(11)

「アキちゃんは人が良すぎる」

 自宅のある二階に戻ったあと、開口一番に告げられた。

「そう言われてもね。現に私に被害はなかったわけだし、あの子の言葉に変な箇所は見当たらなかったでしょう」
「自分の命を守るためなら、人間もあやかしも平気で嘘をつく」
「そりゃそうかもしれないけれど……」

 カミキリ少女を無罪放免とした暁の判断が、余程お気に召さなかったらしい。

 いつもなら人懐こい犬のようにわんわん笑顔を振りまく甥が、今はベッドの上に腰掛けたままむっつり動こうとしなかった。
 面倒な空気を察してか、烏丸は早々に屋根の上へ避難したらしい。相変わらず逃げ足だけは速い。

「ココアでも飲む?」
「いらない」
「何かテレビやってたっけ」
「知らない、見ない」
「お風呂入ってきたら」
「アキちゃんも一緒なら」
「……」

 ……うん。このまま冷戦を長引かせても仕方ない。

 腹をくくった暁は、ベッドまで歩みを進めると千晶の前にしゃがみ込んだ。
 いつの間にかクッションを抱え込んでいた千晶が、じいっと暁を見据えてくる。

「怒らないでよ」
「怒ってない」
「怒ってるでしょ」
「怒ってない。ただ、むかむかするだけ」

 それを「怒っている」と言うのではないだろうか。
 とはいえ、現状を把握したところでどう対処したらいいのか、暁はわからなかった。

 相手が依頼主ならば、長年培ってきた脳内フローチャートに則って適切な対応が瞬時に出てくる。
 それが最終的に目指すのは、根気よく本人の要望を聞き出したり、穏便に事務所をあとにしてもらうなどだ。

 しかし、家族相手には──。

「……手、つないでもいい?」

 ぽつりと部屋に落ちた言葉に、千晶の睫が小さく揺れた。

「だめ、ですか」
「だめじゃない、けど」
「ありがと」

 律儀にクッションを横に置いた甥に苦笑しつつ、暁は目の前の手のひらをそっと両手で包み込んだ。

 その手は先ほどの温もりは何処かに消え、今は指先がひんやりと冷たい。
 人の手って、こんなに温もりが変わるものだったのか、と暁は初めて知った。

「……あやかしは、気分屋で本能的だ」
「うん」
「未遂でもアキちゃんに飛びかかった事実がある以上、俺はあのあやかしを簡単に信用しない」
「……うん」
「ちゃんと聞いてる? アキちゃん」

 不服そうな千晶の声が掛かる。暁の視線がそよそよと泳いでいるからだ。

「はは。なんだか、こっぱずかしいね。誰かに心配されるのって」

 頬にじわりと熱が集まる。自分らしくないな、と暁は苦笑した。

 家を出て以降、自分が信じる道を突き進んできた暁にとって、他人からこんなに心配されることなんてなかった。
 とっくに諦めていたはずの家族の温もりが、ゆっくり心に染みていく。

「千晶が心配してくれてることは、ちゃんと伝わってる。嬉しいよ」
「なら」
「でもね。信じる気持ちがないと、たぶん人は生きていけないでしょう」

 はっと見開かれた千晶の目。少し前から暁は気づいていた。

 人当たりがよく誰からも慕われる甥。
 しかしその本心は、人もあやかしも信じていないのかもしれないということに。

 烏丸などの極々近距離にいる者以外──何故か暁も含まれているようだが──他の者には基本的に心を開いていない。
 その顔にいくら柔らかな笑顔が浮かんでいても。

「私の仕事はね、人を信じることから始まるんだよ。それができなければ、自分を信じる。自分が『この人は信用できる』と思えた。だから今は、この人を信じてみよう──その繰り返し」
「アキちゃん」
「大丈夫だよ」

 暁には確信があった。自分も過去にその道をたどってきたからだ。
 その茨の道を、今は甥が歩もうとしている。

 もしかしたら二人は、似たもの同士なのかもしれない。

「……大丈夫? 俺」
「うん。大丈夫」
「本当は、アキちゃんのことも烏丸のことも、信じきれていないかもしれない……って言っても?」
「……それでもいいよ。ちょっと寂しいけどね」

 千晶の眉が、ぎゅっと下がる。外はいつの間にか雨音が聞こえていた。

 いつの間にか抱きしめる体勢になった甥の背を、ぽんぽんと優しく宥める。
 雨がしずしずと降る夜、首筋に時折触れる千晶の吐息が、やけに愛しかった。



「あれの人間不信は、今に始まったことではない」

 翌日。
 いつも通り登校した千晶を見送った後、ともに場所を移した烏丸はあっさり告げた。

「他人不信、と言った方が正しいか。人間だろうとあやかしだろうと、基本は疑ってかかる。あいつの身の上を考えればそれも当然だが」
「保江姉さんが亡くなったあと、あの子は親戚をたらい回しにされたって言ってたよね」

 コーヒーの香ばしさが漂うシンク台で、布巾をぎゅっと絞りながら暁は問う。

 保江は未婚の母だった。
 身ごもったことも周囲に限界まで漏らさず、世間体を何より気にする七々扇家をどうにか説き伏せて子を産んだ。それが千晶だ。

 子の父親を決して明かそうとしない保江に風当たりが厳しい時期もあったが、それもすぐにやんだ。
 もともと七々扇家の稼業の参謀として、保江は若いながら目を見張るほどの手腕を発揮してきた。
 万一保江に家を抜けられることのほうが、余程七々扇家にとっては痛手だったわけだ。

「そんな能力の秀でた母親が死んだ。必然的に、周囲の馬鹿な大人どもは遺された息子に過度な期待を寄せ始めた。逃れるようにして、あいつがあやかしとつるむようになるのも道理だな」