緩みそうになる口を必死に引き締めて、俺は担当医から説明と助言を受けた。
 半分くらい聞き逃しちまったが、大したことじゃないだろう。
 ああもう、単純な俺だから、病室に帰る足取りはすごく軽やかだった。ガキみてぇにはしゃぐ俺がいる。体に出るくれぇ那智が俺に依存している。嬉しくないわけねえ。ああ、もっと、もっと那智が俺に依存してくれたらいい。

「兄さま。どこに行っていたんですか?」

 病室に戻ると、日記を書いていた那智が手を止めて、俺に視線を投げてくる。
 ご機嫌な俺に首をかしげているが、構わずにくしゃくしゃと頭を撫でて誤魔化した。

「那智。明日は俺も歩行練習に付き合うからな」

 途端に那智が目を爛々と輝かせてきた。

「ほんとですか。え、でも、あの用事とかは」

「明日は予定を空けている。だから歩行練習も、心理療法(セラピー)も一緒にいるよ。それこそ朝から晩まで一緒にいるから、那智のがんばりを兄さまに見せてくれよ。さみしい思いばっかさせてちゃ、兄さま失格だろ?」

 俺の言葉を反芻した那智は、見慣れた泣き虫毛虫の顔になった。

 ずっとずっと我慢していたんだろう。
 本当は歩行練習に付き合ってほしいとか、心理療法(セラピー)を一緒に受けてほしいとか、もっと留守番する頻度を減らしてほしいとか、わがままを沢山ぶつけたい気持ちに駆られていたに違いない。

 だけど俺が日常の整理に奔走していることを、誰よりも那智が知っていた。
 だから電話で声を聞きたい、とか夕飯を一緒に食べてほしいとか、褒めてほしいとか、そうやって本音を隠していたに違いない。

(歩行練習後は落ち込んでいた。そりゃたぶん、親子連れを目にしていたんだろうな。親の存在が羨ましかったんだろう)

 俺達には無い親の存在、愛情、優しさを他人が持っている。
 それは那智にとって羨ましいことであり、妬ましいことだ。俺にそういう気持ちがねえと言えば嘘になるが、那智は俺ほど割り切れていねえ。感情の処理が追いつかなくなったんだと思う。
 ばかだよな。もっと言っていいのに。もっと兄さまに依存していいのに。

 腹痛ではちっとも見せなかった泣き顔を必死に隠そうと、手の甲で目元をこする那智の額を軽く人差し指で押す。

「なに我慢してるんだよ。那智らしくねえな」
「だって、だって……兄さま、いつもがんばってるのに。おれだけっ、わがままで」
「お前もがんばっているだろ? 甘えたい時に甘えるのを我慢したんだから。周りは付き添いがいるのに、ひとりでずっと歩行練習したんだ。がんばっているよ。だから」

 だから、遠慮せず兄さまに甘えていい。
 そう言ってやると、那智がとうとう涙をこぼし始める。

「ゔぅっ……泣き虫は卒業したいのに。したいのに」

 震え声で呟いて、愚図って、少しだけ癇癪を起こした後に抱きついてきた。
 きつく抱きしめ返してやると、那智が本格的に愚図り始めた。溜めに溜めていた感情が爆ぜてしまったようだ。

「どうしてっ、どうじでお母ざんっ、優じぐないの兄さま」
「いつも叩くもんな。俺達の母さん」
「お父ざんだって、ゼンゼン優しくなくて」
「うん。そうだな」
「みんなのお父ざんお母ざんっ、優じいのに、おれぁああアァア、ゔぁあアア」

 火が点いたようにワァワァ泣き始めた。
 幼児のように愚図って、俺に抱擁や抱っこをねだってくる。
 いつもは聞き訳が良いし、現実を冷静に見据えて、自分達の母親は周りとは違うと分かっているんだが、今回ばかりはまじで感情処理が追いついていないようだ。

 間が悪いことに柴木と勝呂が益田の使いを受けて、病室にやって来たが、ご覧のありさま。お取込み中で手が離せない。

「やだっ、にいざまヤダァアア! 行っちゃヤだっ!」

 柴木と勝呂を見るや、那智はヤダを連呼し始めた。
 兄貴を取られると思ったんだろう。いまは自分の番だと凄まじい癇癪を起こして、喚いて、俺の体を叩いてくる。こうなるとしばらく元に戻らないだろう。久しぶりだな、那智がここまでダダっ子になっちまうの。本当に我慢していたんだな。

「大丈夫、兄さまはどこにも行かないよ。ごめんな。さみしい思いをさせたな」

 那智は大粒の涙を零したまま、何度も首を縦に振った。さみしかったと言ってきた。素直でよろしい。

「いっしょがいいっ、いっしょっ、にいざま」
「ああ。明日は一緒にいるよ」
「ずっと、いっしょ」
「朝から晩まで一緒にいる。大丈夫」
「やだ。はなれちゃやだっ。さみじぃ。ひとりはヤダよ。やだよぉ」

 俺は那智をソファーに連れて行くと、膝の上に弟をのせ、ダダっ子くんの背中を優しく叩いてやる。一層、声を上げて泣き始めた。その一方で、心の底に眠る本音を吐き出す。優しいお父さんお母さんがほしい。叩かない親がほしい。愛してくれる親がほしい。どうして自分の親はみんなと違うのだ、と。
 思った通り、那智は羨ましかったんだろう。妬ましかったんだろう。リハビリ室で見かけた親子の微笑ましい光景に。

 肩で息をし始める那智は、優しい親がほしいと繰り返していたが、背中を叩き続ける兄貴の存在を思い出すと、顔をくしゃくしゃにして俺の胸に顔を押しつけてきた。
 怖い親なんていらない。兄さまがいたらそれでいい、と泣きじゃくる那智に頬を緩ませると、小さな頭を抱きしめてやる。それこそ那智が泣き止むまで、ずっと抱きしめてやった。