久遠の子を身ごもってから、文子は穏やかな月日を過ごしていた。
 何一つ不自由がなく、まるでどこかのお姫様にでもなったような気分だった。

 養父母の家にいた頃は、食事の支度から洗濯、買い出し、掃除と全てを文子一人で行っていたため、一息つく間もないほどだった。食事も3人が食べ終わるまで待ち、残り物を食べていたため、満足に食べれた試しがない。

 それがここに来てからというもの180度がらりと一変したのが、文子には落ち着かない。こんな贅沢が許されていいのだろうか、となんだか畏れ多い気持ちであった。

 さらに、久遠の子を身ごもってから、寝所を共にするようになったことも相まって、二人の距離は以前よりもぐんと近づいた気がする。

 しかし、一緒に眠ることがあまりに恥ずかしく、寝れない日が続いてしまい、心配した久遠は夜は猫の姿で文子の隣で寝てくれるようになった。

 申し訳ないと思いながらも、黒猫の姿の久遠は可愛らしくとても癒されている。

 昨夜も、風呂を済ませた久遠は猫の姿で現れると先に横になっていた文子の隣にもぐりこんできた。

「久遠さま…」

「もしや、腹でも痛むのか?」

 名前を呼んだだけなのに、すごい剣幕で心配する久遠に文子は苦笑する。身ごもってからこの方、ちょっとしたことで文子の身を案ずるようになった。すこし過保護なくらいで、律や安寧からはからかわれたり、酷い時には叱られたりしている。

「いえ、違います。体は元気です…ただ、なんだか寝付けなくて…」

「そうか…何か私にしてやれる事があればよいのだが…」

「…あの、一つお願いしても…?」

「もちろん構わない」

「その、もし良ければ…、御髪に触ってもよいでしょうか…」

 文子の言う意味が理解できないで考え込む久遠。文子は、意を決して言葉を紡ぐ。

「私、子どもの頃から猫が好きで…。その、撫でていると落ち着くというか、癒されるというか…。もしご迷惑でなければ、久遠さまのことを撫でさせていただいてもよろしいでしょうか…?そうしたら寝れるような気がして…」

「そんなことでいいのか?私は構わない、そなたの好きにせよ」

 文子にとっては一か八かのお願いだったが、思わぬ快諾に「ありがとうございます!」と喜んだ。

 まだ両親が生きていたころ、野良猫を見つけては拾ってきて自宅兼診療所で飼っていたほど猫が大好きだった。

 もふもふとした毛を撫でるのが何よりの癒しなのだ。

「失礼します…」

 恐る恐る久遠の黒く艶やかな毛に手を置いて滑らせる。

(なんて滑らかな触り心地…)

 久遠は、仙狸(せんり)というヤマネコの妖だと教えてくれた。元来群れを成して生活してきた種族ではあるものの、種族間の争いが減った今では単独で暮らす者も多いのだとか。

 久遠は、幼くして身寄りのない律と安寧を引き取り、この屋敷に住まわしていると言う。血縁のない者の世話をする妖はそう多くはないらしく、律も安寧も久遠に恩を感じて尽くしているそうだ。

「どうだ、眠れそうか」

「は、はい、とても心地よい手触りで…癒されます…」

「そうか、それならよい。私も、とても心地がよい」

 その言葉に安心して、文子は撫でながら目を閉じた。

 妖とは、不思議な生き物だ、と思う事が多かった。人ならざる者なのに、人の姿をして人に紛れている。人よりもよほど力もあり強いだろうに、常世に危害を加えることは今はない、と寝物語に話してくれた。

 そして何より、その妖と契りを交わすことになった自分の運命もまた、不思議だと思わずにはいられない。

 毎日欠かさずに参拝に訪れていた神社で傷ついた久遠を手当をしただけの、たったそれだけのことが、文子の運命を大きく変えたのだから。

 さもなければ自分は、あのまま林の妻となっていただろう。

 相手を思いやり慈しむ優しさを持っていて、心を通わせることができるのなら、それがたとえ人と妖であっても構わないと思えた。

(ずっと撫でていたい…とは言えないけど…)

 文子は微睡む意識の中で久遠の手触りを感じながら思う。

「ずっと…そばにいたいです…」

 口に出しているとは知らずに、そのまま夢の中へ落ちていった。



「きゃぁぁっ!」

 翌朝、文子は起きるや否や自分の置かれている状況に悲鳴をあげた。

「文子さま!どうされました!!」

 バンッと襖が開かれて血相を変えて現れた律の目に映ったのは、布団の中で仲睦まじく寄り添う二人の姿。

 とは言え、久遠に抱きしめられた文子が顔を真っ赤にして逃げ出そうとしている最中ではあったが。

「あっ、律くん」

 律に見られたと文子は布団を目深にかぶり隠れてしまった。

 寝所を共にするようになりはしたものの、猫の姿で寝ていることを知らない律には、何がどうしてあんな悲鳴をあげることになるのかはわからなかった。

「ご主人さま…文子さまが嫌がっておりますよ…」

 まだ瞳を閉じたまま文子をがっちりホールドして狸寝入りしている久遠を見て、律は呆れる。

「律は下がっておれ」

「く、久遠さま、起きて…」

「いや、寝ている」

「「…」」

 その子どもじみた返しに、文子も律も開いた口が塞がらない。

「もう勝手にしてください」

 あきれ果てた律は去ってしまう。助けを失った文子は、久遠の腕の中で逸る胸を手で押さえる。いくら体の契りを済ませたとは言え、そもそも男に免疫のなかった文子にとってそう簡単に慣れるようなものではなかった。

 長い腕は文子の腰に回されて熱を感じるし、着崩れた浴衣からは逞しい胸板が見えて、目のやり場に困る。

「く、久遠さま…」

 やっと目を開けた久遠に助けを求めるも、甘い眼差しを向けられて「そなたは今日も美しい」と囁かれて逆効果だった。

(昨日は確かに猫の姿で寝ていたのに…)

 と、考えて文子はハッとする。

「も、もしや、猫の姿ではよく眠れませんか…?」

「いや、そのようなことは無い。昨夜はそなたに撫でられてとても心地よく寝れた。毎晩撫でてもらいたいくらいだ」

(じゃ、じゃぁ、どうして人の姿に戻ってるの…)

「しかし、猫の姿ではそなたを抱きしめれない」

「ひゃぁっ」

 回されていた腕が文子の体をいとも簡単に引き寄せ、きつく抱きしめられた。

「いい加減慣れてくれ」

 体が密着して、はだけた胸が文子の頬に触れる。久遠から伝わる熱と、文子の中から生じる熱とでぐんぐん体温が上昇していく。

「そ、そんな、無茶な…」

「毎晩、我慢を強いられているこちらの身にもなってくれ」

 切なげな久遠に見つめられて、文子は首をかしげる。

「我慢、とは…?」

 心底わからない、といった顔の文子に、久遠はため息を一つ。

「そんな所も可愛いくてたまらないのだが…」

 あまりに男を知らなさすぎるのは、久遠にとって嬉しくもあり、少々ツラいものもあるというもの。

「男という生き物は、人でも妖でもきっと変わらぬ。愛する女子(おなご)をいつだって抱きたいと思うものだ」

「だっ、だき…、あっ」

 久遠は、何かを考えながら文子の体に手を這わすように滑らせる。腕の中で身じろぎして潤んだ瞳で助けてと訴える文子が愛しくもあり、恨めしくもあった。

「そなたは、私に触られるのは嫌か?」

「そんな風に思ったことは一度たりともありません!」

 ただ、恥ずかしいだけなのだ。自分を求める久遠の熱と速度に心が追いつかない。全力で否定する姿に久遠はほっと胸をなでおろした。

 しかし安心する久遠とは反対に、妖力の慣らしを終えて番の儀を済ませたばかりだと言うのに、文子は自分の心と体がどうにかなってしまうのでは、と不安だった。

「ならば、少しずつでよいから…、そなたに触れるのを許してくれ」

 抱きしめられながら、文子はこくりと頷いた。