また、ぐらぐらと揺れ始めた視界を遮断すように瞼を閉じ、俺は謝罪と後悔を繰り返す。
那智は、生涯消すことのできない傷を負ってしまった。
母親から受けた暴力の他に、大きな傷が刻まれてしまった。きっと、その傷を見る度に那智は事件を思い出すに違いない。どんな形であれ、ストーカーに思いを向けるに違いない。
それが、とても悔しい。那智を大切に思っているのは俺なのに。
それが、とても妬ましい。弟には兄貴だけを思っていて欲しいのに。
それが、とても羨ましい。俺も那智に傷を見て思われたい。
なによりもこわい。
絶対だと思っていたふたりの世界が決壊するかもしれない、その“いつか”が。そうなる前にどうにかしないと。どうにかしないと。どうにかしねーと。
(何もせずに終わったら、いつか俺はひとりになる)
そんなのいやだ。
この世界が崩れないと信じられる、絶対、が欲しい。俺は那智が欲しい。
(ほしい)
握り締める那智の手に目を落とす。
小さな手だ。枝のように細い指は、力を加えるだけで折れてしまいそう。
おもむろに弟の手を持ち上げ、手の甲に舌を這わせる。味はしない。人差し指を歯で軽く噛んでみると、小さな歯形がついた。俺の歯形だ。痕がつくことが嬉しくなって、夢中で噛んでしまう。
我に返った時には、歯形だらけの手になっていた。
俺は弟相手に何をしているだよ。重傷人の弟に、なにを……噛むことが快感になっていた、なんておかしいだろう。
(だめだ。頭痛がひどくなってきた)
三徹が地味に効いているのかもしれない。
俺はひどくなり始めた頭痛に重いため息をつくと、那智の手を握りなおし、上体をベッドに預けた。あれほど拒んでいた眠気が、どっと波のように襲い、気付けば意識を失っていた。
ちょっとした昔話。
那智が生まれる前の俺は、とにかく母親に愛されようと必死だった。
なんでもいいから、俺を認めてほしかった。笑い掛けてほしかったし、抱っこをしてもらいたかったし、いい子だと頭を撫でられたかった。
だから、ひたすら我慢をしていた記憶がある。母親やとっかえひっかえに作ってくる彼氏の暴力や暴言に。
それに耐えられなくて近所に助けを求めた日まで、ずっと我慢をしていた。
助けを得られなかった以降の記憶は、よく憶えていない。
ぼんやりと殴られて過ごす日常を送っていたと思う。見切られたショックのせいで、幼い俺の心は死んでいた。
心を取り戻し始めたのは那智が生まれて二年くらい経った頃だったか。
それまで那智が生まれても、なんか小さい奴が家にいるってくらいの認識がなかった俺は子守を任されると、それを淡々とこなしていた。
『にーぃ?』
言葉を覚え始めた弟は、世話をする俺の名前を呼ぶようになった。適当に返事をしてやると、意味も分かっていないくせに笑いを返した。
それは俺が求めていた物のひとつ。笑い掛けてくる弟が見たくなり、もっと世話をした。
決定的になったのは、俺が母親に手をあげられ、怪我をした日のこと。
いつものように、殴られ自室に閉じ込められてしまった俺は、鬱陶しいという理由だけで部屋に放られた那智と一緒に過ごすことになった。
『いちゃい?』
体の節々が痛くて、弟の世話をする気分じゃない俺に那智は歩み寄り、そして腫れた頬を見つめ、こんなことを聞いてきた。
素直に痛い、と答えるとどうだ。
弟は頬を撫で、傷を癒そうとした。体を突き飛ばしても、離れろと強めに言っても、那智は泣かずに頬を撫でてくる。
こんなことをされても痛みなんて消えるはずないのに、消えるわけがないのに。弟の俺を思う優しい手が痛みを忘れさせてくれた。
『にぃ、いいこ。いいこ』
十二分に頬を撫でた後、那智は俺の頭に手を置いた。
そして、幼い声でいい子だと言って聞かせた。殴られた俺を見て、悪い子じゃない、いい子だと励ましてくれた。
俺がなにより欲しい言葉を、小さな弟がくれた。殴られて続けていた俺は、どこかで思っていた。自分が悪い子だから母親は愛してくれないのだと。
だから、自分がいい子だと言われた瞬間、何かがぷっつりと切れてしまった。
気付けば、声を殺して泣いていた。
完全に心を取り戻した俺は、弟の体を抱きしめ、心も体も痛いことを訴えた。それを癒そうとする那智も、俺と一緒に泣いてくれた。
誰かが自分のために泣いてくれたことも、撫でてくれたことも、癒そうとしてくれたことも初めてで、俺はむせび泣いた。
こいつだけが俺を愛してくれる、そうに違いない。ただひたすらに泣きながら、そう思った。
「――……ぃ……こ……ぃぃ……」
かすれ切った音と、揺れる髪の振動に重たい瞼を持ち上げる。いつの間にか眠っていたようだ。
瞬きをする間もなく覚醒する。
握っていたはずの弟の手がそこにはなく、俺の頭の上に移動していた。それに驚いて顔を上げると、小さな手がするりとベッドの上に滑り落ちる。
腕を伝った先に、半開きになった目とかち合う。俺の視線に力なく笑いかけたのは、まぎれもなく、たった一人の家族。
声にならない声で、「いい子」と呟く那智を見つめ、見つめ、みつめ。情けなく顔をくしゃくしゃにしてしまう。
「なちっ……なち……よかった、ほんとうに。よかった」
あの時のように、那智を抱きしめことはできなかったけど、小さな手を拾って大粒の涙を流す。
俺を愛してくれる、最愛の家族が目を覚ましたことに、ただただむせび泣いた。
【5】
那智が目覚めたことで、俺のささくれ立っていた気持ちが、少しだけ落ち着きを取り戻す。
初日こそ口を利くことが難しかった弟だけど、日を跨ぐと会話ができるようになった。
長時間しゃべると腹に響くようだが、それでも俺と積極的にしゃべろうとしてくれる。たぶん、やつれた俺に思うことがあったんだろう。
ただ食欲は皆無で、どろどろの重湯を食べきることができずにいた。
日が経ち、お粥に切り替わっても、それを完食することは難しい。頑張って食べようとしているんだが、半分まできたところでギブアップしてしまう。
その代わり、オレンジジュースを差し出すと、すすんで口に含む。飲み切れなくても美味しそうに飲んでくれる。甘味が大好きな那智だからこそ見れる姿に、俺はホッと胸を撫で下ろした。
少しずつでもいい。食欲を取り戻してくれたら、兄さまは嬉しいよ。
「おれ、刺されたんですよね……」
那智は刺された当時のことを、よく憶えていないそうだ。
気付いたら、腹に燃え上がるような激痛が走り、膝を崩して悶えていた。だから犯人の顔はまったく記憶にないと、俺に語ってくれる。
「もし、憶えていたなら、逃げた犯人の手掛かりになったのに。おれが一番、顔を目撃できる可能性があったのに。ごめんなさい」
そう言って謝罪する那智に、俺はかぶりを横に振った。
今回の事件はお前のせいじゃない。那智は完全なる被害者だ。どこにも非はない。
責められるべき人間は犯人と、ストーカー被害を嘲笑った警察だ。あいつらだけは絶対に許せない。特に、お前に傷を残した犯人は見つけ次第、見つけ次第……。
十日目の昼下がり。
俺は那智のために、買って来たゼリーをスプーンで細かく砕いていた。
より食べやすく、喉通りを良くするためだ。クラッシュタイプを買って来ても良かったんだが、生のフルーツも食べさせてやりたかったんだ。那智曰く、病院の病人食はまずいらしいから。
「那智。体を起こすぞ。痛かったら言えよ」
ゆっくりと体を起こしてやり、枕をクッション代わりに置いてやる。
「あいててて」
那智が顔をゆがめた。ちょっとの衝撃でも縫合した患部が痛むらしい。
「大丈夫か? 枕をずらすか?」
ううん。首を横に振る那智は枕に背をあずけて、長い吐息をつく。
そして不満気に唸った。
「兄さまに迷惑をかけている、この体が憎いんですけど。はやく治らないかなぁ」
「あほ。お前の体は長時間の手術にだって耐えたんだ。少しは労わってやれ」
そう言っても、那智は自分の不自由な体が憎くて仕方がないらしい。はやく治りたい、元気になりたい、動けるようになりたいとぼやいていた。
「早く兄さまと家に帰りたいです。ここは退屈で退屈で。おれがこんな状態だから兄さま、大学にも、バイトにも行けていないでしょ? ずっと泊まってくれて……」
「俺はいいんだよ。バイト先にも、大学にも、ちゃんと事情を説明している」
ここで寝泊まりする分にも、まったく問題はない。
事情が事情だからか、ここの個室は他の個室よりも豪華だ。テレビや洗面台はもちろん、バスやトイレ、ソファーにテーブルと、まるでホテルのような部屋だ。ミニキッチンもあるから、そこで食事も作れる。
一般の患者として泊まっていたら、たちまち数十万飛んでいきそうな病室だ。
ちなみにこの部屋は俺の意向じゃなく、病院側の配慮。
那智はいま、世間を騒がせている事件の被害者だ。
どこぞのテレビ局や新聞記者が取材に来るやもしれない。また病院には多くの患者が入院している。平穏を守るためにも、中流の一般人が手を出さないであろう個室を手配してくれた。
有り難い配慮だった。
おかげで、俺も穏やかな気持ちで病室に泊まることができる。
「兄さま。おれ、いつ動けるんですか?」
那智の口元にゼリーを運んでやる。
スプーンごと、ゼリーを含んだところを確認し、「まだまだ先の話だ」と返事をした。
「まずは起きる練習。次に立つ練習。で、歩行練習だ。しばらくは車いすで移動だな」
「ええー?! 車いすぅ?」
「当たり前だろ。無理に動いて傷が開いたらどうするんだ。担当医の許可が出るまで、那智が嫌がろうと俺は車いすに乗せるからな」
死ぬほど心配させたんだから、これくらいの言うことは聞いてもらわないとな。
「あと、もう少し元気になったら、血を作るもんを食わないとな。毎日夕飯はレバーだ」
「うぇえ。兄さま、おれがレバー嫌いなの知っているでしょ!」
「これを機に好きになりゃいいじゃねーか。体にはいいことだ」
さも当然のように言うと、那智が血相を変えてしまう。
こいつは知っている。兄貴が一度言い始めたことは、必ず実行されるってことを。
「れ、レバー以外なら食べますから!」
「あ、言ったなお前。じゃあ、毎日ひじきと大豆を出してやる。それも血を作るらしいぜ」
那智がしかめっ面を作った。
予想通りの反応に噴き出してしまう。お前はひじきも大豆も好きじゃないもんな。ほんと、いじめ可愛がりたくなる反応だよ。
「面白い番組ないかなぁ。お昼のドラマってあんまり面白くないですよね」
話題を替えるために、那智が何気なくサイドテーブルに置いていたリモコンを取って、テレビを点ける。
間が悪いことに、『通り魔事件』の特集が流れていた。
大げさな文字フォントで【新事実発覚、少年は数日前にストーカー被害に遭っていた!】と表記されている。
それは俺がマスコミに流したわけじゃなく、鼻の良い記者が嗅ぎまわって、那智のストーカー被害の情報を掴んだようだ。
ワイドショーのMCや専門家が、好き勝手に被害者の精神面を心配し、警察の失態に非難を浴びせていた。
観ても気分が悪いだろうに、那智は画面をじっと見つめている。
「兄さま。この人達は変ですね。どうして、おれは心配されているんですか」
俺がリモコンを取って、チャンネルを替える一連の流れを眺めながら、那智は心底不思議そうな顔を作った。
「理不尽で重たい怪我を負ったから、こんなにも心配されているんでしょうか?」
だったら、どうして虐待をされていた時は、ストーカー被害に遭っていた時は、心配をされなかったのか。他人の心配する基準が分からないと那智は唸る。
「いつも兄さまだけでした。おれを親身に心配して、助けてくれたのは……今回だって、兄さまをやつれさせてしまうほど心配させてます。その一方で今回の事件だけ、他人から心配されるなんて変な気分です」
理不尽な犯人の行動、警察の失態に怒り、被害者に哀れみを向ける他人の気持ちが、自分には理解できないと那智は語る。
その顔は、本当に複雑な顔をしていた。
俺は目を細め、サイドテーブルにカップを置き、弟の頭を撫でる。
「那智。考えるだけ無駄だ。俺達にはきっと理解できないことなんだから」
いや、理解しちゃなんねーことだ。出掛かった言葉をゆっくりと嚥下する。
「お前が考えるべきことは自分の体だ。しっかりと治して、元気になってくれよ。お前のことは、今度こそ兄さまが守ってやるから」
それこそ、どんな手を使っても。
お前は俺の大切な家族なんだから。安心して傍にいられるよう、環境を作ってやらねーと。
仄暗い感情を抱いていると、病室の扉をノックする音が聞こえた。
「看護師か?」
まだ、夕食にしては早すぎる時間なんだが。点滴の時間でもねえだろうし。
返事をすると、遠慮がちに扉が開いた。思わずスツールを倒し、睨みを飛ばしてしまう。そこにいたのは、俺に事情聴取をした警察の人間。益田とか警部と、刑事で部下の柴木、勝呂。
「だれ?」
那智が不安げな声を出す。
柴木の手に持つ花束で、自分の見舞い客だと分かったようが、こいつにとって三人は初対面。おまけに俺の機嫌が急降下している。警戒心を抱くのは仕方がないことだろう。
「何しに来やがった。出て行け」
お呼びじゃねえんだよ。一度でも見舞いに来て欲しいなんざ言ったか?
「突然、来て悪いな。坊主の目が覚めたと聞いてな」
嫌悪感丸出しの俺に、臆することなく益田が話を切り出す。
出て行くよう怒鳴っても、向こうは引くことを知らない。むしろ予想していた反応だったのか、三人が深く頭を下げて来た。それはストーカー被害についての謝罪だった。後日、担当した警察官が詫びに来るそうだが、正直顔も見たくない。許せない連中がここにいる、それだけで吐き気を催しそうだ。
「少し、坊主に話を聞きたいんだ。今回の事件をひっくるめて、ストーカー被害に遭っていた数日間のことを」
「ンなの、警察署の連中に聞け。話したことがすべてだ。さっさと出て行け。弟は目を覚ましたばかりで、まだ体調が良くねえんだよ」
そうでなくとも、警察と話すことなんざねえ。どうせ、また笑うだけだろうが。
「坊主のストーカー被害について、今後は俺が担当する。おめぇら兄弟のことは、俺が責任を持つ」
「事がでかくなった途端これだ。隠蔽ができなくなったから、今度は汚名返上でもしようってか? 冗談じゃねえよ。もう、警察に世話になるつもりはない」
すると、勝呂が口を挟んでくる。
「今朝、警察署に弟さんの写真が送られてきました」
なん――て?
「勝呂!」
一喝する益田によって、病室は静まり返った。
勝呂は三人の中で一番歴が浅い、未熟な刑事のようだ。被害者の前で失言したことに、うろうろと目を泳がせていた。
けれど、俺の意識は完全に別の方へ囚われていた。
警察署に那智の写真? なんで警察に? それはもしかして……怒りよりも先に、疑問がこみ上げてくる。
俺は混乱する頭で、必死に状況を整理しようとした。
「……その写真の中にメッセージは入ってたか?」
ようやっと出てきた言葉はこれだった。
俺は益田に聞く。写真の束と一緒にメッセージは入っていたかと、もしも入っていたなら、それは性的な内容だったか、と。
「ああ。写真と同封されていたよ。英文でメッセージが綴られていた。内容は察する通りだ」
思わず拳で壁を叩いてしまう。
なるほどね、益田達がストーカー被害を引き継いだ真の意味を察した。くそったれ。
ストーカー野郎は捕まっていない。那智を刺した犯人も捕まっていない。前者と後者は同一犯だと考えるのが筋。その一方で警察署に那智の写真を送りつける挑発的なことをした。性的なメッセージカードと一緒に同封して。
つまり、この事件は何も終わってねえってことだ。
(いまも那智は狙われ続けている。こんな怪我まで負わせておいて、まだ繰り返そうとしているのか)
怒りで頭が狂いそうだ。
執拗に那智を狙う、犯人の心情が分からねぇ。
「坊主の兄ちゃん。その子から話を聴かせてほしい。おめぇらのことを、この事件を、もう誰も笑わせねぇと約束する」
んなの誰が信じるかよ、だれが。
そう思っても、内なる冷静な俺が落ち着けと、手前には限界があるだろうと問いかけてくる。
確かに警察の世話になるなんてまっぴらごめんだ。警察を頼ったから、こんな悲劇が起きたと言っても過言じゃない。自分ひとりで弟を守るべきだと今も現在進行形で思っている。
とはいえ手前を過信する気もねえ。警察と比べた俺なんざ、所詮一般人で事件にど素人野郎。何をどうすれば、最善の策で弟を守れるのか、ちっとも分からない。
感情的に怒れて、益田達を追い返すことは簡単だ。
けど、それで終われるほど、この事件は甘くねえ。犯人の得体も知れてねえのに、どう弟を守れる?――分かってる、十分にそれは分かっている。弟を守るための情報が、俺には足りねえ。
だから。
「ひとつ条件がある」
俺は益田に条件を出した。
「那智と接触する時は、必ず俺を通せ。俺の目を盗んで、弟と接触することだけはぜってぇ許さない」
「約束しよう。兄ちゃんの許可なく弟と接触しない」
「適当に振る世間話すら、俺は許す気ねえからな」
「ああ、分かった」
益田はおおよそ、俺の醜い嫉妬心と独占欲を見抜いているのだろう。
それでもなお、真摯に条件を呑んでくる。それが建前なのか、誠意なのか、ど素人一般人の俺には見抜けなかった。ただ醸し出す雰囲気で約束を守る姿勢は感じられた。
俺はぶっきら棒に「さっさと終わらせろよ」と言って、倒したスツールを起こすと、自分の着ていた上着を那智の肩に掛けてやる。
始終、様子を見守っていた那智の小さな頭を撫でてやると、不安な目を向けられる。
「大丈夫。兄さまが傍にいるから」
那智は間を置いて、首を縦に振る。その眼差しから不安が消えることはなかった。
俺の許可を得た益田達は、さっそく那智に事情聴取を始める。
とはいえ、那智は手術を終えて日が浅い。ゆえに手短な質疑応答で済ませると前置きをした。
だが、いざ事情聴取が始まると那智はかたく口を閉ざしてしまった。
手始めに名前を聞かれても首を横に振るばかり。顔面蒼白に俺の手を握って下唇を噛み締めてしまう。
それが可愛い、じゃねえ、まずったな、と思った。
(那智は人見知りだ。受け答えできる人間は限られている)
そこに見知らぬ人間から刃傷事件を起こされた。
言うまでもなく、那智は痛いと怖いの両方を味わった。
人見知りと恐怖心が合わさったせいで、刑事に口を開けなくなっているんだろう。こりゃ事情聴取にならねえな。
「那智。今日は難しいか?」
問うと、那智は小刻みに体を震わせながら何度も頷いた。
「益田。日を改めてくれ。これ以上、那智に無理はさせられねえ」
「そうか、坊主は目覚めたばかりだからな。今日はお前さんと約束を取り付けられただけでもヨシとするよ」
妙に含みのある言葉に、俺は舌打ちを鳴らしてしまう。
それは嫌味かよ、益田。
「下川の兄ちゃん。お前さんに言っておくぜ。これから先、この病室を含めて、お前さん方兄弟に部下をつける。なあに、お前さん方は普通に過ごせばいい。お前さんらの日常を邪魔をする気はねえ」
「はっ。たいへんだな。少しでも身内の尻ぬぐいをして、名誉回復に努めるって魂胆だろ」
「本当にな。ああいうばか共がいるから、警察の信用が堕ちるんだよ」
俺の嫌味を綺麗に躱す益田の方が一枚も、二枚も上手のようだ。
これが社会人と大学生の人生経験の差って奴なのかもしれない。ああくそ、俺ひとりで那智を守りたい一方で、現実をむざむざと見せつけられている気分。社会にはこういう人間がたくさんいるんだろうな。益田はちょっと苦手だな。
「――……下川の弱点」
刑事達が病室を退室しようとした、まさにその時、那智がか細い声で言葉を漏らした。
振り返る刑事と、驚く俺を余所に、那智が青白い顔のまま、肩に掛かっている上着を握り締めた。
「もう一度言えるか?」
何か思い出したのか? 努めて優しく、ゆっくりと尋ねれば、那智が眉を下げてぽつぽつと零す。
「下川の弱点……おれ、刺された瞬間に言われて。全部聞き取れなかったんですけど……兄さまのことなんじゃないかって」
下川の弱点。
那智を刺した人間は発した言葉にしては不可解だ。
相手は那智に性的な思いを抱いていたはず。そんな人間に「下川の弱点」なんざ、那智に向ける言葉にしては不自然すぎる。前後の言葉を聞いていないから、あくまで憶測になるが、それを向けるべき相手は俺だ。
なら、那智を狙った、ほんとうの理由ってのは。
「坊主、おいちゃんと話せそうか?」
益田が戻ってくる。
那智は何度も「下川の弱点」を反芻し、やがて頭を抱えて嫌だを連呼した。慌てて那智の背中をさするも、那智は発狂したように嫌だを連呼し続けた。
そして那智は今日一番に叫ぶ、「兄さまをもう叩かないでお母さん!」と。
お母さん。
那智の最もトラウマとしている人物の名前に驚いてしまう。
「やだ。おれのせいで、兄さまが叩かれるのはもうやだ。お母さんを怒らせたのはおれなのに、また兄さまが傷付いちゃう。おれが、おれがちゃんとしなかったからっ! いやだ、いやだいやだいやだ! 兄さまは何も悪くないのにっ!」
「那智! 落ち着けっ!」
「お母さんがっ、兄さまをッ、おれのせいで! やだっ、やだよ。おれが悪いのにッ!」
「那智!」
両肩を掴んで、何度も那智の名前を呼ぶ。
ハッと我に返った那智は、かるく首を横に振ると大粒の涙を流して、「兄さまは何も悪くないよ」と、「おれが悪いんだよ」と言って縋ってくる。悪いのは何もできない自分だと、守られてばかりの自分だと、要領の悪い自分なのだと言って火のついたように泣きじゃくる。
お母さんごめんなさい。許してください。自分が罰を受けるから優しい兄を殴らないで、そう言って聞く耳を持たない那智はすっかりあの頃の心に戻ってしまったようだ。