あの時は本当に大変だった。
学校から連絡を受けた俺が大慌てで迎えに行くと、那智はトイレに閉じこもって出てこようとしない状況となっていた。
担任や体育教師、養護教諭が説得しようとしても、まったく応じようとしなかった。
俺がドアをノックし、迎えにきたと声を掛けたことで、ようやく鍵を開けてくれた。腕を引っ掻き回していたようで、爪も指先も真っ赤だった。
俺を見るや火が点いたように泣きじゃる那智の姿を、今でも鮮明に憶えている――泣きながら言っていたっけ。
自分は普通じゃない、普通じゃないのだと。せっかく兄さまが普通にしてくれたのに、普通じゃない、と。
(普通じゃない、か……普通ってなんだろうな)
誰にも体験したことがない、過酷な環境で育った那智は、周りから見れば普通じゃない。
小さなことで傷付いたり、泣いたり、怯えたり……そういうのって他人から見れば、那智は弱い人間で終わるんだろう。
でも、俺は那智と同じ環境で育ったから、こいつがどんなに強い人間か知っている。
那智は強かった。母親に虐められても、父親に見捨てられても、逃げることなく俺の傍で強く生きていた。
そんな弟が、俺は可愛くて仕方がない。
正直、あの騒動は有り難かった。
あれの一件で那智が登校拒否になったのだから。他人と接触する機会がグンと減ったのだから。
たまに保健室へ登校することもあるが、本当は保健室に登校しなくてもいいとすら思っている。
(普通の兄貴は弟に、こんな感情なんざ抱かないんだろうなぁ)
結局、俺も普通の人間に成り下がれたわけじゃないってことだ。
あーあ、やだね。自由を掴んでハッピーライフ。人生バラ色だと思っていたのに、現実は非常にキビシイ。
「兄さま。おれ、このままでいいんでしょうか。ずっと、兄さまに迷惑ばっかり掛けていますけど」
物思いに耽っていると、那智が胸の内を明かしてくる。『このまま』じゃねえと、俺が困るんだよな。
お前が俺みたいに、外の世界に枯れた感情を持っているなら話はべつだが、那智は本当の意味でまだ外の世界を知らない。憧れだって抱くことだろう。
「俺にとって大切なのは、那智が元気で傍にいてくれること。そんだけだ」
「生活のお金を稼いでいるのは、兄さまじゃないですか」
残念。ほぼほぼ哀れむべき親父殿と、お袋殿の懐から出ている。
「おれもバイトした方がいいのかなぁ」
「中坊がバイトなんてできねーだろ」
「うう……」
「バイトが出来ない代わりに、お前は家事全般を引き受けた。少しでも俺の支えになろうと思って。そうだろ?」
こくり、那智が頷く。
「なら、それでいいじゃねえか。ちゃんと、自分にできる精一杯のことをしているんだから。那智、お前は俺みてぇに気が強くねえし、要領も良いとは言えねーけど。俺には持っていないものを沢山持っている。それを自分で認めてやれよ」
くしゃくしゃに頭を撫でてやると、弟が嬉しそうに頬を崩して、背中に飛びついてくる。
後ろに体重を掛けてやると、「重い」と言って笑った。そんでもって反撃代わりなのか、小生意気にもこんなことを言ってくる。
「早く食べないと遅刻しますよ」
だってさ。
ったく、調子の良い奴だな。お前は。