頬に触れてみれば、いつの間にか莉亜の頬が濡れていた。雨に打たれたわけでも、炊事場から水が飛んできたわけでもない。莉亜の涙から熱涙が零れていたのだった。それに気づいた途端、胸の中で懐郷の念に浸る。
故郷の田園、川のせせらぎ、蝉の大合唱、トラクターの駆動音、文化祭の花火、無人駅で友人と飲んだ自動販売機のコーラ、顧問の先生がこっそり奢ってくれたコンビニエンスストアのアイス、そして夜食に食べる母が握ったおにぎり。
そして、それ以上に初めて食べたはずのこの塩おにぎりの味に郷愁を感じている。莉亜の内側で封じられていた何かが溢れそうになっている。
そんな理由の分からない莉亜の言い知れない感情と、故郷を懐かしむ万感の思いが胸中で渦を巻く。
実家に住んでいた時は絶対に高校を卒業したら都会に出ると意気込んでいた。何もない故郷が嫌で、なんでもある都会に憧れていた。そんな莉亜の気持ちを後押ししてくれているのか、いつの頃からか都会に行くように勧める声が自分の内側から聞こえてくるようになった。その声に導かれるまま、遅くまで勉強してどうにか都会の大学に合格した。地元の大学に進学する仲の良い友人たちに見送られて、一人で郷里を離れて上京したのだった。
それでも心のどこかで寂しさを覚えていた。入学式で見た同級生たちは同年代にも関わらず、誰もがあか抜けて、違う世界の人たちに思えた。自分だけ場違いなような気がして、せっかく大学で新しい友人を作っても、胸襟を開けずにいた。田舎者と思われてしまうのが怖く、都会に馴染んだ分だけ故郷から遠ざかってしまうような気がした。そんなことは決して無いと分かっていたとしても。
懐郷の情に浸り、ただ嗚咽を漏らして泣いていると、顔にざらりとした生温かいものが触れて飛び上がりそうになる。傍らを振り返ると、今までどこかに行っていたハルが莉亜の頬を流れる涙を舐めてくれたようだった。ハルが何か言いたげな顔で正面に視線を移したので莉亜も顔を上げると、そこには男性が無言でタオルを差し出していたのだった。
「ず、ずみまぜん……」
鼻声と共にタオルを受け取るとそれで頬を擦る。その間もハルは慰めるかのように、柔らかな毛に覆われた顔を寄せていた。切り火たちも心配そうに社から顔を出していたのだった。男性が「口直しになるものを用意しよう」とカウンターを離れようとしたので、莉亜は咄嗟に「違います!」と声を上げて立ち上がっていたのだった。
「決しておにぎりが美味しくなかったわけじゃないんです。ただお母さんのおにぎりを思い出して、その……恋しくなったたけで。私、この春から一人暮らしを始めたんです! ずっとコンビニのお弁当やスーパーの惣菜ばかりで、こう温かくて、手作りのものを食べていなくて! ここのおにぎりを食べたら、お母さんのおにぎりが懐かしくなって、そうしたら次々に思い出が蘇ってきて寂しくて、心細くて、それで……」
「気持ちは分かったから、まずは落ち着け」
捲くし立てるように話したからか、男性は莉亜の剣幕に押されたようだった。その言葉で冷静になると、顔が真っ赤になる。羞恥で涙が引っ込むと、座り直したのだった。
「つまり、俺のおにぎりが原因だったわけじゃないんだな」
「はい! これまで食べたおにぎりの中で一番美味しかったです!」
力説するように言えば、何故か男性は安心したように肩の力を抜いた。男性にはこのおにぎりに何か問題があるように思ったのだろうか。
泣き疲れて味噌汁に口を付ければ、昆布の出汁に加えて、合わせ味噌と思しき複数の味噌の風味に舌鼓を打つ。わかめと長ネギという定番の組み合わせも、出汁と味噌のアクセントとして旨味を十分に引き立たせていたのだった。
おにぎりも味噌汁にも特に問題はなく、男性が心配する要素は無かったような気がしたのだった。
「俺の握り飯が気に入ったというなら、またいつでも来るといい。と言っても、俺に出来るのは握り飯を食わせることと、話し相手になるくらいだが……。後でここに来る方法を授けてやる」
「ありがとうございます。神様」
「疲れた時は美味い物をたらふく食らうに限るからな。こっちとしても客は多いに越したことはない。待ち人来たらず、珍客来ると思っていたが……。人間と関わることで、現世のことを知れるからな。これからはあやかし、神に拘らず、もっと多くの者と関わろうと考えていた。ここ数十年、人間からの信仰が薄れつつある。特に神々の力と言うものは人間からの信仰の大きさに左右される。神話に登場するような神々ならまだ良いが、地方の小さな社に祀られているような神々にとっては死活問題に関わる。信仰が消えてしまえば、消えてしまってもおかしくない。彼らのためにも人間に神の存在を知ってもらわなければならない。そのきっかけの場所として、この店を開放したいと思っていたところだ」
「橋渡しの場所にしたいということですか」
「そうとも言えるな。それより早く食べてしまえ。冷めてしまうぞ」
男性に促されて莉亜は残りのおにぎりと味噌汁をいただく。莉亜が食べている間、男性はおにぎりを大きめに握ると、竹皮で包んでいるようだった。どこかに届けるのか、これから取りに来る分だろうか。
莉亜が完食する頃には、お腹だけではなく心もすっかり満たされていた。今で耐えていたものを吐き出せたからかもしれない。
膝の上でくつろぐハルも心地よく、このまま居座ってしまうそうになるが、莉亜が食べ終わったのを見計らって男性が声を掛けてきたのだった。
「腹は満たされたか。そろそろ人の世界に通じる入り口まで案内しよう。次からはそこからここに来るといい、人間」
「さっきから人間と言っていますが、私には伊勢山莉亜という名前があります。それと帰る前に一つ探したいものがあって、その、お守りなんですが……」
「よもぎ~。おなかがすいたぞ~」
故郷の田園、川のせせらぎ、蝉の大合唱、トラクターの駆動音、文化祭の花火、無人駅で友人と飲んだ自動販売機のコーラ、顧問の先生がこっそり奢ってくれたコンビニエンスストアのアイス、そして夜食に食べる母が握ったおにぎり。
そして、それ以上に初めて食べたはずのこの塩おにぎりの味に郷愁を感じている。莉亜の内側で封じられていた何かが溢れそうになっている。
そんな理由の分からない莉亜の言い知れない感情と、故郷を懐かしむ万感の思いが胸中で渦を巻く。
実家に住んでいた時は絶対に高校を卒業したら都会に出ると意気込んでいた。何もない故郷が嫌で、なんでもある都会に憧れていた。そんな莉亜の気持ちを後押ししてくれているのか、いつの頃からか都会に行くように勧める声が自分の内側から聞こえてくるようになった。その声に導かれるまま、遅くまで勉強してどうにか都会の大学に合格した。地元の大学に進学する仲の良い友人たちに見送られて、一人で郷里を離れて上京したのだった。
それでも心のどこかで寂しさを覚えていた。入学式で見た同級生たちは同年代にも関わらず、誰もがあか抜けて、違う世界の人たちに思えた。自分だけ場違いなような気がして、せっかく大学で新しい友人を作っても、胸襟を開けずにいた。田舎者と思われてしまうのが怖く、都会に馴染んだ分だけ故郷から遠ざかってしまうような気がした。そんなことは決して無いと分かっていたとしても。
懐郷の情に浸り、ただ嗚咽を漏らして泣いていると、顔にざらりとした生温かいものが触れて飛び上がりそうになる。傍らを振り返ると、今までどこかに行っていたハルが莉亜の頬を流れる涙を舐めてくれたようだった。ハルが何か言いたげな顔で正面に視線を移したので莉亜も顔を上げると、そこには男性が無言でタオルを差し出していたのだった。
「ず、ずみまぜん……」
鼻声と共にタオルを受け取るとそれで頬を擦る。その間もハルは慰めるかのように、柔らかな毛に覆われた顔を寄せていた。切り火たちも心配そうに社から顔を出していたのだった。男性が「口直しになるものを用意しよう」とカウンターを離れようとしたので、莉亜は咄嗟に「違います!」と声を上げて立ち上がっていたのだった。
「決しておにぎりが美味しくなかったわけじゃないんです。ただお母さんのおにぎりを思い出して、その……恋しくなったたけで。私、この春から一人暮らしを始めたんです! ずっとコンビニのお弁当やスーパーの惣菜ばかりで、こう温かくて、手作りのものを食べていなくて! ここのおにぎりを食べたら、お母さんのおにぎりが懐かしくなって、そうしたら次々に思い出が蘇ってきて寂しくて、心細くて、それで……」
「気持ちは分かったから、まずは落ち着け」
捲くし立てるように話したからか、男性は莉亜の剣幕に押されたようだった。その言葉で冷静になると、顔が真っ赤になる。羞恥で涙が引っ込むと、座り直したのだった。
「つまり、俺のおにぎりが原因だったわけじゃないんだな」
「はい! これまで食べたおにぎりの中で一番美味しかったです!」
力説するように言えば、何故か男性は安心したように肩の力を抜いた。男性にはこのおにぎりに何か問題があるように思ったのだろうか。
泣き疲れて味噌汁に口を付ければ、昆布の出汁に加えて、合わせ味噌と思しき複数の味噌の風味に舌鼓を打つ。わかめと長ネギという定番の組み合わせも、出汁と味噌のアクセントとして旨味を十分に引き立たせていたのだった。
おにぎりも味噌汁にも特に問題はなく、男性が心配する要素は無かったような気がしたのだった。
「俺の握り飯が気に入ったというなら、またいつでも来るといい。と言っても、俺に出来るのは握り飯を食わせることと、話し相手になるくらいだが……。後でここに来る方法を授けてやる」
「ありがとうございます。神様」
「疲れた時は美味い物をたらふく食らうに限るからな。こっちとしても客は多いに越したことはない。待ち人来たらず、珍客来ると思っていたが……。人間と関わることで、現世のことを知れるからな。これからはあやかし、神に拘らず、もっと多くの者と関わろうと考えていた。ここ数十年、人間からの信仰が薄れつつある。特に神々の力と言うものは人間からの信仰の大きさに左右される。神話に登場するような神々ならまだ良いが、地方の小さな社に祀られているような神々にとっては死活問題に関わる。信仰が消えてしまえば、消えてしまってもおかしくない。彼らのためにも人間に神の存在を知ってもらわなければならない。そのきっかけの場所として、この店を開放したいと思っていたところだ」
「橋渡しの場所にしたいということですか」
「そうとも言えるな。それより早く食べてしまえ。冷めてしまうぞ」
男性に促されて莉亜は残りのおにぎりと味噌汁をいただく。莉亜が食べている間、男性はおにぎりを大きめに握ると、竹皮で包んでいるようだった。どこかに届けるのか、これから取りに来る分だろうか。
莉亜が完食する頃には、お腹だけではなく心もすっかり満たされていた。今で耐えていたものを吐き出せたからかもしれない。
膝の上でくつろぐハルも心地よく、このまま居座ってしまうそうになるが、莉亜が食べ終わったのを見計らって男性が声を掛けてきたのだった。
「腹は満たされたか。そろそろ人の世界に通じる入り口まで案内しよう。次からはそこからここに来るといい、人間」
「さっきから人間と言っていますが、私には伊勢山莉亜という名前があります。それと帰る前に一つ探したいものがあって、その、お守りなんですが……」
「よもぎ~。おなかがすいたぞ~」