近なかなか寝付けないでいるの」
「……」
「そうだな、君たちが物音以外の悪さをしないと約束できるなら、しばらくうちにおいで。高校生の甥っ子と無愛想なカラスのあやかしがいるけれど、物音には頓着しないだろうから」
「……いいのカ?」「我々が行ってモ?」「カラス、我らを食べないカ?」

 おっと。一匹かと思っていたが、奥に重なって実は三匹だったようだ。
 ぴょんぴょんと飛び回るようにして、家鳴三兄弟が嬉しそうに問いかけてくる。動くたびに、やはり音がキシキシ鳴っていた。

「大丈夫。烏丸は君たちを食べたりしないから。他にいいねぐらを見つけるまで、うちにおいで。それでもいい?」
「いイ!」「いイ!」「いいゾ!」

 交渉成立だ。

 鞄からあらかじめ用意していた大きめの虫取りかごに、ひとまず移動してもらう。
 友好の証しとして中にクッキーをひとつ差し出すと、小鬼たちはすぐさまそれにかぶりついた。

 軒下に他になにもいないことを確認した暁は、脚立をゆっくり降りていく。

「やはり家鳴の小鬼らだったか」
「っ、とと!」

 最後の一段を危うく踏み外しそうになる。
 なんとか体勢を立て直した暁の足元には、優雅に毛繕いをする三毛猫──クルミの姿があった。

「クルミさん。もう、びっくりさせないでくださいよ」
「猫は基本的に爪音以外は静かに動くものだ。そこの不躾な小鬼らと違ってな」

 どうやら、ご主人の悩みの元凶だった家鳴の小鬼たちに多少の恨みがあるらしい。
 クルミが虫取りかごをじろりと睨みつけると、小鬼らはひゃっと入れ物の奥に身を隠した。
 軒下に続く通路さえあれば、暁より先にクルミが解決していたかもしれない。物理的に。

 谷中のおばあちゃんの家で飼われているこの猫は、化け猫だ。
 千晶が家に転がり込んできてすぐに対話したあやかしで、長寿ということもありその佇まいも荘厳なものを感じる。
 正体を知って以来、暁は自然とこの猫に敬語を使っていた。

「お主の家に引き取るのか。家鳴はその音以外はほとんど実害はない。だが一方で、災いの前兆ともされている者らだぞ」
「だからといって、ただ住み処を奪うだけなんてできませんので。迷惑にならない転居先を探して、そちらに案内するつもりです」
「……まあ、さして問題にはならぬか。我と同様、お主の家には強力な用心棒がいるようだからな」
「? それは……烏丸のことですか?」

 問いかけにクルミはゆったりと頷いた。

「今はお主の甥を住み処に、悠々自適に過ごしてる様子だがな。随分と丸くなったものよ」
「もしかしてクルミさん、烏丸とお知り合いで?」
「顔を合わせたことはない。齢を重ねている者で彼奴のことを知らぬ妖怪は、そうはおらぬ」

 それは暁にとって意外な事実だった。
 千晶だけでなく、どうやら烏丸もあやかし界隈で著名な存在だったらしい。