俺は手前の気持ちを落ち着けるために、カップに口をつける。
 黙って俺の語りを聞いていた福島は、軽く眉を寄せて疑問を投げてきた。

「下川。あんたのそれは恋愛感情?」
「不思議なことを聞いてくる女だな。恋愛感情なんざ好きだの恋だの、それは他人同士が抱く感情だろう?」

 俺は那智に恋なんざしてねえ。
 そんなものを抱いても、すぐに他人に奪われる、裏切られる、自然消滅してしまうことを俺は知っている。
 恋愛感情を抱いたせいで、母さんは常に恋人をとっかえひっかえしていた。親父は別の家族を持ち、やがて離婚の道を歩んだ。他人に感情を向けるからそんなことになる。どんなに他人を愛しても、家族になっても、結局最後は安い悲劇を見る。俺は不安定な感情も関係もいらねえ。

「この感情は当然兄心だ。それ以上も以下もねえよ」

 俺はシニカルに笑い、那智を特別視している福島に自分の気持ちを曝け出した。
 他人から見た俺はさぞ異常な兄貴に見えるんだろう。自覚はある。寧ろ、わざと本性を出した。弟を特別視していると聞いたからには、俺もそれ相応の態度と気持ちで(のぞ)む必要がある。

 一方、福島は手始めに切り出した話題がまずかった、と苦い顔をした。

「根っからのブラコンかと思いきや、とんでもない男ね。あんた」
「俺の質問に答えてねえぞ。福島」
「ああ。あたしが那智くんを特別だと想っている理由? そうね、半分は赤の他人じゃないから……かしら」
「赤の他人じゃない?」
「答える前にあんたにこれを見てほしい」

 福島がショルダーバッグから透明なファイルを取り出すと、それを俺の前に置いてきた。
 ファイルには数枚の書類と銀色の鍵が押し込められている。手に取って目に通すと、それは賃貸借契約書だと分かった。それもただの賃貸借契約書じゃねえ。見覚えのある住所と氏名、そして筆跡に俺は片眉をつり上げる。

「これは俺ん()のアパートの賃貸借契約書だな」

「鍵と一緒に返しておくわ。あたしが持っていても処分するしかないし。言っておくけど、これは盗んだわけでも何でもないから。強いて言えば、“福島道雄”が愛用していた書斎の机の引き出しに眠っていたものをあたしが見つけたのよ。誰にも見られたくなかったのか、書類の束の下に敷かれていたわ。金庫にでも入れておけばいいものを」

「ほう。福島道雄の書斎、ね」

 俺は語り部をまじまじと観察すると、書類を流し目にして、くだらねぇと鼻で笑ってしまった。

 仁田道雄。
 下川道雄。
 福島道雄。

 一体いくつの苗字を持っているんだ。あのくそ親父め。
 そしてこの書類を見つけたと豪語する福島と親父、そして俺の関係性もじつにくだらねぇ。なるほどね。ああ、なるほど、半分は赤の他人じゃない、という理由に納得せざるを終えない。

「福島道雄の娘か。お前」
「ええ。吐き気のすることに、血の繋がった親子よ」

 さすがに福島の名前を聞いてもピンとは来なかったな。来るわけもねえ。親父が愛した家族の苗字なんざ、これっぽっちも覚える気にならねえんだから。
 仮に福島だと知っていても、目の前の女が親父の娘なんざ、ぜってぇ分からねえよ。俺は親父が愛した家族を見たことがねえんだから。


「つまり下川とは異母兄弟と言ったところかしら。ハジメマシテ、お兄ちゃん」

「やめろ、気色悪い」


 棒読みでお兄ちゃん呼ばわりしてくる福島に、思わず拒絶反応を示してしまう。

 おおよそ福島と俺は同年代。気色悪く『お兄ちゃん』呼ばわりしてくるということは俺の方が月的に早く生まれたんだろうが……死んでもお前にお兄ちゃんなんて呼ばれたくねえ。異母兄弟だろうが、半分血が繋がっていようが、俺にとって他人ほかならないんだよ。俺を『兄』と呼んでいいのは那智だけだ。