「那智。高村彩加のことで何かねえか?」
兄さまが食い気味に聞いてくる。
何か、と言われても……。
高村彩加さんとマンツーマンで話したことはないしなぁ。会話をしたといっても、福島さんから紹介された時くらいで、それ以降は一度も言葉を交わしていない。
……あ。
『最近花屋に飛び込んできて、泣いているところを見たかな』
あれはいつだったかな。
変な人に追っかけ回される前の日だったかな。
いつものように『Flower Life』で花を見て時間を潰していたら、高村さんが店に飛び込んできて、福島さんに泣きついているのを見た。福島さんは大弱りで高村さんを慰めていたっけ。
おれが店にいたら邪魔になるかな、と思ってその日は早々に切り上げて、大学の正門で兄さまを待つことにしたことを鮮明に憶えている。
それを伝えると兄さまが腕を組んで地を這うような声で唸った。
しごく深刻な顔で唸っている。どうしたんだろう?
「高村彩加。おめぇさんと同じゼミに所属している女子大生だな」
それまで傍観に回っていた益田警部が口を開く。
眉をつり上げる兄さまの機嫌が急降下していく。
「わりぃな。これも仕事だ。おめぇさんの交友関係もある程度洗っている」
「ちっ。洗っているなら、高村彩加と俺の関係も知っているんだろ?」
「一応な」
「言っておくが、俺は一切関係ねぇ。勝手に向こうが被害妄想を語っているだけだ」
醸し出す雰囲気で分かる、兄さまはおれに高村彩加のことを探られたくない、と。
相当嫌なことが遭ったんだと思う。
兄さまは益田警部に弟の前で余計なことを言うな、と言わんばかりに睨んでいた。すごく気になるけど……兄さまが嫌ならおれは聞かない。大好きな人の嫌がることはしたく――ガタッ。
え。
突然、病室の扉が開いた。
と思ったら、脱兎の如く侵入者が飛び込んで兄さまの後頭部目掛けて、持っていた花瓶を叩きつける。
「兄ちゃん!」
いち早く気づいた益田警部が兄さまの体を突き飛ばしたけど、回避は間に合わなかった。花瓶が砕ける音が病室に響き渡る。
「くっ……」
さすがの兄さまも不意打ちに、スツールから崩れ落ちてしまった。
おれは見た。
侵入者はくたびれたスーツ姿の男だった。端正な顔つきながら目が血走っている。鬼のような形相をしたそれは、まぎれもなくおれ達のお父さんだ。
お父さんは倒れた兄さまにしか眼中がないようで、頭を押さえている兄さまの腹部を素早く蹴り飛ばす――前に、おれはボールペンを逆手に持ってベッドから飛び出した。無我夢中だった。恐怖はなかった。
お父さんを兄さまから遠ざけないといけない衝動に駆られた。
「ばか。坊主、近づくな!」
益田警部の制止は遠い。
おれはボールペンをお父さんの右ももに刺した、同時に腹部を蹴られる。耐えられずに、向こうの床に倒れてしまった。息ができないほどの痛みが襲う。体が痙攣しているのが分かった。
「坊主!」
「うぅっ、なち! くそ何が起きてっ、見えねえ……ばか親父、弟に近づくんじゃねえっ」
お父さんは床で動けなくなっている兄さまから、自分に危害を加えたおれに標的を移したようで、「お前達さえいなければっ!」と叫ぶと、駆け寄る勝呂刑事や柴木刑事よりも先に、倒れたおれの首を飛びかかるように掴んできた。
「お前達がいたせいでっ、すべてが壊れた! お前達さえっ、お前達さえいなければっ!」
お父さんは本気で首を絞めてくる。
それはとても怖いはずなのに、こみ上げてくるのは怒りだった。
だってこの人は兄さまを、大好きな人を傷つけた。
理不尽で頓珍漢な暴力で、おれ達に責任をなすりつけようとしている。
訳が分からない責任をなすりつけようとしている。
許せるわけがない――おれ達が何をしたんだ。壊れたもなにもない。おれ達はあんた達に何もしてもらっていない。
なのに。
「あんた達はっ、いつも自分の都合ばっかりじゃないかっ。いつも、いつもっ!」
あれほど出なかった声がぬるりと喉を通った。
おれは握り締めていたボールペンをお父さんの手の甲に突き刺す。
直後、お父さんの横っ面に柴木刑事の膝蹴りが入った。お父さんの体がよろめいたところで、勝呂刑事が侵入者の手首を掴み、腕を捻り上げて床に組み伏せた。手錠を掛けている音が聞こえる。
「那智くん!」
柴木刑事が駆け寄って、おれの身を軽く揺する。
息を吸おうと呼吸をするも咳き込んでしまう。
それだけで腹部に激痛が走った。本気で傷口を蹴られたせいか、体の痙攣が止まらない。立つことも座ることもできない。あまりの痛みに動けない。
「勝呂。すぐ署に連絡しろっ! 今すぐにっ」
益田警部の怒号に近い指示が遠い。兄さまはぶじ? だいじょうぶ?
おれの傍では、お父さんが激しく暴れて、怒声をあげて、醜く喚き散らしている。
言葉はすべて恨みつらみだった――あれほど支援してやったのに結局これだ。お前達さえいなければ、すべてが上手くいっていたのに。あの女の血を引くだけある。今度は何が目的だ。ヒトの弱みに付け込んで何をしようとしている。殺す、殺してやる等など、感情のまま暴言を吐いていた。
頭に血がのぼっていることだけは見て取れた。
でも、分かるのはそれだけだった。
お父さんとおれ達の関係性なんてそんなものだ。傷付く言葉なんてひとつもない。
ただ思う。もしもおれ達がいなければ、と本当に思っているのなら。この存在が間違いだと思っていたのなら。
(おれと兄さまをここまで放っておいた、お父さんの判断が最初から間違いだったんだよ)
それはおれ達のせいじゃないよ、お父さんの責任であり判断ミスだ。
心の中でしっかりと、自分の言葉で反論したおれは、暴れ狂っているお父さんから目を離した。
視界の端に見える。兄さまがこめかみから血を流し、床でぐったりと倒れている姿が……脳震盪を起こしているらしく、意識はおぼろげの様子。目の焦点が合っていないから、たぶん周りが見えていない。
それでも。
「なち……益田、なちは無事か」
俺の名前を呼んで、近くにいる益田警部に弟の安否を確認している。おれを守ろうと必死に気を保とうとしている。兄さまはいつもそうだ。いつも弟のために――。
(……おれ、もっと強くならなきゃ。兄さまの『弱点』になりたくない)
おれは右手に握り締めたままのボールペンに目を落とす。
益田警部は言った。見えることで強くなることもある。兄さまと同じものを持っていれば、たとえ何が遭っても乗り越えられる気がするだろう? って。
じゃあ、いつも泣き虫毛虫のおれがお父さんに立ち向かえたのは、このボールペンのおかげかな。兄さまとお揃いのボールペンを持っているおかげ、なのかな。
「那智くんっ、だめよ! 動いちゃっ」
傍にいるはずの柴木刑事の声にノイズが掛かっている。うまく聞き取れない。
動けないほどの痛みに唸り、それでもおれは必死に腕の力だけで前進しようと躍起になった。少しでも兄さまの近くに行きたかった。兄さまが動けそうにないなら、おれがそっちに行く。行くから。
だいじょうぶ。もう二度と兄さまをひとりにしないよ。おれ達はいつもいっしょだよ。やくそく。
「こんどは、おれの番。兄さまを、まもる番」
おれがお父さんから兄さまを守る。
お母さんのことはまだまだ怖いけれど、お父さん相手なら――たった今、お父さんに反抗できたんだ。これからはおれが兄さまのことを守る。いつもおれたちの存在を無視していたお父さんから、兄さまを、にいさまを。
霞みぼやける視界の中、おれは腕の力で前進する。
そして不安交じりに名前を呼ぶ兄さまの右手に自分の手を重ねると、静かにまぶたを閉じた。とっくに限界は超えていた。ああ、お腹がどうしようもなく痛いや。ほんとうに痛い。
だけど握り返してくれる手のぬくもりは、なによりも心地よい。
「なんて地獄だよ。まったく……いい歳した大人の方がクソったれたガキじゃねえか」
益田警部の苦々しい言葉は、お父さんの狂った喚き声に掻き消えてしまった。
【8】
「よう坊主。目が覚めたか」
気がつくとおれは見慣れた病室のベッドのうえに寝かされていた。
カーテンが閉め切られている、夜を迎えているようだ。
ゆるりと視線を動かせば、いつも兄さまが座っているスツールに益田警部が腰を下ろしている。警部さんはおれが目を覚ましたことにホッと息をついている様子だった。
目が覚めて、最初に他人の顔が飛び込んでくるなんて生まれて初めての光景かもしれない。変な気持ちになる。
(おれどうしたんだっけ……兄さまは)
病室の隅々に視線を配って兄さまの姿を探す。
影もかたちも見当たらないことに、おれは言いようのない焦燥感に駆られた。
同時に思い出す。
兄さまは確か、お父さんに花瓶で殴られて、それから。それから。
無理やり上体を起こすと、益田警部が「まだ寝てな」と言って、おれの行動を制した。
曰く、お父さんの蹴りをもろに受けた影響で、腹部の傷口が開きかけていたとのこと。それこそ傷口から出血して白いパジャマが血で汚れていた、と益田警部が苦笑いをこぼした。
いまはつよい鎮痛剤を投薬しているものの、それが切れたら痛みに苦しむことになる。熱だって出てきている。ベッドの上で安静にするべきだ、と気遣う言葉を投げた。
「首の包帯も取るんじゃねえぞ。首を絞められた時に、深く引っ掻かれたせいで傷になっているんだからな」
おれは首にそっと両手を置く。
言われるまで、包帯の存在に気づかなかった。
(警部さん……兄さまはどこ?)
おれは益田警部に質問を投げようとして、喉の奥を引き攣らせてしまう。
声を出したいのに、全然体が言うことを聞いてくれない。兄さまのことを聞きたいのに、どうしても言葉がつっかえてしまう。他人に怖じている場合じゃないのに。
益田警部はおれの様子に気づいたのか、サイドテーブルに置いていたスケッチブックとボールペンを差し出してくる。
お父さんを思いきり刺したボールペンは、乱暴に扱ったにも関わらず、すらすらとスケッチブックのうえを滑った。先端は潰れていないようだ。
「坊主の兄ちゃんは別室で安静に寝ているよ。背後から花瓶で頭部を殴打されて、頭を縫う大怪我を負っちまったからな。ああ、そんな顔をすんな。大丈夫、命に別条はねえよ」
ただ頭部をつよく殴打されたことや、連日の疲労が溜まっていたことが重なって、意識を失ってからはまだ一度も目が覚めていない、と益田警部は教えてくれる。
「あの騒動から半日経っているが、今晩は目を覚まさないだろう。おめぇの兄ちゃん。担当医もそう言っていたぜ」
下唇をそっと噛む。
お父さんはつよい殺意を持って兄さまの頭部を花瓶で殴った。
それこそ不意打ちで殴った行動が、お父さんの殺意の高さを教えてくれる。本当におれ達が憎かったんだ、お父さん。首を絞められた時も、すごく力が強かったもんな。
その一方で「連日の疲労が溜まっていた」という言葉が、おれの心に翳りを落とす。
(兄さまは一日の大半を、この病室で過ごしていた。手術後のおれを看護してくれたり、おれのために食事を用意したり……寝泊りはいつもソファーのうえで、ちっとも家に帰らなかった)
おれはそのことを、ずっと気にしていた。
いくら体のつよい兄さまでも、連日のようにおれの世話をしていたら疲労するんじゃないか。家に帰って布団のうえで体を休めた方が良いんじゃないか、と。
心配のあまり兄さまにそれを伝えたこともあったけど、兄さまの返事は「俺は独りが嫌いだ」。
家に帰ったところで独り。落ち着いて休めるわけがない。那智は兄さまを独りにする気か、そう言っておれの心配を突っぱねていた。大丈夫、自分は弟よりもずっと強くて丈夫だ、と笑ってくれたけど……。
(やっぱり無理していたんだ。兄さま)
いっしょにベッドで寝ようと言っても、一日だけ寝る場所を交代しようと言っても、兄さまは頑なに首を縦に振らなかった。怪我人のおれを優先した。
おれは益田警部に筆談で聞く、兄さまの病室を。
今すぐ兄さまの下へ行きたい。おれを献身的に看護してくれた兄さまを、今度はおれが看護してあげたい。
なにより約束したんだ。いつも兄さまの傍にいるって。ひとりにしないって。
すると益田警部がおれの頭に手を置いて、「兄ちゃんは好きか?」と尋ねてくる。
迷わず頷くと、「だったら今晩はゆっくり寝てろ」と益田警部は言葉を重ねた。
「坊主。おめぇの兄ちゃんはな、お前さんのことが本当に大事なんだ。きっと手前のことよりも、ずっと、ずっとな」
それは……それは知っている。兄さまはいつもおれを優先する人だ。
「目が覚めたら、兄ちゃんはおめぇのことを心配するだろうさ。自分の怪我なんてそっちのけで。それに拍車を掛けるように坊主が寝込んでいたら、兄ちゃんはまた無理するぞ。そんなの嫌だろう?」
本当に兄ちゃんが大好きなら、まずは自分を労わるべきだ。益田警部は優しく頬を崩した。
「坊主が元気になれば、兄ちゃんも元気を取り戻す。だからこそ、おめぇさんは自分を労われ。少しでも早く元気になることが、おめぇの、そして兄ちゃんのためだぜ。なあにずっと離れ離れになるわけじゃないんだ。明日おめぇさんの体調が良ければ、兄ちゃんの下に連れてってやるよ」
益田警部は赤の他人だ。
兄さまは言っていた、他人を簡単に信じちゃいけない。すぐに他人は裏切る。信じたところでばかをみるだけだって。おれは警部さんの言うことなんて足蹴にして、いますぐ兄さまの下へ行くべきだ。
分かっている、それは分かっているけど……弱いおれは益田警部の言うことを聞くことにした。
だってぜんぶ益田警部の言う通りなんだ。
兄さまはおれのために無理をする。
自分の怪我より、おれの怪我を優先する。
お母さんに虐められていた時だって、いつも、いつもおれのことばかり庇って。ちっとも自分を庇わなくて。ちっとも自分を大切にしなくて。いつも、そう。兄さまはいつも。いつも。
そんな兄さまが怪我をしたのに、おれは何もできなくて。
おれが傍にいても、兄さまにできることは少なくて。
むしろ無理をさせてしまうことばかりで。
約束だって守りたいのに、ちっとも守れなくて。
自然と潤む視界を拭うために、おれは手の甲で何度も目をこすった。
ばか。ここで泣き虫毛虫になってどうするんだよ。
こういうところがあるから、お母さんはいつもおれに苛々していたんだろ。泣くな。他人が目の前にいるんだから、ちょっとしたことで泣くな。泣くなよばか。おれのばか。
「泣くだけ泣いておけ。坊主、それはお前さんが強くなるための感情だ」
涙をそのままに益田警部に視線を投げると、「悔しいんだろう?」と言って、おれの無様に泣く姿にひと笑いした。
「もし、坊主が兄ちゃんに対して何もできないことに悔しいと思っているなら、今は素直に泣いておけ。その分、自分の頭で考えるんだ。いまの坊主に何ができて、何ができないのか」
できることを見つけたのなら、それを存分に伸ばせばいい。
できないことを見つけたのなら、できるまで努力する。もしくはできないことを弱みにしないよう考えればいい。それくらいならガキの坊主にもできる。泣くだけで終わるならそこまでだ、と益田警部は助言した。
それはまぎれもなく、おれのための励ましだった。
おれは涙を拭きながら、スケッチブックにボールペンを走らせた。
『警部さんは変わった大人ですね』
会って間もない人間に励ましを送るなんて、とても変わった大人だと思う。
おれが出逢った大人は暴言を吐くか、感情的に叩くか、無関心を決める人達ばかりだった。両親はもちろん、近所の人や学校の先生だって励ますことをしない大人だったのに。益田警部は変わっている。
それを伝えると、益田警部は困ったような顔で苦笑した。
「お前ら兄弟はホント、ガキみてぇな大人とばかり縁があったんだな。苦労していたのがよく分かる。とくに坊主の兄ちゃんは大人に対して反抗心が強い。いつもお前らみてぇな大人には頼らねえって怖い目をしやがる」
反抗心……。
それは兄さまの心の傷がそうしている。
大人に助けを求めたけれど、助けてもらえなかった、過去の傷が。
「大人に甘えることを知らないからこそ、手前が大人になって坊主を過度なまでに大切にするんだろうが……背伸びしすぎなんだよ。おいちゃんから見たら、兄ちゃんも坊主もハナタレだ。ハナタレ」
前触れもなしにぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。
そんなことをされたのは兄さま以外、初めてだったものだから、おれは頭を押さえて見事に固まってしまった。益田警部とおれは他人なのに、どうして? どうして撫でてくれるの? どうして兄さまのようなことをしてくれるの? 優しくしてくれるの? どうして?
目を白黒させるおれを余所に「坊主はどこまでも素直だな」と警部さんは肩を竦めて、その素直さを兄ちゃんに教えてやれ、と言ってスツールから腰を上げた。
「もうすぐ午前様だ。夜更かしは体に障る」
起きたばかりのおれに、益田警部はもうひと眠りするよう言った。
「坊主らの病室前にそれぞれ部下をつけた。今度は簡単に不審者が飛び込むこともねえから安心して寝ろよ。俺もそろそろ署に戻らねえと……なんで俺が病室にいるか不思議そうな顔をしてんな? ま、坊主の様子を見に来たってところだ。成人している兄ちゃんはともかく、お前さんは未成年。大人の誰かが看てないとな」
筆談もしていないのに、益田警部は俺の心を見通したように返事してくれた。
その際、大好きな兄を想うのなら今晩はゆっくり休むよう、しっかりとおれに釘を刺してくる。決して無理をしてはいけない。無理をしたところで痛い目を見るのは自分だ、と口酸っぱく言ってくる益田警部をじっと見つめた。
視線の意味を察したようで、警部さんはひらひらと手を振る。
「今日の事情聴取は終わりだ。あんなことが遭って疲れているだろうし、兄ちゃんがいねえ時はしないってのが約束だからな。まあ、世間話も条件には入っていたが……こればっかりは仕方ねえよな」
まだまだ聴きたいことはあるが、それは後日だと警部さん。
おれはスケッチブックのページをめくって、お父さんのその後について尋ねた。これだけは聞いておきたかった。おれ達に殺意を持って病室を襲撃してきたお父さんはあの後どうなったんだろう?
すると益田警部は苦い顔をして「あれは現行犯逮捕して署に連行した」
「取り調べに同席したが、ガキみてぇに喚いて訳の分からないことばっか言っていたよ。あれが坊主らの父親なんて思えねぇな。まだお前さん達の方がしっかりしているぜ」
ああ、そうだ。
「坊主。もう二度と殺意のある人間の前に飛び出すなんて、危険なことはするんじゃねえぞ。あんな無茶な真似、自殺も同じだぜ? ……いいか、おいちゃんと約束してくれ。何も知らない若いモンがあんな無茶をするもんじゃねえ」
益田警部が病室を出て行くと、おれはひとりベッドの上で眠れない時間を過ごす。
傷ついた体はまだまだ休息が欲しているようで、四肢の節々に重みを感じた。それでも目は冴えてしまっている。きっと兄さまが傍にいないからだろう。ひとりで眠る夜なんて殆ど無いもんな。
ひとりはとても心さみしく、心苦しい時間だけど、おれは自分の気持ちを無視して、益田警部から貰ったボールペンを眺めながら考えていた。
(いまのおれに何ができて、何ができないか……か)
そんなこと、自分の頭だけで考えたこともなかった。
何ができるのか、できないのか、それはいつも兄さまを見て決めていた。
おれにできることは、いつも兄さまを真似てやっていた。
おれにできないことは、いつも兄さまがやってくれた。
逆に兄さまができないことを、おれができる。兄さまにできないことは、おれがやってあげる……なんて光景は見たことがない。おれはいつも心のどこかで兄さまに頼っている。
(今まではそれで良かったけど、これからはだめだ。そんなんじゃ、おれはいつまでも兄さまに守られる存在になる。『弱点』になる)
兄さまとお揃いのボールペンを逆手に持つ。
お父さんに反抗した時、おれは泣き虫毛虫にならなかった。恐怖心を抱かず、何も感じず、ただ兄さまを守りたい一心でこれをお父さんに刺した。
今までのおれなら足が竦んでいたと思う。
だけどあの時のおれは、おれは、ただ無我夢中に。無心に。お父さんに――努力したら、またあんなおれになれるかな。泣き虫毛虫を卒業したい。
元気になったら、体力をつけるようにしよう。
勉強だってうんとしよう。おれは兄さまよりもアタマが悪いから、兄さま以上に勉強しなきゃ。
その過程でおれの得意分野が見えてくるかもしれない。兄さまにできないことを、おれがやってあげられる日を迎えることができるかもしれない。
何が遭っても笑って乗り切れるようにしなきゃ。
だっておれは兄さまに「おれ」をあげたんだから、「おれ」は兄さまのために使うべきだ。
(自分に何ができるか、いまのおれには分からない。だけど考えることはできる)
独りは嫌いだけど、誰かのために一人で考える時間はとても大事なんだと知った。
兄さまが傍にいると、つい兄さまに全部任せてしまう。それじゃきっとだめなんだ。
兄さまはおれをしあわせにしてくれた。今度はおれが兄さまをしあわせにしたい。
おれはボールペンをケースに仕舞い、毛布を肩まで引き上げると、ゆるりと瞼を閉じる。気持ちが固まったことでどっと睡魔が襲ってきた。
翌日は腹部の痛みに叩き起こされる、最悪の目覚めだった。
益田警部が言っていたつよい鎮痛剤が切れたようで、おれは全身脂汗を流していた。見事に高熱も出てしまい、おれは熱と痛みと吐き気に苦しむことになった。
それこそ時間が経てば経つほど全身が痛むわ、座れないわ、寝返りも打てないわ、熱は高くなっていくわ、意識が朦朧になっていくわ。踏んだり蹴ったりもいいところだった。
傷口が開きかけたって意外と重傷なんだね。身を持って痛感したよ。
まあ、お腹を出刃包丁で刺されている傷なんだし、おれは元々重傷人か。目が覚めたらケロッと治っていたら良かったのに。現実は厳しいや。
様子を見に来た担当医も、警部さん達もおれの寝込みっぷりに眉をハの字に下げていたから、芳しい状態じゃないんだと思う。
それでも、おれは一切の泣き言を呑み込んで耐えた。
泣き虫毛虫を卒業すると心に決めたからには、泣き言は漏らしたくなかった。
ああ、本当は今すぐにでも兄さまのいる病室に連れてってもらいたい。
座ることも困難なほど傷口が痛んでいる状態だから、もちろん車いすに乗って移動なんてできるわけがない。それは頭で分かっているけれど、やっぱり兄さまの顔が見たい。大丈夫? 怪我は平気? 殴られたところは痛む? と言って心配してあげたい。
(痛ぃっ。まだ薬っ、効かない)
せめて薬が効けば効いてくれたら、兄さまの下に行けるのに。行けるのに――もがき苦しんでいると、遠いところから声が聞こえた。
それは「下川のお兄さん。まだ寝てないと」と、困り果てた柴木刑事の声。
それは「止めても全然話を聞いてくれないんですよ」と、嘆く勝呂刑事の声。
それは「おめぇは大人しく寝ているタマじゃねえか」と、呆れかえった益田警部の声。
それは「うるせえ。テメェら、そこをどけ。邪魔だ」と、苛立った兄さまの声。
複数の大人の声が混ざり合っている。
だけどその声は遠い、とてもとても遠い。聞き取ることが難しくなっている。
気づけばおれは爪を立てていた。握ってくる手を引っ掻いて、いつの間にか、爪を立てていた。
あれ、これはだれの、て?
「那智、兄さまだぞ。分かるか? 傍を離れて悪かったな。本当に悪かったな」
聞きなれた大好きな声がすぐ傍にいる。
それが分かっただけで涙腺が緩みそうになった。多大な安心感と申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
ああ、ごめんねはおれの方だよ。兄さま。
本当は元気な姿を見せたかった。
おれが兄さまの病室に行って看護してあげたかった。
じゃないと兄さまはまた無理をする。自分の怪我をそっちのけにして、おれの看護をする。ぜんぶ分かっているのに。ぜんぶ、わかっているのに。