ガタ、ガタガターーー

 砂利を踏むたびに揺れる馬車の中で皆藤文子(かいとうあやこ)は一つため息をついた。初めて乗った馬車の揺れ心地というのは、自分が想像していたものとはだいぶ異なり、既に尻がジンジンと痛みだしている。

 さらに頭に乗せられた綿帽子が崩れないように、と体を屈めているのも良くないのかもしれない。
 目深に被った真っ白な綿帽子の奥に見える瞳は悲し気に伏せられ、目にも鮮やかな紅を差している唇のおかげで青白さだけは少しだけ和らいで見えたものの、シミ一つない白い肌はしかし決して血色が良いとは言えなかった。

 文子の口からは、また一つため息が零れる。

(まさか、自分が白無垢を着る日がくるとは…)

 しかもこんな形で、と嘆かずにはいられない。

 今日、望まない相手との祝言が、文子を待ち構えていた。

 相手は自分より30も上の男で、名は林と言った。病弱な妻が亡くなってすぐに後妻を探しだしたという。そこに、文子の存在を疎んでいた養父母が我こそはと名乗りを挙げたのだった。

 後から知った話では、林はこの辺りでは名の知れた地主で、見目の良いおなごならば結納金をたんまり弾むとちらつかせていたらしい。

 どうりで縁談が成立してから養父母が自分に優しいわけだ、とその話を聞いて納得した文子だった。

 さらに、林が後妻を娶るのはこれが初めてではない。林に嫁いだ嫁は年を取るとなぜかみんな病気で死んでいき、喪も明けないうちに林は後妻を取っていた。後妻となる条件は10代の見目麗しい生娘だという。

 ちょうどひと月前、品定めに来た林は文子を一目見て満足げな顔で頷き、文子は何人目かとなる後妻に選ばれたのだった。

 あの林のギラギラとした目を思い出すだけでもぞっとして文子は体を震わせる。

 寒さと恐怖とで震える自身の肩を抱き、さすった。つるりとした冷たい絹の滑らかさが今は厭わしい。

「おい、早く降りないか」

 養父の声で車が停まっていたことに気づかされ、文子はハッとする。

 謝りながら馬車からなんとか降りた文子の目に、見たこともないような豪邸が映った。

 立派な門構えに、白塗りの壁はヒビ一つなく、手入れの行き届いた瓦屋根には苔さえも見当たらない。横に伸びた平屋づくりのそれは、一体何部屋あるのだろうか、と見渡しただけでは終わりが見えない程だった。

「こんなすごい豪邸に住めるなんて、お前は幸せ者だねぇ」

 養母の言葉に文子は「はい、本当に…」と小さな声で答えた。

「文子ちゃん、すごい!羨ましい~!」

 養父母の一人娘の葉子が大げさに言う。彼女は文子とは一つしか年が違わない。

「ホント感謝してほしいわぁ、私たちが頭を下げてやっとのことで決まった縁談なんだから。せいぜい、林さまに捨てられないように気を付けるこったね」

「おじさま、おばさま、葉子さん」

 文子は、二人に一歩近づくと、膝を曲げて頭を下げた。帽子が落ちない程度に。

「今まで本当にお世話になりました。身よりのない私のことをこれまで面倒見ていただいて感謝しております。ありがとうございました」

 それは、本心からくる裏のない、感謝の言葉だった。

 父と母を戦争で失くし、遠い親戚とはいえ自分を世話してくれたこの人たちには感謝の気持ちしかなかった。どんなに酷いことを言われようと、酷い扱いをされようと、こうして金と交換に嫁に行かされようと、文子は彼らを恨む気持ちにはならなかった。

 『感謝の気持ちを忘れるな』

 医者だった両親の教えを、文子はずっと心に持ち続けている。

 そんな文子に、三人はふんっと顔を背けるだけで何も返しはしない。


「お待ちしておりました」


 男蝶女蝶(おちょうめちょう)が松明を手に迎え出てきたのを皮切りに、文子たちは歩を進め門をくぐった。




 案内された大広間は既に林の親戚一同で埋め尽くされ、がやがやとぎわっていた。10畳ほどの二間続きになった和室で、床の間には豪奢な掛け軸が掛けられ、その下には色鮮やかな装飾の施された陶磁器が置かれていた。

「嫁子さんをお連れしました」

 男蝶女蝶の声で人々が静まり返り一斉に振り向いた。その目には、今度の嫁はどんなに美しいのだろうか、という好奇の色で溢れかえっている。

 綿帽子で思うように見えずもどかしい、とでも言わんばかりに周りがざわつき始めた。

「おぉ、待ちくたびれたぞ!さぁ、はようこっちへ来い」

 好奇のまなざしの中をかき分けるように文子は進み、声の主…夫となる林の前までたどり着くと頭を下げた。とてもではないが、林の顔など見れたものではない。文子は瞳を伏せたまま俯いて林の向かいに正座した。

「お待たせいたしました」

「堅苦しい挨拶はいらん、さぁ、始めよう」

 その声で進行役の男が手を叩いて祝儀が始められる。

 林が二人の間に用意されていた朱塗りの盃に手を伸ばしたのと同時に、先ほど案内してくれた男蝶女蝶が酒の入った急須を手にやってきた。

 三々九度(さんさんくど)が始まる。

 文子は、いよいよここまできてしまった、と心の中で思った。縁談の話を聞かされてからこの方ひと月と少し、これ以上養父母の世話にはなれないと思いつつも、30以上も年の離れた男の元に嫁ぐという事が文子の心を暗くさせていた。

 林には、自分より年上の子どもも、まだ年端もいかない子どももいるどころか既に孫もいるらしい。もしかしたらこの男蝶女蝶も林の子どもか孫かもしれない、と視線を少し上げた。

 チョロチョロ…

 年のころは5、6歳だろうか、緊張した面持ちの男の子が盃に酒を注いでいる。

 小さな盃に注がれた酒はあっという間に林が飲み干し、つい、と文子の視界に現れた。綺麗な盃だな、と光沢ある朱塗りのそれを見て文子は漠然と思った。

 三々九度には、これから先、散々苦労を共にし、支え合っていきます、という誓いの意味が込められている。

(この人と…生涯を…)

 この先の人生をこの男と共にするのだと思うと、言いようのない不安がとめどなく溢れて目の前が真っ暗になった。

「おい、文子、早う受け取らぬか」
「…っ」

 つー、と頬に一筋の光が伝い、慌てて手の甲で拭い去るとその手で盃を受け取る。

(もう、どうにもならないのよ、文子)

 自分に言い聞かせる。これまで何度もそうしてきた。
 今さら嫌だと駄々をこねれば、養父母に迷惑がかかることは明白であるし、そんな不義理をした文子をもう一度迎え入れてくれるはずがなかった。さすれば、文子は今日から住むところすらもままならない。

 これが、自分の運命(さだめ)なのだ、と受け入れる他、文子に選択肢など残されていなかった。

 今度は、文子の細く美しい指が支える盃に酒が注がれ、口に運ぼうとしたとき、


ーーーガタンッ、バリバリバリッ

 けたたましい音がして、大広間の襖やその先の窓やらが風で外れ飛び、そこにいる人々から悲鳴が上がった。

「きゃぁぁっ」
「うわああ」

 文子も突然のことに何が起きたのかわからず呆然とするだけだった。

「な、なんだ!?」
「一体どうした?!つむじ風か?!」

 吹き飛んだ窓の外に、人々の視線が向けられる。

「誰かいるぞ?!」

 土煙が舞い、その奥に佇む人影らしきものが見えた。

「誰だ!」
「ここが林恒彦の邸宅と知っての狼藉か!」

 男衆が代わる代わる言葉を投げつけるも返事はなく、その人影は一歩一歩こちらへと近づいてきた。土埃が収まるにつれて徐々に露わになる人影に、人々は後ずさる。「誰なの?」「大丈夫なの?」女性陣からは不安の声が零れる。

「おい!聞いてるのか!止まれ!」

 その人は、黒色の着流しに青磁色の羽織をまとった男だった。スラリとした長身にバランスのとれた小さな顔、一つに結んだ長い黒髪は肩に垂らし、さらに驚いたことに切れ長な瞳は透き通るような琥珀色をしていた。そこらの女性よりも色気の漂う美しい美丈夫が立っていた。

「ひっ捕らえろ!」

 尚も止まらずこちらへと進む男に広間から数人の男がとびかかったーーーー

 はずだったが、次の瞬間には数人の男たちは縁側の外に転げて痛みに悶えて蹲っていた。

「な、なにが起きた!?お、おい、お前、あいつを捕まえろ!」
「嫌だよっ!なんで僕が!おじさん行ってよ!」

 男どもは怖気づいて互いに背中を押しあっていた。その間も謎の男はずんずん進み、モーセの海割りのごとく人々が避けていき、とうとう、新郎と新婦の前にまでやってきた。

(なんて綺麗な人でしょう…)

 人混みが開けてようやくその男を目にした文子は心の中でため息をつく。恐怖など忘れて魅入ってしまっていた。

「今日は大事な祝言だというのに、邪魔をするとはどういう了見だ」

 林がどすの効いた声で唸るように言う。
 さすがにこれまで地主として数々の修羅場を通り抜けてきたのだろう、少しもひるむことがなかった。

「悪いな、祝言だから邪魔しにきたのだ」
「どういうことだ」
「ーーーー文子(あやこ)、迎えにきたぞ」
「え…?」

 唐突に名前を呼ばれて、文子は弾かれたように改めて彼の人を仰ぎ見た。険しい顔つきの中でも琥珀色の瞳は柔らかさを宿して見つめられているように感じた。

「さてはお前の情人か、文子!」
「い、いえっ…決してそのような…」
「この醜男(しこお)との祝言を望んでおらぬのなら、私と一緒に来い」
「なっ!無礼者!文子は私のものだ!誰にもやらぬ!」
「きゃっ」

 激怒した林が文子の腕を掴んで無理やり立ち上がると、後ずさった。強く引っ張られてよろけた先、林に後ろから抱きかかえられた。その拍子に被っていた綿帽子が外れ、文子の顔が陽の光に晒された。

 遠巻きに様子を見ていた人たちが息を呑む。
 美しい艶やかな黒髪は文金高島田髷に結い上げられ、露わになった白い額は形がよく、それぞれのパーツはバランスよく配置されている。猫目の瞳は大きく魅力的に輝きを放ち、高い鼻梁は日本人離れした美しさを醸し出していた。

 そこに居た全員が、文子に見惚れていた。

「文子は私のものだ!」
「ひっ」

 林の手が文子の顎を掴み自分へと向かせ、口づけようと顔を近づける。

ーーードォン

 一瞬の衝撃と爆音に、目をつむる。
 次に目を開けた時には、文子は美丈夫の両腕に抱きかかえられていた。いわゆるお姫様抱っこというものだ。

 一体何がどうなったのか。

 間近にある美丈夫の顔を見上げて文子は半ば放心していた。

「ううぅ…」

 低いうめき声に振り向けば、床の間に蹲る林の姿があった。

「お前…まさか、妖か…」

 振り絞られた言葉は文子の耳に届く。

「あやか、し…?」

 聞きなれない言葉だった。
 昔、妖は人の姿をして今も人々の中に紛れている、とまことしやかに語られてきていたが、それは物語の中だけだと思っていた。

 美丈夫は、文子を見つめたまま頷く。

「そうだ。…文子、そなたは私の命の恩人だ。そなたがこの醜男と一緒になりたくないのなら、私のところに来い」

(恩人…?)

 全く身に覚えのなかった文子は「人違いでは…」と訪ねる。

「神社で助けた黒猫を覚えてはおらぬか」

 美丈夫はそう言って、文子をそっと立たせる。
 思い出すどころか、ずっと忘れられなかった黒猫の姿が脳裡に鮮明に浮かび上がった。

「黒ちゃん…?」

 文子の呟きに美丈夫は「その節は世話になったな」と礼を言った。

(そんなまさか…、この美しい男の人が、あの黒ちゃんだったというの…?信じられない)

 驚きを隠せない文子の目の前に古びた手ぬぐいが差し出された。それは、確かに文子が黒猫の傷口に縛り付けた手ぬぐいだった。

「まだ信じられぬか?」
「あ…」

 正直、そんなすぐに信じられるものではなかったが、あの神社での出来事は文子と黒猫しか与り知らぬ出来事なのは確かで…。

「し、信じます」

 必死に、そう言えば、美丈夫は柔らかな笑みをその端正な顔に浮かべた。

「それで、どうする。私とくるか?それとも…」
「させぬ!文子は私のものだ!」

 起き上がった林が叫んだ。

「結納金も既にこ奴らに払っているのだ!今さら逃げるなど許されるものか!」
「そ、そうだ、文子!どれだけ私たちに迷惑かければ気が済むんだ!」
「あ…」

 林と養父が畳み掛けるように文子を糾弾する。

「わ、私…」
「結納金なら返せば済むことだろう。そなたらには私から同じ額、いや倍の額を進ぜよう」
「な、なんだと!返しただけで済むわけなかろう!金の問題ではない!文子は誰にも渡さん!」

 林の異様な執着ぶりに、文子は身を縮こまらせた。これほどまでに執着する理由がどこにあるのか、文子自身にはまったくわからなかったが、周りにいた親戚どもには頷けるものだった。

 これほどまでに美しい生娘を、あの林がやすやすと渡すはずがない、と。

「悪いがお前の意見など、聞いておらぬ。黙っておれ」

 言い終わらぬうちに、林はまた壁に体を打ち付けて倒れこんだ。今度は気絶したらしく、うめき声すらも聞こえてこない。この美丈夫は今、何もしていないというのに…、一体何がどうしてこうなったのか、と周りから恐怖に震える声が上がる。

「あっ…」
「心配はいらん、気を失っているだけだ。それで、そなたはどうしたい」

 琥珀色の瞳に見つめられて、文子はたじろぐ。

(どうしたいと言われても…、私はどうしたら…)

「私の所に来るのは嫌か?」
「そ、そんな、嫌などとは、決して!」
「では、決まりだ私と共に幽世(かくりよ)へ参ろう。…あぁ、そうだ、そのためには私と(つがい)になる必要があるが構わぬか?」
「つがい、とは…」
「番とは、そうだな、この世でいう夫婦(めおと)のようなものだ」

 よくはわからないが、文子は首を縦に振る。

「あなた様が私でよいのなら…」

 目の前の美丈夫は得体も知れず謎だらけにも関わらず、林という男と夫婦になるよりもずっとよい未来が待っていると文子は確信していた。
 それはきっと、この美丈夫の自分を見つめる瞳が優しさに溢れているからだ。

久遠(くおん)だ」
「くおん、さま…っんん!?」

 腰を引き寄せられ、文子の口が久遠のそれに塞がれる。
 文子の唇を割ってきた柔らかな舌は、歯列をなぞり強引に絡みつくように舐めとる。まるで噛みつくような、荒々しい口づけだった。

 ーーードクンッ

(なに…これ…?!)

 動悸が激しくなり、体中の血が騒いでいるような、ぞわぞわとした感覚に襲われる。

 やっと解放されたものの、文子は体に力が入らず崩れ落ちそうになる。それを腰に回った久遠の腕が支え、そのまま自分の胸に文子を抱きとめた。

「っ…はぁ…はぁ…」

(なんだか体が、おかしい…)

 頭がうまく回らないし、急に眠気が襲ってきた。

「少しは入ったか。これならなんとか渡れるだろう。辛いかもしれんが、少し我慢してくれ」

 入ったとは、渡れるとはなんだろうか、と文子は遠のく意識の隅で思ったが、重たい瞼が視界と思考を遮断するかのように閉ざされ、そのまま意識を手放した。