「おかえりなさい。兄さま」
か細い声が前触れもなしに「おかえり」と言ってくる。
さっきも言った「おかえり」を今度は真剣に伝えてくる。
「兄さま。がんばった分だけ、わがままを言っていいんですよ」
那智には今日一日のことを何も言っていない。
制服のことも、アパートに帰ったことも、帰り道で妙ちきりんな輩に襲われたことも、怪我を負ったことも、ラーメンを食ったことも。何も言っていない。
それでも聡い弟のことだから、ソファーに寝転がって寝落ちしている兄に思うことがあったんだろう。ソファーの側らにある、テーブルのうえの剥き出しの書類に察するものがあったんだろう。俺の左手の巻かれた包帯に、自分の知らないところで無理をしているのだと気づいたんだろう。
だけど那智は何も聞かず、気づかないふりをして、俺にわがままを言っていいと甘えさせてくれる――だから、お前は優しいんだ。全部を俺に任せておけばいいのに、お前は知らないふりをしておけばいいのに、俺のすべてを認めてくれる。受け入れてくれる。愛してくれる。
うそ偽りのない感情を向けてくるお前のことを、どうしても俺は手放せない。
「ただいま。那智、ただいま」
気づけば、ばかみたいに那智の体を抱き寄せていた。
腹の傷も考えず、相手が六つ下の中坊だという現実も忘れて、力いっぱい抱き寄せて、少しでも離れていた時間を埋めようと努めた。
弟の首に包帯を解いた。
今朝は叶わなかった引っ掻き傷に噛みついて、抱いていた嫉妬をそれにぶつけた。痕を上書きしようと躍起になった。
「ゔぅぁ」
本気で噛みついたせいで傷口から鮮血が流れ、那智は悲鳴に近い声を漏らす。
それに少しだけ興奮してしまったが、俺が本気で興奮するのは那智が兄貴を求める姿。痛みに耐えている姿じゃない。
だから俺は噛む行為をやめて、傷を癒すように、なぞるように、それをそっと舐めた。何度も首を舐めた。
次第に物足りなくなり鎖骨や頬、右耳を甘噛みして舐める。何度も甘噛みして舐める。
するとどうだ。
那智はまた堪えるように歯を食い縛り始めた。痛みはないだろうに、頬を薄っすらと紅潮させて、声を出すまいと歯を食い縛る。
(……感じてる?)
俺はすぐに気づいた。那智は痛みではなく、生温かい舌の感触に堪えているのだと。
初めて見る弟の顔に興奮が増す。痛がる那智は心のどこかで可哀想だと思っている俺がいるから、ほんの少ししか興奮しなかったのに、俺の手で感触に堪える那智の姿は独占欲と支配欲が満たされた。
手前でも驚いてしまった。俺はじつの弟に欲情に近い感情を抱いていることに。