(18)

「……うわあ。あんた、誇大妄想が過ぎるんじゃない」
「中村さん、ちょっと落ち着きましょう」
「やめて! 触るな!」

 ああ駄目だ。どうやら事情を飲み込んで収まるものではなかったらしい。

 たくましい想像力で現実を見失った彼女は、ぎりぎりと歯を食いしばり鋭い視線でこちらを見据えた。
 そんな由香里を前に、千晶は面倒くさそうに頭を掻く。「あのさあ」

「あんたのそういう期待とか押しつけ。それがあいつの負担になってたとは思わないわけ」

 由香里の目が、大きく見開かれた。

「周囲の期待に添う自分でいなければ。そうでなければならない。そう思い込んでたってあいつ言ってたよ。いざ髪を切ったら、すごく胸がすっきりしたとも」
「でも! 夏帆先輩、最近様子がおかしかったわ! 何か苦しそうにしてた!」
「それはまったく別の話。それこそ、あんたには関係ない」

 どんどん氷点下になっていく千晶の口調に、暁までもが薄ら寒い心地になっていく。
 いつもの愛想の良さも相まって、今の甥は純粋な残酷さに満ちていた。

「今あんたがすべきことは、自分の過ちを認めて素直に謝罪することだ。馬鹿な勘違いから精神的苦痛を与えた美容師の人にも、とばっちりで怪我をさせたアキちゃんにもね」
「っ……知らない。怪我なんてさせてない。私は、知らない知らない!」

 まあ、そう言うだろうとは予想していた。

 昨夜ハサミで切りつけられた出来事は、端から見れば別件だ。
 嫌がらせの犯人と切りつけた犯人が同一人物という証拠はどこにもない。

 暁としては、琴美への贖罪の気持ちだけ示されればそれでいいと思っていたのだが。

「あんたさ、昨日の夜この人に襲いかかる前に、小さい子どもにぶつかっただろ」
「え」
「その子ども、盆に豆腐を乗せてたんだけど。ぶつかった弾みで、その豆腐が犯人の左手にかかったんだって」

 確かに、そんな話を暁も同席した事務所内で聞いていた。
 でも、その事実を持って甥は一体何を言おうというのだろう。

「だから、なに? 仮に私が犯人だとして、左手にいつまでもその豆腐が残っているとでも?」
「実はその豆腐、普通の豆腐じゃないんだ。あやかしが作った、曰く付きの豆腐」
「……はあ?」

 あやかし、という言葉に、由香里はあからさまに怪訝な表情を作る。
 そんな彼女に、千晶はふっと笑みを浮かべた。

「『豆腐小僧』って知ってる? 江戸後期に現れたとされる妖怪。盆に載せた豆腐を持っている少年の妖怪で、基本的に気弱で優しい性格。実害は殆どない」
「いきなり何の話ですか。オカルト?」
「ただ、一つ語り継がれてることがある。この妖怪が持つ豆腐は、妙な力が宿っていてね」

 豆腐に触れた人物が嘘を吐くと、触れた場所からカビが生える──。

「えっ……、きゃあ!?」

 まるで、千晶の言葉に共鳴したかのようだった。

 由香里の左手が徐々に緑色に染まる。
 見間違いかと思ったが、みるみる顔を強張らせる由香里にその正体がわかった。

 カビだ。
 それは、昨日の切りつけ犯が由香里だという、無言の叫びだった。

「カビの手入れは最初が肝心でね。あまりいたずらに嘘を重ねると、どんどんカビが濃くなり、二度と元には戻らない。まるでピノキオの鼻みたいだね」
「あ、あ、や、うそ……!」
「怖がる必要はない。ただ、嘘を吐かなければいいだけだよ」

 かきむしるように手を払う由香里をあざ笑うかのように、左手は何度でも緑に染まる。
 その光景をしばらく眺めたあと、千晶は再び笑みを向けた。

「さてと。それじゃ、最終確認だ」

 人を断罪する、情け容赦のない笑顔だった。

「驚くほど馬鹿な勘違いのせいで、あんたは一体何をしでかしたの?」



「──ということで、以上がこちらの調査結果です。加害女性の処遇については、被害者である琴美さんの意向に添えればと思っています。必要があれば、私も警察での証言に立ち会います」
「いいえ。この方がちゃんとわかってくださったのなら、もう結構です」

 数日後。
 依頼主の琴美を事務所に迎えた暁は、事の顛末を伝えた。

 報告書の中に「槙野夏帆」の名を入れるか否かが随分と迷ったが、曖昧さ回避のために入れることに決めた。
 曖昧さを少しでも含めば、依頼主の心からの安堵を引き出すのは難しい。

 その名を見た琴美は、当然ながら酷く驚いた様子だった。

「犯人が夏帆ちゃんのファンの子だったなんて驚きでしたが……、夏帆ちゃんは、そのくらい魅力的な子ですからね」

 努めて明るく振る舞う琴美に、暁は苦虫を噛み潰したような心地になる。

 夏帆のファンがしでかした事実を報告するには、夏帆が自ら髪を切ったことも報告する必要がある。
 その事実を口にした瞬間、琴美の瞳がかすかに揺れたことに気づかないわけにはいかなかった。

「でももっと驚いたのが、尾けられている気配がしていた件と他の件が、別人によるものだったことです。自意識過剰でしたね、恥ずかしいです」
「そうとも言い切れませんよ。当の本人も、琴美さんのことを特に憧れの美容師として、熱い眼差しを向けていたみたいですから」

 琴美の顔に、わずかに本物の明るさが戻る。
 視線の先には、膝の上で開かれた一通の手紙があった。

 二ヶ月前から琴美が感じていた妙な視線の正体。
 それは中村由香里ではなく、カミキリ少女の視線だった。
 その直後に、タイミング悪く由香里の嫌がらせが始まったこともあり、同一人物によるものだと錯覚してしまったのだ。

 その事実を伝えると、ショックを受けたカミキリ少女は直接謝罪したいと申し出た。
 しかし彼女はあやかしだ。手元のハサミをどうするのかという問題もある。

 そこで考えた結果、お詫びの気持ちをしたためた手紙を手渡すことにしたのだ。
 ちらりと垣間見た文字はやはり、どこか拙く不安定だ。それでも、今まで抱いていた尊敬の念を余すことなく綴ったのだろう。
 受け止めなければならないことの多い琴美の心を、そっと温めたに違いなかった。

「本当にありがとうございました。お陰さまで平穏な生活に戻ることができそうです。これもみんな、七々扇さんのお陰です」
「いいえ。もしもまた何か困りごとがありましたら、いつでもご連絡くださいね」
「ふふ、そうさせてもらいます。それじゃあ、私はこれで」