そんな感情、俺には無縁だと、思っていたのに。
もっと見たくて、俺は一番反応が良かった耳に狙いを定めて、ゆっくりと執拗に舐める。外殻をなぞるように舐めた後は、吐息を掛けてやる。
ひゅ、声なき声が漏れたところで耳の穴に舌を捻じり込む。
予想していなかった行動だったのか、あられもない声と共に那智の体が大きく飛び跳ねた。
本気で声を我慢していたんだろう。
出すまいと必死に堪えていたものを、表に出してしまい、顔から首まで肌を真っ赤に染めてしまった。
(はじめて見た。那智のそんな顔。お前の知らないところなんて無いと思っていたのに――嫌だな。お前の知らないところがあるなんて、俺は誰よりもお前を見守ってきたのに)
俺は那智の全部を知りたい。
「那智。なち」
弟をもっと近くで見たくて、両頬で固定すると、本能のまま唇を重ねた。
キスの良さは分からない。重ねるだけで何も感じない。
さっきまで偉そうに言っていたくせに、俺は弟と唇を重ねて、小さな舌と手前の舌を絡ませた。初めての舌は生温かくて、少し熱かった。弟が嫌がる様子はない。
ただ兄貴の舌の温度に戸惑っているのは分かった。
どうすればいいか分からずに縋ってくる。
それが求められている気分になって、俺は呼吸すら奪うように、口の奥に逃げる舌を追い駆けて、夢中で舌を絡めた。
涙目になる那智が息ができない、とつよく縋ってくる。
少しでも距離を埋めるように、弟の後頭部に手を回して、呼吸を奪い続ける。小さな体が小刻みに震えていたことに気づいていたし、口端から飲み切れない唾液が伝いこぼれているのだって気づいていたが、俺は見て見ぬ振りをした。
だって、どうしたって止められそうにないのだから。
これは俺の、俺だけの家族だ。
那智が力づよく俺の背中を叩き、酸欠になると訴えたところで、ようやっと唇を放してやる。その際、唾液の銀糸が生まれた。母さんと恋人がやっていたキスで見たことある光景だった。
ああ、そうか。他人同士でキスをする愛情表現の意味が少しだけ分かった。
触れるだけのキスの意味は分からないが、このキスの意味なら無知の俺にだって分かる。
(相手の呼吸の主導権を奪う。奪わせることで、手前の愛情表現を示しているんだな)
生かすも殺すもお前次第。
そう愛情表現しているのであれば、俺はこのキスの意味に理解が示せる。これはまぎれもなく愛情表現だ。
「大丈夫か、那智?」
酸欠気味の弟は俺に縋ったまま咳き込んで、荒呼吸を繰り返している。
ひゅう、ひゅう、と喉を鳴らすように呼吸をしているのだから、ちとやり過ぎてしまったみてぇだ。軽く背中を叩いてやると、少しずつ呼吸が整っていくのが分かった。
「……怖かったか?」
問うと那智があどけなく笑い、唾液に濡れた俺の口端を親指で拭った。
「兄さまの舌って、ちょっと冷たいんですね」
戸惑ったけれど、怖くなかったよ。
遠回し遠回しに答える返事が那智らしい。お前は本当に正直だな。どこまでも素直で正直で、兄貴を慕ってくれる。今の行為がどういう意味を持つか、それが分からない年齢でもねえのにな。
きっと世間が俺達の行為を見たら、愚の骨頂だと嘲笑うに違いない。男兄弟同士で何をしているのだと、罵るに違いない。
だけど、どうでもいい。誰にどう思われてもいい。あの日のあの時あの瞬間、他人から見捨てられた俺にとって、弟だけがすべてなんだから。俺の孤独を埋めてくれるのは那智ただひとりだけ。
これは俺から弟におくる、愛情表現――愛情そのものだ。
「お前は俺よりも体温があったかいんだな」
舌がちょっとだけ熱かった。
おどけ交じりに笑うと、那智も笑い返して、「このキスなら好きです」と、予想に反したことを言ってきた。てっきり戸惑ったり、羞恥心を噛み締めながら『もうやらない』とクレームをつけてくると思ったのに、那智はこのキスなら好きだと言う。
理由を聞くと、那智は大好きな兄の体温が感じられるからだと即答した。抱擁や手を繋ぐのと同じ好きだとはにかむ。
「だから兄さま。もっかい」
那智はさっきのキスをもう一度やってみたいと伝えてきた。
今度はもっと長く、キスが続けられるようにがんばるから。ちゃんと息継ぎできるようにがんばるから。
思いもしなかったおねだりに瞠目すると、那智はいたずら気に「弟はずるいんです」
「おれが『もっかい』と言えば、弟に優しくて甘い兄さまは応えてくれる。お願いをすればするだけ、応えてくれる。そうして兄さまは弟の傍から離れられなくなる。ね、ずるいでしょう?」
――……ああ、そうだな。お前はずるい。本当にずるい。
そんなことを言われたら、俺はもろ手を挙げて喜ぶに決まっている。那智はそれを見越して、『もっかい』とおねだりをする。ばかだよなお前。ほんとうにばかで優しいよ。
「那智、そうやって兄さまを縛ってろよ。お前が求めれば求めるほど、俺はお前から離れられなくなるんだから」
俺は無邪気な弟に小さく微笑むと、今度は傷の無い綺麗な肌に歯形を残すそうと、小さな肩口に噛みついた。風呂場から水が溢れる音が聞こえるまで、触れ合いは続いた。