ふたりぼっち兄弟―Restart―



 なのに他人が幸せを奪ってくる。
 ちょっとした拍子で。幸せが奪われる。

 俺の些細な幸せすら、周りはそっとしておいてくれない。

 那智を大切に思っているのは俺なのに。
 俺がずっと那智を守ってきたのに。
 俺だけが那智を守り続けてきたのに。

 絶対だと思っていたふたりだけの世界が決壊するなんて、そんなの、そんなの許せるはずがねえ。

「それでも。それでも、もしお前が俺に対して何かしたいってなら」

 気づくと俺は見上げてくる那智の両頬を包み、欲望のままに口走る。


「くれよ那智――兄さまはお前がほしい。ぜんぶほしい。そしたら、お前はどこにも行かない。どこにも行けなくなる。兄さまの傍だけで生きることになる」


 兄さまは、お前を、俺だけの、俺たちだけの世界に閉じ込めたい。
 そうすれば、ひとりで生きるつらさも、脆いふたりだけの世界が崩れる怖さも、誰かに弟を奪われる不安も感じなくなる。

 ずっとふたりだけで生き続けるためにも、俺は、血を分けた弟が、たったひとりの肉親がほしい。

(……ばかか。俺は)

 醜い本心を吐露したことに気づき、俺は真っ直ぐ見つめてくる瞳から逃げるように視線を逸らす。

「なんてな。冗談だ、ジョーダン」

 ただただ気まずい気持ちを抱いた。
 こんなことを言えば、那智の自由が無くなっちまうも同然だ。

 那智はやさしい。
 俺が我儘をいえば、必ず頷いてくれる。
 今までだって、こいつのやさしさにつけ込んで、俺は幾度も那智に欲をぶつけた。
 たとえば他人を信じてくれるな、とか。一番に俺を想ってほしい、とか。広い世界に出てくれるな、とか。

 いつも俺のエゴで那智を縛っている。
 それが間接的に那智を傷つけるものだっていうのも、知るべき自由を奪っているものだっていうのも分かっていた。

 それでも止められない。
 俺はひとりになりたくない。弟を他人に取られたくない、傍に置くだけじゃ生ぬるい。
 その一方で衝動のように突き上げてくる思いと反対に、那智を大切にしたい兄心が衝突している。双方の思いが理性を蝕んでくるから救えねえ。

(どっちも俺にとっては大事な気持ちなんだよな)

 俺の曲がりくねった想いはあまりにも歪んでいる。

(せめて那智が高校生になるまでは、この想いを秘めておくべきだ。分かっているのにな)

 那智は無垢でまだ幼い。
 中坊になったばかりの那智に、俺の歪んだ感情をすべて受け止めるのはあまりにも負担がデケェ。俺自身も歯止めが利かなくなって束縛まがいなことをしかねない……まあ束縛まがいなことを半分くれぇしている自覚あるけど。他人を信じるなって言っているくれぇだし。

 とにもかくにも那智の心が成長するまで待っておくべきだろう。大丈夫、あの生き地獄を耐えたんだ。我慢には慣れている。


「兄さま。おれはね、ふたりで一緒に過ごす時が大好きなんですよ」

 視線を戻すと、那智があどけない顔で笑っていた。
 包まっている毛布を顔まで埋めて、「あったかい」と頬を緩ませている。そして繰り返す、「ふたりの時間が大好きなんです」と那智は繰り返す。

「誰かと一緒に過ごすよりも、ずっとずっと、兄さまと一緒にいる時間が楽しい。それはきっと、兄さまがおれの気持ちを聞いてくれるから。お願いを聞いてくれるから。おれを笑わせようとしてくれるからなんです。だから、おれもおんなじことをしたい。ふたりの時間がなにより楽しいと思えるようにしたい」

 那智は言う。
 兄の言う、ふたりだけの世界に閉じ込められている、と思ったことはない。
 自ら望んでこの世界にいる。兄といる日々が楽しいと、何をしてもしあわせだと思えるくらいに、自分はこの世界が大好きだから。周りがどう思おうと知ったことではない、と。

「おれは兄さまみたいにアタマが良くないから、うまく言えないんですけど……おれもね、兄さまの一番でありたいんです。兄さまがおれの一番でありたいと思うように。だから、兄さまの言う世界におれを置いてください」

 そして、たくさん我儘を言ってほしい。
 兄の願いを叶えたい自分がいるのだと、那智はたどたどしく、けれど真摯に気持ちを伝えてきた。
 いつの間にか心が本調子を取り戻しているようで、イマジナリーお母さんに怯える姿は消えていた。

(……お前はばかだな。那智。ほんとうに、やさしくてばかだよ)

 幼い弟は俺の歪んだ感情の重さを、きっと全部理解しているわけではないだろう。受け止め切れない感情の重さに耐えかねて泣いてしまうかもしれない。
 いや、むしろ分かっているのかもしれない。
 分かったうえで、那智は俺の一番でいたいから、だから願いを叶えようとしてくれているのかもしれない。

 幼いと思い込んでいるのは俺の方で、那智は見た目以上に成長しているのかもしれないな。

「お前には敵わねーよ。那智」

 俺は力なく弟に笑うと、小さな頭を撫でながら、我慢しようとしていた欲を那智にぶつける。


「俺はストーカー野郎が羨ましい」
「うん」

「お前に傷を付けたことが妬ましい」
「うん」

「那智のことはずっと俺が見ていたのに」
「うん」

「ほしいよ。俺も、那智に傷をつけたい」
「痛いのは嫌いだけど、兄さまなら我慢します」


「お前を、兄さまにぜんぶくれるか? 俺はお前をどこにもやる気はねえぞ」

「――はい」


 満面の笑みを浮かべる那智に誘われ、誘われて、気付けば無我夢中でそれを掻き抱いていた。
 柔らかそうな肩肉に噛みつき、必死にそれに傷を残そうとしていた。
 理性が崩れても、腹の傷は考慮していたみたいで、噛む場所は肩口に留まった。ばかみたいにそこに歯形を残そうとしていた。

 歯形ができる度に、うっとりとしてしまうもんだから救いようがない。
「くぅっ……」

 あと、痛みに耐える那智の声に興奮するってどういうことだ。
 俺は弟をそういう目では見ていないんだが……確かに那智のことをほしいっつったけど、あくまで性的な意味じゃなくて、人間的な意味なのに。なのに。どうしてこんなにも欲しくなるんだ。

 俺は噛み続ける。
 血を分けた、たったひとりの弟を。

「にい、さま。ごめんね、ひとりにして。怖い思いをさせて。怪我して、ごめんね。いい子、にいさま、いいこ」

 もう怖くないよ、だいじょうぶだよ。
 やさしい弟はそう言って、いつまでも俺の行為を甘んじた。頭を撫でてきた。逃げずにいてくれた。
 那智は分かっているんだな。どうして俺がここまで弟を「欲」しがっているのか、その本当の理由が。まじで敵わない。那智にはほんと。

 明日もお前をくれ、と言えば、きっと那智は笑顔で叶えてくれるんだろう。残念な兄さまは、当たり前のように遠慮なく我儘を言うよ。

 だって俺の我慢を蹴ったのは、お前なんだからさ。那智。


【7】



 通り魔にお腹を刺されて二週間余りが経った。

 ようやっと一人前分のお粥を食べられるようになったおれは、長時間活動が苦にならなくなっていた。
 それこそ目が覚めたばかりの頃は食事をするだけでもしんどくて、食べたらすぐに眠る生活をしていたのだけれど、今は眠る回数も減っている。

 傷口のせいで微熱は続いているけれど、体は少しずつ回復に向かっているんだと思う。兄さまは回復していくおれに、すごく喜んでくれた。

「今日も、おいちゃん達と話せそうにないか。坊主」

 回復に向かっている一方で、おれは警部さん達から連日のように事情聴取を受けている。
 通り魔の正体はおれをストーカーしていた人間だと推測されている。当然、警部さん達はおれの身の回りのことを聞きたい。小さな情報でも解決の糸口になるかもしれないのだから。

 それは分かっているし、おれも協力したい気持ちはある。犯人がいつまでも捕まらないって、やっぱり怖い。またいつ刺されるかも分からないし、おれが事件に遭ったせいで兄さまにいっぱい迷惑だって掛けているんだから、ここは少しでも情報を渡すべきだ。

 分かっている、分かっているんだけど、ここ数日のおれは他人と会話が難しくなっている。

 他人を前にすると、どうしても声が出なくなってしまうんだ。
 もちろん、声が出ないわけじゃない。兄さまとふたりっきりの時はちゃんと話すことができる。

 だけど、まったく相手のことを知らない他人を前にすると、魔法にでも掛かったかのように体がこわばってしまう。どうしても恐怖心がぬぐえないんだ。

 お腹に受けた痛みが強迫観念にとらわれてしまう。また、他人からあの痛みを受けるんじゃないかって。
 そして、刺された痛みがお母さんの暴力を思い出す。傷付けられるんじゃないかと怯えてしまう。これのせいで担当医にまで口が利けないのだから、おれは本当に臆病者だよ。


「那智。今日はもう休むか?」

 事情聴取の終わりは、いつも兄さまの気遣った声が合図になる。
 おれはたっぷり間を置いて、うんとひとつ頷いた。何一つ進展がないのに、兄さまは「がんばったな」と褒めて、おれをベッドに寝かせると胸上まで毛布を掛けてくれた。

 これが連日の光景になっているから、病室に足を運んでいる警部さん達は少し弱っている様子だった。

「下川の兄ちゃんと一緒にいるだけじゃダメなんだな。本人から直接話を聴きたいんだが」

 すると、兄さまがすかさず反論した。

「那智はちゃんと努力している。あんた達が来る前は俺とたくさん会話して、声を出す練習だってしているんだぜ? けど努力だけじゃどうにもならないことだってある。気合でどうにかなるもんじゃねえんだ。那智のこれは」

「坊主の担当医から心理療法をすすめていると聞いているが……坊主はそれを受けるのか?」

「なんだよ、調べたのか? べつに俺と会話できているし、いまは何も考えてねえよ。怪我の完治が優先だ。いっぺんに物事を進めても、那智の負担にもなりかねないしな。益田、俺じゃダメなのか? 事情聴取ってやつは」

「もちろん、下川の兄ちゃんに事情聴取を受けてもらうことには申し分ねえ。けどな、被害者である坊主にしか聞けない情報があるはずだ。坊主の事情聴取は欠かせない」

 益田警部はおれに視線を配る。
 それだけで喉の奥が引き攣ってしまった。おれだって受け答えしてあげたいんだけど、無理なものは無理なんだって。体が言うことを聞いてくれないんだから。

 おれはそっと視線を逸らす。
 兄さまと益田警部が会話を交わしている傍ら、病室の四隅で刑事の柴木刑事、勝呂刑事がひそひそと仕事のことを話している。
 ボールペンと手帳を持って会話している姿を見ていると、テレビドラマで見た刑事さんみたいで、ちょっと憧れてしまう。あの手帳には聞き込みした情報が走り書きされているのかな? 気になる。

 ……走り書き? ……あ!

 おれはベッドに横たわったまま、ゆっくりと腕を伸ばして、兄さまの服を握った。

「那智? どうした」

 不思議そうに見下ろしてくる兄さまに向かって、おれは刑事さん二人を交互に指さすと、手でペンを持って書くジェスチャーをした。
 察しの良い兄さまはおれと柴木刑事、勝呂刑事を見比べて、「ああ」と納得したように頷いた。

 そして益田警部に向かって話を切り出す。

「益田。事情聴取に筆談は可能か? それなら那智も受け答えできそうだ」
「筆談か」

 益田警部がふたたびおれに視線を配る。

「坊主。おいちゃん達と筆談ならいけるか?」

 うん、おれは小さく頷いた。
 声に出して受け答えすることは難しいけど、筆談なら多少は協力できると思う。


 おれの返事に二度、三度益田警部が頷くと、おれと刑事さんを交互に視線を流して、少しだけ考える素振りを見せる。

 そして思いついたように勝呂刑事や柴木刑事を呼びつけると、何やら彼らに指示をして事情聴取のために準備を始める。
 てっきり適当に紙とペンを用意して、すぐに事情聴取をすると思ったのに……準備のために勝呂刑事や柴木刑事が病室を出て行ってしまったものだから不安になってしまった。

(事情聴取に準備がいるんだ……お話をするだけと思っていたんだけど)

 兄さまも同じ気持ちだったみたいで、警部さん達を怪訝な顔で見守っていた。


 三十分足らずで刑事さん達は帰って来た。
 彼らは手頃なスケッチブックと、手触りの良いボールペンをおれに渡してくる。スケッチブックはどこにでも見かけるようなものだったけど、ボールペンは百均でみるようなプラスチック製のものじゃなく、木製の立派なボールペンだった。高そう。でもかっこいい。

 益田警部は木製のボールペンケースと一緒に、それをおれにくれた。

「これから何度も、お前さんと筆談することになるだろうからな。これくれぇ立派なボールペンを贈ってやらねぇと。坊主、それは兄ちゃんとお揃いだぞ」

 ボールペンやケースをしげしげと眺めていたおれの耳に、思わぬ言葉が飛び込んでくる。

 兄さまとお揃い? それはほんとう?

 益田警部を見つめた後、ゆっくりと兄さまに視線を移す。
 何とも言えない顔をしてボールペンケースを見つめている兄さまがそこにはいた。

「益田。何を考えてやがる」

 なんて独り言をぶつくさ呟いている。
 そんな兄さまの服を握って、本当にボールペンがお揃いかどうかと見せてほしい、と仕草で訴えた。

「ほら」

 兄さまがボールペンケースと中身を見せてくれる。

 何もかも一緒だ。
 おれと兄さまはおんなじボールペンをお揃いで持っているんだ。

 ついつい心が踊ってしまった。兄さまとお揃いを持つなんて、今までに無い経験だったから。

「お揃いってのはいいもんだ。見えねえ繋がりを可視できる」

 益田警部がスツールを持って、ベッド傍にいる兄さまの隣に並ぶ形で座った。
 可視という意味が分からずに困惑していると、「肉眼で見えることだ」と兄さまが教えてくれた。つまり益田警部はボールペンを通しておれ達の繋がりが目に見えるようになったよ、と言いたいらしい。

「見えることで強くなることもある。兄ちゃんと同じものを持っていれば、たとえ何が遭っても乗り越えられる気がするだろ?」

 おれはボールペンと兄さまを何度も見比べた。
 お揃いが無くったって、おれと兄さまの繋がりは絶対だと思っている。
 どんなことがあろうとおれは兄さまを一番大好きな人と言える。言えるけれど、目に見える繋がりがあると安心できるのも確かだった。

 他人から貰ったものだけど……兄さまもおなじものを貰っているし、なによりも大好きな人とお揃いで何か持っているなんて、すごく嬉しい。


「坊主が喜んでくれてなによりだ。兄ちゃん、おめぇはそれを捨てるんじゃねえぞ。せっかくお揃いを貰って喜んでいる坊主が泣くぜ?」

 顔に出ていたみたい。
 ハッと我に返るおれの側で、兄さまが大きなため息をついていた。

「益田、まじイイ性格してやがるな。那智を味方につけやがって」

「なあに。おいちゃんはおめぇさん達のうつくしい兄弟仲を応援したいだけだ。あとお前さんが拗ねないようにしねぇと。弟にだけ贈り物なんて不公平だろ? 兄ちゃん」

「……てめぇ」
「つまり、お前さんも俺から見たらガキってことだ」

「くそ。お前のことが苦手で仕方がねえよ」
「それは光栄なこった」

 へらりへらりと笑う益田警部に、兄さまは苦い顔を作るばかりだった。

 珍しい光景だった。
 兄さまはどんな大人に対しても冷静で、感情を表に出すことは少ない。
 おれとふたりになるとその大人に対して感情的に怒ったり、鼻で笑って馬鹿にしたり、喜怒哀楽をはっきり出すんだけど……大人に子ども扱いされて、翻弄されている兄さまは本当に珍しい。

「さて坊主。まずは坊主のフルネームをおいちゃんに教えてくれるか?」

 事情聴取が始まる。

 益田警部から切り出された質問に頷き、おれはスケッチブックにぎこちなくボールペンを走らせた。相変わらず体はこわばるけれど、声を出すよりもずっとスムーズに答えられた。

 フルネームを答えた後は誕生日、好きな季節、苦手な食べ物、得意なことを聞かれた。
 最初から事件のことを聴かないのは、おれの緊張をほぐすためなんだと思う。もたもたと書いても警部さん達が何も言わないでいてくれるから、安心して自分のペースで答えられた。兄さまが傍にいてくれるのも要因の一つかな。

「坊主。お前さんが『Flower Life』に通い始めたのはいつごろだ?」

 それなりにボールペンを持つ手が温まった頃、益田警部が事件に関連性のある話題を出した。
 ストーカー事件の内容に踏み込む前に、おれが行きつけにしていた花屋について情報を得たいみたい。

 おれは動きを止めて、スケッチブックを見つめる。そしてボールペンを走らせて答えた。

「『兄さまが大学に入学してちょっと経ったくらい』か。兄ちゃんは去年大学に入ったんだっけ?」

 益田警部が兄さまに視線を投げる。


「ああ。俺の記憶じゃ那智が『Flower Life』に通い始めたのは、五月の終わりごろだったか。那智が花に興味を持ち始めたから、大学帰りに待ち合わせをして一緒に入ったのがキッカケだったはずだ」

「なるほどな。坊主、どれくらいの頻度で通っていた?」

 おれはうんっと一思案すると、スケッチブックに『月に4から5回』と答えた後、その時は必ず兄さまのバイトがない日だと付け加えた。

 その理由は簡単、兄さまと一緒に帰りたかったから。

 『Flower Life』は兄さまの通う大学のすぐ近くにある。
 せっかく近くまで来たんだから、やっぱり大好きな人と一緒に帰りたいもの。

 だから『Flower Life』で時間を潰して、兄さまの講義が終わる頃に大学の正門へ赴いて、兄さまを待つようにしていた。それは兄さまが一番よく知っている。

「兄ちゃんのバイトがある日は避けていたってことだな?」

 うん。おれは頷いた。

「バイトがある日に店に行ったことは?」

 首を横に振る。
 『Flower Life』に行く時は必ず兄さまに連絡をしていたし、おれも事前にバイトがあるかどうかの確認をしていた。

 兄さまは優しいから、いつもおれを優先してくれる。
 もしも兄さまのバイトがある日に『Flower Life』へ行ったら、それこそバイトを休んでおれと一緒に帰ってくれるだろう。それは申し訳ない。

 かといって、兄さまに隠れて『Flower Life』へ行こうとも思わなかった。
 花や植物を見るのは好きだけど、それは兄さまと一緒に帰る日でも見ることができるし、我慢できないほど花に嵌っているわけでもなかった。
 なにより兄さまに秘密は作りたくない。おれは嘘が下手だ。すぐにばれることは明白だった。

 だからバイトがある日は避けて、バイトがない日に『Flower Life』へ行っていた。

「講義が終わってから、というと基本的に午後に通っていたってことになるな。具体的な時間は分かるか?」

 うーん、具体的な時間。
 講義に合わせてお店に通っていたし、おれも16時まで図書館で勉強することも多かったから、大体17時から18時の間かな。
 兄さまと合流した後は、二人でよく買い物や外食をしていたよ。


「次に『Flower Life』の従業員についてだが……坊主、この写真を見てほしい」

 スケッチブックの上に写真を並べられる。
 そこにはいつもおれに優しく声を掛けてくれるおばあちゃん店主から、店で見たことのある数名の従業員がそれぞれ写真に写っていた。

 曰く、アルバイトを含めて5名が『Flower Life』で働いているらしい。
 益田警部は写真を指さして、会話をしたことがある従業員、したことがない従業員、そもそも顔すら知らなかった従業員に分けてほしいと頼んできた。

 言われたとおり、おれは写真を分けていく。

「坊主が会話したことがあるのは、花屋の店主『渡壁 雅子(とかべ まさこ)』。正社員の『斎藤 佳那(さいとう かな)』。アルバイトの『福島 朱美(ふくしま あけみ)』。全員、店内で接客している従業員だな。残りは配達運搬を任されている男性のアルバイトだが、坊主は会話をしたことがないと……見たことはあるんだな?」

 おれは小さく頷いた。
 あの花屋さんに男性がいることは知っていたけど、お店の商品を運んでいる姿しか見たことがなかった。接客をしているところも見たことはない。お客さん対応はいつも女性陣がしていたイメージだ。

 と、兄さまが難しい顔をして男性従業員の写真を見やる。

「見たところ、男二人は俺と同い年ぐらいだな」

「ちと年上だな。どっちも二十代後半でフリーターだ。殆ど店内作業はせず、配達運搬をしている。坊主が会話したことがないのも無理はない」

「接点がなくとも、店内の会話くれぇは聞けそうだがな。那智のストーカーは、弟の欲しがっていたカモミールが贈ってきた。それを知れる機会ってのはそうねえと思う」

 兄さまは花屋の従業員全員に疑いの心を持っているみたい。
 とくにおれを刺した通り魔は男性。ストーカーしてきた人と同一人物なら、まず花屋の男性従業員に疑いの心を向けるよね。普通。

(ただ、おれは刺される瞬間『下川の弱点』という言葉を聞いた……つまり、犯人は兄さまを知っている?)

 考えれば考えるほど、頭がこんがらがってくる。もっと頭が良ければなぁ。

(なにより、兄さまはカモミールのことで引っ掛かっていそうだな)
 
 あ、そうだ。
 カモミールが欲しくなったきっかけについて、ひとつ話せることがある。

 おれは一枚の写真を手に取ると、兄さまと益田警部の前に差し出した。