「ざけんな!」
カードを握り潰してしまう。
興奮だ? こいつ、那智を性的な目で見てやがる。ストーカー行為の時点でその線だとは、にわかに勘付いていたが、直接言われると腸が煮えくり返りそうだ。
(誰の仕業だ。さっき那智を追い駆けまわしてきた男か? くそ、弟をそういう目で見やがって。確かに、那智は男受けしそうな中性的な顔立ちだ。昔、ババアの恋人に悪戯されたこともあったくらいだし……ああ思い出したくもねえ!)
これは警察か?
いや、ストーカー被害に遭っている世の中の女だって、警察が簡単に動いてくれなくて困っている。男なら尚更、簡単には動いてくれない。
それに、俺自身も警察の無能さは痛感済みだ。虐待されていたあの頃を思い出す。
「なんて書いてあったんですか」
返事が待てなくなった那智が、両手で腕を握ってくる。
「もしかして殺すとか、消すとか、そういうことが書かれていたんじゃ」
その逆だ。逆。お前は愛されているよ、変態様に。
「俺に対する悪口だ。これを贈って来た奴は、俺から那智を奪おうとしている」
色々と誤魔化しは入れているが、うそは言っていない。性的で見ているということは、つまり、俺から那智を奪うも同然のこと。
この野郎は俺から弟を奪い去ろうとしている。ふたりで生きようとしている、俺達の世界を壊そうとしている。壊されたら、那智が消える。俺を慕っている那智が消えてしまう。
そしたら、俺はまたあの頃に逆戻り。ひとりぼっち。ひとり、ぼっち。
……ひとり?
きりきりと世界が軋み、歪んでいくのが分かった。
ひとりになる、その妄想が少しずつ俺の冷静な思考を奪っていく。
(なんで、よりによって那智なんだ。余所を当たれよ。俺にはこいつじゃなきゃだめなのに)
外の世界には、他人が溢れかえっているじゃないか。ひとりくらい掻っ攫ても文句はないだろうに、なんで那智なんだ。
(俺が、ずっと那智を守ってきたのに。暴力を振るう母さんから、必死に守ってきたのに)
他人が他人を慰め、労わり、支え合う世界。
そんな世界のどこかで裏切りや、弱者いじめ、捨てられる愛情がある。他人を信用できない俺にとって、あまりに偽善な世界に見えて仕方がない。
偽りの世界は不必要なんだ。変わりなく慕ってくれる俺を裏切らない弟と、いっしょに生きていく、この世界だけが俺の生きる世界なのに。
(ああ、那智を奪われたら俺は……孤独な世界に放り込まれるくらいなら、今ここで弟の首を絞めておきたい。そしたら、那智はどこにも行けやしない)
それは、まぎれもなく俺の歪んだ本音だった。
狭くなった視野をいつまでも睨んでいると、小さな手が背中を擦ってきた。
いつの間にか息を詰めていたようだ。こわばった体に力を抜き、ぎこちなく視線を落とす。那智が心配そうに、俺を見つめていた。
「兄さま。大丈夫?」
「あ、ああ……頭に血がのぼっていただけだ。なんでもねーよ」
頭を軽く叩き、誤魔化すように写真へ目を落とす。
ばかやろうが。冷静になれ。今、不安に駆られているのは那智じゃないか。不審者に追い駆け回された挙句、こんな写真を送られたんだぞ。怖くないわけがないはずだ。
俺は那智の兄貴なんだから、しっかりしねーと。
と、那智が俺の手から写真を奪った。
目を瞠る間もなく弟は写真をかき集めると、それを封筒に戻す。クソッタレなメッセージカードを入れ込んだ後、紙袋に突っ込み、上の口を塞ぐように折り畳んだ。
そして手際よく二重、三重にビニール袋を重ね、あっという間にゴミ箱へ放った。今頃、那智が欲しがっていたカモミールも、あの袋の中で萎れていることだろう。
「おい、那智」
突拍子のない行動に戸惑ってしまう。
さすがに、隠し撮りされていたとはいえ、弟の写真を捨てられると、兄として思うこともあるんだが。せめて細切れにしてから捨てるとか、なんか対処しておかないと個人情報問題ってのが、このご時世にはあってだな。
「兄さま。おれにカモミールを買ってください」
屈託ない笑顔が向けられた。
「おれは、兄さまが買ってくれたカモミールじゃないと嫌です」
あれは他人が贈ってきたカモミール。自分には不要なものだと、那智が照れくさそうに目を細めた。
それだけで分かる、弟のやさしい気持ち。
こいつは気付いているんだ。俺の不安に。俺のわがままに。俺の、傍に居て欲しいという、その奥の奥に眠っている醜い欲に。
当たり前のように、那智はその欲を叶えようとしてくれている。
「もっと、おれに言っていいんですよ。兄さま。そりゃあ、頼りないし、頭も良くないけど……守られてばっかりですけど……」
呆然とする兄貴の両手を取り、「傍に居たい気持ちは一緒です」と、また一つ笑声をこぼした。泣きたいような、叫びたいような気持ちに駆られる。
いつもそうだ。那智だけが、俺の弱い心を受け止めてくれる。呆れもせずに我儘を聞いてくれる。傍に居てくれる。
「誰にも取られたくない」「うん」「俺はひとりになりたくない」「うん」「もうひとりはいやだ」「うん」
「他人にお前を奪われるくらいなら」
「その時は、おれを部屋にでも閉じ込めてください」
「いいのか」「いいです」「嫌わない?」「嫌うわけがないです」「ひどいことなんだぞ」「兄さまが、今までおれにひどいことをしました?」「悪いことなんだぞ」「ただ、おれを閉じ込めているだけ。なにも悪くないですよ」
「那智はいつまでも俺の傍にいてくれる?」
「傍に居ます。お約束です」
「閉じ込めてもいい?」「いいですよ」「嫌わない?」「大好きです」
延々と繰り返される会話は、俺の気が済むまで続けられた。
これが異常な会話だって分かっていながら、からっぽの心が腹いっぱいになるまで、俺は約束を結んでくれる弟の愛情を貪った。
【2】
普段の兄さまは、本当に頭が良くて、腕っぷしもあって、頼り甲斐があって。
それから、えーっと……背が高くて、顔もお父さん似でカッコイイ! ……お父さん似はだめか。兄さまのコンプレックスだから。端正な顔でカッコイイんだけど。
とにもかくにも、兄さまは非の打ち所のない完璧人間だと思う。
周りからは性格が最悪だと言われているみたいだけど、弟のおれには、すごく優しいし、甘えさせてくれるし、いつも気が利くことをしてくれる。やっぱり完璧な人だと思える。
だけど、それは表向きな話。
本当の兄さまは、とても繊細な人だ。
一たび、情緒が不安定になると、迷子になった子どものように怯えたり、喚いたり、ぐずったりする。
二人暮らしが始まってから、それが顕著に出るようになった。
きっと、お母さんという敵がいなくなったせいだと思う。
実家にいた頃は、絶対に親に弱いところは見せちゃいけないと気を強く保っていたんだろうなぁ。
おれは泣き虫毛虫だから、すぐに泣いちゃっていたけど、兄さまは滅多なことじゃ泣かなかったし。
敵がいないお部屋にいる今、情緒不安定になった兄さまはおれに駄々を捏ねていた。
「那智。手」
「いまラーメンに入れるお野菜を炒めているんですけど」
「嫌だ。手」
足元に座る兄さまが手を繋いでほしいと甘えてくる。
願いを叶えるために、フライパンを持っていた手で兄さまの手を握ると満足したのか、テレビの画面に目を向けておとなしくなった。
「那智。ノド渇いた」
と、思ったら、また甘えてくる。
「何が飲みたいです?」
火を止めて視線を合わせると、兄さまはちょっと考えた素振りを見せ、「牛乳」と答えた。
今からラーメンを食べる旨を伝えても、牛乳の一点張り。
まんま幼児だ。いつものことだから、その頭を撫でて、兄さまを立たせると冷蔵庫へ向かう。
コップに注ぎ、それを差し出すと「那智は?」
うんっと……今日のラーメンは醤油だから、あんまり牛乳をお供にしたくないんだけど。
「那智も牛乳を飲もう」
背丈の高い兄さまに純粋な目で見下ろされると、返す言葉も出ない。
食卓に牛乳パックとコップ、それから出来上がったラーメンを置いて、兄と夕飯を食べる。
その間も手は繋いだまま。利き手が使えないからフォークで食べる。兄さまも同じくフォークだ。一緒にしないと拗ねちゃうから。
「兄さま。美味しい?」
もぐもぐと麺を咀嚼する兄さまは小さく頷いた。良かった、お気に召してくれたみたい。炒めた野菜もちゃんと食べてくれる。
「那智。牛乳」
「今日はよく飲みますね。もう、無くなりそうですよ。明日買いに行かないと」
「俺、留守番は嫌だ」
「もちろん一緒に行きましょう。ほら、コップ貸してください」
空っぽになったコップに、なみなみと牛乳を注ぐ。真っ白な液体が、容器の中で波を打っていた。
「なあ、那智。さっきのストーカーの話になるんだが」
情緒不安定になっても、幼児のように駄々を捏ねても、兄さまは兄さまだ。所々調子を取り戻して、いつものように話題を振ることがある。
「最近、変わったことは無かったか? なんでもいい。あれば教えてくれ」
「変わったことって言われても……」
今日ほど変わったことは無かったと思うよ。
変な人に追っかけ回されるわ。写真は送られてくるわ。カモミールが欲しいことを知っているわ。不気味な一日だったな。お母さんに叩かれるくらいに、今日の出来事は怖かった。
大体なんで、おれの写真を送ってきたんだろう。たぶん、悪い意味で送ってきたんだろうけど、自分の写真を大量に送られるなんて、なんか気持ち悪いや。
「じゃあ。那智、お前の行動はどうだ?」
おれの? それこそ、代わり映えのない毎日を過ごしていると思うけど。
学校に行く代わりに図書館を利用して、そこでお昼過ぎまで勉強でしょ。夕方近くなると、買い物へ行ったり、兄さまの大学やバイト先へ遊びに行ったり。
「あっ、そういえば……ひとつだけ心当たりが」
「なにかあるのか?」
「一週間前だったかな。近所の文房具屋前で道を聞かれました。兄さまに頼まれたシャー芯を買おうと思って店に入ろうとしたら、男の人が声を掛けてきて」
だけど、人見知りが激しいおれは上手く答えられずに、テンパったまま頭を下げるしかできなかったんだよな。
確か、スーツを着た三十代くらいの男の人だったような。よく見ていないから憶えていないけど。
すると兄さまがフォークを置き、顎に指を絡める。
「お前。その後、どうした?」
「その後? 謝りました。道が分かる分からない以前に、答えられそうになかったんで」
「違う違う。男と別れた後だ。家に直行したのか?」
「いいえ。買い物が終わっていなかったので、スーパーに行きました。それから……あ」
おれは思い出したくないことを思い出し、顔を顰めてしまった。でも、言わないと、兄さまが不安がるだろうから包み隠さず話す。
「その……迷子になりました」
「はあ? なんで。お前、近所のスーパーに行ったんだろ?」
素っ頓狂な声を上げる兄さまが、真ん丸に目を見開いた。当然の反応だと思う。
「じつは、同級生と顔を合わせそうになって」
おれのクラスの人なのかは分からなかったけど、持っている鞄で同じ中学に通う生徒なんだと気付き、頭がパニックになった。
もし、顔を合わせれば、悪夢の体育の時間のように何か言われるんじゃ……それが怖くこわくて、おれはスーパーマーケットから飛び出した。
「……気付いたら、知らない団地にいました」
無我夢中に走った結果が迷子なんて本当に笑えない。幸い、携帯を持っていたから、マップのアプリを起動させて、自分の位置を把握することができた。
「そこは図書館近くの団地でした。だから、一度図書館に戻ったんです」
走り疲れたおれは気を落ち着かせたい意味も込めて、また図書館に入り、三十分ほど座っていたという。
このことを兄さまに話しても良かったんだけど、どうしても同級生のことは思い出したくなくて、おれは無かったことにしたんだ。
「那智。あの写真の束、拾ってきてもいいか?」
なにか引っ掛かりを覚えたんだろう。兄さまがおれに許可を取ってくる。
あれを捨てたのは、思い詰めていた兄さまの顔を見たくないからであって、べつに思うところはない。おれは頷いた。
「わっと!」
勢いよく立ち上がった兄さまが、ゴミ箱へ向かう。おれの手は握ったまま。畳の上に滑り転がってしまう。それだけ兄さまの力が強かった。
ああ、しかも引きずられるし。ちょっと待って下さいよ。せめて立たせてくださいって。
ゴミ箱からビニール袋を拾った兄さまは、それを破って紙袋を出し封筒を手に取る。そして一枚いちまい、丁寧に写真を観察した。
「写真の中のお前は、どれも私服を着ているな。制服の写真が一枚もねえ」
「兄さまも知っているでしょ。おれが学校に行けていないこと」
制服を着る機会なんて、それこそ保健室へ登校する時くらいだ。
「ああ。だからこそ、これらの写真は分かりやすい。どれもごく最近、撮られた写真だな」
「なんで分かるんです?」
丼を端にずらし、兄さまが写真を並べていく。
スーパーで買い物をするおれに、玄関前を掃除するおれ。図書館で勉強するおれに、道を歩くおれ。自分で言うのもなんだけど、これが最近撮られたって確証は持てないよ。
「不自然なんだよ。那智の制服の写真がねーってのが。色んな場面の那智を大量に送られているのにも関わらず、お前の制服姿の写真が一枚もない」
言われてみれば。
「那智。お前、最後に学校に行ったのは?」
「……えーっと、二週間前ですかね」
「てことは、つまり二週間以内に撮られた写真だろう」
ふむふむ。おれは探偵のように推理する兄さまに感心して大きく頷く。
「じつは制服姿のおれだけ抜き取ったって線はありません?」
「ねえな。見たところ、この変態様は色んな那智の姿を写しましたとアピッてきている。自慢したいのか、なんなのかは知らねーが、そういう輩なら制服姿も入れるだろ」
しかも、写真のおれの私服は、長袖カットソー一枚の姿ばかり。
仮にこれが夏に撮られているなら、おれも兄さまもTシャツに薄いカーディガンを羽織る。傷だらけの肌を見られたくないために。また、仮にこれが冬に撮られているなら、もう少し分厚い格好をしている。寒がりだしね、おれ達。
「コートもカーディガンも着てない。その上、那智の制服姿も見当たらない。このロゴ入りトートバッグを持っているお前を見てみろよ。このトートバッグは俺が少し前に買ってやったヤツだろ? なら、最近撮られたと考えるのが筋だ。しかも、腹立たしいことに俺達の部屋を知ってやがる」
まあ、部屋を知らないと置き土産もできないよなぁ。
「分からない点は二つ。那智の欲しがっていたカモミールを、犯人はなんで知っていたのか。どうして、今日に限って追い駆け回したのか」
兄さまの中で、写真の送り主と追い駆け回した人間は同一人物だと思っているようだ。どっちもストーカー行為みたいなものだし、同じ人物って考えるのが筋だよね。でも。
「カモミールは分かりますけど。追い駆け回した点が、どうして疑問なんです?」
「えらく行動が雑なんだよ。俺がお前をストーカーするなら慎重に行動する」
それは兄さまの頭が良いから、じゃなくて?
「考えてもみろ。下手に追い駆け回して、もし騒動になったらどうする? 最悪、警察沙汰だぜ? 目撃者だって出てくるかもしれねーのに」
この犯人は、おれを追い駆け回した同日に写真を送りつけてきている。
丁寧に写真とカモミールを送りつけているわりに、計画性もなく追い駆け回している。犯人は慎重に行動を起こしたいのか、それとも雑に行動を起こしたいのか、まったく分からないと兄さま。
すっかり名探偵になっているホームズ兄さまに、おれはワトソンになった気分で意見する。
「それだけアピールしたかったんですよ。目立ちたかったんですって。怖がるおれを見たかったとか」
世の中には、理解ができない性癖を持つ人間もいるしね。
おれのお母さんだって、その昔、小さかったおれと兄さまの前で知らない男の人とエッチしているところを見せつけてきたよ。あの気まずさといったら……思い出したくもない。
お母さんの恋人にいたずらされた夜もあったんだけど、あの時もおれが小学生だから滾るとか、なんとか言って真っ裸にされた。小学生の裸の何に興奮するのか……いま思い出しても理解ができない。うん、性癖って十人十色だと思う。
「那智が一人暮らしをしているなら、その線もありだろ。が、残念なことに俺がいる。こんなことをしたら警戒されるなんざ、ばかでも分かるじゃねーか」
うぐぐ。
ホームズにワトソンは言い返す言葉も見つからないんだけど。少しはおれも、兄さまみたいに賢く推理してみたい。
「ならなら。兄さまと二人暮らしだってことを知らなかった、とか?」
「んなわけねーだろうが。写真の中に俺が写っているのもあるし、那智をストーカーしているなら、自然と俺の存在だって知るはずだ」
「犯人は後先考えないオマヌケさんだったんです。勢いだけの人だったんですよ!」
おれの推理にホームズはやや困ったように笑う。
「だったら那智を追い駆け回した時点で、御用となっていただろうなぁ」
ワトソン撃沈。迷推理だったみたい。兄さまに張り合ってみたけど、物の見事に玉砕……分かっていたよ、ホームズ兄さまに並ぶ推理なんて、おれにはできっこないことくらい。
ちょ、ちょっとカッコイイと思って真似してみただけなんだ。刑事ドラマモノとか観ていたら、ずばっと推理していたから、おれもやってみたいなって……。
兄さまに感心されたい気持ちは、あー、ほんの少しだけあったけど。
「これじゃ、まるで【犯人に警戒してください】って言っているようなもんだ」
写真の一枚を手に取った兄さまの眉がつり上がる。苛立っているのか、おれの手を握る力が強くなった。
(兄さま、また不安に駆られている……)
虐待を受けていたおれ達には、一生消えないであろうトラウマが心に残っている。
おれのトラウマはお母さんだ。
お母さんは暴力的な人だった。気の弱いおれにとってお母さんの『暴力』はなにより怖かった。それこそお父さんの冷たい目よりも。怒鳴ってきたり、引っ叩かれたり、煙草の火で根性焼きをしてきたり……今も思い出すと体が震えてしまう。
対照的に兄さまのトラウマは独りになること。
おれには生まれた時から、兄さまという強い存在がいた。
けれど、兄さまには誰も味方がいなかった。おれが生まれるずっと前、兄さまはお母さんの暴力に耐えかね、近所に助けを求めたことがあったらしい。一時は警察沙汰になったけど、結局助けてもらえなかったんだって。
絶望した兄さまはその時から、他人は汚い。口ばかり。綺麗事を言う。ちょっとしたことで簡単に他人は裏切ってくるものだし、簡単に他人を信じてはいけないものだと思うようになったそうだ。
兄さまはいつも、おれに味方でいてほしいと頼んでくる。
その裏には、悲しい思い出が傷として残っている。
(誰も味方になってくれないって、どんなにつらい世界だろう)
そしてひとりぼっちだと知った世界は、どれほど寂しいものなのだろう。
「とにかくだ。那智、お前はしばらく家を出るな。犯人はお前の行動を、ある程度把握している。一人はあぶねえ」
写真から顔を上げた兄さまが注意を促してきた。
落ち着くまでは、そうした方がいいんだろうなぁ。
さすがに、今日の明日で外出する気分にはならない。牛乳くらいなら買いに行ってもいいけど……警察に相談するべきなのかも。ただ、兄さまの様子を見ていると、その線は考えていなさそう。兄さまは他人の次に、警察を信用していないから。
「兄さま。明日はバイトです?」
「心配するな。明日は俺も家にいるから」
たぶん、明日は大学もバイトもある日だろうに、兄さまは当たり前のように家にいると言ってくれる。
本当に兄さまは弟に優しい。弟に甘すぎるところがあるのが長所であり短所かもしれない。じつの弟のおれが心配してしまうくらい、兄さまは弟思いだ。
「念のために防犯ブザーを買うべきか。はあっ、どこの変態だよ。那智を隠し撮りするなんざ」
「撮るなら、ちゃんとお金を払ってほしいですよね」
ついでに撮るなら綺麗に撮って欲しい。この写真なんて半目になりかけているじゃん。
「お前なぁ。そういう問題じゃねえだろ」
的外れな主張に兄さまが、半ば呆れたような顔を作る。
「モデルさんだって、写真を撮らせるのにお金を取るんでしょ? なら、おれにだって同じ権利が与えられてもいいと思うんです。一枚千円は取りたいところなんですけど」
普通は知らないところで写真を撮られることに、何かしら恐怖するものなのかもしれない。
でも、写真くらいどうってことないってのが率直な感想だ。写真を撮られたところで、痛いことをされたわけでも、苦しいことをされたわけでもないしね。あの地獄を経験しているからこそ、おれの感覚が狂っているのかも。
「あと、この写真に不満があります」
「不満?」
「兄さまと写っている写真が全然ないってところです! 仮にも、おれのストーカーさんなら、もっとおれの好きなことを調べておくべきですね」
世界で一番好きな人に笑い掛けると、「呑気な奴だな」と言って、兄さまがおかしそうに頬を崩した。呑気な発言に、少しでも笑ってくれたのなら、おれも嬉しいや。