「那智。今日は難しいか?」
問うと、那智は小刻みに体を震わせながら何度も頷いた。
「益田。日を改めてくれ。これ以上、那智に無理はさせられねえ」
「そうか、坊主は目覚めたばかりだからな。今日はお前さんと約束を取り付けられただけでもヨシとするよ」
妙に含みのある言葉に、俺は舌打ちを鳴らしてしまう。
それは嫌味かよ、益田。
「下川の兄ちゃん。お前さんに言っておくぜ。これから先、この病室を含めて、お前さん方兄弟に部下をつける。なあに、お前さん方は普通に過ごせばいい。お前さんらの日常を邪魔をする気はねえ」
「はっ。たいへんだな。少しでも身内の尻ぬぐいをして、名誉回復に努めるって魂胆だろ」
「本当にな。ああいうばか共がいるから、警察の信用が堕ちるんだよ」
俺の嫌味を綺麗に躱す益田の方が一枚も、二枚も上手のようだ。
これが社会人と大学生の人生経験の差って奴なのかもしれない。ああくそ、俺ひとりで那智を守りたい一方で、現実をむざむざと見せつけられている気分。社会にはこういう人間がたくさんいるんだろうな。益田はちょっと苦手だな。
「――……下川の弱点」
刑事達が病室を退室しようとした、まさにその時、那智がか細い声で言葉を漏らした。
振り返る刑事と、驚く俺を余所に、那智が青白い顔のまま、肩に掛かっている上着を握り締めた。
「もう一度言えるか?」
何か思い出したのか? 努めて優しく、ゆっくりと尋ねれば、那智が眉を下げてぽつぽつと零す。
「下川の弱点……おれ、刺された瞬間に言われて。全部聞き取れなかったんですけど……兄さまのことなんじゃないかって」
下川の弱点。
那智を刺した人間は発した言葉にしては不可解だ。
相手は那智に性的な思いを抱いていたはず。そんな人間に「下川の弱点」なんざ、那智に向ける言葉にしては不自然すぎる。前後の言葉を聞いていないから、あくまで憶測になるが、それを向けるべき相手は俺だ。
なら、那智を狙った、ほんとうの理由ってのは。
「坊主、おいちゃんと話せそうか?」
益田が戻ってくる。
那智は何度も「下川の弱点」を反芻し、やがて頭を抱えて嫌だを連呼した。慌てて那智の背中をさするも、那智は発狂したように嫌だを連呼し続けた。
そして那智は今日一番に叫ぶ、「兄さまをもう叩かないでお母さん!」と。
お母さん。
那智の最もトラウマとしている人物の名前に驚いてしまう。
「やだ。おれのせいで、兄さまが叩かれるのはもうやだ。お母さんを怒らせたのはおれなのに、また兄さまが傷付いちゃう。おれが、おれがちゃんとしなかったからっ! いやだ、いやだいやだいやだ! 兄さまは何も悪くないのにっ!」
「那智! 落ち着けっ!」
「お母さんがっ、兄さまをッ、おれのせいで! やだっ、やだよ。おれが悪いのにッ!」
「那智!」
両肩を掴んで、何度も那智の名前を呼ぶ。
ハッと我に返った那智は、かるく首を横に振ると大粒の涙を流して、「兄さまは何も悪くないよ」と、「おれが悪いんだよ」と言って縋ってくる。悪いのは何もできない自分だと、守られてばかりの自分だと、要領の悪い自分なのだと言って火のついたように泣きじゃくる。
お母さんごめんなさい。許してください。自分が罰を受けるから優しい兄を殴らないで、そう言って聞く耳を持たない那智はすっかりあの頃の心に戻ってしまったようだ。