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 ああ、そろそろ制服姿もアウトかも。

 電車の窓に映り込む自分を目にした七々扇暁(ななおうぎあきら)は、熱気漂う朝のラッシュのなかでそんな感想を持った。

 それでも意識は常に、とある人物に照準を合わせている。
 数人のサラリーマンを挟んだむこうにいる、一人の高校生。
 今の暁と同じ、赤と白の二本線がネクタイに引かれたブレザーをまとっている。この辺りでは頭がひとつ抜きん出た、進学校の制服だ。

 お。来たか。
 暁の足が力強く踏み出す。
 電車の揺れに合わせて数人をかきわけたあと、再び自らのスマホに視線を落とした。
 画面に表示させた人物と目の前の人物を照合する。間違いない。同一人物だ。

 目の前のサラリーマンは、小脇に抱えていたカバンを器用に盾代わりにしていた。その影で静かに伸ばされた手は、目前の高校生に向かっている。
 蛍光色がアクセントの薄財布がしまわれた左側のバックポケットではなく、何も入っていない、右側の──。

「っ……、な」
「しー。周りに気づかれます。動かないで」

 サラリーマンのみに聞こえる声量で諭した。
 動きたくても、その両手は腰元で固定されびくともしないだろう。
 背後に立つ暁のほうへぎこちなく振り向き、男は息をのんだ。

「私は警察じゃありません。次の駅で少しお話をしましょうか。あなたのためにも」

 こんな小娘に捕まるなんて夢にも思わなかった。そんな顔だな、と暁は思った。



 この世には、なぜ潰れないのかわからない店舗というものが存在する。

 暁が居住するこの街──間黒市(まぐろし)の商店街にも、例外に漏れずそれは存在した。
 間黒駅から続く二本坂のうち、やや蛇行のかかった勾配の緩い坂をひたすら歩いて行く。
 真っ直ぐな坂もあるにはあるが、こちらは平均傾斜七度と急勾配。特段の事情がなければ皆前者の坂を選ぶだろう。

 細々としたオフィスビルはすぐに抜け、見えてくるのはアーケードが日の光をうっすら遮る商店街だ。
 坂の名にあやかり名づけられた『権三郎坂(ごんざぶろうざか)商店街』内の喫茶店から、七々扇暁は自前の水筒を手に姿を現した。

「あら、もう行っちゃうの、あきらちゃん」
「ん。これから一応報告書書かなくちゃだから。華ちゃんの美味しいコーヒーを飲んで、もうひと頑張りするよ」
「うふふ。おばさん応援してるわ。あきらちゃんは頑張り屋さんだものね」

 この喫茶店ウエイトレスの華子おばさんは、暁を自身の「孫娘」と認識している節がある。
 ここで商う老人たちにとって、身近にいる若者は客を除いて暁くらいなものなのだ。
 憎からず思われているのなら、素直に嬉しい。

「やあやあ、あきらくんじゃないか。お昼はうちで食べてかないのかい?」
「源造さん、こんにちは」
「お父さんってば駄目よう。あきらちゃんはこれからまだお仕事があるのよう。山積みよう」
「そうかい、残念だな。あきらくんの若々しい“いけめんパワー”を分けてもらおうと思ったんだが」

 この喫茶店店主の源造おじさんは、暁を自身の「孫息子」と認識している節がある。
 おばさんがおじさんを慣れたようにたしなめると、渦中の暁を置いてけぼりに世間話が進んでいった。
 そんないつもの風景に小さく会釈したあと、暁は今度こそ喫茶店をあとにする。

「そうなのよう、気の進まない仕事が山積みようー」

 華子おばさんののんびり口調を真似てみる。残念ながら、気持ちはそこまで透くことはなかった。

 さて。今回の依頼主に、自分はなんと報告するべきか──。

 手元の水筒に入れてもらった華子おばさん特製のコーヒーを、勢い任せにぐいっとあおる。
 アーケードで半透明に遮られてるものの、見上げた空は眩しいほどの快晴だった。

 磨き上げられた中華料理店の窓に、自分の姿を見る。
 先ほどまで身につけていた女子高生の制服は、駅構内のトイレで早々に紙袋に収められていた。

 今の自分は、日常よく見慣れた出で立ちだ。
 足元は衝撃をよく吸収するカラフルなスニーカー。
 ぺたんこなお尻と太もも。女性らしさの欠けらもないシルエットに、ぴたりとひっつくスキニーパンツ。動きやすさ重視の、オーバーサイズのスウェットパーカー。
 耳たぶが見えるくらいの、髪質の固いショートヘア。

 そして極めつけは中学の頃からまるで変化のない、貫禄ゼロの童顔──。

 あきらちゃん。
 あきらくん。

 この商店街で、暁の性別および年齢を正確に把握している者は、果たしてどれほどいるのだろうか。ひとつ息を吐くと、暁は再び歩みを進めた。

「ただいま帰りましたよー、っと」

 独りごちながら、足元の店看板を『外出中』から『在所中』にくるりと翻す。
 それに隣だって記された事務所名は──『七々扇よろず屋本舗』。

 権三郎坂商店街内でも駅から最も遠くに位置する、コンクリート造二階建ての建物。
 その一階部分に、暁は慣れた様子で入っていった。