「――すみません。どうしても、これを下川のお兄さんに渡してほしいとのことで」
那智を落ち着かせることに成功した俺は、病室の前で待っていた柴木から封筒を受け取った。
中身は益田お手製の報告書。
ストーカー事件及び通り魔事件の捜査の進み具合や、マスコミの動き、親父の傷害事件、先日襲ってきた連中の取り調べ状況について事細かに記されている。
もちろん、これは公式の書類じゃない。
俺限定に向けた益田お手製の報告書で、俺が知らない情報を益田は沢山握っていることだろう。まあ、建前でも報告しておくべきだと益田は思っているんだろうな。
あとで目を通しておくか。
「益田に受け取った旨を伝えておいてほしい。言っておかないと、あいつ直々に病室に来るだろうしな」
「はい。益田には私から伝えておきます」
柴木がひとつ頷いたところで、勝呂が俺の背後に視線を投げながら控えめに「大変ですね」と気遣ってきた。
それは那智の愚図りを指しているのだろう。
俺は背後に隠れている弟を一瞥する。
那智は俺の右手を握って、口をへの文字に曲げていた。目は真っ赤だ。感情任せに泣いたせいで疲労の色も見え隠れしている。
それでも那智は俺の手を離そうとしないし、傍を離れようともしない。
病室で待たせようもんなら、また火が点いたように泣いちまうことだろう。
ちらりとこっちを見てくる那智の訴える目に気づき、俺は苦笑いを浮かべると、「話はもう終わるよ」と言って、わしゃわしゃと頭を撫でてやった。
なおも不機嫌に口を曲げているダダっ子は、早く自分に構ってほしいようだ。握る手が強まった。
「弟さんはいつも、こうなんですか?」
勝呂の疑問に、「まあ」と曖昧に返事した。
那智はもちろん、俺も一度感情任せになると、自制が利かないほど駄々をこねたり、泣き喚くことがある。心理療法の担当医にも問診を受けた際、そのような状況になったことがないか、と聞かれたことがあった。どうも俺達は育った環境のせいで、感情の制御が人より下手くそらしい。
俺が駄々をこねた時は那智が宥めてくれるし、あんまり問題視してなかったんだが、周囲の反応を見る限り、そうでもなさそうだ。
「こうなった弟を落ち着かせるのは骨が折れるけど……いつものことだしな。すごく可愛いし」
「か、可愛い?」
コイツ何を言っているんだって言わんばかりの顔をされたが、大真面目に可愛いと思っている。
「だって、あれだけ泣きじゃくりながら兄貴を求めているんだぜ? そりゃあ可愛いよ――めちゃくちゃ愛されているって感じがするじゃん? 弟にはもっと泣き喚いて、兄貴を求めてほしいね」
思いっきり顔を引き攣らせている勝呂と、表情ひとつ変えない柴木に、滅多に向けない笑みを浮かべた。
「俺は那智が求めてくれるなら、何度だって駄々をこねてくれていいよ」
家族ってそういうもんだろう?
おとな二人に向かって言葉を投げると、俺は不機嫌に口を曲げている那智と視線を合わせるために膝を折った。
「お話は終わったぞ。那智、良い子に待っていたご褒美にジュースを買ってやるよ」
「ジュース?」
「休憩所の自販機で買って来てやるから、好きな物を言えよ」
「やだ。兄さま、いっしょにいるって言いました」
「ジュースいらないか?」
「ほしい。でもいっしょがいい」
「じゃあ、いっしょに自販機まで行こうか。おんぶしてやるから背中にのれよ。車いすを取ってくるの面倒だしさ」
うんうん、那智は二度頷いて、俺の背中にのってくる。
少しだけ機嫌を直したのか、那智はココアが飲みたいとおねだりしてきた。その際、いっしょに飲もうとおねだりしてくるもんだから、俺もココアを飲むことが決まってしまう。
ココアは俺にとって、ちと甘すぎるんだが……たまにはいいだろう。
「じゃあ、俺達は行くぞ」
俺はこちらの様子を見守る刑事に声を掛けると、弟をおぶったまま休憩所の自販機へ向かった。
刑事二人が俺の発言にドン引いているのは、もちろん分かっていた。本音を漏らしたのは当然わざとだよ、わざと。
弟に求められた今晩の俺はご機嫌もご機嫌、誰かに家族愛を見せつけたい気分だった。
「兄さま。あのね」
「ん?」
「ココア、いっしょに飲みたい」
「ああ。いっしょに飲もうな」
「あとね」
「うん?」
「今日いっしょに寝たい」
「お前、腹を怪我してるだろ? いっしょに寝て、兄さまが那智の腹蹴っ飛ばしたらどうするんだよ」
「やだ。いっしょのお布団で寝たい」
「ったく、そう言われちゃダメって言えねえな」
薄暗い廊下を歩き、休憩所に向かう道すがら、那智と他愛もない会話を繰り広げる。
今日の那智は本当にわがままで聞かん坊だけど、俺は快く弟のわがままに耳を傾け続けた。親に得られなかった愛情を、兄貴に求めている。それを分かっていたからこそ、俺は那智の内なる声に耳を傾ける。求められるってのは本当にいいな。自分の存在価値を見出せる。
「那智」
「うん?」
「兄さまといっしょに寝ような」
「うん!」
「俺達にはお父さんもお母さんもいねえけど、血の繋がった兄弟がいる。お前は兄さまにとって、大切な家族だからな――そしてお前の家族は『俺』だけだ。忘れるなよ。分かったか?」
「はーい」
「良い子だ」
昔からこうやって那智に言い聞かせては、やっていいこと、ダメなこと、怖いこと、気を付けることを教えていたっけ。
どこまでも素直な那智だから、今回だって兄貴の言葉を一心に受けてくれるに違いない。お前は良い子だもんな。兄さまの教えはちゃんと守ってくれる。そう信じているよ。