「那智、布団に入ろう。リンゴジュースを買ってきたんだ。好きだろ?」
那智を抱えたままベッドの上に座り、俺は聞かん坊になっている弟の頭を撫でる。
首を横に振ってくる那智は、心がまだあの頃のままなのか、「お母さんは何時に帰ってきますか?」と聞いてきた。単純に「母さんはもういないよ」と言っても良かったんだが、乱心した後の那智に、それが通じるとは思えない。なにより調子に戻るまで時間が掛かるだろう。
だから俺は「今晩は二人っきりだ」と言って、あの頃の会話を思い出すように伝える。
「今日は帰って来ない。恋人のところの家に泊まってくるってさ」
「ほんと?」
「ああ。だから怖いものは何にもねえ。安心して眠れるよ」
那智がホッとしたように頬を緩ませる。
「お母さんに、今日はもう叩かれなくてすむ。うれしい」
「うん。そうだな」
「兄さま、ごめんなさい。お昼、お母さんに叩かれた。おれのせいで」
どうやらイマジナリーお母さんは、俺を遠慮なしにぶっ叩いているようだ。
何度も自分のせいで叩かれたことを謝っている。なんてことない、とおどけてやると、那智は浮かない顔でパジャマの裾を握り締めた。
「兄さまはいつも、おれを庇って痛い思いをしています。本当はおれが受けなきゃいけない痛みなのに……それが悔しくて。ねえ兄さま、こんなおれが兄さまにできることってなんです?」
那智は言う。
自分は兄に比べると、頭が良くない。運動もそんなにできる方ではないし、要領も良くない。どんな相手にだって立ち向かえる強さだってない意気地なし。気が弱いばかりに、母親を苛立たせることも多い。
こんな自分を兄は一生懸命に守ってくれる。
どんなにドジを踏んでも、笑って許してくれる。一緒に罰を受けてくれる。
そんな優しい兄に弟の自分は何ができるのか、那智は真摯に尋ねてきた。
俺は思わず噴き出してしまう。
お前はいつもそうなんだよな。自分を卑下するばかりで、ちっとも褒めてやらねえ。
「那智。いつも言っているだろう? お前は兄さまを支えてくれてるって。お前がいるから、俺はどんな無茶だってできるんだって」
ベッドから毛布を手繰り寄せると、それを肩から掛けて、那智と一緒に包まった。
「お前がいねえと、俺は何もできねえ」
脳裏によみがえる、先日の刃傷事件。
その場で崩れる弟の姿と、失うやもしれないぬくもりと、独りになるかもしれない恐怖と、それから。それから……。
思い出すだけで吐き気がこみ上げてきた。
「お前がいるから、生き続けたい明日がある。那智がいてくれたら、俺はそれでいいんだ」
本心から思っている、那智がいてくれたらそれでいい、と。