「おれは……おれは兄さまの味方です。おれが大好きなのはお母さんじゃない、兄さまです」
はじめてお母さんの命令に逆らった。
けれど、これで良いんだと思えた。
うそでも、お母さんの味方になんてなりたくない。
おれは痛いのも嫌いだし、怖いのも嫌いだ。お母さんはおれに嫌なことばかりしてきた。泣いて許してと言っても、嫌いなことばかりしてきたのはお母さんだ。
そんなお母さんの味方にどうしてならなきゃいけないの?
「おかしいのはお母さんです」
呆然とするお母さんの手を振り払い、おれは兄さまの下に走った。
腰に抱きついて甘えると、頭にやさしい手が置かれる。見上げると、満足気に口角を持ち上げている兄さまのお顔がそこにはあった。
「那智。いい子だ」
本当にいい子だと褒めてくれる兄さまは、おれに少しだけ、キッチンにいてくれるよう頼んでくる。
そして冷蔵庫の前に座り、耳と目を塞いでおくよう指示した。
「兄さまが良いと言うまで、そうしておいてくれ。お前を怖がらせたくないんだ」
くしゃくしゃに頭を撫でられると、うんとしか言えない。
おれはキッチンに入り、言われた通りに冷蔵庫の前に座る。
でも、耳と目は塞がなかった。どうしても兄さまが気になったから。
「おいおい。どこに行くんだ? お母さま。逃げるんじゃねーよ」
笑い声がひとつ。
「た、たすけて」
怯える声がひとつ。
「なにビビッてやがる。あんたが、俺の体に教えてくれたんだぜ? 気に食わないことがあれば暴力でねじ伏せるって。腹が立てば、暴言を吐いて蹴り飛ばせばいいって」
フローリングに叩きつけられる物音。お母さんの悲鳴と、兄さまの楽しそうな笑声。おれは冷蔵庫に寄りかかり、それらの音に耳をすませた。
「那智を味方にしようなんざ無駄だ。あいつは俺が必死に守り続けた、たった一人の家族。あんたになんかやんねーんだよ。那智は、弟は、あいつだけは俺を裏切らないっ」
お母さんが虐められ、兄さまが虐めている。
その現実を理解したおれは、自然と涙がこぼれた。こわいんじゃない。うれしいんだ。今日を持って、お母さんに怯える日は終わるんだ。お母さんに命令される日が終わる。それがどんなに幸せなことか。
おれは泣いた。お母さんの悲鳴を聞きながら、兄さまの暴言を聞きながら、崩れた日常を前に声を殺して泣いた。
狂った状況だったけど、まぎれもなく、おれはうれし泣きをこぼしていた。