苛立つ間もなく味噌ラーメンと炒飯が運ばれてくる。
じつに美味そうな匂いがしてくる。自覚はしていなかったが腹も減っているようで、俺の腹は空腹を訴え始めた。が、心は空腹より那智のことが気掛かりで仕方がなかった。
あいつ、ちゃんと昼食は食べたかな。病院食はあんまり好きじゃねえみてぇだし。まあ、好き嫌いがあってもあいつは残さず病院食を平らげるだろう。食べないと生きていけない地獄を経験しているしな。
とはいえ、俺だけラーメンを食うのは悪い気がしてくる。那智は病院食なのに。
「兄ちゃん。たまには一人で外食してみるのもいい。自分へのご褒美ってやつだ。坊主抜きに美味いもんを食べても罰は当たらねえ」
一向に箸を取らない俺の心を見透かしたように、益田が話題を振ってくる。
はあ? ご褒美? 一人で外食なんてなにが楽しいんだ。
不機嫌になる俺に笑い、「坊主のためにもなる」と言って、言葉を重ねた。
「入った店が美味けりゃ、坊主を連れてくりゃいい。口に合わなきゃ、別の店を探せばいい。どうせ外食するなら坊主を喜ばせたいだろ? 下見のために一人で外食もありだと、おいちゃんは思うねい。とにかく食ってみろ、美味いぞ」
言いくるめられている気がしてならねえんだが。
舌打ちを鳴らしながら、割り箸を取ると、俺は言われた通りに味噌ラーメンを啜る。箸が止まらなくなった。正直に言おう、腹立つくれぇ美味かった。インスタント麺と全然ちげぇ。炒飯も味が染みわたって美味い。すげぇ美味い。
「……ラーメン屋のラーメンって美味いんだな」
「くくっ。そりゃそうだ。ラーメンを売りにしている店なんだからな」
ばっちり独り言を拾われ、益田から笑われてしまう。
ああもう、なんだよ。そう思っちゃ悪いかよ。
俺は生まれて一度もラーメン屋なんて入ったことなかったんだよ。外食はファミレスばっかだったし、ラーメン屋は行きづらい印象が強かったし、インスタント麺と大差ねえと思っていたんだ……知らなかったな、ラーメンがこんなに美味いなんて。那智が退院したら連れて来よう。
炒飯を噛み締めていると、「たまには大人の言うことも聞いてみるもんだろ?」と益田が片目を瞑った。
「俺から見たお前さんは物を知らなさ過ぎる。まだまだガキなんだから、大人を利用して情報を得るべきだぜ。坊主はお前さんを手本にしていることが多いんだから、兄ちゃんが何でも知っておかなきゃな」
「るっせぇな。説教かよ」
「そうそう説教だ。親父のお小言は腹が立つだろ?」
「ああ。すげぇ腹立つ」
「素直で結構。食い下がってくるお前さんは、ガキだって証拠だ」
「……まじでお前のことが苦手だ」
心底嫌味ったらしく反論するも、益田は笑いながら右から左へ聞き流すだけ。
子ども扱いしていることは一目瞭然だった。それはラーメンを食べ終わり、店を出て車に乗り込んだ先でも続く。
「下川の兄ちゃん。これ」
益田は助手席に乗った俺に、大きな茶封筒を差し出すと、物件や借りるにあたっての名義について話題を振ってくる。
益田は見抜いていた。俺と那智が引っ越しを強いられる現実を。これまでのように暮らせないことを。
書類を取り出すと、俺の知りたかった情報が載っていた。
「事件に巻き込まれると、被害者の方が泣きを見ることが多い。会社勤めしていた奴は退職、学校に通っていた奴は中退するケースをよく耳にする。お前さんは大学生だから、3ページ目のNPO法人情報に目を通しておけ。きっと力になってくれるはずだ」
「……相談しろって?」
「そこは国お墨付きのNPO法人だ。どうしてもお前さんだけじゃ限界がある。生きるためには、賢く大人を利用しろよ」
ぱらぱらと書類に目を通した俺は、運転する益田を流し目にすると、茶封筒にそれを仕舞う。
「お前はお節介だな。俺に見返りを求めても何も出ねえぜ?」
「ガキに見返りもくそもあるもんか。言ったはずだぜ、大人を利用して情報を得ろって。心優しいおいちゃんは、喜んで利用されてやらぁ」
「……益田、お前は本当に変な奴だな」
今まで出逢った大人の中で、いちばんの変人だと毒づく。
俺の知る大人は面倒ごめん。見てみぬ振り当たり前。他人に興味なし。もしくは理不尽な怒りをぶつける奴らばっかりだったのに。益田はどれにも当てはまらない。
強いて言えば、変人苦手野郎。
益田は変わっている、大人に媚も敬いもしない俺を子ども扱いにしてお節介を焼くんだから。物件のことだって、これからの生活のことだって、他人のことなんだから放っておきゃいいのに。
なんっつーんだろう。父親ってこんなかんじ。
俺にはまともな父親なんざいねえが、家庭的な父親ってこんなかんじなんだろうか。
「せっかく大学に通えているんだ。おめぇさんの努力を、こんな事件で散らしたら勿体無いぜ。結構頭の良いところみてぇだし、受かるために努力したんだろ?」
「……べつに」
「お前さんは両親に比べて、ずっとまともだ。六つ年下の弟を守りながら、大学に受かるために勉強して。二人で生きていくために、実家を出て行く準備をして。普通のガキにはできねぇことをやり遂げている。そりゃ自分を誇っていい」
益田は繰り返し、俺をまともだと言った。
俺が弟に対して醜く執着していることを知っているくせに、両親よりも“まとも”だと言い切る。
そして言う。
せっかくまともな道を歩いているのだから、両親のように道を踏み外すなよ、と。
その道を外してしまえば、せっかく努力して入った大学や勝ち取った生活が失われてしまう、と益田。
昼間のように訳も分からない連中に突っかかっても自殺行為。人生を棒に振るだけだと言って、俺に釘を刺してきた。よほど昼間の俺に思うことがあるようで、「ありゃ坊主が泣くぜ」と言って、今後は感情を自制するよう忠告してくる。
そんなことを言われてもな。
「向こうから振ってきた喧嘩だ。俺はそれを買っただけだ。狙いは俺だったみてぇだし……まともって言われてもよく分からねえよ。俺は手前がまともじゃねえ自覚を持っている」
「坊主に対して、ちと愛情の上位互換を抱いているだけだろ? おいちゃんには分からない世界だが、当事者同士が良けりゃそれで良いんじゃねえか? それ以外は他人に興味がねえだけで、お前さんはまともだよ。ああ、ラーメン屋のラーメンの味も知らねえガキだけどな」
……この野郎。まだ弄ってくるか。
「努力家の自分を誇れよ兄ちゃん。お前さんの積み重ねていた努力は、誰にも真似できねえんだからな」
そして急に褒めてきやがる。なんだよこのオッサン。
「お、下川の兄ちゃん。そこにケーキ屋があるが寄るか? 坊主に土産が欲しいんじゃねえの?」
「お前に言ったか?」
「うんにゃ。そういうツラしてる。捻くれだが、お前さんも坊主に似て、素直だからなぁ」
「はあ?」
「照れるな照れるな」
やっぱり益田って男は苦手だ。
見返りを求めず、可愛くねえ態度ばっかり取る俺を子ども扱いにして、からかってきたと思ったら大人を利用しろ、なんざ言いやがる。
「土産分くらいまではおいちゃんが出してやるか。坊主にわりぃことしたしな。ああ、でぇーじょうぶ。お兄ちゃんの分も奢ってやる。拗ねるなよ」
「……てめぇ、一発殴っていいか?」
運転席に座る男に睨みを飛ばす。
ちゃっちい俺の反抗的な態度なんてもろともしない益田は、始終俺の態度に笑っていた。本当に苦手だよ。お前のこと。まじで一緒に行動したくねえ。
【3】
「――あれ、兄さま。起きたんですか?」
重たい瞼を持ち上げると、高い天井が俺を見下ろしていた。
ゆっくりと上体を起こすと、掛けられていた毛布が滑り落ちる。寝転がっている場所はソファーのうえ。枕代わりの肘掛け元には車いすに乗っている那智が、読書の手を止めて俺に微笑んでいた。
俺は順にソファー、文庫、そして那智に目を向けて、状況の把握に努める。
「なんで寝てるんだっけ」
確か益田にラーメン屋へ連行された後は、ケーキ屋に寄って、那智の土産を買って。
病院に着いた後は、那智の病室に直行したんだよな。だけど那智は病室にいなくて。看護師に行方を話を聞けば、まだ心理療法を受けている真っ最中だって聞いて。
那智に一刻も早く会いたかったが、今のうちに今日掴んだ情報や遭った事件をまとめるのが優先だと判断した俺は携帯のメモ帳に箇条書きしてたんだよな。
ついでに益田から貰った物件探しや引っ越し、今後の生活に必要な情報が載った書類に目を通していた。そこまでは憶えている。憶えているんだが……ああ、こりゃ寝落ちしたな。
俺は携帯を取り出して時刻を確認する。20時32分。消灯時間まであと1時間半か。30分くらい寝落ちしていたようだ。
「兄さま。おかえりなさい。ずいぶんと疲れているようですけど」
そりゃ濃い一日を堪能したからな。
心中でゲンナリしながらも、俺は表に出すことなく「悪かったな」と言って那智に謝った。
すぐに戻るはずが半日も留守にしてしまった。本当は心理療法までに戻って来る予定だったのに、どうしてこうなった。
那智は自分は平気だと笑うと、車いすを動かして風呂場の電気を点けた。
「寝る前に湯船に浸かった方がいいですよ。いま、お湯を張りますね」
「風呂はめんどいから、べつに入らなくていい」
「だめだめ。少しでいいから浸かってください」
よいしょ。
那智は掛け声と共に車いすから降りて立ち上がると、壁伝いに歩き始める。
それまで寝ぼけ生返事をしていた俺は、那智の行動に目を削ぎ、大慌てで後を追う。
「ばかやろう。車いすから降りるんじゃねえよ」
まだ担当医から許可が下りていないのに。
俺は傷に響かないよう器用に身を屈めて風呂の栓を閉める那智を、後ろから腹部に刺激を与えないように抱える。
那智は悪びれた様子もなく、ただただ面白可笑しそうに大げさだと笑った。曰く、みなが思うよりも傷は痛んでいない。伝い歩きくらいなら普通にできる、とのこと。
「だけど兄さまに甘えたいから、おんぶしてもらおうかな」
「お前なぁ」
お湯を出すために蛇口を捻ると、那智がご満悦に寄り掛かってくる。
何度も俺の腕を叩いて、はやく後ろを向いて、向いて、とおねだりを始めた。
そんな弟の姿に俺はふうんと相づちを打ちつつ、今朝のことを思い出し、思い出して、意地悪く口角を持ち上げた。
「しゃーねえな。暴れるなよ」
「え? ちょ、ちょっ?!」
素っ頓狂な声を出す那智を無視して、身を屈めた俺は那智の体を横抱きにした。
「おー軽い。軽い。那智はちっせぇから余裕だな」
「に、兄さま。お、おんぶ! おんぶがいいですってば!」
「照れるなって。俺が全身全霊を捧げて運んでやるから。お姫様」
察しの良い那智は気づいたようだ、これは今朝の仕返しだと。
「さ、最悪です。おれにできないことで仕返しをするなんてっ! お、お姫様抱っこなんておれじゃ無理じゃないですか。おれが非力なのは知っているでしょ!」
「那智の腕は棒きれのようだしな」
「くうう、言いましたね? 退院したらマッチョになってやりますからね? なってやりますからね?! 背だって兄さまよりデカくなってやります! 覚悟してくださいよ!」
「へえへえ。顔が真っ赤だぞ、かわいいな」
かわいいと言われた那智は、ものすごく微妙な顔を作る。
なんだよ。冗談抜きでお前は可愛いよ。容姿どうこうの話じゃねえ。
俺にとって那智はいつだって可愛い弟だ。俺だけを慕って、俺だけの背中を追って、俺だけを兄さまと呼ぶ、俺と血を分けたたった一人の弟。そりゃあ可愛いに決まっている。
お姫様抱っこに対して物申し、キィキィ抗議する那智をソファーに寝かせると、その体を押し倒して最上級の仕返しを送る。
「今度は逃がさねえ。お前から振った喧嘩だ。責任持って買え」
だってこれは、那智が、俺に振ってきた、喧嘩だもんな?
そう言ってひとつ、ふたつ笑みを深めると、俺は弟の唇を重ねた。愛情表現を最愛の弟に送った。が、俺はすぐに体を起こして腕を組み、不満気に小さく唸る。
「那智。正直な感想を言っていいか? キスって何が良いんだ?」
「えー? 仕掛けてきた兄さまがそれを言います?」
ソファーのうえに押し倒されたままの那智は、「ヒロインが聞いたら泣いちゃいますよ」と笑いながら指摘してきた。この時点で那智もあんまりキスに抵抗感が無い様子。
というよりキスという行為に思うことが無いんだろう。羞恥心の「し」も見せねえ。
他人同士がキスをする場合、鼓動が早鐘のように鳴って羞恥心や好意が湧き上がるんだろうが……兄弟同士でした俺達の感想は残念。微妙。いまいち。なるほど良さが分からん状態。
「唇を重ねるだけなら、抱擁や手を繋いだ方が良くねえか?」
俺の疑問に那智も唸り、キスについて考える。
「スキンシップとして好きかと聞かれたら、ギュっとしたり、手を繋いだ方が好きです。兄さまのぬくもりが感じられますから。キスは……ほら、しょぼくれた兄さまを見てかわいいと思った時にするものぉいひゃひゃひゃ」
「うっし。減らず口を叩くのは、この口だな? ん?」
むにゃむにゃと那智の頬を引っ張り、俺は妙に落胆した気持ちを抱く。
他人と同じようにスキンシップをしたら、少しは欲が満たされると思ったのに、ちっともキスは良いと思わねえ。
ドラマや映画なんかは馬鹿みてぇにキスをして愛情表現をしているが、弟を丸ごと独占したいと願う俺には合わないのかもしれない。
俺の気持ちを察したのか、那智が自分なりに考えて、人差し指を立てた。
「そういえば、お母さんが恋人としていたキスって、ドラマやアニメで観るようなキスじゃなかったですよね。すっごくうるさいキスだったような。やり方が違うのかも?」
「あー確かに?」
那智の言葉に頷いてしまう。
あれはなんだったか。小さかった那智と、小4の俺の前で母さんと恋人かいきなりお盛んになって、居間で裸になるわ。両方とも喘ぎ声がうるせぇわ。俺と那智は気まずい気持ちで見守る羽目になるわ。
とにもかくにも吐き気のする思い出の一片に、二人がキスをしていた光景があったな。
俺達とは違うキスだった気がする。
舌を絡ませていたような気がする。
思い出したくねえけど。もう一回言う、すっげぇ思い出したくねえけど。
(あー益田にも言われたっけ。俺は物を知らなさ過ぎるって)
現実問題、知ったかぶりをしているところが多い。
べつに詳しく知らなくても、ニュアンスで知っていればいいと思っていたんだ。それが今になって仇になっている。俺の欠点だな。改めねえと。
頭部を掻きながらひとつ吐息をつくと、華奢な腕が背中に回ってきた。そしてそれは俺の体を引き寄せると、俺の肩口に顔を埋めた。
「おかえりなさい。兄さま」
か細い声が前触れもなしに「おかえり」と言ってくる。
さっきも言った「おかえり」を今度は真剣に伝えてくる。
「兄さま。がんばった分だけ、わがままを言っていいんですよ」
那智には今日一日のことを何も言っていない。
制服のことも、アパートに帰ったことも、帰り道で妙ちきりんな輩に襲われたことも、怪我を負ったことも、ラーメンを食ったことも。何も言っていない。
それでも聡い弟のことだから、ソファーに寝転がって寝落ちしている兄に思うことがあったんだろう。ソファーの側らにある、テーブルのうえの剥き出しの書類に察するものがあったんだろう。俺の左手の巻かれた包帯に、自分の知らないところで無理をしているのだと気づいたんだろう。
だけど那智は何も聞かず、気づかないふりをして、俺にわがままを言っていいと甘えさせてくれる――だから、お前は優しいんだ。全部を俺に任せておけばいいのに、お前は知らないふりをしておけばいいのに、俺のすべてを認めてくれる。受け入れてくれる。愛してくれる。
うそ偽りのない感情を向けてくるお前のことを、どうしても俺は手放せない。
「ただいま。那智、ただいま」
気づけば、ばかみたいに那智の体を抱き寄せていた。
腹の傷も考えず、相手が六つ下の中坊だという現実も忘れて、力いっぱい抱き寄せて、少しでも離れていた時間を埋めようと努めた。
弟の首に包帯を解いた。
今朝は叶わなかった引っ掻き傷に噛みついて、抱いていた嫉妬をそれにぶつけた。痕を上書きしようと躍起になった。
「ゔぅぁ」
本気で噛みついたせいで傷口から鮮血が流れ、那智は悲鳴に近い声を漏らす。
それに少しだけ興奮してしまったが、俺が本気で興奮するのは那智が兄貴を求める姿。痛みに耐えている姿じゃない。
だから俺は噛む行為をやめて、傷を癒すように、なぞるように、それをそっと舐めた。何度も首を舐めた。
次第に物足りなくなり鎖骨や頬、右耳を甘噛みして舐める。何度も甘噛みして舐める。
するとどうだ。
那智はまた堪えるように歯を食い縛り始めた。痛みはないだろうに、頬を薄っすらと紅潮させて、声を出すまいと歯を食い縛る。
(……感じてる?)
俺はすぐに気づいた。那智は痛みではなく、生温かい舌の感触に堪えているのだと。
初めて見る弟の顔に興奮が増す。痛がる那智は心のどこかで可哀想だと思っている俺がいるから、ほんの少ししか興奮しなかったのに、俺の手で感触に堪える那智の姿は独占欲と支配欲が満たされた。
手前でも驚いてしまった。俺はじつの弟に欲情に近い感情を抱いていることに。
そんな感情、俺には無縁だと、思っていたのに。
もっと見たくて、俺は一番反応が良かった耳に狙いを定めて、ゆっくりと執拗に舐める。外殻をなぞるように舐めた後は、吐息を掛けてやる。
ひゅ、声なき声が漏れたところで耳の穴に舌を捻じり込む。
予想していなかった行動だったのか、あられもない声と共に那智の体が大きく飛び跳ねた。
本気で声を我慢していたんだろう。
出すまいと必死に堪えていたものを、表に出してしまい、顔から首まで肌を真っ赤に染めてしまった。
(はじめて見た。那智のそんな顔。お前の知らないところなんて無いと思っていたのに――嫌だな。お前の知らないところがあるなんて、俺は誰よりもお前を見守ってきたのに)
俺は那智の全部を知りたい。
「那智。なち」
弟をもっと近くで見たくて、両頬で固定すると、本能のまま唇を重ねた。
キスの良さは分からない。重ねるだけで何も感じない。
さっきまで偉そうに言っていたくせに、俺は弟と唇を重ねて、小さな舌と手前の舌を絡ませた。初めての舌は生温かくて、少し熱かった。弟が嫌がる様子はない。
ただ兄貴の舌の温度に戸惑っているのは分かった。
どうすればいいか分からずに縋ってくる。
それが求められている気分になって、俺は呼吸すら奪うように、口の奥に逃げる舌を追い駆けて、夢中で舌を絡めた。
涙目になる那智が息ができない、とつよく縋ってくる。
少しでも距離を埋めるように、弟の後頭部に手を回して、呼吸を奪い続ける。小さな体が小刻みに震えていたことに気づいていたし、口端から飲み切れない唾液が伝いこぼれているのだって気づいていたが、俺は見て見ぬ振りをした。
だって、どうしたって止められそうにないのだから。
これは俺の、俺だけの家族だ。
那智が力づよく俺の背中を叩き、酸欠になると訴えたところで、ようやっと唇を放してやる。その際、唾液の銀糸が生まれた。母さんと恋人がやっていたキスで見たことある光景だった。
ああ、そうか。他人同士でキスをする愛情表現の意味が少しだけ分かった。
触れるだけのキスの意味は分からないが、このキスの意味なら無知の俺にだって分かる。
(相手の呼吸の主導権を奪う。奪わせることで、手前の愛情表現を示しているんだな)
生かすも殺すもお前次第。
そう愛情表現しているのであれば、俺はこのキスの意味に理解が示せる。これはまぎれもなく愛情表現だ。
「大丈夫か、那智?」
酸欠気味の弟は俺に縋ったまま咳き込んで、荒呼吸を繰り返している。
ひゅう、ひゅう、と喉を鳴らすように呼吸をしているのだから、ちとやり過ぎてしまったみてぇだ。軽く背中を叩いてやると、少しずつ呼吸が整っていくのが分かった。
「……怖かったか?」
問うと那智があどけなく笑い、唾液に濡れた俺の口端を親指で拭った。
「兄さまの舌って、ちょっと冷たいんですね」
戸惑ったけれど、怖くなかったよ。
遠回し遠回しに答える返事が那智らしい。お前は本当に正直だな。どこまでも素直で正直で、兄貴を慕ってくれる。今の行為がどういう意味を持つか、それが分からない年齢でもねえのにな。
きっと世間が俺達の行為を見たら、愚の骨頂だと嘲笑うに違いない。男兄弟同士で何をしているのだと、罵るに違いない。
だけど、どうでもいい。誰にどう思われてもいい。あの日のあの時あの瞬間、他人から見捨てられた俺にとって、弟だけがすべてなんだから。俺の孤独を埋めてくれるのは那智ただひとりだけ。
これは俺から弟におくる、愛情表現――愛情そのものだ。
「お前は俺よりも体温があったかいんだな」
舌がちょっとだけ熱かった。
おどけ交じりに笑うと、那智も笑い返して、「このキスなら好きです」と、予想に反したことを言ってきた。てっきり戸惑ったり、羞恥心を噛み締めながら『もうやらない』とクレームをつけてくると思ったのに、那智はこのキスなら好きだと言う。
理由を聞くと、那智は大好きな兄の体温が感じられるからだと即答した。抱擁や手を繋ぐのと同じ好きだとはにかむ。
「だから兄さま。もっかい」
那智はさっきのキスをもう一度やってみたいと伝えてきた。
今度はもっと長く、キスが続けられるようにがんばるから。ちゃんと息継ぎできるようにがんばるから。
思いもしなかったおねだりに瞠目すると、那智はいたずら気に「弟はずるいんです」
「おれが『もっかい』と言えば、弟に優しくて甘い兄さまは応えてくれる。お願いをすればするだけ、応えてくれる。そうして兄さまは弟の傍から離れられなくなる。ね、ずるいでしょう?」
――……ああ、そうだな。お前はずるい。本当にずるい。
そんなことを言われたら、俺はもろ手を挙げて喜ぶに決まっている。那智はそれを見越して、『もっかい』とおねだりをする。ばかだよなお前。ほんとうにばかで優しいよ。
「那智、そうやって兄さまを縛ってろよ。お前が求めれば求めるほど、俺はお前から離れられなくなるんだから」
俺は無邪気な弟に小さく微笑むと、今度は傷の無い綺麗な肌に歯形を残すそうと、小さな肩口に噛みついた。風呂場から水が溢れる音が聞こえるまで、触れ合いは続いた。
「兄さま。相談があるんですけど」
22時。
消灯時間を迎え、俺は病室の明かりを落とすと、那智が寝ているベッドへ足を向ける。
病室の明かりは消えても、ベッドサイドに備えられている電気スタンドのおかげで、俺は難なくベッドまで足を運ぶことができた。
「なんだよ。畏まって」
スツールに座ると、横になる那智の頭を撫でてやる。
それに頬を緩ませながら、弟は小さな声で新しいノートが欲しい、と遠慮がちにおねだりした。可愛いおねだりに笑ってしまう。ノートくらい何冊でも買ってやるのに。苦手な国語や英語を克服しようと燃えていたもんな。お前。
何冊くらい欲しいのか尋ねると、那智は1冊で大丈夫だと返事した。
曰く、日記用のノートが欲しい、とのこと。
俺は驚いてしまう。てっきり勉強用のノートをおねだりしているのかと思っていたのに。
「じつは今日の心理療法で、梅林先生にお揃いのボールペンの話をしたんです。兄さまとお揃いのボールペンを貰った。お揃いは嬉しいって。そしたら、それを有効活用したらもっと愛着が湧くだろうから、日記をつけてみたらいいよって」
日記をつけることで、自分の感情と向き合えることも多い。
那智の場合、他人と会話ができない状況を綴れば、どうやってそれを乗り越えられるか、解決の糸口が見つかるかもしれない。
それだけではなく思い出を綴ることで、1年後の自分が読み返す時に楽しめる。お揃いのボールペンを持つお兄さんともたくさん話題を作れる、と心理療法の担当医に言われたそうだ。
「おれは自分のことを日記に書いたって、三日で飽きちゃうと思ったんですけど……梅林先生から兄さまと一緒に読み返す前提で日記を書いたらいいよって勧められて。ちょっと良いなぁって思ったんです」
なるほどね。
俺はひとつ相づちを打ち、日記は使えるな、と心中でつよく思った。
これからしばらく那智を留守番させる機会も多くなるし、その間、俺は那智の行動を知る術がなくなる。手前のことを棚に上げておいてなんだが、俺は那智の行動を一から十まで把握しておきたい。
心理療法の担当医は、俺や那智の生い立ちはある程度知っている。
だからこそ俺を交えて日記療法を那智に施そうと考えたんだろう。兄と一緒ならきっと長続きするだろう。そう見越して。