9年前、伯父には当時10歳になる息子がいた。
長らく不妊治療を続けてきた夫婦が授かった、待望の一人息子である。
名前は、高村 太清。
生まれつき体が弱く、すぐに風邪を引いてしまう太清を不憫に思った伯父は、息子の大好きな赤色の、一本のマフラーを買い与える。
子どもの体には少し長いかと思われたが、それも伯父の意図するところ。
“どうか怪我や病気などせず、元気に大人になってほしい。”
そんな、ただただ純粋な願いを込めて、敢えて大人用のマフラーを買い与えたのだ。
…まさかそれが、この先何年も自分自身を苦しめる呪いになろうとは、誰が予想できたというのか。
息子・太清はクラスメイト4人に、悪質なちょっかいを掛けられたという。初夏の時期には珍しい、気温が10℃を下回る、嫌に寒々しい日のことだ。
太清は相変わらず、小さな体で一人前に大人用のマフラーを巻いている。体が弱く、遊びに誘ってやっても参加しない。そんな太清に対して、4人のクラスメイトの少年らはちょっとした悪ふざけのつもりだったのだろう。
運動会の練習と称し、彼らは「綱引き」をして遊んだ。
ただし、引っ張るのは麻縄ではない。
赤い毛糸が丁寧に編み込まれた、太清の首に巻き付いていたあのマフラーである。
マフラーの両端を2人ずつが握り、怯える太清の首を支点として、少年達はあらん限りの力で綱引きに興じたという。
…善悪の区別の付かない子どもの悪ふざけがどのような結果をもたらしたのか。
伯父は。ただ一人の愛する息子を失った伯父の心は、簡単に壊れてしまったのだ。
自分がマフラーを与えなければ。
自分が太清を過保護にしなければ。
いいやそもそも、太清をこんな残酷な世に生み出してしまったばっかりに。
…遺書の文章のほとんどは、伯父自身への責め苦と、太清の命を無邪気に奪った4人の少年らへの呪いの言葉で埋め尽くされていたらしい。
4人の少年らは、未成年であったこと、そして故意の殺害ではなかったという証言が受け入れられ、誰一人としてその経歴に傷が付くことはなかった。
到底、納得できない。納得してなるものか。伯父の抱いた憎しみがどれほどのものだったか、俺にはいくら想像しても足りないだろう。
気のふれた伯父は、その頃にはもうとっくに善悪の区別など付かなくなっていたのだろう。
太清の死から1年も経たぬ頃、伯父は犯人である4人の少年らを誘拐し、殺害して山中に埋めたのだ。
伯父の使用した凶器は無論、太清が愛用していた、思い出の赤いマフラーである。
手紙には、行方不明として今なお捜索願いが出されている少年ら4人の遺体は全て、L県の山中に埋められていること。そして、その後8年間に何度か発生した児童失踪事件の犯人もまた、高村 澄その人であることが告白されていた。
伯父は遺書の末尾に、叫びのような懇願のような、以下の記述を遺している。
『おれは おかしいのです。
息子はもうこの世にいない。
息子をころした連中ももうこの世にいない。
ですが、死んだ息子と似た子どもを見かけると、おれの中に、おれではない汚くおぞましい気持ちが湧き上がってくるのです。
こんな残酷な世に生み出してすまない。間違いだったのだ。
だから、はやく、この手で楽にしてやらねば。
と、おれではない誰かが頭の中で叫んでたまらないのです。
わかりますでしょうか。
おれはこれまで、何の罪もない子どもまでもこのマフラーで締め上げてきました。
何度も、何度もです。
そのたびにマフラーは穢れ、汗とも血ともつかぬ嫌なにおいを吸い蓄えましたが、
おれにはそれを洗い清めることなど出来なかったのです。
だってそうでしょう…。
おれの息子のぬくもりは今や、この薄汚い布切れの中にしか残っていないのですから…。』
あの時、当時9歳の俺になぜ突然マフラーを巻こうと思い立ったのか。
これは憶測に過ぎないが、伯父の中にいるという得体の知れない存在が、幼い俺のこともまた「この残酷な世から解放しよう」としたのではないだろうか。
『………………おまえは、元気でいるんだよ。』
もしあの時、伯父が思い止まらなかったら。
蔵の中へ逃げ込み、自らの命を絶つ選択を取らなかったら、
今の大人になった俺は、この場にいないかもしれないのだ。
伯父は正気を失った中でも、身内である俺のことを殺してはならぬと、失ってはならぬと、必死に守ろうとしてくれたに違いないのだ。