(あたたかい…、それに柔らかい…)

 ふと、柔らかな何かを感じて文子は目を覚ました。無意識に手で触れていたようで、滑らかな手触りと柔らかさ、そして温かさが心地よい。
 夢心地とはまさにこのことで、文子は目を閉じたまましばらくそれを堪能していた。

「起きたのか?」

 不意に聞こえたその声に、文子はぱちりと目を開ける。見慣れない景色に、慌てて上半身を起こすと、手に触れていたものも身じろいだ。
 目をやれば、布団の上、ちょうど文子の腰あたりに丸まっているそれは、可愛い黒猫ーーー

「くろちゃん…?」

 それは数か月前、文子が毎日お参りに立ち寄る神社で酷い傷を負って倒れていた黒猫だった。

「ーーーじゃなくて、くおんさま…?」
「どちらでも、呼びやすい方でかまわない」

 久遠の声は確かに黒猫から聞こえてくるようだったが、久遠の姿とこの目の前の愛らしい黒猫との姿がまるで一致しない。同じなのは髪の色と眼の色くらいだ。

「あっ、やだ、私ったら…気安く申し訳ございません!」

 無意識に撫でていた手を慌てて引っ込める。

「よい。そなたに撫でられるのは嫌いじゃない」

 久遠は、そう言うと起き上がり前足を二本前にだして伸びをした。その姿、その仕草はまさに猫そのもの。文子は不思議な気持ちだった。

「無事で良かったです…」

 神社で傷の手当をして持っていた手ぬぐいで縛って止血した黒猫が無事で良かった。本当なら医者かせめて家に連れて帰って看病してあげたかったのだが、文子にはそんな金もなく、養父母が動物嫌いなため連れ帰ることもできなかった。

 仕方なく風の当たらない所に落ち葉をかき集めて黒猫を置いてきたのだ。

 それから毎日神社を訪れる度に傷口を洗い、手ぬぐいを綺麗なものに取り換え、こっそり取っておいた食事の残りを与えること4日目の朝、黒猫はいなくなっていた。

 日に日に食べる餌の量も増えていたし、血も止まり傷口も乾いてきていたから、きっと元気になったのだろう、と願ってはいたが、やはりこうして元気な姿を見れて文子は心底ホッとした。

「無事なのだから、泣くことはない」

「あ…、これは、嬉し涙で…」

 気づけば涙が勝手に頬を伝っていた。
 黒猫がいなくなっていたあの朝、文子はやはり家の蔵の隅にでも隠しておけば良かったと心底後悔したのだ。

「改めて礼を言う。誠に感謝している」
「いえ…、無事で、何よりです」
「あーーー!」

 甲高い叫び声が部屋中に響いた。文子は思わず肩をすくめ、久遠はあきれたように目を伏せてまた布団の上で丸くなる。

「ご主人さま!文子さまがお目ざめになったのならどうして知らせてくれないのです!あれほど言いましたよね!?お知らせくださいと!」

 ずかずかと、中に入ってきた声の主は、久遠を指さしながらそうまくしたてた。文子はその姿を見て目を輝かせる。

(か…か、かわいい…っ)

 年は5歳くらいだろうか、白地に黒の麻の葉模様の甚兵衛を来た男の子が目を吊り上げている。そして何より文子の胸を高鳴らせたのは、男の子の頭の上にぴょこんと生え出ているふさふさの猫耳だ。

「あっ、これは失礼しました!私はご主人さまにお仕えしている(りつ)と申します。先日は、我が主人の命を御救いいただき恐悦至極にございます!御用はこの律になんでもお申し付けください!」

「あ、ありがとうございます。よろしくお願いしますね、律くん」

「律でいい。困ったことがあればこいつになんでも言えばよい」

「ご主人さま!文子さまが目覚めたことですし、いい加減お仕事に戻られてはいかがですか。このままでは世利さまがノイローゼになってしまいます」

 睨みつける律に久遠はふんっと鼻を鳴らすだけだ。しばらく睨んでいたが、聞きそうにないと思ったのだろう、律もふんっと鼻を鳴らしてふんぞり返ってどこかへ行ってしまった。

「そう言えば、体は大丈夫か?」
「あ、はい、何とも」

 そういえば、自分は久遠に口づけをされて気を失ったのだった、と思い出して赤面する。あの時感じた不思議な感覚は、今は露とも感じない。

「そうか、なら良いが…仕方なしとはいえ、いきなりすまなかった」

「仕方なしとは…?」

「あぁ、そなたが今いるここは幽世と言って人間たちが住む常世とは全く異なる世界なのだ。そのため、人間がこちらにくるには、少しばかり妖力が無いと渡れないため、私の妖力を少し与えたのだ。私の妖力をいきなり受け入れたため、そなたは気を失ったのだ」

「そうだったのですね…」

 あの、全身の血が騒ぎ何かがこみ上げてくる感じは、久遠の妖力によるものだったのか、と文子は妙に納得した。

 それと同時に、ものすごい羞恥心にさいなまれる。

(あぁ、恥ずかしい…)

 文子は、生まれてこの方口づけを交わしたことが無く、誰もがあのようになってしまうのかと思っていたのだ。

 自分の知識と経験のなさは今さらどうにもできないのだから、それこそ仕方がなかったが、文子は内心穴があったら入りたいほどだった。

「頬を染めてどうした」
「いっ、いえっ、なんでもありません!」
「お待たせしましたぁ~!」

 律の声と共に、ほんのりと美味しそうな匂いが文子の鼻をくすぐる。見やれば、律の手には食事の乗った盆が握られていた。
 軽快な足取りで卓の上に置き、それごと布団の方へと近づけた。

「お腹空きましたよね。久遠さまの妖力を受け止めたんですからさぞかしお疲れでしょう」

「ありがとう、律くん」

 美味しそうな匂いにつられて布団から出ようとする文子を久遠が制する。

「あ、あの…?」

 次の瞬間、布団の上で丸まっていた久遠が一瞬にして、人の姿へと変わった。林の邸宅に現れた時とは違う深緑色の着流しを着ていた。

 長身の久遠は、立っているだけで威圧感がすごく、部屋が狭く感じるほどだった。

 音もなく卓と文子の間に座ると、匙を持って粥をすくいだす。それすらも絵になるほどに美しかった。伏せられたまつ毛は頬に影を映し、すーっと通った鼻梁が美しい線を描く。
 まるで浮世絵を切り取ったようだと文子は見惚れた。

「あ、私がやりますよ、ご主人さま!」
「いい、私がやる」

(ま、まさか…)

 文子の予想は的中する。
 久遠は、匙ですくった粥をふーふーしてから文子の口先へと持ってきた。

「あっ…わた、し、自分で食べれます!」
「無理をせずとも良い。ほら、口を開けろ」

 かぁぁ、と顔に熱が集まっていく。

「ほら、早くせぬか」
「は、はい…」

 有無を言わせぬ圧力に、文子は赤面したまま口を開けた。

(ううぅ、恥ずかしい…)

 目の前で律も見ているというのに、容赦の無い久遠を恨めしそうに見やるも、そんな文子には露とも気づいていない様子で淡々と粥を運んでいる。

「文子さまは、本当に綺麗なお人ですねぇ…。ご主人さまが惚れるのも納得です」
「律」

 たしなめる久遠だったが、律は「なんですか?」とすっとぼけていた。

「そうだ、(つがい)の儀はいつに致しましょう?!早い方が良いですよね?いくらご主人さまと言えど、口づけだけでは10日も持たないでしょう」

「そうだな…、出来るだけ早い方が良いだろうが…」

 久遠に見つめられて、文子は戸惑う。

「あの、番の儀というのは?」

「ご主人さま!まさか文子さまに説明されてないんですか!?」

「私と番になることは伝えてある」

「番の儀については?」

「…はて…、どうだったか」

 主の反応に、律は「あちゃー」と天を扇いだ。文子は何がなんだか、わからないで二人のやり取りを見守る。

「ご自分で説明してくださいよ、もう!」

 律はそう言って顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。

 観念したように、息を吐くと久遠は話し始めた。

「さっき、幽世にくるには妖力が必要だと言っただろう」

「はい」

「それで、口づけで私の妖力を与えたとは言ったが、それはその場しのぎにしかならず数日もすればそなたの体から消えてしまうのだ。そもそも、番になることが人間がこちらで生きる最低条件であり…、番になるというのは…その…つまりだな…」

 だんだんと、歯切れが悪くなる久遠。いつの間にか視線も合わせてもらえなくなっていた。

「あぁっもう!まどろっこしいなぁ!」

 そっぽを向いていた律が痺れを切らした。

「つまりですね、番の儀というのは、ご主人さまのお子を宿すことでございます!」

「お、お…お子…」

 文子はあまりの衝撃に、開いた口が塞がらなかった。

 確かに夫婦になるとは言われたが、夫婦の営みはおいおい時間をかけていくものだろうと思っていたのに、まさかこんな火急の事態になろうとは思いもよらなかったのだ。

(そんな…)

 先の口づけだけでもどうにかなりそうだったのに、その先までとは。どのような行為なのか、話に聞いたことはあるが、文子には想像もつかない。

「大事なことですので、先にお伝えしておきますが、人である文子さまがご主人さまのような妖力の強い妖からお子を授かると、しばらく苦しむことになるかと思われます。過去にも、妖と番になったことで三日三晩高熱にうなされたという話もございます」

「そ、そうなんですね…」

 口づけで妖力を受けただけで気を失ったのだから、三日三晩うなされるのも現実味を帯びている。

「…常世に帰っても良いのだぞ」
「何をおっしゃいますか、ご主人さま!せっかく念願の文子さーーー」
「律は黙っておれ」

 ピシャリ、と放たれたその声に、律は凍り付いた。文子もその声音の冷たさに身を強張らせる。そうだった、彼は妖で、林の邸宅でもその力で人間をいとも簡単にねじ伏せていたということを文子は思い出す。

 黒猫の可愛らしい姿と、文子に見せる優しい態度からは想像も付かぬほど恐ろしい力を持っているのだ。

「文子…、怖いのなら常世に帰っても構わない。常世にも私の知人がいるからそこに世話を頼んでも良いのだぞ」

 久遠は、そう言うと文子の手に自分の手を重ねる。琥珀色の瞳に見つめられて、文子の胸がトクン、と高鳴る。

「そなたの人生だ。自分で選ぶがよい」

 大きな手に包まれて、ぬくもりとともに心が落ち着いていくのを感じていた。

(妖の妻となることが怖くないと言ったら嘘になる…でも、私は…)

 久遠がどのような人物なのか疑う余地などなかったし、既に久遠の人柄に好意を寄せていた文子は久遠を見つめ口を開いた。

「わかりました。では、私を…久遠さまの番にしてください」