(1)

 六月を迎えた東京は、例年通りの梅雨が続いている。
 その日、暁はテーブルに並べられたいくつもの小さな直方体を見つめていた。

 右から、白くていかにもふわふわと繊細そうなもの、全体的に薄灰色でところどころに黒い斑点が見られるもの、薄黄色で底にじわりと食欲をそそるタレが滲んでいるもの──。
 他にも数個が二、三センチ四方に切り分けられ、それぞれ小鉢に収められていた。

「どれも、味には自信があるのです」

 目の前に腰を下ろしていた依頼主は、ぽつりと呟いた。
 同時にその瞳から涙が、それはもうぼろぼろとこぼれ落ちてくる。

「同意します。どれもこれも、とても美味しいものばかりですよ」
「でも! これでは! 駄目なのです……!」

 紅葉柄の愛らしい着物にゴシゴシと涙を押しつけながら、齢六、七歳とおぼしき少年は語った。
 来訪時にかぶっていた笠は少年のすぐ横に置かれており、持ち主の感情表現に合わせてソファー上でゆらゆら揺れている。
 もしもソファーから転げ落ちたら、後ろのポールハンガーにそっとかけ直しておこう。

 そんな些事に気をとられていたのは、このやりとりが一向に先に進まないからだった。
 さて、どうしたものか。暁は言葉をひねり出す。

「これらは全てあなたが作ったんですよね? 私にはとても無理です。純粋にすごいと思いますよ。小太郎さん」
「……そうでしょうか?」
「そうですよ。少なくとも小太郎さんには、料理に対する並々ならぬ愛情があるのではありませんか」

 宥める口調で言ってみると、目の前の少年がひくっと泣くのを止めた気配がした。
 それを見た暁が、静かに手札を切る。

「実は私の知り合いで、昔豆腐屋を営んでいた方がいます。今はもう店は閉めていらっしゃるのですが、時々豆腐を手作りすることもあるようで」
「え」
「今さっき、豆腐づくりをご指導いただけないかと電話でお尋ねしたところ、とても喜んでいらっしゃいました。いかがですか、小太郎さん」
「……!!」

 ああ、よかった。どうやら当たりのようだ。
 依頼主のつぶらな瞳が、希望を前にきらきらと光ったような気がした。



 依頼主欄に記された名前──豆腐小太郎(とうふこたろう)
 彼が七々扇よろず屋本舗に来訪した目的を簡潔に言えば、「試食」だった。

 自分の家系は昔から豆腐作りと生業にしてるが、自分はその才が全くないのです。
 そう告げながら取り出したものは、少年が作ってきた「豆腐」と呼ばれるものの数々だ。

 杏仁豆腐、ごま豆腐、卵豆腐にクルミ豆腐。
 中には暁に馴染みのないものも混ざっていたが、どれも宣言されていた才のなさは感じなかった。むしろ美味しい。どれもこれも、すごく美味しい。

 ……最後に試食した、木綿豆腐以外は。

「面倒な客だったな」

 依頼主を見送って一息つくと、漆黒の着物をまとった烏丸がいつの間にかソファーに腰を下ろしていた。
 相変わらず美しいこめかみ部分の長髪が、さらりと絹の糸のようになびく。

「まあ、面倒ごとを引き受けるのがよろず屋の仕事だからね」

 試食の間、こちらの反応を一瞬も逃すまいとする強い眼差しが、今もはっきり覚えている。
 最後に食した木綿豆腐以外は素晴らしい味わいだった。
 感想を正直に述べると、少年はやはりがくりと肩を下げた。

「どうして自分はこうなのでしょう。どうして、豆腐ならざる豆腐にのみ、才を見出してしまったのでしょう……っ」

 独り言に似た暗く重い呟きに、暁はひとり事情を理解した。
 あの少年は豆腐は豆腐でも、一般的に言われる大豆を原料とした「豆腐」だけが、どうしてもうまく作れないのだ。

「杏仁豆腐も卵豆腐もごま豆腐も。名前に豆腐とつくものの、大豆は使わないものだからね」
「果てしなくどうでもいいな」
「あの子の家柄ではどうでもよくないの。それどころか、周りからは『邪道』と言われて酷く罵られたらしいよ」
「どこの家も馬鹿ばかりだ」

 暗に暁の実家への批難もこめられていることに気づいたが、暁は特に言及しなかった。

 最初は暁も邪道を極めればいいのではと思ったが、少年の願いは別にある。
 彼は人々が喜ぶ美味しい木綿豆腐を、自分の手で作ってみたいのだ。

 そう判断したとき、暁は頼りになるであろう人物の姿を、素早く脳内に導き出していた。「ところで」

「お前、さっきの依頼主は人間だと思うか?」
「まさか」
「ほう。言い切ったか」