「お前は家庭崩壊の原因となった異母兄弟に、相当強い恨みを抱いているはずだ。なのに、俺と手を組みたいなんざ正気の沙汰とは思えねえ。相応の理由があるはずだろうが」
「やっぱり、あんたは一筋縄じゃいかないわね」
「俺は那智とは違って、他人に甘くねえからな」
福島は空になったティーカップを見つめると、店員に声を掛けて、おかわりを始めた。
新しい紅茶が運ばれるまで、一向に口を開く様子はなかったが、湯気立ったティーカップに角砂糖を落としたところでようやっと「お金よ」と返事してくる。
「両親が離婚する際、父は夫婦で蓄えていた金をネコババしたの。離婚後にそれが発覚して、母は発狂していたわ。父の狙いはたぶんそれだったと思う。離婚したことを後悔させるために、ね」
ネコババした金額はおおよそ『60,000,000』だそうな。
さすが大企業の重役に就いていた男の家庭だな。六千万なんざ一般人の俺から見たらファンタジーな金額だぞ。
福島は独自で六千万の行方を追っているという。
それこそ、どこぞの知らない男と家庭を築きたいと夢見る母よりも先に手にして、さっさとネコババしたい。それが本当の目的だと、福島は妖艶に微笑んだ。
「あの男の書斎から出てきた見積書。内容はともかく金額は、簡単に銀行から引き出せる金額じゃない。たぶん蓄えていた六千万から出そうとしていたと思うの。あの写真に記されていた三百万といい……ね」
「ネコババした金と親父、そして通り魔が密接に関わっている。お前はそう言いたいんだな?」
「ええ。そしてお金の対価になるのが『下川那智』だとしたら?」
俺は先日の騒動を思い出す。
益田と柴木と俺の三人でアパートに行った日、俺は知らない連中に襲われた。そいつらは借金持ちで、俺との関係性は皆無に近かった。
なのに連中は俺を襲ってきた。未だに黙秘をしているようだが……。
『下川治樹』が金の対価になる対象だとしたら、まあ襲われた理由にも頷ける。
「あたしは両親が蓄えた六千万が欲しい。異母兄弟に八つ当たりができなくなった以上、あたしの怒りは両親にぶつけるしかない。じつの娘から貯蓄をネコババされるなんて、家族ごっこを演じていた両親に対して最高の復讐になるでしょう?」
「メンドクセェな。要はお前の復讐を手伝えってか?」
「手を組んでくれるなら六千万の内、半分をあんたにくれてやるわ」
「胡散くせえことばっか言いやがって。信じると思うか?」
「信じる信じないじゃないわ。あんたが手を組むかどうかよ。那智くんがまた刺されてもいいわけ?」
「クソ女め」
盛大に舌打ちを鳴らし、俺は交渉に応じるかどうかを思慮深く考える。
大前提として福島の話を鵜呑みにするのは、あまりに危険だ。
こいつが異母兄弟であることは、アパートの賃貸借契約書で証明済み。親父の書斎から持ち出せるのは家族しかできねえ芸当だろうし。
那智を一方的に弟として見ているかどうかは、正直判断しかねる。
他人の心なんざ誰も分からねえ。異母兄弟に憎しみを抱いたのなら、それが簡単に消えるとも思えねえしな。利用する気が失せた、という言葉ですら本音かどうか分からねえところだ。もちろん六千万の半分をくれてやるなんざ、誰も信じねえっつーの。
とはいえ手帳の記載内容に三百万と記された写真、まだ見ぬ意味深長な見積書、ネコババされた六千万、俺にとって気になるワードが山盛り沢山てんこ盛りだ、が……。
「六千万をネコババした後はどうするんだ。お前」
当然、親の金をネコババするのだから、両親とは絶縁する覚悟なんだろうが。
俺の素朴な疑問に、福島は「さあ」と肩を竦めた。先のことは考えていないらしい。ただ金さえあれば、しばらくは苦労しないだろうから、ゆくゆく考えるとのこと。
とにもかくにも両親に最高の復讐を贈ってやりたい、と言って店内の客を眺め始める。
「あたしはあんたと違って、きっと恵まれていたわ。暴力だって振られたこともないし、欲しい物は頼めば買ってもらえた。やたら習い事を多く習わされたけれど、愛情とやらを注がれていたんだと思う。ただ出来の良い姉や妹よりかは遥かに注がれる愛情は少なかった」
そんな己を可哀想だとは思わないが、不公平であり不平等だと常々感じていた。
「おかしな話でしょ? 愛情は注がれても、子どもの出来で、その愛情に大小があるんだから。姉や妹の方が多くて、あたしは少ない。変な話。おなじ子どもなのに」
福島は家庭が崩壊していく最中、両親の理想を垣間見たと言う。
両親の理想は最高の家族を演じること。出来の良い夫がいて、出来の良い妻がいて、出来の良い娘が三人いて。そうして周りが羨む家族を作り上げようとした。クダラナイ見栄が両親の理想に宿っていた。
うんざりだ。自分は両親の人形ではない。福島は苦々しく吐露すると、頬杖をついて俺を見つめた。
「ちっともあんた達の家庭を羨ましいと思わないのに、あんた達の兄弟仲だけは羨ましいわ。健気な弟があたしも欲しい」
「そろそろ黙らねえと、その口に親父の手帳を突っ込むぞ」
「下川。あたしはそろそろ返事がほしいんだけど」
こいつはちっとも考える猶予を与えてくれねえな。せっかちめ。
俺はひとつ鼻を鳴らすと、窓の向こうに目を向けた。行き交う通行人を見つめ、見つめて、両口角をつり上げる。
「いいぜ、ばかな振りをしてお前の口車に乗せられてやる。せいぜい、親の金をネコババするために俺を利用するんだな。その代わり、お前も利用される覚悟でいろよ」
「交渉成立ね」
「ただし、ひとつだけ条件を付ける。那智に異母兄弟の件は伏せろ。あいつは優しすぎる面がある。お前が異母兄弟と知れば、俺とお前の顔色を窺って要らん気遣いを見せる。気揉みさせたくねえ」
口車に乗るということは、遅かれ早かれ福島と那智は顔を会わせることになる。
二人を会わせるのは俺的に危険な賭けだが、それ以上に福島の持つ情報は魅力的だ。ここは俺が引くべきだろう。ぜってぇ二人っきりで会わせる気はねえけどな。ぜってぇ二人っきりにはさせねえ。那智にも教えこまねえとな。
俺の条件に福島は二つ返事で承諾した。向こうも那智に正体を明かす予定はない、とのこと。
「半分血の繋がった姉です、なんて言ってもあの子を困らせるだけだもの。それは本意じゃない。あんたを困らせることは全然平気なんだけど」
「どこまでもクソ女だな。お前」
「なによ性悪ブラコン男」
「いっぺん地獄に落ちろ」
「嫌よ、あんただけ落ちなさい」
やっぱり手を組むのやめるか? やめた方が良いか? 俺は口悪く罵ってくる異母兄弟を睨み、三杯目のブラック珈琲を飲み干した。
【6】
(すっかり遅くなっちまったな)
午後六時。
福島とタノシイお茶会を終えた俺は、ようやっと那智のいる病院に帰って来た。
まさかあの後、ブラック珈琲四杯目に突入するくらい話し込むとは……今日はもう珈琲を控えよう。さすがに飲み過ぎた。
ちなみに話し込んだ内容は親父について。
福島道雄として過ごしてきた親父が去年の夏、離婚して仁田道雄となったわけだが……福島曰く、元々福島家は高層マンションで暮らしていたらしい。
仕事用と家庭用に二部屋も借りていたそうだ。まじで金持ちだろ。すげえなおい。
親父の不倫発覚をきっかけに姉と福島はひとり暮らし、母親と妹は別マンションの部屋を借りて出て行ったそうだが、親父は家庭用の部屋はそのままに、仕事用の部屋に引き篭もって生活していたそうな。
福島はそんな親父の下をたびたび訪れ、表向きは娘として支えていたらしい。親父はそれにいたく感動していたらしく、福島にとびきりの愛情を注いでいたとかなんとか。
まさか裏で異母兄弟について調べていたなんて、親父が知ったら失神するかもしれねぇな。
俺は仕事用の部屋に福島と日を合わせて足を運ぶ予定だ。
アパートの賃貸借契約書はもちろん妙な見積書とやらも、その仕事用の部屋にあるらしい。
親父が傷害事件を起こしたことで警察が部屋に来たそうだが、先んじて福島が書類等などを隠したっていうから腹が黒いと思う。そこまでして親の金をネコババしたいんだな。姉妹間で愛情に差異があったことが、福島が行動を起こす、何よりの原動力のようだ。どうでもいいけど。
俺が危惧するべきことは、那智の福島に対する認識の甘さだ。
花屋にいる間の様子を聞くに、俺が想像していた以上に他人に気を許していたみてぇだから、そこは改めて那智に教え込まないと……福島の話を思い出すだけで嫉妬でどうにかなりそうだ。
(とはいえ、頭ごなしに叱るわけにもいかねえし。どうしたもんかな)
那智のいる病室を開ける。
そこにはベッドの上で夕飯を取っている那智が、那智が、那智が……いねえ。
今日は午前中で心理療法が終わっているから、夕飯は病室で取っているはずなのに。夕飯は残っているものの、食べた形跡はある。トイレか? 風呂じゃねえだろうし。
俺はコンビニで買って来たカップ麺をソファーに放り投げると、早足でトイレに向かう。
那智はあっさり見つかった。
ぐったりとトイレの壁に背中をあずけ、俺の上着を抱きしめたまま腹部を押さえて、荒呼吸を繰り返していた。
「那智。どうした。気分が悪いのか?」
血相を変えて那智に声を掛けると、弟は俺の存在に気づき、力なく笑ってきた。
「おなか……ちょっと……」
ちょっとだけお腹が痛い、那智は蚊の鳴くような声で返事した。
脂汗を滲ませている様子はどうみても「ちょっと」じゃない。なのに、那智は強がりを見せて、ちょっとだけお腹が痛いだけと言うばかり。だめだぞ那智。お前はちゃんと兄貴に頼らなきゃ。お前は俺がいないとダメなんだから。
口から出そうになった本音を呑み込んで、那智の優しく頭を撫でると、俺の気持ちが伝わったのか、今度はすごくお腹が痛いと伝えてきた。
うん、それでいいよ。強がるお前はあんまり好きじゃねえ。頼られないなんてさみしいだろ。
「吐きそうか?」
「ううん、吐き気は無いです。ただお腹が痛くて」
「いつから?」
「……お昼から」
「ずっと我慢してたのか? なんで連絡しねえんだよ」
「お昼はここまで酷くなかったんです。傷口がちょっと痛んでいるのかなって思って……変なモノでも食べちゃったのかな」
「とにかくベッドで休もう。吐き気がねえならベッドまで運ぶぞ」
「うう。兄さま、おんぶがいいです。おんぶ」
「ったく、わがまま言うんじゃねえよ」
しきりにおんぶがいいと駄々捏ねる弟を、さっさと横抱きにしてベッドまで運ぶ。
弟を抱えたままベッドの上に座ると、まずは夕飯を確認した。今日の献立は白飯、ひき肉の汁物、白身魚、輪切りにされたキウイフルーツ。腹痛を起こしそうなものはなさそうだ。
昼間は何を食べたのか。那智に聞くも返事はない。本当に腹が痛いようだ。仕方なしに抱っこしたまま、しばらく弟の体を叩いて、気を紛らわせてやる。
するとどうだ。
十分足らずで那智は回復し、腹痛が治まったと大喜びした。なんなら腹が減ったから、と冷め始めた夕飯を食べようとする始末。
待て待て待て、腹痛はどうした腹痛は。そんなに早く腹痛が治るもんかよ。
「那智。今晩は汁物と果物だけにしとけ」
「ええ? おれ……お腹減りました」
「さっきまで死ぬほど腹痛を起こしていただろうが」
「そうですけど。そうですけどぉ……お腹痛いのはうそじゃなかったんです。本当に痛かったんですよ」
「んなの、見てりゃ分かるっつーの。俺はお前の兄さまだぞ。お前が嘘ついているかどうかなんざ、ひと目で分かるって。とにかく汁物と果物だけでおしまいだ。おしまい」
白飯と白身魚を取り上げると、那智はしょぼくれたように汁物を啜り始めた。
そんな恨めしい目をしてもダメだからな。この白飯と白身魚は俺がおかずとして食う。食うったら食う。
(突発的に傷口が痛んだのか? ……後遺症とかじゃねえよな)
弟の症状に不安を覚えた俺は夕食後、看護師に声を掛けて担当医に相談を持ちかけた。
当時の様子を事細かに聞いた担当医は、俺の話にひとつ頷いて「ストレスでしょうね」と返事した。
「人は許容範囲以上のストレスを受けると心身に様々な影響を及ぼします。那智くんの場合は刃傷を受けて命の危機に晒されました。それゆえ、ふとした拍子にフラッシュバックが起きたり、無意識に恐怖心を思い出してしまうのではないかと。ご家庭の事情も相まって、腹痛を起こしたのやもしれませんね」
「ストレス……ですか」
「トイレに籠るほど痛かった腹痛がぴたりと治ったのは、お兄さんが帰宅したことで安心したのだと思いますよ。ひとりで過ごしていた時間がとても不安だったんじゃないかと。じつは那智くん、歩行練習後はいつも落ち込んでいるようなのですよ」
「落ち込んでいる?」
「ええ。リハビリ室には小さなお子さんやご年配の方、親子連れ……色んな方がいらっしゃいますので、それを目にして、思うことがあるのやもしれません。那智くん、最近お兄さんに甘えたりしていませんか?」
身に覚えはある。
歩行練習後、褒められたいからと電話をもらったことがあったしな。
あの日はいっしょに昼飯を取るために予定を切り上げて病院に帰ったが……そうか、俺が想像している以上に那智はさみしさを覚えているのか。そっか、那智はさみしいのか。そっか、そっかー。
緩みそうになる口を必死に引き締めて、俺は担当医から説明と助言を受けた。
半分くらい聞き逃しちまったが、大したことじゃないだろう。
ああもう、単純な俺だから、病室に帰る足取りはすごく軽やかだった。ガキみてぇにはしゃぐ俺がいる。体に出るくれぇ那智が俺に依存している。嬉しくないわけねえ。ああ、もっと、もっと那智が俺に依存してくれたらいい。
「兄さま。どこに行っていたんですか?」
病室に戻ると、日記を書いていた那智が手を止めて、俺に視線を投げてくる。
ご機嫌な俺に首をかしげているが、構わずにくしゃくしゃと頭を撫でて誤魔化した。
「那智。明日は俺も歩行練習に付き合うからな」
途端に那智が目を爛々と輝かせてきた。
「ほんとですか。え、でも、あの用事とかは」
「明日は予定を空けている。だから歩行練習も、心理療法も一緒にいるよ。それこそ朝から晩まで一緒にいるから、那智のがんばりを兄さまに見せてくれよ。さみしい思いばっかさせてちゃ、兄さま失格だろ?」
俺の言葉を反芻した那智は、見慣れた泣き虫毛虫の顔になった。
ずっとずっと我慢していたんだろう。
本当は歩行練習に付き合ってほしいとか、心理療法を一緒に受けてほしいとか、もっと留守番する頻度を減らしてほしいとか、わがままを沢山ぶつけたい気持ちに駆られていたに違いない。
だけど俺が日常の整理に奔走していることを、誰よりも那智が知っていた。
だから電話で声を聞きたい、とか夕飯を一緒に食べてほしいとか、褒めてほしいとか、そうやって本音を隠していたに違いない。
(歩行練習後は落ち込んでいた。そりゃたぶん、親子連れを目にしていたんだろうな。親の存在が羨ましかったんだろう)
俺達には無い親の存在、愛情、優しさを他人が持っている。
それは那智にとって羨ましいことであり、妬ましいことだ。俺にそういう気持ちがねえと言えば嘘になるが、那智は俺ほど割り切れていねえ。感情の処理が追いつかなくなったんだと思う。
ばかだよな。もっと言っていいのに。もっと兄さまに依存していいのに。
腹痛ではちっとも見せなかった泣き顔を必死に隠そうと、手の甲で目元をこする那智の額を軽く人差し指で押す。
「なに我慢してるんだよ。那智らしくねえな」
「だって、だって……兄さま、いつもがんばってるのに。おれだけっ、わがままで」
「お前もがんばっているだろ? 甘えたい時に甘えるのを我慢したんだから。周りは付き添いがいるのに、ひとりでずっと歩行練習したんだ。がんばっているよ。だから」
だから、遠慮せず兄さまに甘えていい。
そう言ってやると、那智がとうとう涙をこぼし始める。
「ゔぅっ……泣き虫は卒業したいのに。したいのに」
震え声で呟いて、愚図って、少しだけ癇癪を起こした後に抱きついてきた。
きつく抱きしめ返してやると、那智が本格的に愚図り始めた。溜めに溜めていた感情が爆ぜてしまったようだ。
「どうしてっ、どうじでお母ざんっ、優じぐないの兄さま」
「いつも叩くもんな。俺達の母さん」
「お父ざんだって、ゼンゼン優しくなくて」
「うん。そうだな」
「みんなのお父ざんお母ざんっ、優じいのに、おれぁああアァア、ゔぁあアア」
火が点いたようにワァワァ泣き始めた。
幼児のように愚図って、俺に抱擁や抱っこをねだってくる。
いつもは聞き訳が良いし、現実を冷静に見据えて、自分達の母親は周りとは違うと分かっているんだが、今回ばかりはまじで感情処理が追いついていないようだ。
間が悪いことに柴木と勝呂が益田の使いを受けて、病室にやって来たが、ご覧のありさま。お取込み中で手が離せない。
「やだっ、にいざまヤダァアア! 行っちゃヤだっ!」
柴木と勝呂を見るや、那智はヤダを連呼し始めた。
兄貴を取られると思ったんだろう。いまは自分の番だと凄まじい癇癪を起こして、喚いて、俺の体を叩いてくる。こうなるとしばらく元に戻らないだろう。久しぶりだな、那智がここまでダダっ子になっちまうの。本当に我慢していたんだな。
「大丈夫、兄さまはどこにも行かないよ。ごめんな。さみしい思いをさせたな」
那智は大粒の涙を零したまま、何度も首を縦に振った。さみしかったと言ってきた。素直でよろしい。
「いっしょがいいっ、いっしょっ、にいざま」
「ああ。明日は一緒にいるよ」
「ずっと、いっしょ」
「朝から晩まで一緒にいる。大丈夫」
「やだ。はなれちゃやだっ。さみじぃ。ひとりはヤダよ。やだよぉ」
俺は那智をソファーに連れて行くと、膝の上に弟をのせ、ダダっ子くんの背中を優しく叩いてやる。一層、声を上げて泣き始めた。その一方で、心の底に眠る本音を吐き出す。優しいお父さんお母さんがほしい。叩かない親がほしい。愛してくれる親がほしい。どうして自分の親はみんなと違うのだ、と。
思った通り、那智は羨ましかったんだろう。妬ましかったんだろう。リハビリ室で見かけた親子の微笑ましい光景に。
肩で息をし始める那智は、優しい親がほしいと繰り返していたが、背中を叩き続ける兄貴の存在を思い出すと、顔をくしゃくしゃにして俺の胸に顔を押しつけてきた。
怖い親なんていらない。兄さまがいたらそれでいい、と泣きじゃくる那智に頬を緩ませると、小さな頭を抱きしめてやる。それこそ那智が泣き止むまで、ずっと抱きしめてやった。
「――すみません。どうしても、これを下川のお兄さんに渡してほしいとのことで」
那智を落ち着かせることに成功した俺は、病室の前で待っていた柴木から封筒を受け取った。
中身は益田お手製の報告書。
ストーカー事件及び通り魔事件の捜査の進み具合や、マスコミの動き、親父の傷害事件、先日襲ってきた連中の取り調べ状況について事細かに記されている。
もちろん、これは公式の書類じゃない。
俺限定に向けた益田お手製の報告書で、俺が知らない情報を益田は沢山握っていることだろう。まあ、建前でも報告しておくべきだと益田は思っているんだろうな。
あとで目を通しておくか。
「益田に受け取った旨を伝えておいてほしい。言っておかないと、あいつ直々に病室に来るだろうしな」
「はい。益田には私から伝えておきます」
柴木がひとつ頷いたところで、勝呂が俺の背後に視線を投げながら控えめに「大変ですね」と気遣ってきた。
それは那智の愚図りを指しているのだろう。
俺は背後に隠れている弟を一瞥する。
那智は俺の右手を握って、口をへの文字に曲げていた。目は真っ赤だ。感情任せに泣いたせいで疲労の色も見え隠れしている。
それでも那智は俺の手を離そうとしないし、傍を離れようともしない。
病室で待たせようもんなら、また火が点いたように泣いちまうことだろう。
ちらりとこっちを見てくる那智の訴える目に気づき、俺は苦笑いを浮かべると、「話はもう終わるよ」と言って、わしゃわしゃと頭を撫でてやった。
なおも不機嫌に口を曲げているダダっ子は、早く自分に構ってほしいようだ。握る手が強まった。
「弟さんはいつも、こうなんですか?」
勝呂の疑問に、「まあ」と曖昧に返事した。
那智はもちろん、俺も一度感情任せになると、自制が利かないほど駄々をこねたり、泣き喚くことがある。心理療法の担当医にも問診を受けた際、そのような状況になったことがないか、と聞かれたことがあった。どうも俺達は育った環境のせいで、感情の制御が人より下手くそらしい。
俺が駄々をこねた時は那智が宥めてくれるし、あんまり問題視してなかったんだが、周囲の反応を見る限り、そうでもなさそうだ。
「こうなった弟を落ち着かせるのは骨が折れるけど……いつものことだしな。すごく可愛いし」
「か、可愛い?」
コイツ何を言っているんだって言わんばかりの顔をされたが、大真面目に可愛いと思っている。
「だって、あれだけ泣きじゃくりながら兄貴を求めているんだぜ? そりゃあ可愛いよ――めちゃくちゃ愛されているって感じがするじゃん? 弟にはもっと泣き喚いて、兄貴を求めてほしいね」
思いっきり顔を引き攣らせている勝呂と、表情ひとつ変えない柴木に、滅多に向けない笑みを浮かべた。
「俺は那智が求めてくれるなら、何度だって駄々をこねてくれていいよ」
家族ってそういうもんだろう?
おとな二人に向かって言葉を投げると、俺は不機嫌に口を曲げている那智と視線を合わせるために膝を折った。
「お話は終わったぞ。那智、良い子に待っていたご褒美にジュースを買ってやるよ」
「ジュース?」
「休憩所の自販機で買って来てやるから、好きな物を言えよ」
「やだ。兄さま、いっしょにいるって言いました」
「ジュースいらないか?」
「ほしい。でもいっしょがいい」
「じゃあ、いっしょに自販機まで行こうか。おんぶしてやるから背中にのれよ。車いすを取ってくるの面倒だしさ」
うんうん、那智は二度頷いて、俺の背中にのってくる。
少しだけ機嫌を直したのか、那智はココアが飲みたいとおねだりしてきた。その際、いっしょに飲もうとおねだりしてくるもんだから、俺もココアを飲むことが決まってしまう。
ココアは俺にとって、ちと甘すぎるんだが……たまにはいいだろう。
「じゃあ、俺達は行くぞ」
俺はこちらの様子を見守る刑事に声を掛けると、弟をおぶったまま休憩所の自販機へ向かった。
刑事二人が俺の発言にドン引いているのは、もちろん分かっていた。本音を漏らしたのは当然わざとだよ、わざと。
弟に求められた今晩の俺はご機嫌もご機嫌、誰かに家族愛を見せつけたい気分だった。
「兄さま。あのね」
「ん?」
「ココア、いっしょに飲みたい」
「ああ。いっしょに飲もうな」
「あとね」
「うん?」
「今日いっしょに寝たい」
「お前、腹を怪我してるだろ? いっしょに寝て、兄さまが那智の腹蹴っ飛ばしたらどうするんだよ」
「やだ。いっしょのお布団で寝たい」
「ったく、そう言われちゃダメって言えねえな」
薄暗い廊下を歩き、休憩所に向かう道すがら、那智と他愛もない会話を繰り広げる。
今日の那智は本当にわがままで聞かん坊だけど、俺は快く弟のわがままに耳を傾け続けた。親に得られなかった愛情を、兄貴に求めている。それを分かっていたからこそ、俺は那智の内なる声に耳を傾ける。求められるってのは本当にいいな。自分の存在価値を見出せる。
「那智」
「うん?」
「兄さまといっしょに寝ような」
「うん!」
「俺達にはお父さんもお母さんもいねえけど、血の繋がった兄弟がいる。お前は兄さまにとって、大切な家族だからな――そしてお前の家族は『俺』だけだ。忘れるなよ。分かったか?」
「はーい」
「良い子だ」
昔からこうやって那智に言い聞かせては、やっていいこと、ダメなこと、怖いこと、気を付けることを教えていたっけ。
どこまでも素直な那智だから、今回だって兄貴の言葉を一心に受けてくれるに違いない。お前は良い子だもんな。兄さまの教えはちゃんと守ってくれる。そう信じているよ。
【10日目/365日】
たくさんイイコトがあったよ!
だって今日いちにち、兄さまといっしょだったんだ!
ひさしぶりに兄さまとふたりでいっぱい過ごして、うれしくて、ふでが、ふでが……なんていうんだっけ?
とにかく日記を書くことが楽しいんだ。
じゅんばんに今日あったことを書こう。
◆朝
兄さまとごはんを食べた後、ほこう練習まで勉強を教えてもらった。
英語をがんばろうと思ったけど、兄さまは「まずは国語」だって。
うう、漢字ができない自覚はあるよ。
兄さまに漢字問題を出された。
『けっかん住宅』の『けっかん』を『血管』って書いたら、兄さまがすごい声でうなっていた。
「ここまで漢字ができないのかよ……お前」だって。
日本語むずかしいね!
◆朝ごはん
白ごはん、みそ汁、切りぼしだいこん、にまめ、牛乳。
だからどうしてごはんと牛乳をいっしょにするの?
全然合わないよ……みそ汁と牛乳も最悪なのに。