妖騎士と交わす番の契り ~ケガした猫を助けたら溺愛されました~



 久遠の子を身ごもってから、文子は穏やかな月日を過ごしていた。
 何一つ不自由がなく、まるでどこかのお姫様にでもなったような気分だった。

 養父母の家にいた頃は、食事の支度から洗濯、買い出し、掃除と全てを文子一人で行っていたため、一息つく間もないほどだった。食事も3人が食べ終わるまで待ち、残り物を食べていたため、満足に食べれた試しがない。

 それがここに来てからというもの180度がらりと一変したのが、文子には落ち着かない。こんな贅沢が許されていいのだろうか、となんだか畏れ多い気持ちであった。

 さらに、久遠の子を身ごもってから、寝所を共にするようになったことも相まって、二人の距離は以前よりもぐんと近づいた気がする。

 しかし、一緒に眠ることがあまりに恥ずかしく、寝れない日が続いてしまい、心配した久遠は夜は猫の姿で文子の隣で寝てくれるようになった。

 申し訳ないと思いながらも、黒猫の姿の久遠は可愛らしくとても癒されている。

 昨夜も、風呂を済ませた久遠は猫の姿で現れると先に横になっていた文子の隣にもぐりこんできた。

「久遠さま…」

「もしや、腹でも痛むのか?」

 名前を呼んだだけなのに、すごい剣幕で心配する久遠に文子は苦笑する。身ごもってからこの方、ちょっとしたことで文子の身を案ずるようになった。すこし過保護なくらいで、律や安寧からはからかわれたり、酷い時には叱られたりしている。

「いえ、違います。体は元気です…ただ、なんだか寝付けなくて…」

「そうか…何か私にしてやれる事があればよいのだが…」

「…あの、一つお願いしても…?」

「もちろん構わない」

「その、もし良ければ…、御髪に触ってもよいでしょうか…」

 文子の言う意味が理解できないで考え込む久遠。文子は、意を決して言葉を紡ぐ。

「私、子どもの頃から猫が好きで…。その、撫でていると落ち着くというか、癒されるというか…。もしご迷惑でなければ、久遠さまのことを撫でさせていただいてもよろしいでしょうか…?そうしたら寝れるような気がして…」

「そんなことでいいのか?私は構わない、そなたの好きにせよ」

 文子にとっては一か八かのお願いだったが、思わぬ快諾に「ありがとうございます!」と喜んだ。

 まだ両親が生きていたころ、野良猫を見つけては拾ってきて自宅兼診療所で飼っていたほど猫が大好きだった。

 もふもふとした毛を撫でるのが何よりの癒しなのだ。

「失礼します…」

 恐る恐る久遠の黒く艶やかな毛に手を置いて滑らせる。

(なんて滑らかな触り心地…)

 久遠は、仙狸(せんり)というヤマネコの妖だと教えてくれた。元来群れを成して生活してきた種族ではあるものの、種族間の争いが減った今では単独で暮らす者も多いのだとか。

 久遠は、幼くして身寄りのない律と安寧を引き取り、この屋敷に住まわしていると言う。血縁のない者の世話をする妖はそう多くはないらしく、律も安寧も久遠に恩を感じて尽くしているそうだ。

「どうだ、眠れそうか」

「は、はい、とても心地よい手触りで…癒されます…」

「そうか、それならよい。私も、とても心地がよい」

 その言葉に安心して、文子は撫でながら目を閉じた。

 妖とは、不思議な生き物だ、と思う事が多かった。人ならざる者なのに、人の姿をして人に紛れている。人よりもよほど力もあり強いだろうに、常世に危害を加えることは今はない、と寝物語に話してくれた。

 そして何より、その妖と契りを交わすことになった自分の運命もまた、不思議だと思わずにはいられない。

 毎日欠かさずに参拝に訪れていた神社で傷ついた久遠を手当をしただけの、たったそれだけのことが、文子の運命を大きく変えたのだから。

 さもなければ自分は、あのまま林の妻となっていただろう。

 相手を思いやり慈しむ優しさを持っていて、心を通わせることができるのなら、それがたとえ人と妖であっても構わないと思えた。

(ずっと撫でていたい…とは言えないけど…)

 文子は微睡む意識の中で久遠の手触りを感じながら思う。

「ずっと…そばにいたいです…」

 口に出しているとは知らずに、そのまま夢の中へ落ちていった。



「きゃぁぁっ!」

 翌朝、文子は起きるや否や自分の置かれている状況に悲鳴をあげた。

「文子さま!どうされました!!」

 バンッと襖が開かれて血相を変えて現れた律の目に映ったのは、布団の中で仲睦まじく寄り添う二人の姿。

 とは言え、久遠に抱きしめられた文子が顔を真っ赤にして逃げ出そうとしている最中ではあったが。

「あっ、律くん」

 律に見られたと文子は布団を目深にかぶり隠れてしまった。

 寝所を共にするようになりはしたものの、猫の姿で寝ていることを知らない律には、何がどうしてあんな悲鳴をあげることになるのかはわからなかった。

「ご主人さま…文子さまが嫌がっておりますよ…」

 まだ瞳を閉じたまま文子をがっちりホールドして狸寝入りしている久遠を見て、律は呆れる。

「律は下がっておれ」

「く、久遠さま、起きて…」

「いや、寝ている」

「「…」」

 その子どもじみた返しに、文子も律も開いた口が塞がらない。

「もう勝手にしてください」

 あきれ果てた律は去ってしまう。助けを失った文子は、久遠の腕の中で逸る胸を手で押さえる。いくら体の契りを済ませたとは言え、そもそも男に免疫のなかった文子にとってそう簡単に慣れるようなものではなかった。

 長い腕は文子の腰に回されて熱を感じるし、着崩れた浴衣からは逞しい胸板が見えて、目のやり場に困る。

「く、久遠さま…」

 やっと目を開けた久遠に助けを求めるも、甘い眼差しを向けられて「そなたは今日も美しい」と囁かれて逆効果だった。

(昨日は確かに猫の姿で寝ていたのに…)

 と、考えて文子はハッとする。

「も、もしや、猫の姿ではよく眠れませんか…?」

「いや、そのようなことは無い。昨夜はそなたに撫でられてとても心地よく寝れた。毎晩撫でてもらいたいくらいだ」

(じゃ、じゃぁ、どうして人の姿に戻ってるの…)

「しかし、猫の姿ではそなたを抱きしめれない」

「ひゃぁっ」

 回されていた腕が文子の体をいとも簡単に引き寄せ、きつく抱きしめられた。

「いい加減慣れてくれ」

 体が密着して、はだけた胸が文子の頬に触れる。久遠から伝わる熱と、文子の中から生じる熱とでぐんぐん体温が上昇していく。

「そ、そんな、無茶な…」

「毎晩、我慢を強いられているこちらの身にもなってくれ」

 切なげな久遠に見つめられて、文子は首をかしげる。

「我慢、とは…?」

 心底わからない、といった顔の文子に、久遠はため息を一つ。

「そんな所も可愛いくてたまらないのだが…」

 あまりに男を知らなさすぎるのは、久遠にとって嬉しくもあり、少々ツラいものもあるというもの。

「男という生き物は、人でも妖でもきっと変わらぬ。愛する女子(おなご)をいつだって抱きたいと思うものだ」

「だっ、だき…、あっ」

 久遠は、何かを考えながら文子の体に手を這わすように滑らせる。腕の中で身じろぎして潤んだ瞳で助けてと訴える文子が愛しくもあり、恨めしくもあった。

「そなたは、私に触られるのは嫌か?」

「そんな風に思ったことは一度たりともありません!」

 ただ、恥ずかしいだけなのだ。自分を求める久遠の熱と速度に心が追いつかない。全力で否定する姿に久遠はほっと胸をなでおろした。

 しかし安心する久遠とは反対に、妖力の慣らしを終えて番の儀を済ませたばかりだと言うのに、文子は自分の心と体がどうにかなってしまうのでは、と不安だった。

「ならば、少しずつでよいから…、そなたに触れるのを許してくれ」

 抱きしめられながら、文子はこくりと頷いた。


「ねぇ、律くん」
「なんでしょうか?」
「久遠さまのお仕事ってなぁに?」

 ある日のこと、百人一首の札を囲って一緒に坊主めくりをしていた律に訊ねると、耳をピクリと動かして札をめくる手が止まった。

 これほど広い屋敷に、律や安寧の他にも使用人がいて、文子まで養えるほど久遠の懐が豊かな理由が気になったのだ。

「それは、ご主人さまからお聞きください。私は口止めされておりますゆえ」

「その久遠さまが教えてくださらないから…律くんに聞いているのに…」

 以前はそのうち、と思っていたが一向に話してくれる気配がなく、律ならば、と思い聞いてみたがだめだったか、と肩を落とす。

「あ…、文子さま!そんなに気を落とされぬよう!ご主人さまのお仕事は危ないこともありますが、とても立派な誇りあるお仕事です!ご主人さまはきっと文子さまに心配を掛けたくないだけだと思います」

(そうは言っても…気になるわ…)

「お屋敷の外には、行ってはいけないのかしら…」

 番の儀を終えてからひと月が経とうとしていた。
 自身の体も気持ちも落ち着いてきた今、今度は屋敷の外の幽世という世界に興味を持ち始めたのだ。

 文子は、縁側の外、中庭に目を向ける。

「屋敷の外はまだ危険だからだめだと…ご主人さまが」

「そう…。今日は久遠さまはお仕事なのよね」

「はい、どうしても外せない仕事が出来たとかで」

 久遠は何かを心配しているようで、出来るだけ文子のそばにいるよう配慮している様子だった。

「…そう言えば、安ちゃんと寧ちゃんの姿が見えないけど」

「あの二人は今街に買い出しにいっています」

「私も一緒に行きたかったわ…」

「…そうですよね…、こっちに来られてからずっとこのお屋敷から出られず気持ちも塞がってしまいますよね…。今度ご主人さまにそれとなく伝えてみますね!さ、文子さまの番ですよ、引いてください」

「あらやだ、坊主だわ!」

 手持ちの札を全て手放して、律と顔を見合わせて笑った。


 律との坊主めくりを楽しんだ後、文子は縁側に座り一人のんびりと過ごしていた。手入れされた中庭は、どれほど眺めていても飽きない。今は楓が見事に葉を赤に染めて見頃を迎え、その姿を池に映して揺れている様は見事だ。

「はぁ…」

 美しい庭園を眺めながら吐かれたため息は、秋風にさらわれていく。

(やはり、腑に落ちない…)

 文子は、久遠が自分のことを大事に思い、心配してくれているのは理解できていた。しかし、仕事のことや心配事を教えてもらえないのが、寂しかった。

(夫婦だから全てを分かち合いたいと思うのは烏滸がましいことかしら…)

 そもそも、妖の番と人間の夫婦の関係が同じかどうかも甚だ怪しい。文子は、あまりにも妖について無知すぎた。

 だからこそ、屋敷の外の世界を知りたいと思うようになったのだった。

「文子さま」

 呼ばれて、ハッと目を上げると、中庭の池の石の上に寧が立っていた。

「ご主人さまが、屋敷の外で待ってます」

「え…、久遠さまが?」

「こちらへ」

 なぜ屋敷の外なのだろうと思ったが、さっき律が久遠に掛け合ってくれると言っていたのを思い出し、文子は弾む胸を必死に押さえて寧の後ろについていった。

「寧ちゃんはどこ?」

「寧は、屋敷の外で久遠さまと待っています」

「…」

「文子さま、どうされました?」

(違う…)

「あなた、誰…」

 文子は目の前の寧に問うた。姿も声も、寧だ。だけど、違う。

「その青色の髪飾り…寧ちゃんは、あなたのはずだもの…、それに、寧ちゃんは久遠さまをご主人って呼ぶわ」

 安寧が一人でいるところを見たことがなかった文子は、寧だけが現れたとき違和感を覚えた。

 それに言葉遣いもいつもと違う。
 文子は、目の前の寧が寧じゃないと確信した。

 言いようのない不安と恐怖が押し寄せてきて、文子は一歩後ずさる。

「あ、だ、だれーーーーーー」

 身を翻し助けを求めようとした文子は、何者かによって口をふさがれる。何か嫌な匂いが鼻をかすめた途端、視界が真っ暗になった。




 肩に痛みを感じて目が覚めた文子は、薄っすらと目を開ける。両手足を縄で縛られて座敷に横たわっていた。

 誰かの家のようだが、皆目見当がつかない。耳を澄ましても、物音一つ聞こえなかった。

(安ちゃんと寧ちゃんは無事かしら…)

 寧が一人で現れた時点で気づくべきだった、と文子は自身の行いを後悔するも後の祭りだ。

 と、その時、足音が聞こえてきて文子は瞼を閉じてじっとする。

「……遅かったか…、だが…には……に扱うんだぞ」

 スーッと襖が開き、男が二人入ってくる。文子のそばにしゃがみ、顔を覗き込むと物珍しそうに感嘆した。

「…これほど美しい人間は見たことがない。これなら確かに大金をはたいてでも欲する気持ちはわからないでもないな」

(大金…?)

「すぐに堕胎の術が使える妖を連れてこい、それも出来るだけ強い妖力のヤツだ。赤子とはいえあの久遠の子どもだからな」

「はい、1日もあれば見つかるかと」

 堕胎、という言葉に文子は震えあがった。二人が部屋から出ていくのを確認して、大きく息を吐く。無意識のうちに緊張で息を止めていたようだ。

 何よりも、誰がなんの目的で自分をさらったのかわからないことが、底知れぬ不安となり文子を飲み込む。

「…久遠さま…っ」

(会いたい…、久遠さまに)

 ぎゅっと閉じた瞼に押し出されるように涙が零れ、畳に落ちた。

 それから、時間だけが過ぎていくのを文子は畳に横たわったまま過ごしていた。陽が傾き始め、部屋の中は次第に暗くなっていく。尿意を催してきた頃に、女が一人現れた。

「お食事をお持ちしました」

 無地の着物を着た女は、盆を卓の上にそっと置いて文子のそばに座った。その声に文子は恐る恐る目を開ける。年の頃は文子と同じくらいに見えた。黒髪を結い上げて、襷をかけている。

「…厠に行かせて欲しいの…」

「承知しました。足の縄だけ解きますね」

 部屋を出ると、目の前には庭が広がり、廊下の突き当りに厠があった。体に縄を結ばれて、女がそれを握っている。

「妙な考えは起こさぬよう。私は妖です。あなた一人どうとでもできます」

 女にそう脅されて、文子は思わず振り返った。

「あなたも…」

 どこからどう見ても人間の女にしか見えない。文子は妖という存在をまだよく知らない。妖というのは、自分が思うよりもずっと人の世界に紛れているのかもしれない、と不思議に思った。


「召し上がってください」
「…」

 厠から戻ると、女が食事をするようにしつこく勧めてくるのを、文子は頑なに拒んだ。

「お腹の子に障りますよ」

(食べたほうが危険かもしれない)

 さっきの男たちは、お腹の子を殺そうとしていた。いくら女が口にして大丈夫だからと言われても文子には信じられない。

 何を言っても口を開けようとしない文子に女はため息を吐くと、そのまま部屋を出ていった。


 それから数分経った頃、けたたましい足音と男の声が文子の耳に届く。

「ーーー早くしろ!文子はどこだ!」

「そう慌てないでくださいよ、旦那…ここです」

ーーーバンッ

 乱暴に開かれた襖から姿を見せたのは、林だった。その後から、燭台を手に男が顔を覗かせる。

(どうして…)

 窪んだ目が畳に横たわる文子を捉え、覆いかぶさるように駆けてきた。文子は怖くて体を丸めて目を閉じた。

「文子ぉ!」
「…っ…」
「うぐ、…な、なにをする!」

「おっと旦那。取引はまだ終わっちゃいないぜ」

 一緒にいた男、恐らく最初に様子を見に来た男の一人が、林の襟首を掴んで後ろに転ばせたようだった。

「さっきも言ったがこいつは、妖の子を身ごもってるんだ。それもそんじょそこらの妖じゃない。今堕ろせる妖を探している最中だ。こいつを渡すのはそれが終わって、金を受け取ってからだ」

「可哀そうな文子…妖に無理やり…。だがすぐに元に戻してやるから案ずるでないぞ」

 林の哀れみの眼差しから逃れたい一心で文子は顔を逸らす。

「あぁ、文子や…何か術でも駆けられているんじゃないのか?それも一緒に解いてくれよ」

 二人のやり取りを見て男は肩をすくめて呆れた顔を林に向けていた。人間の男というものはこうも莫迦なのだろうか、と。この美しい女子が金しか能のない男に惚れるとでも思っているのだろうか。

(私を攫ったのが、林さまだったなんて…)

 祝言の日、あれほど久遠に痛めつけられたと言うのに、まだ諦めていないことが信じられない。それだけでなく、お腹の子を殺して、文子を自分のものにするつもりなのだ。考えただけで、恐ろしかった。


 縛られた手を下腹部に当てる。まだ膨らみもしていなければ当然胎動も感じないけれども、確かにそこには久遠と自分の子が宿っている。

(あなたは、絶対に私が守るからね…)

 堕胎の術とやらを持つ妖を前に自分が出来ることなどないだろう。それは文子自身が一番よくわかっていた。それでも、既に母性を感じていた文子は腹をさすってそう強く思った。

「おっ、早かったな。…妖蛇(ようだ)のばばぁか」

 男が廊下の奥を見て呟いた。コツ、コツ、という固い音と足音が聞こえる。

「この女だ」

 一人の白髪の老婆が現れた。背丈は男の半分ほどしかなく、その手には杖を携えている。垂れ下がった瞼の下、真っ赤な目が文子に向けられ、文子は息を呑む。

「ほほう…、その気は…仙狸(せんり)じゃな。しかも、相当な気の持ち主の」

「どうだ、堕ろせそうか」

 男からの問いに老婆は頷いた。

「入ってから日もさほど経っていなさそうじゃから、大丈夫じゃろ」

 コツ、コツ、と杖をついて歩き文子の前に腰を下ろす。懐から数珠のような飾りを取り出し、手に通すとその掌を文子へと向けた。赤い目は虚ろに文子の腹を見据える。

「い、いや…、やめて…」

「悪いのぉ、人間の女子。ちと苦しむかもしれんが、すぐ終わる」

 老婆がごにょごにょと何かを唱えだす。
 かざされた手がぼわんと光りだし、文子は次第に息が苦しくなってきた。

「いやっ、やめて!お願い、やめて…っ!」

(私はどうなってもいいから、どうかこの子だけは…!)

 全身が何かに締め上げられていくような苦痛に文子はもだえ苦しむ。

「や、やめて…いや!いやあぁぁぁぁっ!!」

ーーーーーーパァン!

「んがぁっ」

 さっきまで文子のそばに居たはずの老婆が、吹き飛ばされて中庭に倒れ込んでいた。

「な、なんだ?何がどうなっておる!?文子は!?文子は無事だろうな!」

 林が目を見開き、老婆と文子を交互に見やる。文子は目を閉じてぐったりとしていた。

「大丈夫だ、気を失っているだけのようだ。ーーーおい、妖蛇のばばぁ。子は堕ろせたのか?」

 腰をさすって老婆が起き上がるも、その顔には苦渋がにじみ出ていた。

「だめじゃ…赤子に弾き返された。なんと強力な気じゃろうか…。よし、もう一度試そうぞ」

 気絶して横たわる文子のそばにきて、老婆は再び手をかざした。

「ううぬ…」

「うっ…く…や、やめ…」

 文子が痛みに目を覚ますが、体は重く言うことをきかない。さっきの衝撃のせいで体がひどく疲弊していた。

(この子は…、私が守らなくちゃなのに…っ)

 締め付ける力が増していき、息ができずにまた意識が遠のいていきそうになったその時、

ーーーーードォン

 地響きのような振動と破裂音がそこに居た者を襲う。男が顔をしかめて何かを呟いた。老婆は耐性を崩し、文子は術から逃れられた。

「ーーーーよくここがわかったな…」

 男が外を向いて言葉を放つ。その顔は強張っていた。

「文子を返せ」

(この声は…)

「…久遠、さま…」

 怒りを帯びた声は低く恐ろしい響きを伴っていたが、紛れもなく久遠の声だった。文子は、安堵感を覚えると共に、助けにきてくれた喜びと申し訳なさでいっぱいになった。

「文子…遅くなってすまぬ」

 中庭の塀の上、夜空に佇む月を背に久遠が立っていた。いつの間にか、辺りは騒がしくなり、男の仲間と思われる者がぞろぞろと集まり久遠を取り囲む。

「久遠、ここは人の世だ。女は返す、だから今日のところは引き下がーーー」

 セリフの途中で男の体が消えた。ーーー否、何か衝撃を受けて家の壁を突き破りながら吹っ飛んだ。

「ひいっ」

 それを見て慌てて逃げる男の仲間が次々に何かに弾き飛ばされていく。

「ってーなぁ、久遠」

 吹っ飛ばされたはずの男がいつの間にか戻り、気づけば文子を片手に抱えていた。

「相変わらず脇が甘いんだよ、おめーは。そんなんだから仲間にやられるんだ。この女を殺されたくなければこちらの言うことをきけ。あいにく、俺はこの女には興味ないんでね」

「お、おい!話が違う!文子を傷つけることはならんぞ!」

 林が話に入ってくるが二人の耳には届かないようで、久遠はふん、と鼻で笑った。

「気が合うな、妖狐。俺もそんな女には興味がない」

「なっ!?」

 妖狐と呼ばれた男は、もう一度腕の中の女に目を向ける。するとそれは、先ほど文子の世話を頼んだ女中だった。手足を縛られ、口には布をかまされてうーうー唸っていた。

「惑わしの術成功です!文子さまは返してもらいましたよーっだ!」

 振り向けば、塀の上の久遠の隣に文子を抱えた律の姿があった。安寧と言い、律と言い、小さな体のどこに文子を抱えるほどの力があるのだろうか、と不思議だったが、これが妖というものなのだろう。

「すまなかった、文子…よく無事でいてくれた」

 謝る久遠に、文子は何も言えずただ顔を横に振った。久遠に謝られることなど一つもない。こうして助けに来てくれたのだから、感謝しかない。それに、お腹の子が無事なのかどうか、文子にはまだわからなかった。

 口を開けば、涙が溢れるに違いない。これ以上久遠を煩わせてしまうわけにはいかない、と文子は必死で耐えた。

「もう大丈夫だ、安心しろ。律、じきに世利たちも到着する。それまで文子を守るのだぞ」

「はい!かしこまりました!」

 律の返事を聞くよりも早く、久遠の姿がふっと消えた。文子は目を(しばた)かせる。そして、屋敷は男たちの怒号やけたたましい衝撃で溢れかえる。

「り、律くん…久遠さまは…」
「大丈夫ですよ。ご主人さまは、なんてったって王宮の騎士隊長さまですからね」
「王宮の、騎士隊長…?」
「あ、言っちゃった!…まぁ、もう良いですよね。どうせすぐにわかることですし」

 律は腕の中の文子にウィンクをして見せた。

「ーーー律、久遠さまは」

 突然降って湧いた声。律の隣に銀髪の痩身が立っていた。音もなく現れたその人に、文子は声も出ない。

「世利さま!妖狐の朔夜が裏で糸を引いていたようで応戦中です」

「そうか…、そちらが、お噂の…」

 世利と呼ばれた男は、律の腕の中の文子と視線が重なる。久遠とはまた違う、中世的な美しさをまとった青年だった。

 青年は文子をまじまじと見て「なるほど…隊長が会わせてくれない謎が解けました」と呟くが、文子には届かない。律は世利の独り言に一人苦笑した。

「あ…文子ともうします…」

「ご挨拶が遅れ、申し訳ございません。私は久遠さまの部下の世利と申します。お初にお目にかかり光栄です、文子さま。下に隊を一つ待たせているので、文子さまは律と共に先に幽世にお帰りくださいませ。ーーーでは、私は加勢します故、失礼」

「あ、どうか、お気をつけて…」

 文子の言葉よりも早く、世利は闇に消えた。

「さ、行きましょう、文子さま」

「え、えぇ」

 本当ならば、この場で久遠の無事を見届けたい一心だったが、今は律の言葉に従うしかなかった。自分には何一つ手助けが出来ないどころか足手まといにしかならないから。悔しいが、今自分が最優先すべきはお腹の子の命の安全。

「律くん…、帰ったらお医者さんを呼んでくれる?」

「もちろんです。でもきっとお腹の子は大丈夫ですよ」

「そう、なの?」

「はい、文子さまからはちゃんとご主人さまの妖気が感じられますゆえ。もし、流れてしまっていたら気配も感じられないでしょう」

「ならよいのだけど…心配で…」

「わかっています、念のためしっかり診てもらいましょう」

「ありがとう」

 律は文子を安心させるように優しい笑顔を顔にたたえた。


 そして、世利の言っていた小隊と合流して、守られるように二人は幽世にある久遠の屋敷へと無事にたどり着く。

 疲れ果て、移動中に眠ってしまった文子は、ハッとして目を覚ます。傍らには、心配そうな眼差しを向ける久遠がいた。

「文子」

「久遠さま!?ここは…」

「私の部屋だ」

 落ち着いて見れば、そこは確かに見慣れた久遠の寝所だった。

「すみません、眠ってしまったなんて…」

 上半身を起こすのを久遠が手伝ってくれる。

「謝ることなどない。大変な目に合ったのだから仕方あるまい。それに、謝るのはそなたを守れなかった私の方だ」

「ご無事で…、あっ、お腹の子は!?」

「無事だ、何ともない。そなたが眠っている間に医者に診させた」

「良かったぁ…っ」

 文子の漆黒の瞳から涙がぽろぽろと溢れた。久遠も、お腹の子も無事で、良かった。緊張の糸が解れ、堰を切ったように涙が止まらない。

「そなたがいなくなって、生きた心地がしなかった…」

 幼子のようにぐずぐずと泣きじゃくる文子を、久遠は腕の中にかき抱いた。自分と、子どもの無事を泣いて喜んでくれるその姿に強く胸を打たれた。そしてこれほどにも愛しい大切な存在をあのような危険な目にあわせてしまった自分の甘さにどうしようもないほどの怒りと羞恥の心がこみ上げる。

「よくぞ…っ、よくぞ無事でいてくれた、文子」

「久遠さま…怖かった…、とても怖かったです…っ」

 久遠の胸の中がとても安心できて、文子は抱きしめられながら、思いのまま泣きじゃくった。

 しばらく経ち、落ち着いてきたところで、布団の足元でもぞもぞと動くものを感じて文子は目を丸くする。

 足の両脇に、二つの丸くて茶色と白と黒の三毛のもふもふがあった。

「安寧だ。そなたが心配でさっきまで起きていたのだが、疲れもあって眠ってしまったのだ。術にかけられてそなたを屋敷の外へ誘導してしまった事に責任を感じている」

「安ちゃん…寧ちゃん…」

 すやすやと眠る足元の二人を、文子は手でそっと撫でた。すべすべの毛並みが手に心地よく指の隙間を通っていく。

「目が覚めたらうんと世話を焼いてくるだろうな」

「えぇ」

 元気に飛び回る二人の姿が目に浮かぶようだった。

「文子…、今回のこと、全て私の責任だ。本当に申し訳なかった。お前を攫ったあの妖は、妖狐の朔夜と言って、現王の反対勢力の一人で…、もともとは私の同僚でもあった男だ」

「同僚…」

 王だの反対勢力だの、文子には初耳のことで、理解が追いつかない。妖の世界に王が存在することすら文子は知らないのだ。

「やつは昔から私を敵対視しておってな…。今回、人間の林からの依頼を受けたのも、きっと文子の相手が私だったからだろう…。私が傷を負ったのも、情けないが、やつの策に嵌ったせいだ」

 久遠は、ふっと自嘲気味に笑みをこぼした。

「そなたに会えたのも、本をただせばやつのおかげだと思うと、なんとも言えない気持ちだがな」

「それで、その朔夜という人は…」

「口惜しいが取り逃がしてしまった。妖狐というのはどうにもずる賢くすばしっこいやつでな…」

「そう、ですか…」

 久遠の宿敵のような相手が今もどこかに居ると思うと背筋に冷たいものが走る。それと同時に律が久遠の仕事は危険が伴うと言っていたことを思い出した。

「久遠さまは、騎士隊長さまだとお聞きしました…」

「あぁ、そうだ。そなたに要らぬ心配をかけたくなくて隠していたが、それが仇となり危険な目に…」

「久遠さま、そんなことは、どうでもよいのです!」

 文子の突然の剣幕に、久遠は気圧される。

「久遠さまが、私を大切に思って守って下さるのは、とても嬉しく思っています。…ですが、私は、守られるだけでは嫌なのです」

(私が言いたいのは…もっと…)

「私は、力もなくて何もできませんが…、久遠さまを少しでもお支えしたいと…思っております…、私とあなたは番なのですから…私のことを思って下さるのであれば、もう隠し事はしないでください…」

(あぁ、なんの説得力もない言葉だわ…)

 その証拠に、琥珀色の瞳は戸惑い揺れている。けれど伸ばされた手は、涙で濡れる頬を優しく拭ってくれた。

「そう、だな…、どうやら浮かれすぎて何も見えていなかったようだ…」

「え?浮かれ…」

 久遠が浮かれるなど、そんなことがあるのだろうか、と文子は耳を疑う。

「そうだ、神社でそなたと出会ってからずっと忘れられず、どうしたら番になれるかばかり考えていた。…念願叶って、私は浮かれていたのだ。そなたのそばを片時も離れたくなくて休暇を取りまくっていたし、部下にも誰にもそなたを見せたくなくて、祝いたいという者たちからの面会すら断っていた」

 文子の知らなかった事実がつぎつぎと明らかになる。

「屋敷の外が危ないのは本当だが、それよりもなによりも身重のそなたが心配で仕方がなかった」

 久遠が、自分をそこまで思ってくれていたとは露知らず。久遠の独占欲の現れが、なんだかとても子どもじみて思えて、文子は笑いを堪えきれなくなって吹き出してしまう。

「ふっ…、ふふふ…」

「あぁ、笑ってくれ…どうせ私は狭量だ」

 そう不貞腐る姿すらも、新鮮でいてかわいく思えてきた。

「ふふ…、ごめんなさい…。でも、良かったです…、久遠さまにも人間らしい…じゃなくて、妖らしい所があって安心いたしました。ーーー久遠さま、私と誓いを交わしてくれませんか?」

「誓いとは」

「はい、人間の世では夫婦となる時に、誓いを立てるのです」

 ご存じですか、と久遠を見上げると、静かに首を横に振った。

「三々九度と言って、散々苦労を共にしながら支え合っていきましょう、という意味を込めて盃を交わすのです。…本当は、お酒ですし、順番も殿方が先なのですが、多めに見てくださいね」

 文子は、卓の上に乗っている湯呑に茶を注いで欲しいと久遠に頼む。

「冷めてしまっているから取り替えてこよう」

「いえ、そのままで結構です」

 渡された湯呑には、時間が経って色濃く出た茶が揺れている。

「苦労を共に、か」

「はい、…私文子は、これから先、苦労も喜びも全てを久遠さまと共にしていくことを、ここに誓います」

 そう言って文子はそれを、三口で飲み干し、湯呑を久遠へと渡す。そして久遠はそれに茶を再び注ぐと、文子を見つめて言った。

「いかなる時も、そなたを愛し守り抜き、苦しみも喜びも分かち合うとここに誓う」

 文子に習って三口で茶を飲み干した久遠を、文子はとても穏やかな表情で見守っていた。

「久遠さま…、心からお慕い申し上げております」

「私もだ、文子。誰かを守りたいと、幸せにしたいと思ったのはそなたが初めてなのだ。そなた以外、考えられぬ。これから先、ずっとそばにいてほしい」

 細められた優しい琥珀色の瞳と視線が絡まり、唇が触れ合った。甘美な刺激に、文子は幸せをかみしめる。

 想い想われ、一生を共にする相手が久遠で良かった、と心から思えたことが、何よりの幸せだった。

 久遠の胸に顔を寄せて目を閉じれば、思いがけない言葉が耳元で囁かれた。

「ーーーそなたを抱きたい」

「っ!?…え、あ、…ま、待って」

「だめだ、待てない」

 抵抗も虚しく、そのまま布団に組み敷かれてしまうが、

「ご主人!だめ!」
「文子さま、疲れてる!」

 可愛い声が二人の間に割って入った。いつの間にか起きていた安寧の二人が、猫の姿のまま毛を逆立てて「しゃー!」と久遠を威嚇していた。

「安寧…、居るのを忘れていた」

 頭を抱えて大きくため息を吐き舌打ちをする久遠に、文子は苦笑を浮かべる。

 久遠のぬくもりが離れてしまったのを少しだけ残念に思ったことは内緒にしておこう、と心に思った文子だった。




 誘拐騒動から少しして、屋敷には平穏な日常が戻っていたが、この日は朝から屋敷が騒がしかった。

 今日は、久遠の部下たちが番の儀の祝いにやってくることになっているのだ。

 自分も何か手伝おうと申し出た文子だったが、久遠だけでなく律と安寧の全員から一刀両断されてしまった。

「文子さまのお仕事は、お腹の子を守ることですよ!」

「あ、は、はい…ごめんなさい」

「宴の準備は皆に任せればよい」

「文子さま!おめかしする!」
「ご主人も、そろそろ着替える!」

 文子の隣に座ろうとした久遠を安寧の二人は部屋の外へと追いやった。

 安寧は、久遠の言った通り以前にも増して甲斐甲斐しく文子の世話を焼いてくれている。文子が無事に帰った日、久遠をたしなめた二人は人型になって文子にしがみついて泣いて謝った。

 文子は、心配をかけたことを謝り、二人の無事を心から喜んだ。

 箪笥から薄桜色の着物を持ってくると、二人は手際よく文子に着付けていくお世話してもらうことがすっかり板についてしまった文子は、二人がやりやすいように腕をあげたり下げたりと、自分に出来ることをする。

「文子さま、お腹苦しくないか?」

「えぇ、大丈夫」

 締め具合を確認しながら安が帯を結んでくれる。髪も化粧も全て安寧の二人が仕上げてくれた。その一連の作業はプロそのものなのに、かわいい子どもの姿の二人がやっているものだからまるで真剣なおままごと、といった所だ。

「できあがり!」
「文子さま、綺麗!」

「ありがとう、二人とも。でも、ちょっと最近太ったような気がするわ…」

 姿見に映った自分の姿を見てそう呟いた文子は頬に手をやる。以前よりも健康的ではあるが、顔にも肉がついた気がしていた。

「そなたはもっと太ったほうがよいぞ」

「ひゃぁっ!?」

 いつの間にか部屋に入ってきていた久遠が、文子に腕を回す。

「く、久遠さま…脅かさないでください」

 久遠はたまに音もなく現れるから心臓に悪い。

「ご主人!着物崩れる!」
「離れる!」

 すかさず文句を言う安寧。

 最近のこの二人に会うたびに、文子から離れろとしか言われず、久遠はまるで恋敵にでもなった気分だった。

「断わる。文子は私の番だ、お前たちの指図は受けない」

 こうしてぶすっと不貞腐れる久遠が、文子は好きだった。

「時間になったら呼んでくれ」

 そう言って久遠、は依然としてぎゃーぎゃーと楯突く安寧を部屋から追い出すと、文子の耳元で囁く。

「やっとそなたと二人きりになれた」

 抱きしめられ首元に久遠の唇がそっと触れた。鼻をすり寄せるそれは、まるで猫のような仕草だ。

「そなたはいつもよい香りがするな。まるで媚薬のように私を誘う」

「そ、そのような、ことは…、っ…え?」

 チクリ、と甘美な痛みが首筋に走ったと思えば、ペロリと柔らかな舌の感触に文子は身をよじる。振り向けば、いたずらっぽい顔の久遠が見つめていた。

「い、いま…」

「どうした?」

「いえ…なんでもありません」

(今の痛みは、何だったのかしら…)

 経験に乏しい文子は、聞くことすら恥ずかしいような気がして口をつぐんだ。

「良いか、今日は私の隣にずっといるのだぞ」

「承知しております」

 宴が決まってから毎日のように言われてきたそのセリフに文子は笑って返す。それから程なくして来客を知らせる律の声で、二人は玄関へと向かった。
 全部で10数人ほどの久遠の客人たちはきちんと隊服を纏った人の姿で現れて文子は内心ほっとする。
 見慣れない妖の姿で来られたら、とドキドキしていた。

「久遠さまの番となりました、文子です。皆さま、今日はわざわざお越しくださりありがとうございます」

「うっわぁー!世利副隊長に話には聞いていたけれど、本当にお美しい方ですねぇ」

「隊長!こんな綺麗な方を番にもらって、俺たちに見せたくないだなんて見損ないましたよ!」

「そうですよ!そこまで心が狭いとは、我らが隊長ながら残念すぎます!」

「ふん、何とでも言え」

「あ、あの、立ち話もなんですから、中へご案内しますね」

 賑やかに宴が始まった。使用人たちが行ったり来たりを繰り返し、料理や酒を運んでくる中、文子は久遠の隣で部下たちに囲まれて質問攻めを受けていた。

「文子さまは、隊長のどこに惹かれたんです?」
「隊長の考えてることわかります?俺ちっともわからなくて…」
「出会いはなんだったんですか?」

「えっと…あの…」

 矢継ぎ早に投げかけられる質問に文子は戸惑う。一体、どこまで話すべきなのか、考えあぐねていると部下たちがそろそろと下がっていく。

「久遠さま、怒りを鎮めてください」

 それまで無言を決め込んでいた世利が苦笑いを浮かべた。

「お前たち、どうやら私にしごかれたいようだな…」

「ひいぃっ!め、めめ滅相もございません!」
「すみません!調子乗りました!」
「おい、誰か面白いことやれよ!」

 文子は、久遠と部下たちのやり取りを微笑ましく眺めていた。普段見ることの出来ない久遠の一面が知れて嬉しかった。

「騒がしくてすまないな」

「いいえ、とっても楽しいです。みなさん気さくな方ばかりですね」

 それになにより、久遠が部下たちから慕われていることも文子にとって喜ばしいことだった。

「どこへ行く」

 熱燗を手に立ち上がる文子に久遠が声をかける。

「みなさんにお酒をお注ぎしとうございます」

「その必要はない」

「私がしたいのです。ちょっと回ってきますね」

 久遠の手が伸びて来る前に文子は席を離れた。部下たちは顔を真っ赤にして文子から酒を注いでもらって大喜びだった。

 そして、一周回って最後、世利の隣に文子が座りお猪口に酒を注ぐ。銀髪の青年は、「いただきます」と酒をあっという間に飲み干した。

「世利さま、先日は私事でご迷惑をおかけしました。お礼が遅くなってしまいましたが、助けに来ていただき感謝しております」

「ご無事で何よりでございます」

「副隊長さまとお聞きしました。久遠さまが休暇を取っていた間、指揮を執られていたのでしょう?私からもお礼申し上げます。また色々とお話聞かせてください」

「私で良ければ、いつでも。…あの、文子さま」

 躊躇いがちに、世利が言う。その顔は、ほんの少し赤みを帯びていた。

「その、お、お首元に、赤い跡がついております」

「え?どこです?虫にでも刺されたのでしょうか…」

 手でさすってみても、虫刺されの腫れは見当たらず、文子は首を傾げた。

「…それはおそらく、久遠さまが…」

(ま、まさか…、あの時の…?)

「ちょ、ちょっと失礼しますね…っ」

 と慌てて席を外した文子は、自室の姿見でそれを確認した後、おしろいをはたいてから戻ってくる。恥ずかしさを必死に押さえて、文子は宴の最後までなんとか笑顔でやり切った。

「どうしたのだ、そんなに怒って」

 客人たちを門の所で見送り、家に入るなり久遠が言った。

「酷いです、久遠さま。みなさんに見られたではありませんか…」

 ぷんすかする文子を、久遠はくつくつと笑った。

「今ごろ気づいたのだな。だから私の隣にいるように言ったではないか」

 まるで、出歩いた文子が悪いと言わんばかりの久遠に、さすがの文子も堪忍袋の緒が切れる。

「反省なさるまで、私は自室で寝させてもらいます」

「それは、参ったな…。すまぬ文子、機嫌を直してくれ」

(そんな甘い声で言ってもダメなんだから)

「文子」

「知りません」

 すたすたと自室に帰ろうとする文子を久遠の腕が抱きとめる。乱暴に振り向かせると、有無を言わせずに唇を奪った。

「んん…、久遠、さま…」

「そなたは私のものだと、みなに見せつけたかったのだ…」

「はぁ…んっ」

(見せつけなくても、私はあなたのものなのに)

 夜の情事の際に交わすような、濃厚な口づけに、文子はあっという間に骨抜きにされてしまう。

「自分がこんなにも欲深いとは、知らなかった。許してくれ、文子」

「わ、わかりました、から…」

「ーーー今すぐそなたが欲しい」

「っ…」

 甘美な響きを伴った誘いを、拒むことなど出来るはずもなく、文子はそのまま久遠の胸に崩れ落ちるようにして身をゆだねた。





















「妖騎士と交わす番の契り ~ケガした猫を助けたら溺愛されました~」

ー 完 ー









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