妖騎士と交わす番の契り ~ケガした猫を助けたら溺愛されました~



 ガタ、ガタガターーー

 砂利を踏むたびに揺れる馬車の中で皆藤文子(かいとうあやこ)は一つため息をついた。初めて乗った馬車の揺れ心地というのは、自分が想像していたものとはだいぶ異なり、既に尻がジンジンと痛みだしている。

 さらに頭に乗せられた綿帽子が崩れないように、と体を屈めているのも良くないのかもしれない。
 目深に被った真っ白な綿帽子の奥に見える瞳は悲し気に伏せられ、目にも鮮やかな紅を差している唇のおかげで青白さだけは少しだけ和らいで見えたものの、シミ一つない白い肌はしかし決して血色が良いとは言えなかった。

 文子の口からは、また一つため息が零れる。

(まさか、自分が白無垢を着る日がくるとは…)

 しかもこんな形で、と嘆かずにはいられない。

 今日、望まない相手との祝言が、文子を待ち構えていた。

 相手は自分より30も上の男で、名は林と言った。病弱な妻が亡くなってすぐに後妻を探しだしたという。そこに、文子の存在を疎んでいた養父母が我こそはと名乗りを挙げたのだった。

 後から知った話では、林はこの辺りでは名の知れた地主で、見目の良いおなごならば結納金をたんまり弾むとちらつかせていたらしい。

 どうりで縁談が成立してから養父母が自分に優しいわけだ、とその話を聞いて納得した文子だった。

 さらに、林が後妻を娶るのはこれが初めてではない。林に嫁いだ嫁は年を取るとなぜかみんな病気で死んでいき、喪も明けないうちに林は後妻を取っていた。後妻となる条件は10代の見目麗しい生娘だという。

 ちょうどひと月前、品定めに来た林は文子を一目見て満足げな顔で頷き、文子は何人目かとなる後妻に選ばれたのだった。

 あの林のギラギラとした目を思い出すだけでもぞっとして文子は体を震わせる。

 寒さと恐怖とで震える自身の肩を抱き、さすった。つるりとした冷たい絹の滑らかさが今は厭わしい。

「おい、早く降りないか」

 養父の声で車が停まっていたことに気づかされ、文子はハッとする。

 謝りながら馬車からなんとか降りた文子の目に、見たこともないような豪邸が映った。

 立派な門構えに、白塗りの壁はヒビ一つなく、手入れの行き届いた瓦屋根には苔さえも見当たらない。横に伸びた平屋づくりのそれは、一体何部屋あるのだろうか、と見渡しただけでは終わりが見えない程だった。

「こんなすごい豪邸に住めるなんて、お前は幸せ者だねぇ」

 養母の言葉に文子は「はい、本当に…」と小さな声で答えた。

「文子ちゃん、すごい!羨ましい~!」

 養父母の一人娘の葉子が大げさに言う。彼女は文子とは一つしか年が違わない。

「ホント感謝してほしいわぁ、私たちが頭を下げてやっとのことで決まった縁談なんだから。せいぜい、林さまに捨てられないように気を付けるこったね」

「おじさま、おばさま、葉子さん」

 文子は、二人に一歩近づくと、膝を曲げて頭を下げた。帽子が落ちない程度に。

「今まで本当にお世話になりました。身よりのない私のことをこれまで面倒見ていただいて感謝しております。ありがとうございました」

 それは、本心からくる裏のない、感謝の言葉だった。

 父と母を戦争で失くし、遠い親戚とはいえ自分を世話してくれたこの人たちには感謝の気持ちしかなかった。どんなに酷いことを言われようと、酷い扱いをされようと、こうして金と交換に嫁に行かされようと、文子は彼らを恨む気持ちにはならなかった。

 『感謝の気持ちを忘れるな』

 医者だった両親の教えを、文子はずっと心に持ち続けている。

 そんな文子に、三人はふんっと顔を背けるだけで何も返しはしない。


「お待ちしておりました」


 男蝶女蝶(おちょうめちょう)が松明を手に迎え出てきたのを皮切りに、文子たちは歩を進め門をくぐった。




 案内された大広間は既に林の親戚一同で埋め尽くされ、がやがやとぎわっていた。10畳ほどの二間続きになった和室で、床の間には豪奢な掛け軸が掛けられ、その下には色鮮やかな装飾の施された陶磁器が置かれていた。

「嫁子さんをお連れしました」

 男蝶女蝶の声で人々が静まり返り一斉に振り向いた。その目には、今度の嫁はどんなに美しいのだろうか、という好奇の色で溢れかえっている。

 綿帽子で思うように見えずもどかしい、とでも言わんばかりに周りがざわつき始めた。

「おぉ、待ちくたびれたぞ!さぁ、はようこっちへ来い」

 好奇のまなざしの中をかき分けるように文子は進み、声の主…夫となる林の前までたどり着くと頭を下げた。とてもではないが、林の顔など見れたものではない。文子は瞳を伏せたまま俯いて林の向かいに正座した。

「お待たせいたしました」

「堅苦しい挨拶はいらん、さぁ、始めよう」

 その声で進行役の男が手を叩いて祝儀が始められる。

 林が二人の間に用意されていた朱塗りの盃に手を伸ばしたのと同時に、先ほど案内してくれた男蝶女蝶が酒の入った急須を手にやってきた。

 三々九度(さんさんくど)が始まる。

 文子は、いよいよここまできてしまった、と心の中で思った。縁談の話を聞かされてからこの方ひと月と少し、これ以上養父母の世話にはなれないと思いつつも、30以上も年の離れた男の元に嫁ぐという事が文子の心を暗くさせていた。

 林には、自分より年上の子どもも、まだ年端もいかない子どももいるどころか既に孫もいるらしい。もしかしたらこの男蝶女蝶も林の子どもか孫かもしれない、と視線を少し上げた。

 チョロチョロ…

 年のころは5、6歳だろうか、緊張した面持ちの男の子が盃に酒を注いでいる。

 小さな盃に注がれた酒はあっという間に林が飲み干し、つい、と文子の視界に現れた。綺麗な盃だな、と光沢ある朱塗りのそれを見て文子は漠然と思った。

 三々九度には、これから先、散々苦労を共にし、支え合っていきます、という誓いの意味が込められている。

(この人と…生涯を…)

 この先の人生をこの男と共にするのだと思うと、言いようのない不安がとめどなく溢れて目の前が真っ暗になった。

「おい、文子、早う受け取らぬか」
「…っ」

 つー、と頬に一筋の光が伝い、慌てて手の甲で拭い去るとその手で盃を受け取る。

(もう、どうにもならないのよ、文子)

 自分に言い聞かせる。これまで何度もそうしてきた。
 今さら嫌だと駄々をこねれば、養父母に迷惑がかかることは明白であるし、そんな不義理をした文子をもう一度迎え入れてくれるはずがなかった。さすれば、文子は今日から住むところすらもままならない。

 これが、自分の運命(さだめ)なのだ、と受け入れる他、文子に選択肢など残されていなかった。

 今度は、文子の細く美しい指が支える盃に酒が注がれ、口に運ぼうとしたとき、


ーーーガタンッ、バリバリバリッ

 けたたましい音がして、大広間の襖やその先の窓やらが風で外れ飛び、そこにいる人々から悲鳴が上がった。

「きゃぁぁっ」
「うわああ」

 文子も突然のことに何が起きたのかわからず呆然とするだけだった。

「な、なんだ!?」
「一体どうした?!つむじ風か?!」

 吹き飛んだ窓の外に、人々の視線が向けられる。

「誰かいるぞ?!」

 土煙が舞い、その奥に佇む人影らしきものが見えた。

「誰だ!」
「ここが林恒彦の邸宅と知っての狼藉か!」

 男衆が代わる代わる言葉を投げつけるも返事はなく、その人影は一歩一歩こちらへと近づいてきた。土埃が収まるにつれて徐々に露わになる人影に、人々は後ずさる。「誰なの?」「大丈夫なの?」女性陣からは不安の声が零れる。

「おい!聞いてるのか!止まれ!」

 その人は、黒色の着流しに青磁色の羽織をまとった男だった。スラリとした長身にバランスのとれた小さな顔、一つに結んだ長い黒髪は肩に垂らし、さらに驚いたことに切れ長な瞳は透き通るような琥珀色をしていた。そこらの女性よりも色気の漂う美しい美丈夫が立っていた。

「ひっ捕らえろ!」

 尚も止まらずこちらへと進む男に広間から数人の男がとびかかったーーーー

 はずだったが、次の瞬間には数人の男たちは縁側の外に転げて痛みに悶えて蹲っていた。

「な、なにが起きた!?お、おい、お前、あいつを捕まえろ!」
「嫌だよっ!なんで僕が!おじさん行ってよ!」

 男どもは怖気づいて互いに背中を押しあっていた。その間も謎の男はずんずん進み、モーセの海割りのごとく人々が避けていき、とうとう、新郎と新婦の前にまでやってきた。

(なんて綺麗な人でしょう…)

 人混みが開けてようやくその男を目にした文子は心の中でため息をつく。恐怖など忘れて魅入ってしまっていた。

「今日は大事な祝言だというのに、邪魔をするとはどういう了見だ」

 林がどすの効いた声で唸るように言う。
 さすがにこれまで地主として数々の修羅場を通り抜けてきたのだろう、少しもひるむことがなかった。

「悪いな、祝言だから邪魔しにきたのだ」
「どういうことだ」
「ーーーー文子(あやこ)、迎えにきたぞ」
「え…?」

 唐突に名前を呼ばれて、文子は弾かれたように改めて彼の人を仰ぎ見た。険しい顔つきの中でも琥珀色の瞳は柔らかさを宿して見つめられているように感じた。

「さてはお前の情人か、文子!」
「い、いえっ…決してそのような…」
「この醜男(しこお)との祝言を望んでおらぬのなら、私と一緒に来い」
「なっ!無礼者!文子は私のものだ!誰にもやらぬ!」
「きゃっ」

 激怒した林が文子の腕を掴んで無理やり立ち上がると、後ずさった。強く引っ張られてよろけた先、林に後ろから抱きかかえられた。その拍子に被っていた綿帽子が外れ、文子の顔が陽の光に晒された。

 遠巻きに様子を見ていた人たちが息を呑む。
 美しい艶やかな黒髪は文金高島田髷に結い上げられ、露わになった白い額は形がよく、それぞれのパーツはバランスよく配置されている。猫目の瞳は大きく魅力的に輝きを放ち、高い鼻梁は日本人離れした美しさを醸し出していた。

 そこに居た全員が、文子に見惚れていた。

「文子は私のものだ!」
「ひっ」

 林の手が文子の顎を掴み自分へと向かせ、口づけようと顔を近づける。

ーーードォン

 一瞬の衝撃と爆音に、目をつむる。
 次に目を開けた時には、文子は美丈夫の両腕に抱きかかえられていた。いわゆるお姫様抱っこというものだ。

 一体何がどうなったのか。

 間近にある美丈夫の顔を見上げて文子は半ば放心していた。

「ううぅ…」

 低いうめき声に振り向けば、床の間に蹲る林の姿があった。

「お前…まさか、妖か…」

 振り絞られた言葉は文子の耳に届く。

「あやか、し…?」

 聞きなれない言葉だった。
 昔、妖は人の姿をして今も人々の中に紛れている、とまことしやかに語られてきていたが、それは物語の中だけだと思っていた。

 美丈夫は、文子を見つめたまま頷く。

「そうだ。…文子、そなたは私の命の恩人だ。そなたがこの醜男と一緒になりたくないのなら、私のところに来い」

(恩人…?)

 全く身に覚えのなかった文子は「人違いでは…」と訪ねる。

「神社で助けた黒猫を覚えてはおらぬか」

 美丈夫はそう言って、文子をそっと立たせる。
 思い出すどころか、ずっと忘れられなかった黒猫の姿が脳裡に鮮明に浮かび上がった。

「黒ちゃん…?」

 文子の呟きに美丈夫は「その節は世話になったな」と礼を言った。

(そんなまさか…、この美しい男の人が、あの黒ちゃんだったというの…?信じられない)

 驚きを隠せない文子の目の前に古びた手ぬぐいが差し出された。それは、確かに文子が黒猫の傷口に縛り付けた手ぬぐいだった。

「まだ信じられぬか?」
「あ…」

 正直、そんなすぐに信じられるものではなかったが、あの神社での出来事は文子と黒猫しか与り知らぬ出来事なのは確かで…。

「し、信じます」

 必死に、そう言えば、美丈夫は柔らかな笑みをその端正な顔に浮かべた。

「それで、どうする。私とくるか?それとも…」
「させぬ!文子は私のものだ!」

 起き上がった林が叫んだ。

「結納金も既にこ奴らに払っているのだ!今さら逃げるなど許されるものか!」
「そ、そうだ、文子!どれだけ私たちに迷惑かければ気が済むんだ!」
「あ…」

 林と養父が畳み掛けるように文子を糾弾する。

「わ、私…」
「結納金なら返せば済むことだろう。そなたらには私から同じ額、いや倍の額を進ぜよう」
「な、なんだと!返しただけで済むわけなかろう!金の問題ではない!文子は誰にも渡さん!」

 林の異様な執着ぶりに、文子は身を縮こまらせた。これほどまでに執着する理由がどこにあるのか、文子自身にはまったくわからなかったが、周りにいた親戚どもには頷けるものだった。

 これほどまでに美しい生娘を、あの林がやすやすと渡すはずがない、と。

「悪いがお前の意見など、聞いておらぬ。黙っておれ」

 言い終わらぬうちに、林はまた壁に体を打ち付けて倒れこんだ。今度は気絶したらしく、うめき声すらも聞こえてこない。この美丈夫は今、何もしていないというのに…、一体何がどうしてこうなったのか、と周りから恐怖に震える声が上がる。

「あっ…」
「心配はいらん、気を失っているだけだ。それで、そなたはどうしたい」

 琥珀色の瞳に見つめられて、文子はたじろぐ。

(どうしたいと言われても…、私はどうしたら…)

「私の所に来るのは嫌か?」
「そ、そんな、嫌などとは、決して!」
「では、決まりだ私と共に幽世(かくりよ)へ参ろう。…あぁ、そうだ、そのためには私と(つがい)になる必要があるが構わぬか?」
「つがい、とは…」
「番とは、そうだな、この世でいう夫婦(めおと)のようなものだ」

 よくはわからないが、文子は首を縦に振る。

「あなた様が私でよいのなら…」

 目の前の美丈夫は得体も知れず謎だらけにも関わらず、林という男と夫婦になるよりもずっとよい未来が待っていると文子は確信していた。
 それはきっと、この美丈夫の自分を見つめる瞳が優しさに溢れているからだ。

久遠(くおん)だ」
「くおん、さま…っんん!?」

 腰を引き寄せられ、文子の口が久遠のそれに塞がれる。
 文子の唇を割ってきた柔らかな舌は、歯列をなぞり強引に絡みつくように舐めとる。まるで噛みつくような、荒々しい口づけだった。

 ーーードクンッ

(なに…これ…?!)

 動悸が激しくなり、体中の血が騒いでいるような、ぞわぞわとした感覚に襲われる。

 やっと解放されたものの、文子は体に力が入らず崩れ落ちそうになる。それを腰に回った久遠の腕が支え、そのまま自分の胸に文子を抱きとめた。

「っ…はぁ…はぁ…」

(なんだか体が、おかしい…)

 頭がうまく回らないし、急に眠気が襲ってきた。

「少しは入ったか。これならなんとか渡れるだろう。辛いかもしれんが、少し我慢してくれ」

 入ったとは、渡れるとはなんだろうか、と文子は遠のく意識の隅で思ったが、重たい瞼が視界と思考を遮断するかのように閉ざされ、そのまま意識を手放した。




(あたたかい…、それに柔らかい…)

 ふと、柔らかな何かを感じて文子は目を覚ました。無意識に手で触れていたようで、滑らかな手触りと柔らかさ、そして温かさが心地よい。
 夢心地とはまさにこのことで、文子は目を閉じたまましばらくそれを堪能していた。

「起きたのか?」

 不意に聞こえたその声に、文子はぱちりと目を開ける。見慣れない景色に、慌てて上半身を起こすと、手に触れていたものも身じろいだ。
 目をやれば、布団の上、ちょうど文子の腰あたりに丸まっているそれは、可愛い黒猫ーーー

「くろちゃん…?」

 それは数か月前、文子が毎日お参りに立ち寄る神社で酷い傷を負って倒れていた黒猫だった。

「ーーーじゃなくて、くおんさま…?」
「どちらでも、呼びやすい方でかまわない」

 久遠の声は確かに黒猫から聞こえてくるようだったが、久遠の姿とこの目の前の愛らしい黒猫との姿がまるで一致しない。同じなのは髪の色と眼の色くらいだ。

「あっ、やだ、私ったら…気安く申し訳ございません!」

 無意識に撫でていた手を慌てて引っ込める。

「よい。そなたに撫でられるのは嫌いじゃない」

 久遠は、そう言うと起き上がり前足を二本前にだして伸びをした。その姿、その仕草はまさに猫そのもの。文子は不思議な気持ちだった。

「無事で良かったです…」

 神社で傷の手当をして持っていた手ぬぐいで縛って止血した黒猫が無事で良かった。本当なら医者かせめて家に連れて帰って看病してあげたかったのだが、文子にはそんな金もなく、養父母が動物嫌いなため連れ帰ることもできなかった。

 仕方なく風の当たらない所に落ち葉をかき集めて黒猫を置いてきたのだ。

 それから毎日神社を訪れる度に傷口を洗い、手ぬぐいを綺麗なものに取り換え、こっそり取っておいた食事の残りを与えること4日目の朝、黒猫はいなくなっていた。

 日に日に食べる餌の量も増えていたし、血も止まり傷口も乾いてきていたから、きっと元気になったのだろう、と願ってはいたが、やはりこうして元気な姿を見れて文子は心底ホッとした。

「無事なのだから、泣くことはない」

「あ…、これは、嬉し涙で…」

 気づけば涙が勝手に頬を伝っていた。
 黒猫がいなくなっていたあの朝、文子はやはり家の蔵の隅にでも隠しておけば良かったと心底後悔したのだ。

「改めて礼を言う。誠に感謝している」
「いえ…、無事で、何よりです」
「あーーー!」

 甲高い叫び声が部屋中に響いた。文子は思わず肩をすくめ、久遠はあきれたように目を伏せてまた布団の上で丸くなる。

「ご主人さま!文子さまがお目ざめになったのならどうして知らせてくれないのです!あれほど言いましたよね!?お知らせくださいと!」

 ずかずかと、中に入ってきた声の主は、久遠を指さしながらそうまくしたてた。文子はその姿を見て目を輝かせる。

(か…か、かわいい…っ)

 年は5歳くらいだろうか、白地に黒の麻の葉模様の甚兵衛を来た男の子が目を吊り上げている。そして何より文子の胸を高鳴らせたのは、男の子の頭の上にぴょこんと生え出ているふさふさの猫耳だ。

「あっ、これは失礼しました!私はご主人さまにお仕えしている(りつ)と申します。先日は、我が主人の命を御救いいただき恐悦至極にございます!御用はこの律になんでもお申し付けください!」

「あ、ありがとうございます。よろしくお願いしますね、律くん」

「律でいい。困ったことがあればこいつになんでも言えばよい」

「ご主人さま!文子さまが目覚めたことですし、いい加減お仕事に戻られてはいかがですか。このままでは世利さまがノイローゼになってしまいます」

 睨みつける律に久遠はふんっと鼻を鳴らすだけだ。しばらく睨んでいたが、聞きそうにないと思ったのだろう、律もふんっと鼻を鳴らしてふんぞり返ってどこかへ行ってしまった。

「そう言えば、体は大丈夫か?」
「あ、はい、何とも」

 そういえば、自分は久遠に口づけをされて気を失ったのだった、と思い出して赤面する。あの時感じた不思議な感覚は、今は露とも感じない。

「そうか、なら良いが…仕方なしとはいえ、いきなりすまなかった」

「仕方なしとは…?」

「あぁ、そなたが今いるここは幽世と言って人間たちが住む常世とは全く異なる世界なのだ。そのため、人間がこちらにくるには、少しばかり妖力が無いと渡れないため、私の妖力を少し与えたのだ。私の妖力をいきなり受け入れたため、そなたは気を失ったのだ」

「そうだったのですね…」

 あの、全身の血が騒ぎ何かがこみ上げてくる感じは、久遠の妖力によるものだったのか、と文子は妙に納得した。

 それと同時に、ものすごい羞恥心にさいなまれる。

(あぁ、恥ずかしい…)

 文子は、生まれてこの方口づけを交わしたことが無く、誰もがあのようになってしまうのかと思っていたのだ。

 自分の知識と経験のなさは今さらどうにもできないのだから、それこそ仕方がなかったが、文子は内心穴があったら入りたいほどだった。

「頬を染めてどうした」
「いっ、いえっ、なんでもありません!」
「お待たせしましたぁ~!」

 律の声と共に、ほんのりと美味しそうな匂いが文子の鼻をくすぐる。見やれば、律の手には食事の乗った盆が握られていた。
 軽快な足取りで卓の上に置き、それごと布団の方へと近づけた。

「お腹空きましたよね。久遠さまの妖力を受け止めたんですからさぞかしお疲れでしょう」

「ありがとう、律くん」

 美味しそうな匂いにつられて布団から出ようとする文子を久遠が制する。

「あ、あの…?」

 次の瞬間、布団の上で丸まっていた久遠が一瞬にして、人の姿へと変わった。林の邸宅に現れた時とは違う深緑色の着流しを着ていた。

 長身の久遠は、立っているだけで威圧感がすごく、部屋が狭く感じるほどだった。

 音もなく卓と文子の間に座ると、匙を持って粥をすくいだす。それすらも絵になるほどに美しかった。伏せられたまつ毛は頬に影を映し、すーっと通った鼻梁が美しい線を描く。
 まるで浮世絵を切り取ったようだと文子は見惚れた。

「あ、私がやりますよ、ご主人さま!」
「いい、私がやる」

(ま、まさか…)

 文子の予想は的中する。
 久遠は、匙ですくった粥をふーふーしてから文子の口先へと持ってきた。

「あっ…わた、し、自分で食べれます!」
「無理をせずとも良い。ほら、口を開けろ」

 かぁぁ、と顔に熱が集まっていく。

「ほら、早くせぬか」
「は、はい…」

 有無を言わせぬ圧力に、文子は赤面したまま口を開けた。

(ううぅ、恥ずかしい…)

 目の前で律も見ているというのに、容赦の無い久遠を恨めしそうに見やるも、そんな文子には露とも気づいていない様子で淡々と粥を運んでいる。

「文子さまは、本当に綺麗なお人ですねぇ…。ご主人さまが惚れるのも納得です」
「律」

 たしなめる久遠だったが、律は「なんですか?」とすっとぼけていた。

「そうだ、(つがい)の儀はいつに致しましょう?!早い方が良いですよね?いくらご主人さまと言えど、口づけだけでは10日も持たないでしょう」

「そうだな…、出来るだけ早い方が良いだろうが…」

 久遠に見つめられて、文子は戸惑う。

「あの、番の儀というのは?」

「ご主人さま!まさか文子さまに説明されてないんですか!?」

「私と番になることは伝えてある」

「番の儀については?」

「…はて…、どうだったか」

 主の反応に、律は「あちゃー」と天を扇いだ。文子は何がなんだか、わからないで二人のやり取りを見守る。

「ご自分で説明してくださいよ、もう!」

 律はそう言って顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。

 観念したように、息を吐くと久遠は話し始めた。

「さっき、幽世にくるには妖力が必要だと言っただろう」

「はい」

「それで、口づけで私の妖力を与えたとは言ったが、それはその場しのぎにしかならず数日もすればそなたの体から消えてしまうのだ。そもそも、番になることが人間がこちらで生きる最低条件であり…、番になるというのは…その…つまりだな…」

 だんだんと、歯切れが悪くなる久遠。いつの間にか視線も合わせてもらえなくなっていた。

「あぁっもう!まどろっこしいなぁ!」

 そっぽを向いていた律が痺れを切らした。

「つまりですね、番の儀というのは、ご主人さまのお子を宿すことでございます!」

「お、お…お子…」

 文子はあまりの衝撃に、開いた口が塞がらなかった。

 確かに夫婦になるとは言われたが、夫婦の営みはおいおい時間をかけていくものだろうと思っていたのに、まさかこんな火急の事態になろうとは思いもよらなかったのだ。

(そんな…)

 先の口づけだけでもどうにかなりそうだったのに、その先までとは。どのような行為なのか、話に聞いたことはあるが、文子には想像もつかない。

「大事なことですので、先にお伝えしておきますが、人である文子さまがご主人さまのような妖力の強い妖からお子を授かると、しばらく苦しむことになるかと思われます。過去にも、妖と番になったことで三日三晩高熱にうなされたという話もございます」

「そ、そうなんですね…」

 口づけで妖力を受けただけで気を失ったのだから、三日三晩うなされるのも現実味を帯びている。

「…常世に帰っても良いのだぞ」
「何をおっしゃいますか、ご主人さま!せっかく念願の文子さーーー」
「律は黙っておれ」

 ピシャリ、と放たれたその声に、律は凍り付いた。文子もその声音の冷たさに身を強張らせる。そうだった、彼は妖で、林の邸宅でもその力で人間をいとも簡単にねじ伏せていたということを文子は思い出す。

 黒猫の可愛らしい姿と、文子に見せる優しい態度からは想像も付かぬほど恐ろしい力を持っているのだ。

「文子…、怖いのなら常世に帰っても構わない。常世にも私の知人がいるからそこに世話を頼んでも良いのだぞ」

 久遠は、そう言うと文子の手に自分の手を重ねる。琥珀色の瞳に見つめられて、文子の胸がトクン、と高鳴る。

「そなたの人生だ。自分で選ぶがよい」

 大きな手に包まれて、ぬくもりとともに心が落ち着いていくのを感じていた。

(妖の妻となることが怖くないと言ったら嘘になる…でも、私は…)

 久遠がどのような人物なのか疑う余地などなかったし、既に久遠の人柄に好意を寄せていた文子は久遠を見つめ口を開いた。

「わかりました。では、私を…久遠さまの番にしてください」


 幽世に来てから早一週間が過ぎようとしていた。
 文子が自ら久遠の妻になることを選んだ日から、あれよあれよと準備が進められている。

 粥を食べ終えた頃、どこから現れたのか、久遠の一声で律よりも小さくこれまた同じ猫耳の双子の女の子が現れたかと思うと、二人は文子をひょいと担いで風呂場へと運んだ。そして文子が抵抗する隙も与えぬ速さで着物を脱がせると、湯の中に放り込んだ。

「あ、あの…」
「文子さま、綺麗にする!」
「文子さま、もう綺麗!」
(ねい)、それ意味違う!」
(あん)、うるさい!」

 片言な掛け合いに、文子は苦笑した。寧が青色、安が桃色の髪飾りを付けている。それ以外に見分けがつかないほどに二人はそっくりだった。

「寧ちゃんと安ちゃんですね、どうもありがとう」

「礼、いらない」
「安たち、文子さまのお世話係」

 二人は手際よく文子を洗っていく。髷を丁寧に梳くと、固めるために塗られていた油を石鹸で洗い流してくれた。体があったまってきたころには、髪の毛もサラサラと湯の中で踊っていた。


 それからこの方というもの、寧と安が文子に付きっ切りで世話をしてくれた。着替えや湯あみの手伝いから、髪を梳くのも乾かすのも、食事の準備も、文子は何一つすることがなく至れり尽くせりだった。

「安寧は文子さまを大層気に入ったようですね」

 甲斐甲斐しく文子の世話に勤しむ二人を見つめて律が言う。律は律で、久遠からの事付けや用事以外でもちょくちょく文子のことを気にかけて顔を出してくれていた。

「二人とも申し訳ないくらいお世話してくれるの」

 眉尻を下げてそれこそ申し訳なさそうに言う文子に、律は「それで良いんですよ」と頷く。

「二人は、気に入らない相手とは口も利かないくらい頑固ですからね、文子さまがいくらやめろと言ってもきっと聞きませんよ」

「そう、なのね」

「ーーーー文子」

「久遠さま」

 鼠色の着流しに身を包んだ久遠が姿を現し、長椅子に座る文子の隣に腰を下ろす。

「ご主人!お世話まだ!」
「邪魔しない!」

 安と寧が久遠に文句を言うも、久遠は気にする様子もなく寧の手から櫛を取って人払いを命じた。渋々出ていく安寧と律を見送ってから、久遠は櫛で文子の長い黒髪を丁寧に梳かし始めた。

「久遠さま、自分で出来ますゆえ」
「私がやりたいのだ」
「あ、ありがとうございます」

(静かで、心地よいわ…)

 この3日間、時間の許す限り文子と過ごす久遠だった。仕事だと言って抜けることも多かったが、久遠との時間は文子にとってとても穏やかで心安らぐ時だった。

 久遠の仕事について聞いたが、はぐらかされて結局分からず仕舞いだ。夫婦になるのだからそのうち知ることになるだろう、と文子は深くは聞かないでいた。

「そなたの髪はとても美しい。黒い絹のようだ」

 歯の浮くような甘いセリフも、毎日の習慣になりつつあった。何かにつけて、久遠は文子を褒めちぎる。
 そしてその度に、文子は顔を真っ赤に染めて俯くしかない。久遠はまるで、その反応を楽しんでいるかのようだった。

「こちらを見よ」

 隣に座る琥珀色の瞳を見上げれば、視界が影に覆われる。柔らかな感触が唇に当てられた。

 離れたのもつかの間、また口づけが落とされる。

「だいぶ慣れてきたか」
「は、はい…」

 番の儀に向けての「慣らし」だった。
 久遠の妖力を少しずつ文子に伝えて、体に耐性をつけるのだという。
 その通りに、以前はまた気を失っていたのが、日がたつにつれ立ち眩み程度になり、一週間経った今では驚くほど体は何ともなかった。

 ただ、相変わらず胸の拍動とこみ上げてくるような感覚は健在だった。

 それを久遠に素直に伝えたら「あまり煽るでない」と怒られてしまった。

「明日、行おうと思っている」
「わ、わかりました…」

(自分に務まるのか、不安だけれど…)

 少し前までは不安の方が断然大きかったが、今は久遠と番になれることが嬉しいと思うようになっていた。

「こんなことを言っては、嫌われるかもしれないが…、私は早くそなたと一つになりたくて仕方がないのだ」

「…っ、わ、私も、です…久遠さま」

 気持ちを伝えれば、文子は久遠の腕に抱きしめられた。






 そして翌日、いつもより念入りに湯あみを済ませた文子は、安寧に背中を押されながら初めて久遠の寝所へと足を踏み入れる。

 久遠の部屋は、文子の部屋とは中庭を挟んだはす向かいにあったが、これまでただの一度も訪れたことはなかった。

「久遠さま…、文子です」
「入るがよい」

 襖を開き、中へと歩を進める。椅子に腰かけた久遠の整った横顔が燭台の薄明りに照らされていた。読みかけの本をテーブルに置くと、手を文子の方に差し出す。

「こちらへ」

 その手を取り、近づけば久遠の膝の上に座らせられた。一気に久遠との距離が縮まり文子の心臓が跳ねる。慈しむような久遠の目に見つめられると、文子は自分が大切な存在だと言われているような気がしてしまう。

「怖いか?」
「いえ…」
「だが体が強張っておる」
「その…、初めてのことですので…緊張はしております…」
「そなたは、私に身をゆだねておればよい」

 ちゅ、と音を立てて、文子の顔に口づけをしていく。瞼、頬、耳、そして唇。文子の首筋に、久遠の吐息がかかり、文子はくすぐったさに身をよじる。

「そなたに初めて出会ったあの日からずっと、忘れられなかった…」

 ぎゅぅっと抱きしめられながら、そんな甘美なことを言われて、文子は夢のような心地になる。

(こんなに幸せでよいのでしょうか)

「そなたは知らぬだろう」
「な、何をでしょうか」
「私が、どれほどこの日を待ちわびていたか」

(私とて、同じです…)

 文子の声は、言葉にはならない。
 なぜなら、久遠によって深く塞がれたから。

「ん、ふぅ…あっ」

「あまり、煽らないでくれ、文子」

(そんなことを言われても、声が勝手に…)

「優しくできなくなってしまう…」

 いつの間にか、布団の上に運ばれていた。背中に柔らかな布団を感じながら、文子は覆いかぶさる久遠を見つめる。薄暗い部屋の中、琥珀色の瞳だけは強い輝きを放っていた。

「久遠さま…、私は、大丈夫ですので、どうか、お好きに」

「文子…っ」

 優しくできないと言った久遠は、けれども、それはそれはガラス細工を触るかのごとく文子を優しく丁寧に扱った。

 かつて感じたことのない、甘く、蕩けるような久遠との時間に、文子は酔いしれた。久遠が自分をどのように思ってくれているかがありありと伝わってくるようで、言葉にできない程の幸福感に満たされていくのを感じていた。




 そして、律の言う通り、番の儀を終えた文子は意識を失い、そのまま三日三晩高熱にうなされ続けた。

 綿に含ませた砂糖水を口に含む以外、何も口にすることも出来ずに文子は苦しんだ。まるで体が壊れていくような恐怖が文子を襲う。

(お子は…大丈夫なのかしら…)

 妖力を込めることで、月のものは関係なく子を授かるとは聞いていたが、こんなに高熱を出して何も食べれなくてお腹の子どもは大丈夫なのだろうか、と文子は朦朧とする意識の中それだけが気がかりだった。

「文子…すまぬ…文子…耐えてくれ…」

 定まらない意識の中、自分の手を握る久遠の手のあたたかさと、祈りにも似た謝罪の言葉だけは感じていた。

 そして、ちょうど丸三日が経った翌朝、今までの苦しみが嘘だったかのように文子は体が楽になり、熱も下がり痛みも露とも感じない。それどころか、気だるさすらなかった。

 ケロリと起き上がった文子に、律も安寧も、久遠ですら目を丸くさせ、その次にはほっと安堵の表情を浮かべて喜んでくれた。

 久遠だけは、何度も何度も「すまぬ、文子」と謝って文子を困らせ、そんな文子を救うかのように安寧の二人が「文子さま、無事!」「ご主人!しつこい!」と喝を入れていた。


「ずっと、お子だけが心配でなりませんでした」

 目を覚ました文子は、医者から子どもの無事を聞かされてようやくほっと一息つけたのだった。

 食事を終えて、寝所には今文子と久遠だけだ。

「儀の後に母親が苦しむと言うことは、子どもが元気な証拠なのだと医者が言っていた」

(まるで悪阻みたいだわ)

 昔、母親が妊娠した時のことを思い出す。何も食べていないのに、気持ちが悪いとよく吐いていた。父が母の背中をさすりながら、『辛いのは赤子が元気だからだ』と諭していた光景が、文子にはとても眩しく尊いものに見えていた。

 しかし、身ごもった母は、父と戦場に赴いてお腹の子共々帰らぬ人となる。文子が10歳の頃だった。

「そうは言われても、私は、そなたがこのまま目を覚まさないのでは、と気が気ではなかった」

 眉根を寄せて苦虫を嚙み潰したような顔になった久遠を見て文子はふふっと笑う。

「ご心配ありがとうございます。でもこの通り私はピンピンしております。…それに、苦しんでるときも久遠さまの声は、ちゃんと聞こえていました。ずっと手を握ってくださってましたね、とても心強かったです」

「文子…口づけてもよいか?」

「と、突然、な、なにを…」

「突然ではない…、そなたが目覚めてからずっとしたいと思っていたのだ」

 久遠の指が頬に触れる。そこから伝わる熱に、番の儀のことを思い出してしまった文子は顔を赤らめた。

「それに、私たちはもう番なのだから」

(そうだわ…、私は久遠さまと…)

 夫婦になったのだ、と改めて思う。
 父と母のような、仲睦まじい夫婦になれるだろうか。

(私も、そうなりたい)

 優しい久遠となら、きっとなれるに違いない、と文子は確信めいた思いで琥珀色の瞳を見つめ返す。

 いつの間にか近寄っていた久遠からの蕩けるような口づけに、文子は身をゆだねた。

(お母さま…私にも、優しい夫とお子ができましたよ…)

 正直、まだ何も実感は無いが、文子はとても満ち足りた心だった。





 久遠の子を身ごもってから、文子は穏やかな月日を過ごしていた。
 何一つ不自由がなく、まるでどこかのお姫様にでもなったような気分だった。

 養父母の家にいた頃は、食事の支度から洗濯、買い出し、掃除と全てを文子一人で行っていたため、一息つく間もないほどだった。食事も3人が食べ終わるまで待ち、残り物を食べていたため、満足に食べれた試しがない。

 それがここに来てからというもの180度がらりと一変したのが、文子には落ち着かない。こんな贅沢が許されていいのだろうか、となんだか畏れ多い気持ちであった。

 さらに、久遠の子を身ごもってから、寝所を共にするようになったことも相まって、二人の距離は以前よりもぐんと近づいた気がする。

 しかし、一緒に眠ることがあまりに恥ずかしく、寝れない日が続いてしまい、心配した久遠は夜は猫の姿で文子の隣で寝てくれるようになった。

 申し訳ないと思いながらも、黒猫の姿の久遠は可愛らしくとても癒されている。

 昨夜も、風呂を済ませた久遠は猫の姿で現れると先に横になっていた文子の隣にもぐりこんできた。

「久遠さま…」

「もしや、腹でも痛むのか?」

 名前を呼んだだけなのに、すごい剣幕で心配する久遠に文子は苦笑する。身ごもってからこの方、ちょっとしたことで文子の身を案ずるようになった。すこし過保護なくらいで、律や安寧からはからかわれたり、酷い時には叱られたりしている。

「いえ、違います。体は元気です…ただ、なんだか寝付けなくて…」

「そうか…何か私にしてやれる事があればよいのだが…」

「…あの、一つお願いしても…?」

「もちろん構わない」

「その、もし良ければ…、御髪に触ってもよいでしょうか…」

 文子の言う意味が理解できないで考え込む久遠。文子は、意を決して言葉を紡ぐ。

「私、子どもの頃から猫が好きで…。その、撫でていると落ち着くというか、癒されるというか…。もしご迷惑でなければ、久遠さまのことを撫でさせていただいてもよろしいでしょうか…?そうしたら寝れるような気がして…」

「そんなことでいいのか?私は構わない、そなたの好きにせよ」

 文子にとっては一か八かのお願いだったが、思わぬ快諾に「ありがとうございます!」と喜んだ。

 まだ両親が生きていたころ、野良猫を見つけては拾ってきて自宅兼診療所で飼っていたほど猫が大好きだった。

 もふもふとした毛を撫でるのが何よりの癒しなのだ。

「失礼します…」

 恐る恐る久遠の黒く艶やかな毛に手を置いて滑らせる。

(なんて滑らかな触り心地…)

 久遠は、仙狸(せんり)というヤマネコの妖だと教えてくれた。元来群れを成して生活してきた種族ではあるものの、種族間の争いが減った今では単独で暮らす者も多いのだとか。

 久遠は、幼くして身寄りのない律と安寧を引き取り、この屋敷に住まわしていると言う。血縁のない者の世話をする妖はそう多くはないらしく、律も安寧も久遠に恩を感じて尽くしているそうだ。

「どうだ、眠れそうか」

「は、はい、とても心地よい手触りで…癒されます…」

「そうか、それならよい。私も、とても心地がよい」

 その言葉に安心して、文子は撫でながら目を閉じた。

 妖とは、不思議な生き物だ、と思う事が多かった。人ならざる者なのに、人の姿をして人に紛れている。人よりもよほど力もあり強いだろうに、常世に危害を加えることは今はない、と寝物語に話してくれた。

 そして何より、その妖と契りを交わすことになった自分の運命もまた、不思議だと思わずにはいられない。

 毎日欠かさずに参拝に訪れていた神社で傷ついた久遠を手当をしただけの、たったそれだけのことが、文子の運命を大きく変えたのだから。

 さもなければ自分は、あのまま林の妻となっていただろう。

 相手を思いやり慈しむ優しさを持っていて、心を通わせることができるのなら、それがたとえ人と妖であっても構わないと思えた。

(ずっと撫でていたい…とは言えないけど…)

 文子は微睡む意識の中で久遠の手触りを感じながら思う。

「ずっと…そばにいたいです…」

 口に出しているとは知らずに、そのまま夢の中へ落ちていった。



「きゃぁぁっ!」

 翌朝、文子は起きるや否や自分の置かれている状況に悲鳴をあげた。

「文子さま!どうされました!!」

 バンッと襖が開かれて血相を変えて現れた律の目に映ったのは、布団の中で仲睦まじく寄り添う二人の姿。

 とは言え、久遠に抱きしめられた文子が顔を真っ赤にして逃げ出そうとしている最中ではあったが。

「あっ、律くん」

 律に見られたと文子は布団を目深にかぶり隠れてしまった。

 寝所を共にするようになりはしたものの、猫の姿で寝ていることを知らない律には、何がどうしてあんな悲鳴をあげることになるのかはわからなかった。

「ご主人さま…文子さまが嫌がっておりますよ…」

 まだ瞳を閉じたまま文子をがっちりホールドして狸寝入りしている久遠を見て、律は呆れる。

「律は下がっておれ」

「く、久遠さま、起きて…」

「いや、寝ている」

「「…」」

 その子どもじみた返しに、文子も律も開いた口が塞がらない。

「もう勝手にしてください」

 あきれ果てた律は去ってしまう。助けを失った文子は、久遠の腕の中で逸る胸を手で押さえる。いくら体の契りを済ませたとは言え、そもそも男に免疫のなかった文子にとってそう簡単に慣れるようなものではなかった。

 長い腕は文子の腰に回されて熱を感じるし、着崩れた浴衣からは逞しい胸板が見えて、目のやり場に困る。

「く、久遠さま…」

 やっと目を開けた久遠に助けを求めるも、甘い眼差しを向けられて「そなたは今日も美しい」と囁かれて逆効果だった。

(昨日は確かに猫の姿で寝ていたのに…)

 と、考えて文子はハッとする。

「も、もしや、猫の姿ではよく眠れませんか…?」

「いや、そのようなことは無い。昨夜はそなたに撫でられてとても心地よく寝れた。毎晩撫でてもらいたいくらいだ」

(じゃ、じゃぁ、どうして人の姿に戻ってるの…)

「しかし、猫の姿ではそなたを抱きしめれない」

「ひゃぁっ」

 回されていた腕が文子の体をいとも簡単に引き寄せ、きつく抱きしめられた。

「いい加減慣れてくれ」

 体が密着して、はだけた胸が文子の頬に触れる。久遠から伝わる熱と、文子の中から生じる熱とでぐんぐん体温が上昇していく。

「そ、そんな、無茶な…」

「毎晩、我慢を強いられているこちらの身にもなってくれ」

 切なげな久遠に見つめられて、文子は首をかしげる。

「我慢、とは…?」

 心底わからない、といった顔の文子に、久遠はため息を一つ。

「そんな所も可愛いくてたまらないのだが…」

 あまりに男を知らなさすぎるのは、久遠にとって嬉しくもあり、少々ツラいものもあるというもの。

「男という生き物は、人でも妖でもきっと変わらぬ。愛する女子(おなご)をいつだって抱きたいと思うものだ」

「だっ、だき…、あっ」

 久遠は、何かを考えながら文子の体に手を這わすように滑らせる。腕の中で身じろぎして潤んだ瞳で助けてと訴える文子が愛しくもあり、恨めしくもあった。

「そなたは、私に触られるのは嫌か?」

「そんな風に思ったことは一度たりともありません!」

 ただ、恥ずかしいだけなのだ。自分を求める久遠の熱と速度に心が追いつかない。全力で否定する姿に久遠はほっと胸をなでおろした。

 しかし安心する久遠とは反対に、妖力の慣らしを終えて番の儀を済ませたばかりだと言うのに、文子は自分の心と体がどうにかなってしまうのでは、と不安だった。

「ならば、少しずつでよいから…、そなたに触れるのを許してくれ」

 抱きしめられながら、文子はこくりと頷いた。


「ねぇ、律くん」
「なんでしょうか?」
「久遠さまのお仕事ってなぁに?」

 ある日のこと、百人一首の札を囲って一緒に坊主めくりをしていた律に訊ねると、耳をピクリと動かして札をめくる手が止まった。

 これほど広い屋敷に、律や安寧の他にも使用人がいて、文子まで養えるほど久遠の懐が豊かな理由が気になったのだ。

「それは、ご主人さまからお聞きください。私は口止めされておりますゆえ」

「その久遠さまが教えてくださらないから…律くんに聞いているのに…」

 以前はそのうち、と思っていたが一向に話してくれる気配がなく、律ならば、と思い聞いてみたがだめだったか、と肩を落とす。

「あ…、文子さま!そんなに気を落とされぬよう!ご主人さまのお仕事は危ないこともありますが、とても立派な誇りあるお仕事です!ご主人さまはきっと文子さまに心配を掛けたくないだけだと思います」

(そうは言っても…気になるわ…)

「お屋敷の外には、行ってはいけないのかしら…」

 番の儀を終えてからひと月が経とうとしていた。
 自身の体も気持ちも落ち着いてきた今、今度は屋敷の外の幽世という世界に興味を持ち始めたのだ。

 文子は、縁側の外、中庭に目を向ける。

「屋敷の外はまだ危険だからだめだと…ご主人さまが」

「そう…。今日は久遠さまはお仕事なのよね」

「はい、どうしても外せない仕事が出来たとかで」

 久遠は何かを心配しているようで、出来るだけ文子のそばにいるよう配慮している様子だった。

「…そう言えば、安ちゃんと寧ちゃんの姿が見えないけど」

「あの二人は今街に買い出しにいっています」

「私も一緒に行きたかったわ…」

「…そうですよね…、こっちに来られてからずっとこのお屋敷から出られず気持ちも塞がってしまいますよね…。今度ご主人さまにそれとなく伝えてみますね!さ、文子さまの番ですよ、引いてください」

「あらやだ、坊主だわ!」

 手持ちの札を全て手放して、律と顔を見合わせて笑った。


 律との坊主めくりを楽しんだ後、文子は縁側に座り一人のんびりと過ごしていた。手入れされた中庭は、どれほど眺めていても飽きない。今は楓が見事に葉を赤に染めて見頃を迎え、その姿を池に映して揺れている様は見事だ。

「はぁ…」

 美しい庭園を眺めながら吐かれたため息は、秋風にさらわれていく。

(やはり、腑に落ちない…)

 文子は、久遠が自分のことを大事に思い、心配してくれているのは理解できていた。しかし、仕事のことや心配事を教えてもらえないのが、寂しかった。

(夫婦だから全てを分かち合いたいと思うのは烏滸がましいことかしら…)

 そもそも、妖の番と人間の夫婦の関係が同じかどうかも甚だ怪しい。文子は、あまりにも妖について無知すぎた。

 だからこそ、屋敷の外の世界を知りたいと思うようになったのだった。

「文子さま」

 呼ばれて、ハッと目を上げると、中庭の池の石の上に寧が立っていた。

「ご主人さまが、屋敷の外で待ってます」

「え…、久遠さまが?」

「こちらへ」

 なぜ屋敷の外なのだろうと思ったが、さっき律が久遠に掛け合ってくれると言っていたのを思い出し、文子は弾む胸を必死に押さえて寧の後ろについていった。

「寧ちゃんはどこ?」

「寧は、屋敷の外で久遠さまと待っています」

「…」

「文子さま、どうされました?」

(違う…)

「あなた、誰…」

 文子は目の前の寧に問うた。姿も声も、寧だ。だけど、違う。

「その青色の髪飾り…寧ちゃんは、あなたのはずだもの…、それに、寧ちゃんは久遠さまをご主人って呼ぶわ」

 安寧が一人でいるところを見たことがなかった文子は、寧だけが現れたとき違和感を覚えた。

 それに言葉遣いもいつもと違う。
 文子は、目の前の寧が寧じゃないと確信した。

 言いようのない不安と恐怖が押し寄せてきて、文子は一歩後ずさる。

「あ、だ、だれーーーーーー」

 身を翻し助けを求めようとした文子は、何者かによって口をふさがれる。何か嫌な匂いが鼻をかすめた途端、視界が真っ暗になった。




 肩に痛みを感じて目が覚めた文子は、薄っすらと目を開ける。両手足を縄で縛られて座敷に横たわっていた。

 誰かの家のようだが、皆目見当がつかない。耳を澄ましても、物音一つ聞こえなかった。

(安ちゃんと寧ちゃんは無事かしら…)

 寧が一人で現れた時点で気づくべきだった、と文子は自身の行いを後悔するも後の祭りだ。

 と、その時、足音が聞こえてきて文子は瞼を閉じてじっとする。

「……遅かったか…、だが…には……に扱うんだぞ」

 スーッと襖が開き、男が二人入ってくる。文子のそばにしゃがみ、顔を覗き込むと物珍しそうに感嘆した。

「…これほど美しい人間は見たことがない。これなら確かに大金をはたいてでも欲する気持ちはわからないでもないな」

(大金…?)

「すぐに堕胎の術が使える妖を連れてこい、それも出来るだけ強い妖力のヤツだ。赤子とはいえあの久遠の子どもだからな」

「はい、1日もあれば見つかるかと」

 堕胎、という言葉に文子は震えあがった。二人が部屋から出ていくのを確認して、大きく息を吐く。無意識のうちに緊張で息を止めていたようだ。

 何よりも、誰がなんの目的で自分をさらったのかわからないことが、底知れぬ不安となり文子を飲み込む。

「…久遠さま…っ」

(会いたい…、久遠さまに)

 ぎゅっと閉じた瞼に押し出されるように涙が零れ、畳に落ちた。

 それから、時間だけが過ぎていくのを文子は畳に横たわったまま過ごしていた。陽が傾き始め、部屋の中は次第に暗くなっていく。尿意を催してきた頃に、女が一人現れた。

「お食事をお持ちしました」

 無地の着物を着た女は、盆を卓の上にそっと置いて文子のそばに座った。その声に文子は恐る恐る目を開ける。年の頃は文子と同じくらいに見えた。黒髪を結い上げて、襷をかけている。

「…厠に行かせて欲しいの…」

「承知しました。足の縄だけ解きますね」

 部屋を出ると、目の前には庭が広がり、廊下の突き当りに厠があった。体に縄を結ばれて、女がそれを握っている。

「妙な考えは起こさぬよう。私は妖です。あなた一人どうとでもできます」

 女にそう脅されて、文子は思わず振り返った。

「あなたも…」

 どこからどう見ても人間の女にしか見えない。文子は妖という存在をまだよく知らない。妖というのは、自分が思うよりもずっと人の世界に紛れているのかもしれない、と不思議に思った。


「召し上がってください」
「…」

 厠から戻ると、女が食事をするようにしつこく勧めてくるのを、文子は頑なに拒んだ。

「お腹の子に障りますよ」

(食べたほうが危険かもしれない)

 さっきの男たちは、お腹の子を殺そうとしていた。いくら女が口にして大丈夫だからと言われても文子には信じられない。

 何を言っても口を開けようとしない文子に女はため息を吐くと、そのまま部屋を出ていった。


 それから数分経った頃、けたたましい足音と男の声が文子の耳に届く。

「ーーー早くしろ!文子はどこだ!」

「そう慌てないでくださいよ、旦那…ここです」

ーーーバンッ

 乱暴に開かれた襖から姿を見せたのは、林だった。その後から、燭台を手に男が顔を覗かせる。

(どうして…)

 窪んだ目が畳に横たわる文子を捉え、覆いかぶさるように駆けてきた。文子は怖くて体を丸めて目を閉じた。

「文子ぉ!」
「…っ…」
「うぐ、…な、なにをする!」

「おっと旦那。取引はまだ終わっちゃいないぜ」

 一緒にいた男、恐らく最初に様子を見に来た男の一人が、林の襟首を掴んで後ろに転ばせたようだった。

「さっきも言ったがこいつは、妖の子を身ごもってるんだ。それもそんじょそこらの妖じゃない。今堕ろせる妖を探している最中だ。こいつを渡すのはそれが終わって、金を受け取ってからだ」

「可哀そうな文子…妖に無理やり…。だがすぐに元に戻してやるから案ずるでないぞ」

 林の哀れみの眼差しから逃れたい一心で文子は顔を逸らす。

「あぁ、文子や…何か術でも駆けられているんじゃないのか?それも一緒に解いてくれよ」

 二人のやり取りを見て男は肩をすくめて呆れた顔を林に向けていた。人間の男というものはこうも莫迦なのだろうか、と。この美しい女子が金しか能のない男に惚れるとでも思っているのだろうか。

(私を攫ったのが、林さまだったなんて…)

 祝言の日、あれほど久遠に痛めつけられたと言うのに、まだ諦めていないことが信じられない。それだけでなく、お腹の子を殺して、文子を自分のものにするつもりなのだ。考えただけで、恐ろしかった。


 縛られた手を下腹部に当てる。まだ膨らみもしていなければ当然胎動も感じないけれども、確かにそこには久遠と自分の子が宿っている。

(あなたは、絶対に私が守るからね…)

 堕胎の術とやらを持つ妖を前に自分が出来ることなどないだろう。それは文子自身が一番よくわかっていた。それでも、既に母性を感じていた文子は腹をさすってそう強く思った。

「おっ、早かったな。…妖蛇(ようだ)のばばぁか」

 男が廊下の奥を見て呟いた。コツ、コツ、という固い音と足音が聞こえる。

「この女だ」

 一人の白髪の老婆が現れた。背丈は男の半分ほどしかなく、その手には杖を携えている。垂れ下がった瞼の下、真っ赤な目が文子に向けられ、文子は息を呑む。

「ほほう…、その気は…仙狸(せんり)じゃな。しかも、相当な気の持ち主の」

「どうだ、堕ろせそうか」

 男からの問いに老婆は頷いた。

「入ってから日もさほど経っていなさそうじゃから、大丈夫じゃろ」

 コツ、コツ、と杖をついて歩き文子の前に腰を下ろす。懐から数珠のような飾りを取り出し、手に通すとその掌を文子へと向けた。赤い目は虚ろに文子の腹を見据える。

「い、いや…、やめて…」

「悪いのぉ、人間の女子。ちと苦しむかもしれんが、すぐ終わる」

 老婆がごにょごにょと何かを唱えだす。
 かざされた手がぼわんと光りだし、文子は次第に息が苦しくなってきた。

「いやっ、やめて!お願い、やめて…っ!」

(私はどうなってもいいから、どうかこの子だけは…!)

 全身が何かに締め上げられていくような苦痛に文子はもだえ苦しむ。

「や、やめて…いや!いやあぁぁぁぁっ!!」

ーーーーーーパァン!

「んがぁっ」

 さっきまで文子のそばに居たはずの老婆が、吹き飛ばされて中庭に倒れ込んでいた。

「な、なんだ?何がどうなっておる!?文子は!?文子は無事だろうな!」

 林が目を見開き、老婆と文子を交互に見やる。文子は目を閉じてぐったりとしていた。

「大丈夫だ、気を失っているだけのようだ。ーーーおい、妖蛇のばばぁ。子は堕ろせたのか?」

 腰をさすって老婆が起き上がるも、その顔には苦渋がにじみ出ていた。

「だめじゃ…赤子に弾き返された。なんと強力な気じゃろうか…。よし、もう一度試そうぞ」

 気絶して横たわる文子のそばにきて、老婆は再び手をかざした。

「ううぬ…」

「うっ…く…や、やめ…」

 文子が痛みに目を覚ますが、体は重く言うことをきかない。さっきの衝撃のせいで体がひどく疲弊していた。

(この子は…、私が守らなくちゃなのに…っ)

 締め付ける力が増していき、息ができずにまた意識が遠のいていきそうになったその時、

ーーーーードォン

 地響きのような振動と破裂音がそこに居た者を襲う。男が顔をしかめて何かを呟いた。老婆は耐性を崩し、文子は術から逃れられた。

「ーーーーよくここがわかったな…」

 男が外を向いて言葉を放つ。その顔は強張っていた。

「文子を返せ」

(この声は…)

「…久遠、さま…」

 怒りを帯びた声は低く恐ろしい響きを伴っていたが、紛れもなく久遠の声だった。文子は、安堵感を覚えると共に、助けにきてくれた喜びと申し訳なさでいっぱいになった。

「文子…遅くなってすまぬ」

 中庭の塀の上、夜空に佇む月を背に久遠が立っていた。いつの間にか、辺りは騒がしくなり、男の仲間と思われる者がぞろぞろと集まり久遠を取り囲む。

「久遠、ここは人の世だ。女は返す、だから今日のところは引き下がーーー」

 セリフの途中で男の体が消えた。ーーー否、何か衝撃を受けて家の壁を突き破りながら吹っ飛んだ。

「ひいっ」

 それを見て慌てて逃げる男の仲間が次々に何かに弾き飛ばされていく。

「ってーなぁ、久遠」

 吹っ飛ばされたはずの男がいつの間にか戻り、気づけば文子を片手に抱えていた。

「相変わらず脇が甘いんだよ、おめーは。そんなんだから仲間にやられるんだ。この女を殺されたくなければこちらの言うことをきけ。あいにく、俺はこの女には興味ないんでね」

「お、おい!話が違う!文子を傷つけることはならんぞ!」

 林が話に入ってくるが二人の耳には届かないようで、久遠はふん、と鼻で笑った。

「気が合うな、妖狐。俺もそんな女には興味がない」

「なっ!?」

 妖狐と呼ばれた男は、もう一度腕の中の女に目を向ける。するとそれは、先ほど文子の世話を頼んだ女中だった。手足を縛られ、口には布をかまされてうーうー唸っていた。

「惑わしの術成功です!文子さまは返してもらいましたよーっだ!」

 振り向けば、塀の上の久遠の隣に文子を抱えた律の姿があった。安寧と言い、律と言い、小さな体のどこに文子を抱えるほどの力があるのだろうか、と不思議だったが、これが妖というものなのだろう。

「すまなかった、文子…よく無事でいてくれた」

 謝る久遠に、文子は何も言えずただ顔を横に振った。久遠に謝られることなど一つもない。こうして助けに来てくれたのだから、感謝しかない。それに、お腹の子が無事なのかどうか、文子にはまだわからなかった。

 口を開けば、涙が溢れるに違いない。これ以上久遠を煩わせてしまうわけにはいかない、と文子は必死で耐えた。

「もう大丈夫だ、安心しろ。律、じきに世利たちも到着する。それまで文子を守るのだぞ」

「はい!かしこまりました!」

 律の返事を聞くよりも早く、久遠の姿がふっと消えた。文子は目を(しばた)かせる。そして、屋敷は男たちの怒号やけたたましい衝撃で溢れかえる。

「り、律くん…久遠さまは…」
「大丈夫ですよ。ご主人さまは、なんてったって王宮の騎士隊長さまですからね」
「王宮の、騎士隊長…?」
「あ、言っちゃった!…まぁ、もう良いですよね。どうせすぐにわかることですし」

 律は腕の中の文子にウィンクをして見せた。

「ーーー律、久遠さまは」

 突然降って湧いた声。律の隣に銀髪の痩身が立っていた。音もなく現れたその人に、文子は声も出ない。

「世利さま!妖狐の朔夜が裏で糸を引いていたようで応戦中です」

「そうか…、そちらが、お噂の…」

 世利と呼ばれた男は、律の腕の中の文子と視線が重なる。久遠とはまた違う、中世的な美しさをまとった青年だった。

 青年は文子をまじまじと見て「なるほど…隊長が会わせてくれない謎が解けました」と呟くが、文子には届かない。律は世利の独り言に一人苦笑した。

「あ…文子ともうします…」

「ご挨拶が遅れ、申し訳ございません。私は久遠さまの部下の世利と申します。お初にお目にかかり光栄です、文子さま。下に隊を一つ待たせているので、文子さまは律と共に先に幽世にお帰りくださいませ。ーーーでは、私は加勢します故、失礼」

「あ、どうか、お気をつけて…」

 文子の言葉よりも早く、世利は闇に消えた。

「さ、行きましょう、文子さま」

「え、えぇ」

 本当ならば、この場で久遠の無事を見届けたい一心だったが、今は律の言葉に従うしかなかった。自分には何一つ手助けが出来ないどころか足手まといにしかならないから。悔しいが、今自分が最優先すべきはお腹の子の命の安全。

「律くん…、帰ったらお医者さんを呼んでくれる?」

「もちろんです。でもきっとお腹の子は大丈夫ですよ」

「そう、なの?」

「はい、文子さまからはちゃんとご主人さまの妖気が感じられますゆえ。もし、流れてしまっていたら気配も感じられないでしょう」

「ならよいのだけど…心配で…」

「わかっています、念のためしっかり診てもらいましょう」

「ありがとう」

 律は文子を安心させるように優しい笑顔を顔にたたえた。


 そして、世利の言っていた小隊と合流して、守られるように二人は幽世にある久遠の屋敷へと無事にたどり着く。

 疲れ果て、移動中に眠ってしまった文子は、ハッとして目を覚ます。傍らには、心配そうな眼差しを向ける久遠がいた。

「文子」

「久遠さま!?ここは…」

「私の部屋だ」

 落ち着いて見れば、そこは確かに見慣れた久遠の寝所だった。

「すみません、眠ってしまったなんて…」

 上半身を起こすのを久遠が手伝ってくれる。

「謝ることなどない。大変な目に合ったのだから仕方あるまい。それに、謝るのはそなたを守れなかった私の方だ」

「ご無事で…、あっ、お腹の子は!?」

「無事だ、何ともない。そなたが眠っている間に医者に診させた」

「良かったぁ…っ」

 文子の漆黒の瞳から涙がぽろぽろと溢れた。久遠も、お腹の子も無事で、良かった。緊張の糸が解れ、堰を切ったように涙が止まらない。

「そなたがいなくなって、生きた心地がしなかった…」

 幼子のようにぐずぐずと泣きじゃくる文子を、久遠は腕の中にかき抱いた。自分と、子どもの無事を泣いて喜んでくれるその姿に強く胸を打たれた。そしてこれほどにも愛しい大切な存在をあのような危険な目にあわせてしまった自分の甘さにどうしようもないほどの怒りと羞恥の心がこみ上げる。

「よくぞ…っ、よくぞ無事でいてくれた、文子」

「久遠さま…怖かった…、とても怖かったです…っ」

 久遠の胸の中がとても安心できて、文子は抱きしめられながら、思いのまま泣きじゃくった。

 しばらく経ち、落ち着いてきたところで、布団の足元でもぞもぞと動くものを感じて文子は目を丸くする。

 足の両脇に、二つの丸くて茶色と白と黒の三毛のもふもふがあった。

「安寧だ。そなたが心配でさっきまで起きていたのだが、疲れもあって眠ってしまったのだ。術にかけられてそなたを屋敷の外へ誘導してしまった事に責任を感じている」

「安ちゃん…寧ちゃん…」

 すやすやと眠る足元の二人を、文子は手でそっと撫でた。すべすべの毛並みが手に心地よく指の隙間を通っていく。

「目が覚めたらうんと世話を焼いてくるだろうな」

「えぇ」

 元気に飛び回る二人の姿が目に浮かぶようだった。

「文子…、今回のこと、全て私の責任だ。本当に申し訳なかった。お前を攫ったあの妖は、妖狐の朔夜と言って、現王の反対勢力の一人で…、もともとは私の同僚でもあった男だ」

「同僚…」

 王だの反対勢力だの、文子には初耳のことで、理解が追いつかない。妖の世界に王が存在することすら文子は知らないのだ。

「やつは昔から私を敵対視しておってな…。今回、人間の林からの依頼を受けたのも、きっと文子の相手が私だったからだろう…。私が傷を負ったのも、情けないが、やつの策に嵌ったせいだ」

 久遠は、ふっと自嘲気味に笑みをこぼした。

「そなたに会えたのも、本をただせばやつのおかげだと思うと、なんとも言えない気持ちだがな」

「それで、その朔夜という人は…」

「口惜しいが取り逃がしてしまった。妖狐というのはどうにもずる賢くすばしっこいやつでな…」

「そう、ですか…」

 久遠の宿敵のような相手が今もどこかに居ると思うと背筋に冷たいものが走る。それと同時に律が久遠の仕事は危険が伴うと言っていたことを思い出した。

「久遠さまは、騎士隊長さまだとお聞きしました…」

「あぁ、そうだ。そなたに要らぬ心配をかけたくなくて隠していたが、それが仇となり危険な目に…」

「久遠さま、そんなことは、どうでもよいのです!」

 文子の突然の剣幕に、久遠は気圧される。

「久遠さまが、私を大切に思って守って下さるのは、とても嬉しく思っています。…ですが、私は、守られるだけでは嫌なのです」

(私が言いたいのは…もっと…)

「私は、力もなくて何もできませんが…、久遠さまを少しでもお支えしたいと…思っております…、私とあなたは番なのですから…私のことを思って下さるのであれば、もう隠し事はしないでください…」

(あぁ、なんの説得力もない言葉だわ…)

 その証拠に、琥珀色の瞳は戸惑い揺れている。けれど伸ばされた手は、涙で濡れる頬を優しく拭ってくれた。

「そう、だな…、どうやら浮かれすぎて何も見えていなかったようだ…」

「え?浮かれ…」

 久遠が浮かれるなど、そんなことがあるのだろうか、と文子は耳を疑う。

「そうだ、神社でそなたと出会ってからずっと忘れられず、どうしたら番になれるかばかり考えていた。…念願叶って、私は浮かれていたのだ。そなたのそばを片時も離れたくなくて休暇を取りまくっていたし、部下にも誰にもそなたを見せたくなくて、祝いたいという者たちからの面会すら断っていた」

 文子の知らなかった事実がつぎつぎと明らかになる。

「屋敷の外が危ないのは本当だが、それよりもなによりも身重のそなたが心配で仕方がなかった」

 久遠が、自分をそこまで思ってくれていたとは露知らず。久遠の独占欲の現れが、なんだかとても子どもじみて思えて、文子は笑いを堪えきれなくなって吹き出してしまう。

「ふっ…、ふふふ…」

「あぁ、笑ってくれ…どうせ私は狭量だ」

 そう不貞腐る姿すらも、新鮮でいてかわいく思えてきた。

「ふふ…、ごめんなさい…。でも、良かったです…、久遠さまにも人間らしい…じゃなくて、妖らしい所があって安心いたしました。ーーー久遠さま、私と誓いを交わしてくれませんか?」

「誓いとは」

「はい、人間の世では夫婦となる時に、誓いを立てるのです」

 ご存じですか、と久遠を見上げると、静かに首を横に振った。

「三々九度と言って、散々苦労を共にしながら支え合っていきましょう、という意味を込めて盃を交わすのです。…本当は、お酒ですし、順番も殿方が先なのですが、多めに見てくださいね」

 文子は、卓の上に乗っている湯呑に茶を注いで欲しいと久遠に頼む。

「冷めてしまっているから取り替えてこよう」

「いえ、そのままで結構です」

 渡された湯呑には、時間が経って色濃く出た茶が揺れている。

「苦労を共に、か」

「はい、…私文子は、これから先、苦労も喜びも全てを久遠さまと共にしていくことを、ここに誓います」

 そう言って文子はそれを、三口で飲み干し、湯呑を久遠へと渡す。そして久遠はそれに茶を再び注ぐと、文子を見つめて言った。

「いかなる時も、そなたを愛し守り抜き、苦しみも喜びも分かち合うとここに誓う」

 文子に習って三口で茶を飲み干した久遠を、文子はとても穏やかな表情で見守っていた。

「久遠さま…、心からお慕い申し上げております」

「私もだ、文子。誰かを守りたいと、幸せにしたいと思ったのはそなたが初めてなのだ。そなた以外、考えられぬ。これから先、ずっとそばにいてほしい」

 細められた優しい琥珀色の瞳と視線が絡まり、唇が触れ合った。甘美な刺激に、文子は幸せをかみしめる。

 想い想われ、一生を共にする相手が久遠で良かった、と心から思えたことが、何よりの幸せだった。

 久遠の胸に顔を寄せて目を閉じれば、思いがけない言葉が耳元で囁かれた。

「ーーーそなたを抱きたい」

「っ!?…え、あ、…ま、待って」

「だめだ、待てない」

 抵抗も虚しく、そのまま布団に組み敷かれてしまうが、

「ご主人!だめ!」
「文子さま、疲れてる!」

 可愛い声が二人の間に割って入った。いつの間にか起きていた安寧の二人が、猫の姿のまま毛を逆立てて「しゃー!」と久遠を威嚇していた。

「安寧…、居るのを忘れていた」

 頭を抱えて大きくため息を吐き舌打ちをする久遠に、文子は苦笑を浮かべる。

 久遠のぬくもりが離れてしまったのを少しだけ残念に思ったことは内緒にしておこう、と心に思った文子だった。




 誘拐騒動から少しして、屋敷には平穏な日常が戻っていたが、この日は朝から屋敷が騒がしかった。

 今日は、久遠の部下たちが番の儀の祝いにやってくることになっているのだ。

 自分も何か手伝おうと申し出た文子だったが、久遠だけでなく律と安寧の全員から一刀両断されてしまった。

「文子さまのお仕事は、お腹の子を守ることですよ!」

「あ、は、はい…ごめんなさい」

「宴の準備は皆に任せればよい」

「文子さま!おめかしする!」
「ご主人も、そろそろ着替える!」

 文子の隣に座ろうとした久遠を安寧の二人は部屋の外へと追いやった。

 安寧は、久遠の言った通り以前にも増して甲斐甲斐しく文子の世話を焼いてくれている。文子が無事に帰った日、久遠をたしなめた二人は人型になって文子にしがみついて泣いて謝った。

 文子は、心配をかけたことを謝り、二人の無事を心から喜んだ。

 箪笥から薄桜色の着物を持ってくると、二人は手際よく文子に着付けていくお世話してもらうことがすっかり板についてしまった文子は、二人がやりやすいように腕をあげたり下げたりと、自分に出来ることをする。

「文子さま、お腹苦しくないか?」

「えぇ、大丈夫」

 締め具合を確認しながら安が帯を結んでくれる。髪も化粧も全て安寧の二人が仕上げてくれた。その一連の作業はプロそのものなのに、かわいい子どもの姿の二人がやっているものだからまるで真剣なおままごと、といった所だ。

「できあがり!」
「文子さま、綺麗!」

「ありがとう、二人とも。でも、ちょっと最近太ったような気がするわ…」

 姿見に映った自分の姿を見てそう呟いた文子は頬に手をやる。以前よりも健康的ではあるが、顔にも肉がついた気がしていた。

「そなたはもっと太ったほうがよいぞ」

「ひゃぁっ!?」

 いつの間にか部屋に入ってきていた久遠が、文子に腕を回す。

「く、久遠さま…脅かさないでください」

 久遠はたまに音もなく現れるから心臓に悪い。

「ご主人!着物崩れる!」
「離れる!」

 すかさず文句を言う安寧。

 最近のこの二人に会うたびに、文子から離れろとしか言われず、久遠はまるで恋敵にでもなった気分だった。

「断わる。文子は私の番だ、お前たちの指図は受けない」

 こうしてぶすっと不貞腐れる久遠が、文子は好きだった。

「時間になったら呼んでくれ」

 そう言って久遠、は依然としてぎゃーぎゃーと楯突く安寧を部屋から追い出すと、文子の耳元で囁く。

「やっとそなたと二人きりになれた」

 抱きしめられ首元に久遠の唇がそっと触れた。鼻をすり寄せるそれは、まるで猫のような仕草だ。

「そなたはいつもよい香りがするな。まるで媚薬のように私を誘う」

「そ、そのような、ことは…、っ…え?」

 チクリ、と甘美な痛みが首筋に走ったと思えば、ペロリと柔らかな舌の感触に文子は身をよじる。振り向けば、いたずらっぽい顔の久遠が見つめていた。

「い、いま…」

「どうした?」

「いえ…なんでもありません」

(今の痛みは、何だったのかしら…)

 経験に乏しい文子は、聞くことすら恥ずかしいような気がして口をつぐんだ。

「良いか、今日は私の隣にずっといるのだぞ」

「承知しております」

 宴が決まってから毎日のように言われてきたそのセリフに文子は笑って返す。それから程なくして来客を知らせる律の声で、二人は玄関へと向かった。
 全部で10数人ほどの久遠の客人たちはきちんと隊服を纏った人の姿で現れて文子は内心ほっとする。
 見慣れない妖の姿で来られたら、とドキドキしていた。

「久遠さまの番となりました、文子です。皆さま、今日はわざわざお越しくださりありがとうございます」

「うっわぁー!世利副隊長に話には聞いていたけれど、本当にお美しい方ですねぇ」

「隊長!こんな綺麗な方を番にもらって、俺たちに見せたくないだなんて見損ないましたよ!」

「そうですよ!そこまで心が狭いとは、我らが隊長ながら残念すぎます!」

「ふん、何とでも言え」

「あ、あの、立ち話もなんですから、中へご案内しますね」

 賑やかに宴が始まった。使用人たちが行ったり来たりを繰り返し、料理や酒を運んでくる中、文子は久遠の隣で部下たちに囲まれて質問攻めを受けていた。

「文子さまは、隊長のどこに惹かれたんです?」
「隊長の考えてることわかります?俺ちっともわからなくて…」
「出会いはなんだったんですか?」

「えっと…あの…」

 矢継ぎ早に投げかけられる質問に文子は戸惑う。一体、どこまで話すべきなのか、考えあぐねていると部下たちがそろそろと下がっていく。

「久遠さま、怒りを鎮めてください」

 それまで無言を決め込んでいた世利が苦笑いを浮かべた。

「お前たち、どうやら私にしごかれたいようだな…」

「ひいぃっ!め、めめ滅相もございません!」
「すみません!調子乗りました!」
「おい、誰か面白いことやれよ!」

 文子は、久遠と部下たちのやり取りを微笑ましく眺めていた。普段見ることの出来ない久遠の一面が知れて嬉しかった。

「騒がしくてすまないな」

「いいえ、とっても楽しいです。みなさん気さくな方ばかりですね」

 それになにより、久遠が部下たちから慕われていることも文子にとって喜ばしいことだった。

「どこへ行く」

 熱燗を手に立ち上がる文子に久遠が声をかける。

「みなさんにお酒をお注ぎしとうございます」

「その必要はない」

「私がしたいのです。ちょっと回ってきますね」

 久遠の手が伸びて来る前に文子は席を離れた。部下たちは顔を真っ赤にして文子から酒を注いでもらって大喜びだった。

 そして、一周回って最後、世利の隣に文子が座りお猪口に酒を注ぐ。銀髪の青年は、「いただきます」と酒をあっという間に飲み干した。

「世利さま、先日は私事でご迷惑をおかけしました。お礼が遅くなってしまいましたが、助けに来ていただき感謝しております」

「ご無事で何よりでございます」

「副隊長さまとお聞きしました。久遠さまが休暇を取っていた間、指揮を執られていたのでしょう?私からもお礼申し上げます。また色々とお話聞かせてください」

「私で良ければ、いつでも。…あの、文子さま」

 躊躇いがちに、世利が言う。その顔は、ほんの少し赤みを帯びていた。

「その、お、お首元に、赤い跡がついております」

「え?どこです?虫にでも刺されたのでしょうか…」

 手でさすってみても、虫刺されの腫れは見当たらず、文子は首を傾げた。

「…それはおそらく、久遠さまが…」

(ま、まさか…、あの時の…?)

「ちょ、ちょっと失礼しますね…っ」

 と慌てて席を外した文子は、自室の姿見でそれを確認した後、おしろいをはたいてから戻ってくる。恥ずかしさを必死に押さえて、文子は宴の最後までなんとか笑顔でやり切った。

「どうしたのだ、そんなに怒って」

 客人たちを門の所で見送り、家に入るなり久遠が言った。

「酷いです、久遠さま。みなさんに見られたではありませんか…」

 ぷんすかする文子を、久遠はくつくつと笑った。

「今ごろ気づいたのだな。だから私の隣にいるように言ったではないか」

 まるで、出歩いた文子が悪いと言わんばかりの久遠に、さすがの文子も堪忍袋の緒が切れる。

「反省なさるまで、私は自室で寝させてもらいます」

「それは、参ったな…。すまぬ文子、機嫌を直してくれ」

(そんな甘い声で言ってもダメなんだから)

「文子」

「知りません」

 すたすたと自室に帰ろうとする文子を久遠の腕が抱きとめる。乱暴に振り向かせると、有無を言わせずに唇を奪った。

「んん…、久遠、さま…」

「そなたは私のものだと、みなに見せつけたかったのだ…」

「はぁ…んっ」

(見せつけなくても、私はあなたのものなのに)

 夜の情事の際に交わすような、濃厚な口づけに、文子はあっという間に骨抜きにされてしまう。

「自分がこんなにも欲深いとは、知らなかった。許してくれ、文子」

「わ、わかりました、から…」

「ーーー今すぐそなたが欲しい」

「っ…」

 甘美な響きを伴った誘いを、拒むことなど出来るはずもなく、文子はそのまま久遠の胸に崩れ落ちるようにして身をゆだねた。





















「妖騎士と交わす番の契り ~ケガした猫を助けたら溺愛されました~」

ー 完 ー









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