幽世に来てから早一週間が過ぎようとしていた。
文子が自ら久遠の妻になることを選んだ日から、あれよあれよと準備が進められている。
粥を食べ終えた頃、どこから現れたのか、久遠の一声で律よりも小さくこれまた同じ猫耳の双子の女の子が現れたかと思うと、二人は文子をひょいと担いで風呂場へと運んだ。そして文子が抵抗する隙も与えぬ速さで着物を脱がせると、湯の中に放り込んだ。
「あ、あの…」
「文子さま、綺麗にする!」
「文子さま、もう綺麗!」
「寧、それ意味違う!」
「安、うるさい!」
片言な掛け合いに、文子は苦笑した。寧が青色、安が桃色の髪飾りを付けている。それ以外に見分けがつかないほどに二人はそっくりだった。
「寧ちゃんと安ちゃんですね、どうもありがとう」
「礼、いらない」
「安たち、文子さまのお世話係」
二人は手際よく文子を洗っていく。髷を丁寧に梳くと、固めるために塗られていた油を石鹸で洗い流してくれた。体があったまってきたころには、髪の毛もサラサラと湯の中で踊っていた。
それからこの方というもの、寧と安が文子に付きっ切りで世話をしてくれた。着替えや湯あみの手伝いから、髪を梳くのも乾かすのも、食事の準備も、文子は何一つすることがなく至れり尽くせりだった。
「安寧は文子さまを大層気に入ったようですね」
甲斐甲斐しく文子の世話に勤しむ二人を見つめて律が言う。律は律で、久遠からの事付けや用事以外でもちょくちょく文子のことを気にかけて顔を出してくれていた。
「二人とも申し訳ないくらいお世話してくれるの」
眉尻を下げてそれこそ申し訳なさそうに言う文子に、律は「それで良いんですよ」と頷く。
「二人は、気に入らない相手とは口も利かないくらい頑固ですからね、文子さまがいくらやめろと言ってもきっと聞きませんよ」
「そう、なのね」
「ーーーー文子」
「久遠さま」
鼠色の着流しに身を包んだ久遠が姿を現し、長椅子に座る文子の隣に腰を下ろす。
「ご主人!お世話まだ!」
「邪魔しない!」
安と寧が久遠に文句を言うも、久遠は気にする様子もなく寧の手から櫛を取って人払いを命じた。渋々出ていく安寧と律を見送ってから、久遠は櫛で文子の長い黒髪を丁寧に梳かし始めた。
「久遠さま、自分で出来ますゆえ」
「私がやりたいのだ」
「あ、ありがとうございます」
(静かで、心地よいわ…)
この3日間、時間の許す限り文子と過ごす久遠だった。仕事だと言って抜けることも多かったが、久遠との時間は文子にとってとても穏やかで心安らぐ時だった。
久遠の仕事について聞いたが、はぐらかされて結局分からず仕舞いだ。夫婦になるのだからそのうち知ることになるだろう、と文子は深くは聞かないでいた。
「そなたの髪はとても美しい。黒い絹のようだ」
歯の浮くような甘いセリフも、毎日の習慣になりつつあった。何かにつけて、久遠は文子を褒めちぎる。
そしてその度に、文子は顔を真っ赤に染めて俯くしかない。久遠はまるで、その反応を楽しんでいるかのようだった。
「こちらを見よ」
隣に座る琥珀色の瞳を見上げれば、視界が影に覆われる。柔らかな感触が唇に当てられた。
離れたのもつかの間、また口づけが落とされる。
「だいぶ慣れてきたか」
「は、はい…」
番の儀に向けての「慣らし」だった。
久遠の妖力を少しずつ文子に伝えて、体に耐性をつけるのだという。
その通りに、以前はまた気を失っていたのが、日がたつにつれ立ち眩み程度になり、一週間経った今では驚くほど体は何ともなかった。
ただ、相変わらず胸の拍動とこみ上げてくるような感覚は健在だった。
それを久遠に素直に伝えたら「あまり煽るでない」と怒られてしまった。
「明日、行おうと思っている」
「わ、わかりました…」
(自分に務まるのか、不安だけれど…)
少し前までは不安の方が断然大きかったが、今は久遠と番になれることが嬉しいと思うようになっていた。
「こんなことを言っては、嫌われるかもしれないが…、私は早くそなたと一つになりたくて仕方がないのだ」
「…っ、わ、私も、です…久遠さま」
気持ちを伝えれば、文子は久遠の腕に抱きしめられた。
そして翌日、いつもより念入りに湯あみを済ませた文子は、安寧に背中を押されながら初めて久遠の寝所へと足を踏み入れる。
久遠の部屋は、文子の部屋とは中庭を挟んだはす向かいにあったが、これまでただの一度も訪れたことはなかった。
「久遠さま…、文子です」
「入るがよい」
襖を開き、中へと歩を進める。椅子に腰かけた久遠の整った横顔が燭台の薄明りに照らされていた。読みかけの本をテーブルに置くと、手を文子の方に差し出す。
「こちらへ」
その手を取り、近づけば久遠の膝の上に座らせられた。一気に久遠との距離が縮まり文子の心臓が跳ねる。慈しむような久遠の目に見つめられると、文子は自分が大切な存在だと言われているような気がしてしまう。
「怖いか?」
「いえ…」
「だが体が強張っておる」
「その…、初めてのことですので…緊張はしております…」
「そなたは、私に身をゆだねておればよい」
ちゅ、と音を立てて、文子の顔に口づけをしていく。瞼、頬、耳、そして唇。文子の首筋に、久遠の吐息がかかり、文子はくすぐったさに身をよじる。
「そなたに初めて出会ったあの日からずっと、忘れられなかった…」
ぎゅぅっと抱きしめられながら、そんな甘美なことを言われて、文子は夢のような心地になる。
(こんなに幸せでよいのでしょうか)
「そなたは知らぬだろう」
「な、何をでしょうか」
「私が、どれほどこの日を待ちわびていたか」
(私とて、同じです…)
文子の声は、言葉にはならない。
なぜなら、久遠によって深く塞がれたから。
「ん、ふぅ…あっ」
「あまり、煽らないでくれ、文子」
(そんなことを言われても、声が勝手に…)
「優しくできなくなってしまう…」
いつの間にか、布団の上に運ばれていた。背中に柔らかな布団を感じながら、文子は覆いかぶさる久遠を見つめる。薄暗い部屋の中、琥珀色の瞳だけは強い輝きを放っていた。
「久遠さま…、私は、大丈夫ですので、どうか、お好きに」
「文子…っ」
優しくできないと言った久遠は、けれども、それはそれはガラス細工を触るかのごとく文子を優しく丁寧に扱った。
かつて感じたことのない、甘く、蕩けるような久遠との時間に、文子は酔いしれた。久遠が自分をどのように思ってくれているかがありありと伝わってくるようで、言葉にできない程の幸福感に満たされていくのを感じていた。
そして、律の言う通り、番の儀を終えた文子は意識を失い、そのまま三日三晩高熱にうなされ続けた。
綿に含ませた砂糖水を口に含む以外、何も口にすることも出来ずに文子は苦しんだ。まるで体が壊れていくような恐怖が文子を襲う。
(お子は…大丈夫なのかしら…)
妖力を込めることで、月のものは関係なく子を授かるとは聞いていたが、こんなに高熱を出して何も食べれなくてお腹の子どもは大丈夫なのだろうか、と文子は朦朧とする意識の中それだけが気がかりだった。
「文子…すまぬ…文子…耐えてくれ…」
定まらない意識の中、自分の手を握る久遠の手のあたたかさと、祈りにも似た謝罪の言葉だけは感じていた。
そして、ちょうど丸三日が経った翌朝、今までの苦しみが嘘だったかのように文子は体が楽になり、熱も下がり痛みも露とも感じない。それどころか、気だるさすらなかった。
ケロリと起き上がった文子に、律も安寧も、久遠ですら目を丸くさせ、その次にはほっと安堵の表情を浮かべて喜んでくれた。
久遠だけは、何度も何度も「すまぬ、文子」と謝って文子を困らせ、そんな文子を救うかのように安寧の二人が「文子さま、無事!」「ご主人!しつこい!」と喝を入れていた。
「ずっと、お子だけが心配でなりませんでした」
目を覚ました文子は、医者から子どもの無事を聞かされてようやくほっと一息つけたのだった。
食事を終えて、寝所には今文子と久遠だけだ。
「儀の後に母親が苦しむと言うことは、子どもが元気な証拠なのだと医者が言っていた」
(まるで悪阻みたいだわ)
昔、母親が妊娠した時のことを思い出す。何も食べていないのに、気持ちが悪いとよく吐いていた。父が母の背中をさすりながら、『辛いのは赤子が元気だからだ』と諭していた光景が、文子にはとても眩しく尊いものに見えていた。
しかし、身ごもった母は、父と戦場に赴いてお腹の子共々帰らぬ人となる。文子が10歳の頃だった。
「そうは言われても、私は、そなたがこのまま目を覚まさないのでは、と気が気ではなかった」
眉根を寄せて苦虫を嚙み潰したような顔になった久遠を見て文子はふふっと笑う。
「ご心配ありがとうございます。でもこの通り私はピンピンしております。…それに、苦しんでるときも久遠さまの声は、ちゃんと聞こえていました。ずっと手を握ってくださってましたね、とても心強かったです」
「文子…口づけてもよいか?」
「と、突然、な、なにを…」
「突然ではない…、そなたが目覚めてからずっとしたいと思っていたのだ」
久遠の指が頬に触れる。そこから伝わる熱に、番の儀のことを思い出してしまった文子は顔を赤らめた。
「それに、私たちはもう番なのだから」
(そうだわ…、私は久遠さまと…)
夫婦になったのだ、と改めて思う。
父と母のような、仲睦まじい夫婦になれるだろうか。
(私も、そうなりたい)
優しい久遠となら、きっとなれるに違いない、と文子は確信めいた思いで琥珀色の瞳を見つめ返す。
いつの間にか近寄っていた久遠からの蕩けるような口づけに、文子は身をゆだねた。
(お母さま…私にも、優しい夫とお子ができましたよ…)
正直、まだ何も実感は無いが、文子はとても満ち足りた心だった。