ふたりぼっち兄弟―Restart―



「兄貴に調教されているようだから、どの程度なのか、ちと試しただけだ。兄貴なら平気なんだろ?」

 だとしたら、やっぱりお前は重症で異常なガキだと皮肉り、おれの肩に手を置く。
 じゃらり。手錠の掛かった両手で、反射的にその手を叩き落とす。触るなと態度で示した。いい子を演じるなんて到底無理だった。

「なるほどね、兄貴じゃないとだめってわけね」

 鳥井さんは想定の範囲だったのか、驚くことも怒ることもなく、手錠のつなぎを掴むと、強引に車の後部席までおれを移動させた。
 早鐘のように鼓動が鳴る。とてつもなく嫌な予感がした。

 後部席に押し込もうとする鳥井さんに向かって、首を横に振り、乗りたくないと主張する。
 まったく聞く気がない鳥井さんは、軽々とひとの体を持ち上げて一緒に車内へ。

「男……趣味じゃねえだけどな」

 面倒くさそうにため息をつきながら後部席を倒し、足用の手錠をおれの足に掛けて自由を奪うと、「適当に分からせるぜ」と言って、おれの体に乗っかった。

(まずい。これはだめだ、絶対にだめなやつだ)

 身の危険を感じたおれは、鳥井さんから逃げようと体を捩るけど、まったく動けず、不自由な手足をばたばたさせることしかできない。

「やっと俺に怯えたな。気づいているか? お前、俺が攫って一度も怯えていないんだぜ?」

 そんなことはないと思うんだけど、鳥井さんは露骨に怯えることはなかった、と俺に語る。 

 暴力を振るった時も、通り魔だと正体を明かした時も、ちっとも怯える様子がなかった。スタンガンを自分に当てた時なんて、その痛みを不気味なくらい嬉しそうに感じていた。
 それはきっと今までいた環境がそうさせたのだろう。そして異常なほど他人に触れられることを嫌悪する心も、過ごしてきた環境と教育の賜物だろう。

「だからこそ今、仇になっている。お前は他人から触られる。大好きな兄貴じゃなくて、俺に。可哀想にな」

 鳥井さんはひとつ(わら)うと、おれの首に顔を埋めながら、服をたくし上げて脇腹を触ってくる。首には生温かい舌が這い始めた。
 それだけで気持ち悪くなったおれは下唇を噛み締めた。つよく噛み締めすぎて血の味がしたけど構わなかった。感触に悶えるくらいなら、痛みで悶えた方がマシだと思った。ああ、早く終われ、おわれ! おわれ!

 気をしっかり持とうと、心中で何度も終わりを祈った。

 そうだ。
 これは悪夢だ地獄だ冷たい世界だ。
 お母さんに殴られ続けた、あの世界と同じ世界。
 お母さんはおれが悪い子だからいっぱい殴った。すぐに泣くからイライラすると言った。甘えたのくそったれだといつも毒づいていた。おれだって泣き虫毛虫な自分が嫌いで嫌いで。
 そんなおれを兄さまだけが受け入れてくれた。泣き虫毛虫のおれに大好きだと言って、笑い掛けて、愛してくれた。いつもお母さんからおれを守ってくれた。

 兄さまがいなかったら、おれはこの世にいない。殴り殺されていた。
 ああ、おれの命は兄さまに生かされた命。だから全部兄さまのために使わなきゃ。
 兄さまがおれを欲しいというのなら、おれは全部あげる。兄さまに全部あげる。やってほしいことは全部叶えたい。


(こんなことをされている間も、兄さまはひとりで過ごしている。ごめんね、兄さま)

 ひとりを嫌う兄さまの下に帰るために、少しだけの我慢だ。
 殴られていると思えばいい。お母さんから殴られていると思えばいい。
 大人はいつもそうだったじゃないか。殴って、暴力を振るって、自分の主張を体に教え込もうとする。今回もおなじだ。暴力のかたちが違うだけで。
 他人に触れられて気持ち悪いだけの世界は吐き気が止まらないけど、兄さまの下に帰るためなら死ぬほど我慢するから。

 だいじょうぶ。鳥井さんに触れられたところで『キショイ』で終わる程度なんだからさ。
 鳥井さんはおれと赤の他人。何をされても、他人の言動を真に受けちゃいけない。兄さまはそう教えてくれた。

 だから首や肩を舐められる行為は気色悪いで終わる話だよ。ほんとだよ。
 だから耳をかじられて、感じてしまった自分も気色悪いで終わる話だよ。ほんとだよ。
 だから無理やりキスされて口内を荒らされても、吐きそうになっても、乱暴に触られても、掠れた声を出しまくても、我慢で終わる話だよ。ほんとうだよ。ホントウだよ。

 気持ち悪いけど、それでおわり。おわり。おわり。英語でおわりはえんど。綴りはEND。読みはエンド。簡単な英単語だ。ばかなおれでも憶えやすい英単語だったね、ああ、まだ終わらないのか。長いなぁ。気持ち悪いなぁ――……。


「スタンガンで脅すより、よっぽど効くな。痛めつけるよりいい反応だったよ」

 気がつくとおれは、はだけた服をそのままに、膝を抱えて大粒の涙を拭っていた。
 鳥井さんは手についた体液をティッシュで拭うと、とめどなく涙を流すおれの体に自分の上着を掛けた。

 やっぱり男は趣味じゃない、と愚痴る鳥井さんはおれを一瞥して素っ気なく言う。

「お前の考えは見え見えだ。隙を突いて逃げようって魂胆だったんだろう? ばかなガキだよ」

 甘ったれた考えは捨てろ、お前は逃げられない、と鳥井さん。
 次そんな考えを持ったら、今度はこの程度の戯れでは済まない。吐いても泣いても怯えを見せても、その身を犯すと脅してきた。立場をハッキリと分からせられた瞬間だった。


 それでも泣き止まないおれに思うことがあったのか、鳥井さんは車を近くの自販機前まで移動させると、あたたかい紅茶を買って「飲んどけ」と、おれに押し付ける。
 泣くばかりのおれに、たぶん同情したみたい。

 こんな目に遭わせたのは鳥井さんなのに。

「ったく、だからガキの相手は嫌なんだよ。くそ、なんで手前で攫ったガキの世話をしなきゃなんねーんだ」

 放っておいていいのに、鳥井さんはむしゃくしゃした顔でおれを一瞥してくる。

「とにかく泣き止め。今日はこれで仕舞いだ……はあ、こういうところがへっぽこだって言われるんだろうな」

 つくづく自分は甘い人間だ、この仕事に向いてないと舌を鳴らし、「おとなしくしているなら何もしねえよ」と言葉を置いて運転席に戻ってしまう。上着はおれに貸したまま。取り戻す気配はなかった。
 おれは鼻を啜りながら、熱々になっている紅茶のペットボトルの蓋を開ける。

(……甘い)

 熱々のミルクティーはおれの気持ちを落ち着かせる。
 ううん、最初からおれの気持ちは落ち着いている。
 ちょっと泣き虫毛虫を出しただけで、思うところは少ない。行為を思い出すと吐き気がまたこみ上げてくるけれど、それだけだ。

(兄さまの下に早く帰ろう。いっぱい甘えたいや)

 すぐに泣き虫毛虫になるばかは、鳥井さんから逃げようと見え見えの態度で振る舞っていた。
 そして無様にも目論見は失敗。挙句、抵抗したけど体を触られて、泣きじゃくって、相手の脅しに屈した。鳥井さんに『その程度の弱い人間』だと思わせた――これでいいんだ。これでいい。おれはおれのやり方で勝負をする。正面勝負じゃまず鳥井さんに勝てない。

(相手に勝つには駆け引きが大事。いまは我慢だ。我慢)

 鳥井さんに負けたと思わせることが大事なんだからさ。


【3】


 鳥井さんに攫われて三日目。

 四六時中、車内で過ごすことがしんどくなったのか、鳥井さんはおれを連れて朝の六時からホテルに向かった。そこはただのホテルではなく、ラブホテルと呼ばれている……まあ所謂大人向けのホテル。

 だけど鳥井さん曰く、今どきのラブホテルは性行為目的以外にも『休憩所』として、部屋を提供しているサービスしているのだと教えてくれた。
 つまり泊まるほどではないんだけど、数時間どこかでゆっくり過ごしたいよね、という時にラブホテルは最適らしい。利用したことないおれにとっては、今どきも昔もよく分からないけど……。

 ちなみにラブホテルは未成年者利用禁止。
 だけど自分達が利用するラブホテルはフロントを通さずに部屋を借りれるシステムがあるから、中学生のおれを連れても誤魔化せるだろう。大丈夫だろう。金さえ払えば良いだろう、と鳥井さんは言っていた。

 当たり前だけど、それは犯罪じゃないのかな。
 いや、鳥井さんはすでに犯罪者。『通り魔』で『人攫い』で無理やり触ってきた『変態』の犯罪者だから、べつのいいのかな? ……うーん、たぶん良くはないんだろうけど。

「半日この部屋で過ごす。お前はあそこのベッドで寝てろ」

 大きなベッドやソファー、お洒落なランプが目立つ部屋に入ったおれは、鳥井さんからベッドで寝てろ、と命令を受けた。
 昨晩の出来事でより従順でおとなしくなったおれは、しごく鳥井さんに怯えながらも、うんっと小さく頷いて言われた通り、ベッドに乗ると隅っこで寝転んで身を丸くした。逃走防止のため両手足に手錠を掛けられたけど、おれは抵抗を見せず、ただただそれを見守っていた。

 車内にいる間、常に両手には手錠を掛けられているんだけど、両足は寝る時にしか掛けられない。たぶん一々手錠を外す作業が面倒なんだと思う。両手だったら服で隠せるけど、両足はズボンで隠すことはできても、動きがぎこちなくなるのは必須だしね。用を足す度に手錠を外すのも面倒そうだしさ。

 でもいま両足に手錠を掛けているということは、部屋から逃げられることをつよく警戒している証拠だと思う。

「いいか。許可なくベッドから下りるんじゃねえぞ」

 うん、おれは一つ頷く。
 逆らえばどうなるか分かっているよな、と聞かれると、おれはまた一つ頷いた。軽く首を触られると、激しく頭を横に振った。触られたくないと体を小刻みに震わせ、態度で気持ちを示した。

 スタンガンを翳しても、ここまで怯える態度を見せなかったおれに、「分かっているならいい」と言葉を残して鳥井さんはベッドから下りていく。

 向かった先は洗面所。お風呂に入るみたいだ。



(……鳥井さん。まだ完全には油断してなさそうだな)

 シャワーの水音が聞こえると、おれは体を起こして両手足の手錠を見つめる。

 抵抗しなかったとはいえ、やっぱり手錠を手足に掛けられるのはつらい。
 せめて両手だけだったら、今のうちにさっさと部屋を出て逃げることもできただろうけど、両足にまで手錠を掛けられるとなぁ。

 だけど両足に手錠がなくても、部屋を出ようとしたら鳥井さんに捕まりそう。物音ですっ飛んできそうな気配あったし。

(ただ、鳥井さんはおれから目を放す機会も多くなった)

 それはきっと、昨晩の出来事があるせいだと思う。
 基本的に鳥井さんはおれが変な行動を起こさないよう、運転する時もご飯を食べる時も携帯を弄る時も、都度おれに視線を配っていたんだけど、今日はそれがあまりない。

 おれを置いてお風呂に入ったことが良い証拠だ。
 上下関係をつけたことで、おれの逃走するリスクが減った、と思っているんだと思う。
 でも、まだ逃げ時じゃないかな。油断しているけど、完全に油断しているわけじゃないし……。

 あと命令が多くなった。
 こっちに来いとか、あっちのベッドで寝とけとか、許可なくベッドから下りるなとか、かなり命令口調になっている。上下関係があるのだと態度で示しているのかもしれない。

 おれが心から言うことを聞くのは兄さまだけなんだけど、いまはおとなしく従った方が得策だ。

(……この後、お風呂に入れって命令されるかな)

 だとしたら、ちょっとやっておかなきゃいけないことがある。

 おれはズボンのポケットに突っ込んでいたレシートを取り出す。
 これは昨晩、鳥井さんが会話用にくれたもの。大切にしているボールペンを取り出すと、おれは腕に刻まれた謎メモの内容をレシートの裏に書き写す。
 すでに文字が薄っすら消えている謎メモは、兄さまや警察に伝えたい情報が詰まっている。価値がないものかもしれないけど、せっかくメモしたんだから、ちゃんと伝えたい。

 メモを書き終えるとレシートを畳んで、ズボンのポケットへ。

 その後は鳥井さんの言う通り、ベッドから下りることもなく目を瞑って、ちょっと寝ることにした。
 思いの外、おれの神経は図太いみたいで、誘拐されている状況下にも関わらず睡魔はすぐにやってきた。ベッドがふかふかなのと、三日ぶりに広い場所で寝転ぶことができたことが眠くなった原因みたい。車の中で一日中過ごしているんだ。自分でも思っている以上に体が限界だったんだと思う。

 気づくとおれは本気で寝てしまった。ガチ寝もガチ寝。

 鳥井さんが部屋に戻ってきたことも気づかず、「そりゃ寝ろとは言ったが……」と、手前を刺した犯人が傍にいるのにも関わらず熟睡し切っているおれの図太さに鳥井さんが呆れていたことにも気づかず、ただひたすら貪るように眠りに就いた。六時間きっかり睡眠を取った。


 正午過ぎになると、鳥井さんに起こされ、おれは命じられるがままお風呂に入った。
 三日ぶりのお風呂は天国だった。湯船に浸かるだけで、疲労が溜まっていた身心がすっきり。おれは幾分か元気を取り戻した。いっぱい寝たのも要因に挙がるかもしれない。
 部屋に戻ると、身支度を済ませてチェックアウト。

 昼食を取るために、適当にドライブスルーでハンバーガーを買い与えられ、それを二人で食べた。

(……外、雨が降りそうだな)

 助手席の窓から空の色を確認したおれはチーズバーガーを口に押し込むと、今夜は降るかもしれないな、と予測する。雨の中、おれは三日目の車中泊をするのかな。少しだけ気が重い。どうせ寝るなら、ベッドの上が良い。ベッドで寝られるならラブホでもどこでもいいから。

 今にも降り出しそうな空を眺めていると、車載ホルダーに設置している鳥井さんの携帯が鳴った。

 また仕事の電話なのかな?
 そう思いながら視線を流すと、鳥井さんは携帯画面に表示された名前に顔を顰めた。読めない漢字が多かったけど、ナントカ施設と表示されている。木に花って書いてなんて読むんだろう? キハナ施設じゃないだろうし。

「……悪い、一郎(いちろう)。いまは出てやれねえ」

 鳥井さんは携帯に向かって小さな独り言を呟くと、気まずそうに視線を逸らしてしまった。
 しばらくの間、携帯が鳴っていたけど、やがて諦めたかのように音が止む。
 それを十二分に確認した後、鳥井さんは車載ホルダーから携帯を外さず、設置したまま画面を触り、『161616』と番号を入力して画面のロックを解除していた。

 一連の流れを眺めていたおれは“一郎”は鳥井さんにとって重要な人間だと察する。
 鳥井さんの苦い表情と、暗証番号の語呂合わせがすべてを物語っていた。
 たぶん『161616』は「イチロウ」の語呂合わせなんじゃないかな。そして語呂合わせするくらい、鳥井さんにとって大切な人なのかもしれない。憶測でしかないけど……大切な人か。兄さまに会いたいな。今頃何をしているのかな。兄さま。ご飯食べているかな。元気かな。

 閑話休題。
 午後三時過ぎから、鳥井さんは目的を持って運転を始める。
 それはそれは嬉しそうに、やっとお守から解放される。事務所にガキをあずけられる。自分の部屋に帰れる、と喜んでいた。どうやらおれは事務所にあずけられるみたい。どういう事務所かは分からないけど、鳥井さんは本当に喜んでいた。

 車載ホルダーに設置している携帯との通話によれば「正式に前金が入ったのか」「八時には着くと思う」「警察(サツ)の動きだけは逐一教えてくれ」云々かんぬん、とにかく会話を弾ませている。
 車中泊をしていたのは、おれの居場所を警察に(さと)られないようにするためのカモフラージュだったみたい。それが終わる、ということは、何かしら動きがあった。もしくは次の段階に入ったってことなんだろうけど……残念なことに捕らわれの身分であるおれじゃ、ちっとも状況が呑めない。

 分かることと言えば、このままだとおれは本当に兄さまと会えなくなってしまう、ということ。

 これは不安からくるものじゃない。直感だ。

(事務所にあずけられたら、今度こそ逃げ出せる機会はない。その前に逃げなきゃ)

 問題はどこで勝負を仕掛けるか、だけど。
 ふと、おれは通話中の鳥井さんが一番隙があることに気づいた。
 車を運転している鳥井さんの目線は前。耳は通話相手に傾けているんだから、隙ができるのはしょうがないこと。殆どおれに注意が向いていない。


(狙い時は通話中だ。でも、いま飛びかかるのはまずいよね)


 だって車は走行中だ。
 飛びかかったところで、その後はどうすればいい? 走行中の車から飛び下りるわけにもいかないし、車をとめるだけの行動を起こせると断言もできない。飛びかかった結果、急ブレーキを踏んだ鳥井さんから押さえつけられて、スタンガンときつい触れ合いをされる未来しか見えない。

 もっとよく考えろ。
 兄さまにいつも頼ってばかりだったおれだけど、いまは自分の脳みそで考えないと誰も助けてくれないんだ。ちゃんと状況を見極めて、よく考えろ。兄さまの下に帰るために。
 おれは鳥井さんの様子を窺った。通話している鳥井さんを、注意深く様子を窺った。


 四時過ぎになると雨が降ってくる。
 未だにおれは飛びかかるチャンスを掴めず、やきもきした気持ちを抱いていた。
 外から見える景色は町並み、ではなく雑木林や廃れた工場ばかり。時々一軒家や田んぼが見える程度。斜面をのぼっているみたいだから、ちょっとした山道を走っているのかもしれない。

(カラス)。緊急事態だ、(カラス)

 と、車載ホルダーに設置している携帯から厳かな声が聞こえた。

 (カラス)って鳥井さんのことだよね?
 おれは鳥井さんに視線を投げる。とうの本人は気だるそうに、「なんだよ(フクロウ)」と返事をしていた。コードネームで呼び合っているってことは、鳥井さんの直接の仲間なのかな。(フクロウ)って。
 鳥井さんは緊急事態という単語にとてつもなく嫌な予感がしているみたいだ。しかめっ面を作っている。

『No.253の二重契約が発覚した』
「はあ? おい、(フクロウ)。そりゃどういうことだ。ウチと契約していただけじゃねえのかよ。福島道雄は」

 福島道雄……?
 あれ、下の名前はお父さんと一緒だけど、これは偶然?

『詳細は追っている。とにかく、お前は一刻も早く下川那智を連れて来い。未払いのツケの一部は下川那智で賄うことが決まっている。いいか、取られるなよ』
「取られるなってことは……くそ。動いてるのか」
『警察の目が届かなくなったことが、向こうにも伝わったらしい。たぶんお前を追跡している。俺も応援に動くが、時間は掛かる」

「冗談じゃねえぜ。今日は事務所にガキを届けて終わりだと思ったのによ」

 鳥井さんがしきりにサイドミラーやバックミラーを確認している。

 おれも外の景色と鳥井さんを何度も確認。

 車はカーブに差し掛かっていた。車をガードレールに突っ込ませるのはおれ自身も危ないけど、反対側はコンクリートで補強された崖。あそこにぶつけさせれば。
 天気は雨。斜面はきっとタイヤが滑る。鳥井さんは焦燥感を滲ませながら通話中。運転中。おれのことなんて眼中にない。油断しまくっている。いましかない、いましか!


(兄さま。チカラを貸して)

 おれはボールペンを握り締めると鳥井さんがサイドミラーを確認した瞬間、持っていたそれでハンドルを握っていた鳥井さんの右手を刺した。
 そして素早くハンドルを掴み、全体重を掛けて右に回す。

「なっ、ばか! ガキ! 何をしてっ」

 凄まじい音を立てて、車はコンクリートで補強された崖にぶつかった。
 フロントガラスに大きくヒビが入り、片方のサイドミラーは崖にぶつかった影響で吹き飛んだ。運転席と助手席のエアバッグが膨み、おれも鳥井さんも身動きが取れなくなる。
 だけどおれは身軽で小さな体躯を活かし、急いで助手席を倒して後部席から外へ脱出する。
 その際、鳥井さんと通話していた携帯をホルダーから奪い取った。これさえあれば連絡が取れる。助けを呼べる。これさえあれば!

 転がるように外に出たおれは降りしきる雨の中、坂道になっている道路を下った。
 鳥井さんに追いつかれる前に少しでも距離を稼ごうと、死に物狂いで足を動かした。
 だけど、すぐに横っ腹が痛くなる。今まで車いす生活だったんだ。歩行練習を始めた人間が長距離を走るなんて、さすがに難しいだろうと言わんばかりに体が悲鳴を上げた。

 分かっている、分かっているけど、足を止めるわけにもいないじゃないか! 捕まれば今度こそ、おれは兄さまと離れ離れになってしまうんだから!

 ああ、でも限界が近い。肺が引きつったような感覚がする。

(どこかっ、どこか身を隠せそうな場所……)

 辺りを見回すかぎり、ガードレールと補強された崖ばかり。身を隠せそうな場所はなさそうだ。
 もっと向こうに行けば雑木林があるだろうけど、一体どれくらいの距離を走ればいいのやら。
 背後から追い駆けてくる足音が聞こえた。きっと鳥井さんだ。振り返る余裕はない。振り返れば、捕まる絶望をまざまざと見せつけられる。
 嫌だ、捕まりたくない。兄さまに会いたい。兄さまの下に帰りたい。兄さまをひとりにしないって約束したんだから!

(イチかバチかっ)

 おれはガードレールに目をつける。
 ガードレールの向こうに見えるのは急斜面の山道と、その先には廃れた工場。何の工場か分からないけど、あそこまで逃げれば人がいるかもしれない。助けを呼ぶことができるかもしれない。身を隠すことだってできそうだ。

 迷わずガードレールを乗り越えると、おれは無我夢中で急斜面の山道に身を投じた。

 視界の端に鳥井さんの姿が見えたけど、それもすぐに小さくなった。
 おれの体は急斜面の山道を滑るように転がっていく。生えている木の根っこや落ちている枝や大きな石に何度も体をぶつけたし、頭を何度も打ち付けて眩暈を覚えたけど、おれは気をしっかりと持ちながらと携帯とボールペンを握り締めた。決して手放さないように。

(いたたっ……)

 気が付くとおれは急斜面の山道の半ばで倒れていた。
 くらくらする頭を抱えながら周囲を見渡す。前後左右見渡しても、急斜面の山道ばかり。生い茂る草木ばかり。木ばっかり。少しでも動けば、また滑り転げ落ちそう。
 だけど急斜面を下った先には廃れた工場の駐車場が見えるから、あそこを目指せば兄さま達に会える希望が掴めるかもしれない。

 そうと決まれば、まずはあの工場を目指そう。

(……だけど、ちょっとだけタンマ)

 頭を何度もぶつけたせいか、目が回るような感覚がする。
 おもむろに手の甲で鼻を拭くと、血が付着していた。鼻血が出ているみたいだ。どこかでぶつけたのかな? 覚えてないや。

(ちょっとだけ座ろう。鳥井さん、まだ追いつけないだろうし)

 おれは近くの木に寄り掛かると、腹部を押さえて荒呼吸を繰り返した。
 久しぶりに全力疾走したけど、びっくりするくらい体力の衰えを痛感する。退院したら真面目に体力づくりをがんばらなきゃ。ちょっと走っただけでこれだもん。


 雨が強くなる。
 風も強くなる。
 火照った体が寒気を覚え始めたけど気のせいだと思い込み、少しの間、体力の回復に努めていたおれは、ふと握り締めている携帯の存在を思い出す。
 必死に逃げていたせいで、鳥井さんから奪った携帯の存在を忘れていた。

(工場に向かう前に連絡を入れなきゃ)

 おれは急いで携帯の画面を触る。暗証番号を要求された。
 大丈夫。暗証番号の入力は見ていた。鳥井さんは大切な人らしき人物の名前を暗証番号にしていた。語呂合わせにしていた。暗証番号は一郎の『161616』だ。
 あっさりとロックが解除されると、おれは電話番号を入力した。相手はもちろん――下川治樹。

(兄さまの電話番号を覚えていて良かった。お願い、兄さま。出て)

 兄さま相手なら声が出るはずだから。お願い、兄さま、兄さま!

 おれは何度も兄さまに電話を掛けた。
 だけどその度に惨敗。兄さまはちっとも出てくれない。きっと知らない電話番号だから、兄さまは出てくれないんだと思う。それでも諦めずに電話を掛け続けた。いつか繋がることを信じて。
 冷たい雨のせいで指がかじかみ始めた、七回目の挑戦で奇跡は起きた。

『……誰だ?』

 雨風が強くなっているせいで、向こうの音が聞こえづらかったけど、まごうことなき兄さまの声だった。
 三日ぶりに聞いた、大好きな声に静かに涙が頬を伝っていく。
 ずっとずっと聞きたかった声がここにある。それが嬉しくてたまらない。

「にぃさま」

 三日ぶりに出せた声は、ちゃんと兄さまに届いた。

『那智っ、那智なのか?』

 おれの名前を連呼して、本人かどうかを確認してくる。
 それがまた嬉しくて、おれは涙を手の甲で拭った。何度もうんと頷いて、そうだよと返事した。


「良かった。兄さまっ、電話……やっと繋がった」


 本当に良かった。
 心のどこかで兄さまの声がもう聞けないんじゃないかって不安だったんだ。
 鳥井さんから脅され続けたせいで、いつか殺されるかもしれない。兄さまと会えずにこの世から消えるかもしれない、と頭の片隅にあった。必死に暗い思考に陥らないようにしていたけど、実際に声が消えると心の底から安心する。

 ああ、だけど、だめだめ。泣き虫毛虫になるには早い。おれはまだ助かっていない。何も解決していない。

 おれは顔を横に振り、兄さまに状況を説明――――「くそ、どこいったガキ」