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そのころ宮殿では女官たちの間でちょっとした騒ぎが巻き起こっていた。後宮の奥深く、景旬殿の庭に面した外縁廊下で平常着に薄絹の青衣をまとった年若い女御が、平伏した侍女を叱りつけている。平常着とはいえ高貴な者の衣服である。芙蓉の刺繍が柳の葉影に花開くかのように薄絹に透けている。
「どういうことなの?」と、女御は切れ長の目を吊り上げた。「あれほど言ったでしょうに。香木がなければ陛下をお迎えすることもできないじゃないの」
寝所に焚く香木は媚薬である。南方の密林や北方の湖沼地帯、東方の島国から西域の大山脈まで、帝国版図の各所から集められた香木は多種多様で、女御それぞれの好みに応じて調合される。衣類や寝具にまとわせるのはもちろんのこと、自らの身体の芳香とするべく薬草とともに服用する者までいる。皇帝陛下に自分を印象づけなければならない女御たちにとって、それは我が身そのものなのであった。
「申し訳ございません、麗花様。ですが、先ほど養和堂へ参りましたところ、すでに持ち出されておりまして」
「言い訳はいいの。どこにあるの?」
「それが……」
口ごもる侍女にいらだちを見せた女御はつやのいい唇を固く結んで庭へと視線を流した。その先には塀の向こうに顔を出す通秋殿の屋根があった。
「趙夫人ね」
顔を上げかけていた侍女は慌てて廊下に鼻を擦りつけ否定した。
「いいえ、それは……」
「どれだけ邪魔をすれば気が済むのかしら」
景旬殿の女御は楊麗花といい、出自は都下随一とされる大商人の娘である。格下の身分ながら参内するやいなや皇帝に見初められ、寵愛を受ける女御の一人として出世の道を歩んでいた。もちろんそれは実家の財力にまかせて多方面にばらまかれた賄賂のおかげではあったが、男を魅了する香木の調合術については、後宮の誰もが一目置く存在であった。
片や趙夫人といえば後宮を束ねる女官長である。騎馬民族を出自とする現朝廷では従来の宦官制度を廃し、政務運営に携わる男性官吏を分離し、後宮運営を女官にゆだねることと定めていた。後宮三千といわれる女官の頂点に立つのが趙夫人であり、建国の功臣である趙将軍を祖とする一族出身とあって、その権力は絶大であった。飛ぶ鳥を落とす勢いの女御といえども、趙夫人の逆鱗に触れればその瞬間に都城外へ放逐される。香木を持ち出すように命じた人物が趙夫人であれば、麗花も今は黙っているしかない。だが、そういった妨害は参内以来これまでにも繰り返されたことであり、いつまでも忍従しているつもりなどなかった。
「お世継ぎを宿せばあんなおばさんだって、この私にひれ伏すのですから」
だが、麗花には焦りがあった。花の命は短い。十代の若さなど、あっという間に消え去る。寵愛など、子をなさねばただ春の夜の夢と散るだけ。用済みとなれば趙夫人とやりあうまでもなく実家へ下げられてしまう。今のこの幸運を失う前に、地位を確実なものにしておかなければならないのだ。
「それで、養和堂には、あと何が残っているの?」
麗花の質問に侍女は声を震わせながら答えた。
「何もございません。すべて持ち出されておりました」
養和堂は後宮の養生所である。医者も趙夫人には逆らえないということだ。
「理由は聞いたの?」
「はい、陛下の不眠を治療するための香を調合なさるそうです」
五代目皇帝劉暁龍は序列下位の妃の子であり、本来、帝位とは無関係の立場で表に出ることはなく、後宮で学問や武術に励む生活を送っていた。
しかし、先帝崩御の際に、正皇后の子である皇太子まで流行病で亡くなったことから十五歳で急遽即位することとなったのである。政治的混乱が懸念されたものの、即位するやいなや政治改革に着手し、権力争いに無縁だったしがらみのなさから、先帝の重臣たちを排除したかと思えば、身分にかかわらず有能な官吏を抜擢し、有無を言わせず自身の政治体制を確立させていった。若さに似合わぬその手腕は各地の軍閥を黙らせるには充分であった。
その裏では後宮の実力者である趙夫人がにらみをきかせていたと言われている。趙夫人は暁龍の乳母であり、教育係でもあった。夫人にしてみれば我が子が帝位に就いたのと同じである。
以来十年、盤石な政治体制を築く一方、皇帝は不眠に悩んでいた。継承争いとは無関係の頃は武術に汗を流し、早寝早起きの健康的な生活を送っていたが、即位以来山積する政治的難問に立ち向かう中で、しだいに寝つきが悪くなり、ほんの数時間程度の浅い睡眠しかとれない状態が続いていた。鍼灸や投薬治療のかいもなく、症状が改善されることはなかった。
そして、未だ世継ぎは生まれておらず、正皇后も決まってはいなかった。麗花の寝所へ通うときも陛下は行為を済ませれば政務の行われる紫雲殿へと戻ってしまわれる。まるで家畜の種付けか蝿の交尾のようなものであった。それを寵愛と呼ぶのは滑稽かもしれない。だが、後宮に暮らす者にとって、それ以外にすがるべき価値など他にないのもまた事実であった。
そして、それは麗花だけのことではない。
「あのおばさんも焦ってるんだわ」
世継ぎとしての子が生まれていない今は暁龍の弟が皇嗣となっており、万一の事態が起きると後宮は趙夫人と対立する女官勢力に取って代わられることになる。
後宮は魔窟だ。
麗花は自らの居室に入ると侍女に命じて髪を結い直させた。麗花にとって一日三度の髪結いが緊張をほぐせる憩いのひとときであった。だが、今日は心穏やかになることはなかった。
――お父様、お母様。
麗花は必ず世継ぎを産んでみせますわ。それに、あの目障りなおばさんもなんとかしなくては……。
すまし顔の女御は趙夫人を出し抜く次の一手に考えを巡らせるのだった。