舞踏会会場は広くて豪奢だった。
白くてアーチ型になった高い天井。
正面の壁の高い位置に彫られたアスナイヌトの像。
天井から釣り下がるいくつものシャンデリア。
あちこちに活けられた色とりどりの花。
茶色の濃淡のタイルによる幾何学模様が施された広間の床。
ふかふかの赤い絨毯。
飲食をする部屋は別に設けられていて、お菓子や軽食、飲み物が用意されていた。
地主のオファンズの屋敷以上の……いや、比べ物にならないくらいに華やかな場所だった。
リンファスは入り口を通され、広間が目の前に広がったとたんにその様子に尻込みをしてしまった。
ウエルトの村と、あまりにも違う。村で細々と暮らしていた自分が、こんなところに居て良いのだろうかという思いがひしひしとした。
「私たち花乙女とイヴラの皆さんが参加するこの舞踏会はお互いの関係をより深くするためのものだから、王族や貴族の方々が催す舞踏会とは違って、あまり形式ばっていないの。
タイミングはオーケストラが取っている感じね。音楽の切り替えの時がやることの切り替え時よ。
最初はあっちの軽食が用意されたテーブルの部屋で立食の軽いお食事を摂るの。
大体飲み物だけの方が多いわね。その時にその後の最初のダンスの相手を決めるの。
それはイヴラの方からの申し込みを受けて、乙女が受ける形よ。
ダンスのあいだは広間で代わる代わる踊るわ。疲れたら広間に置かれている椅子で休んでも良いのよ。
テラスやお庭で休むのもありね。夜の庭は風が涼しくて気持ちいいわよ」
プルネルはリンファスにそう説明して一緒にテーブルが用意されている部屋に入った。
既に先に宿舎を出た乙女たちや、イヴラたちが居た。
リンファスはプルネルにくっついて端っこのテーブルに着いた。
既に談笑を始めている人たちが多く、もう最初のダンスの相手を選んでいるのかもしれなかった。
プルネルがテーブルにあった飲み物をとってくれた。ありがたく受け取っていると、プルネルに声を掛ける人物が居た。アキムだ。
「こんばんは、プルネル。今日もかわいいね」
「プルネル、聞いてくれ、酷いんだ! 今日は上手くサラティアナを誘えたと思っていたのに、横から金髪野郎がかっさらって行ってしまったんだ!
そりゃあ、僕の髪は美しい金髪(ブロンド)ではないけど、でも、サラティアナに対する想いだけは誰にも負けないと自信があるのに……!」
ルドヴィックの、金髪野郎、という言葉に、リンファスは少し思い出す人が居た。淡い金の髪をいつも胸に垂らしている、ロレシオだ。
リンファスが、ロレシオがサラティアナを誘ったのだろうかと考えていると、プルネルはその金髪野郎にサラティアナの相手を取られたルドヴィックを慰めた。
「……サラティアナは既に沢山の花を咲かせているし、もう彼女も花の状態では判断していないと思うわ……。そうなるともう行動しかないと思うの。ルドヴィック、負けないで」
プルネルの励ましに、ルドヴィックがありがとう、と悔しそうに言った。
……こんなに人のことを想う気持ちって、どんなものだろう……。
サラティアナは、どんな気持ちで、あの沢山の花を身に着けているのだろう……。
そんなことを考えていたら、広間から音楽が聞こえてきた。其処此処で、では最初のダンスを、と言って手を取り合って広間に行く乙女とイヴラが居た。
「もう直ぐダンスが始まるわ。リンファスは舞踏会が初めてなの。もしよろしかったら、彼女をパートナーにして差し上げて欲しいわ」
リンファスを気遣う言葉に、しかし二人は困ったような顔をした。
「しかし、プルネル。彼女には僕たちの花が咲いていないだろう? この場で踊ることは無理だ」
「次の茶話会でまた会おうじゃないか、リンファス」
イヴラの二人はそう言って、ルドヴィックは人垣の方へ、そしてアキムはプルネルの手を取った。プルネルは困ったようにリンファスを振り返ってこう言った。
「リンファス。少し踊ったら戻ってくるわ。それまで待っていて」
先程の二人の話を聞くに、自分の花が咲いていないリンファスの相手は出来ないのだろう。それに比べるとプルネルには沢山の花が着いている。その分、踊るのだなと思って、リンファスは自分のことは気にしないようにと言った。
「ここまで連れてきてくれただけでも、とても感謝しているわ、プルネル。ダンスを楽しんで来て」
アキムに連れられて広間へ行くプルネルを見送る。そして部屋を見渡せば、先ほどまで人が溢れていたのに、もうその人たちは広間に行ってしまったのか、部屋にはリンファスが一人ぽつんと残されただけだった。
華やかな音楽が広間に鳴り響く。沢山の花乙女とイヴラがくるくると音楽に合わせてダンスを踊っている様子を、リンファスは壁に背を預けて見ていた。
……きれいだ。花咲く花乙女たちがドレスを翻して、そう、花の精のように踊り、微笑む。相手のイヴラも身に纏う色でその場を華やがせていた。
最初に宿舎の談話室で少女たちに会った時のような……否、それ以上の色の洪水だった。
オファンズの屋敷のように壁が色彩鮮やかな絵画で飾られていないのは、これが理由かと理解した。
つまり、花乙女とイヴラの色を引き立たせるために、敢えて白い壁と天井なのだ。
リンファスは、ウエルトの村で子供たちが遊んでいたシャボンを思い出した。あれは高価な石鹸を溶かした水を、葦の茎を通した息を吹きかけることによって出来るものだと、子供に説明している村の女性の言葉を思い出した。
そしてその輝きを、リンファスは雨上がりに見かける虹のようだと思ったのだ。
溢れんばかりの笑顔で踊る花乙女とイヴラたちは、そのシャボンの虹の輝きに負けないくらいきらきらしていた。
その場に、リンファスのような娘は相応しくない。
リンファスは、そっと部屋から出ると、白いテラスから庭へ降りた。
庭は、広間の窓から零れ聞こえる音楽がBGMとなっているが、窓からのシャンデリアの灯り以外は届いていなかった。
リンファスは庭で栽培されている数々の植物の間を歩いて行った。盛りなのか、花が沢山咲いている。薄暗がりでもその色彩が広間の色彩に見劣りしないことは、リンファスにも分かった。
「……、…………」
自分はこの街に来て、まだ何も役に立っていない、とリンファスは改めて感じた。
この花たちのように宿舎という場所に居るだけで、それに見合った働きをしていない。
アキムやルドヴィックが言っていた。イヴラは自分の色の花を咲かせた乙女とじゃないと、踊れない……、というか踊りたくないのだ。プルネルから聞いていた話でも分かる。
茶話会はイヴラと出会う場所だと言っていた。そして舞踏会は乙女とイヴラの関係を深くするものだとも。
だとしたら、彼らの花が咲いていないリンファスを相手にしないのは、当たり前なのだ。
リンファスはこんなところに来てまで、花乙女として見つけてくれたハンナの期待に応えられていない。本当に申し訳ない、と思った。
(……そうね、この花たちの方が役に立っているわ……。だって、この庭に来る人たちをこうやって安らがせてきたんだから……)
リンファスは、花々に癒しを求めてその手に一輪の花を取った。ふわっとした花弁がひらくその花は、リンファスの手のひらに程よくなじんだ。
(……ふふ、甘い香りがするわ……。この花、もしかして、私に着くことが出来るのかしら)
以前咲いた蒼い花を食べた時のことを思い出す。あの甘い花は今でも口の中にその甘さを思い出せるくらいに美味しかった。その花の香りに似ている気がする。だとしたら、この花はリンファスの身に着かないだろうか。
リンファスは、手折った花を右胸、プルネルの花とそしてあの蒼い小さな花が咲いている隣に挿した。
……しかし花は、リンファスが立ち上がると、重力に負けたように地面に落ちる。
ポトリと落ちた花を見つめて、リンファスは悲しそうにため息を吐いた。
予想していたことである。花乙女たちの身に咲いている花は愛情を糧としているというケイトの話だし、そうすればおのずとこの庭に咲いている、土から育つ花とは違うことは明白だ。
「……この花では、私に着かないのね……」
リンファスが地面に落ちた花を拾い上げてそう呟いた、その時。
「誰か居るのか」
その場に硬い声が響いた。
舞踏会の会場の庭を散策していたリンファスに、ハッとするくらい硬い声がリンファスに掛けられた。
この街に来てあまり聞かなくなった、リンファスに対して好意的じゃない声。誰かの気分を害したのだ、と直ぐに分かった。だからリンファスは、声の主の方に向かって頭を下げ謝罪した。
「す……、すみません……。庭に、お邪魔させて頂いています。部屋に……、……あの、……居る場所が、なかった、ので……」
言っていて、声が小さくなった。薄暗がりの中に、長身の人影を見つけたのだ。
広間から届く僅かなシャンデリアの灯りに映える淡い金の髪が分かる。
それは頭から被られたフードから零れた、背後から肩に掛けられている長い後ろ髪だけしか確認できなかった。
しかし、リンファスの目をくぎ付けにするには、それだけで十分だった。
庭に挿すシャンデリアの灯りを弾く金の髪は僅かな明かりに色とりどり咲き誇る花々の中で幻想的な光景としてリンファスの目に映った。
この色は知っている。インタルに来る時に宿から出てしまったリンファスを助けてくれた、ロレシオの髪の色だ。
彼は、その引き締まった体躯に広間に居たイヴラたちと同じように美しい色の礼服を身に纏い、すらりと其処に立っている。薄い光しか照らさない庭の花々を従えているような、そんな雰囲気を醸し出していた。
顔の左に細い光を受けてリンファスは彼を見た。彼が、その身の右半身に明かりを受けながらリンファスと向き合うと、何故かハッとしたように僅かに身を揺らした。
「君か……」
開かれた唇から紡がれた声はやはりやや硬いテノールで、呟かれただけのその声はするりとリンファスの鼓膜に馴染んだ。
この声も聞き覚えがある。リンファスを人さらいから守ってくれた人……。リンファスのお使いにも付き合ってくれた、ロレシオに間違いなかった。
ロレシオの声は夜の闇に馴染んでずっと聞いて居たいような、そんな玲瓏な響きの声だった。
しかし声が硬かったから、あまりこの場に留まることは良くないだろう。以前街へ連れて行ってくれた時も雰囲気が硬かったし、あまりリンファスに好意的でないことは明白だった。
リンファスは彼の時間を邪魔したことへの謝罪をして立ち去ろうとした。
「お、おくつろぎの所を邪魔するつもりはありませんでした……。すみませんでした」
そう言って頭を下げてこの場から去ろうとしたリンファスに、ロレシオは言葉を掛けた。
「君、もう具合は良いのか」
「……、…………は……?」
おそらくこの場で掛けられるであろう言葉たちから、一番遠い場所にある言葉だった。
こんな華やかな場所に来てさえ、花が着いていないことでイヴラから見向きもされなかったリンファスを役立たずと非難したり、ましてや休憩中の所を邪魔したリンファスを咎める言葉ではなかった。
ぽかんとその人を見る。
ロレシオはその場から一歩、リンファスの方へと足を踏み出した。
その動きに沿って、暗闇の中で何かが揺れた。人さらいに遭った時のことを思い出して、びくりとリンファスが身を固くすると、彼は寂しそうな声で呟いた。
「……やはり、……僕が怖いか……」
リンファスはその言葉に動きを止めた。
『やはり』、とは、どういう意味だろう。
今、リンファスが身を固くしたのは、薄暗がりの中で動いた『何か分からない揺れた物』に対してであり、今目の前にいる彼そのものに対してじゃない。そのことは伝えなければならないと思って、リンファスは口を開いた。
「い……、いえ……。今、何か揺れたので……」
「揺れた……? ……ああ、これか」
彼はそう言って左手で揺れた『それ』を掴んで引っ張った。ひらりと舞ったそれは、頭から被っていたフードの端だった。
そう、確かリンファスが知る限り、ロレシオは黒いフードマントを身に付けていた。
何時ものマントよりも裾が長いから分からなかっただけで、その正体が分かってしまえば、マントの裾が揺れるくらい、怖いことではなかった。
「すまない。驚かせるつもりはなかった……。しかしこの闇でもこれは取ることは出来ない。許してくれ」
フードを被ったまま、ロレシオはリンファスの前に歩み出た。
……薄闇の中でも整った顔立ちの人だと思った。
やはりフードの陰になっていて目の色は分からないけれど、正面から見た彼は、彫刻のような鼻梁にテノールを発する薄い唇と無駄のない肉付きの体をしており、胸板に沿って流れる、背中から流された淡い金の髪は胸の中ほどまで伸びている。
先程会ったアキムやルドヴィックも端正が顔立ちをしていたが、この人は彼らよりも美しかった。陰になった目元さえもが、彼の麗しさを引き立たせていると思った。
ぼうと見とれるリンファスに、ロレシオは一歩歩み寄って頭を下げた。フードが揺れて、金の髪がさらりと流れた。
「今、僕が、この場でレディ(きみ)に対して危害を加える気持ちがないことを信じて欲しい」
こうべを垂れたまま、彼はそう言った。アキムに対しても思ったが、リンファスにとって頭を下げるという行為は、自分がするものであって、自分がされるものではなかったから慌てた。
「か……っ、顔を上げてください……っ。私は貴方が頭を下げるような人間ではないのです……っ」
本気でそう思っている。なのにロレシオも、何故? と問うた。
何故、とは。
……だって、村でもファトマルの役に立つことはなかったし、花乙女だからとウエルトからインタルに連れてきてもらっても一向に花は咲かない。
館で雑用や乙女たちの遣いのような仕事をさせてもらっているが、それだってあそこで寝起きさせてもらうばかりか身の回りのものまで保証された環境で過ごせる対価にはなっていない。リンファスがそう言うと、ロレシオは不思議そうにこう言った。
「どうして……? 君には、……暗がりで色は分からないけど、花が咲いているように見えるが」
ロレシオはそう言って、自分の右胸をトントンと指差した。リンファスが彼に倣って右胸を触ると、……そうだ、確かにプルネルの花と……それから贈り主不明の蒼い花が咲いているのだった。
はっとしたリンファスに、ロレシオはやや微笑んだように見えた。
「君にも花を贈る人(イヴラ)が現れて良かったと思っている。君、宿舎の医務室で『母なる愛情の花』で手当てを受けただろう?」
何故そのことをロレシオが知っているのだろう。
この人が街で具合を悪くしたリンファスを館に運んでくれたことは聞いたが、手当てのことを知っているとは聞いていない。驚いて、疑問に思ったことをそのまま、リンファスは躊躇わず口にした。
「……そうです……。……でも、何故貴方がそのことをご存じなのですか……?」
その言葉を発したと同時に、体の内に変化を感じた。
右胸に咲いたあの蒼い花が咲いた時と同じような、体の奥からじわりと甘い砂糖が沁み込んでくるような、甘さとあたたかさにずっと包まれていたくなるような、そんな感覚がリンファスを襲った。
その感覚が痺れという過去に知った感覚に変化してリンファスの腹部に集中すると、ワンピースの上に留めていた茶色のリボンの上に小さな……小さな濃い色の花がゆるりと蕾の形で現れ、その結んだ口を解く。
浅く合わさっただけだったのか、花弁はあっけなく開かれ、その姿をリンファスに見せた。
(え……っ?)
リンファスは自分の体に起こった変化に驚いて、リボンの上に咲いた花を見つめた。
花の咲いた腹部にはまだ痺れのような感覚が残っている。しかし花が咲く前も思ったが、この痺れの感覚はリンファスがファトマルに頬を張られた時に感じた痺れよりももっとやさしかった。
やさしくて、体をぽかぽかとあたためてくれて、その甘さに脳が溶け込んでしまいそうな陶酔感をリンファスにもたらした。
そっと指先で花びらに触ると、やわらかくて、指先が宿舎のカーテンに撫でられているみたいだった。
「これは……」
「それは……」
遠くにオーケストラの音楽が聞こえる薄暗がりの庭の真ん中に、小さな呟きが二つ落ちた。
え……、と目の前の人を見上げると、ロレシオの陰になった目が見開いたような動きに添い、長いまつげが淡く庭に届く部屋のシャンデリアの灯りを受けて動いた。そして、呆然と呟く。
「……この場で、花が咲くなんて……。……まさか、僕が……?」
半ば、自問自答しているような言葉だった。
その意味が分からず、リンファスは口を挟めない。じっと黙ったまま彼を見つめていると、彼は唇の片端を上げた。その胸中に去来した感情を、リンファスは理解出来なかった。
「あの……。……この花は、貴方がくださったのですか……?」
今右胸に咲いている小さな蒼い花はリンファスの前に誰もいない時に咲いた。だから贈り主が分からなかった。
でも今、彼と話しているときに咲いたこの花は……。もしかしたら、という思いで声を発したリンファスに、彼は、わからない、と応えた。
「? ……分からない、……のですか?」
「分からないんだ……。僕に……、そんな感情が残っていたとは思わなかった……。君だって、冷たく当たっていたと思っていたのだが……」
戸惑い気味に、やはり自問自答するような声音で言う彼を、これ以上問い質してはいけないと感じて、リンファスはロレシオに謝罪した。
「そうですか……。すみません、突然こんなことをお伺いして……。でも、もし許されるのでしたら、この場で私の懺悔を聞いて頂けませんか……?」
「懺悔だって?」
「はい」
彼はイヴラだ。リンファスに初めてついたあの花も、イヴラからのものではないかと思っている。
リンファスはあの花を贈ってくれた主に、どうしても謝罪したいことがあった。今日会うことが叶わないのなら、せめて彼にそのことをしゃべってしまいたかった。
「私は……、……私は、初めて私の身に着いた花をアスナイヌトさまに捧げることなく食べました……。
インタルに呼ばれてもひとつも花が着くことのなかった私はそれまで役立たずでした。
やっと花が着いてアスナイヌトさまのお役に立てる筈だったのに、私はあの時空腹に負けて、……たった一つしか咲かなかったその花を食べてしまったのです……。
贈ってくださった方にも、アスナイヌトさまにも申し訳ないことをしてしまいました……。アスナイヌトさまには謝罪しましたが、贈ってくださった方にまだ謝罪できていないままでした……。
今日お会い出来たら、謝ろうと思っていたのですが、広間ではお会いできなかったので……」
リンファスはあの花の贈り主に伝えようと思っていたことを目の前の人に喋ってしまうと、ほう、と息を吐いた。
一人で抱えているには、あの罪はリンファスにとって大きすぎた。
役立たずのリンファスを支えてくれていたケイトにも顔向けが出来ないと思っていた。
なにより、花乙女としての役割を果たさなかった自分を、アスナイヌトと花の贈り主のイヴラがどう思うか、怖くて考えるのを止めてしまったくらいだ。
とんでもない重罪だ、罵倒ぐらい当然だ、と思っていたのに、ロレシオはリンファスの話を聞き終わると、そうか……、と呟いて、それから驚くようなことを言った。
「それを僕に言うのは間違っている。
君が仮にその罪で罰せられるとするなら、それはアスナイヌトによってだけだ。
だが君が処罰されれば、アスナイヌトに寄進する花乙女が一人減ることになる。
花乙女の母たるアスナイヌトはそもそもそんなこと望んでいないと思うし、ハンナもケイトもそれは望んでいないと思う。
この場合君に出来るのは、また花を咲かせられるよう、努力することではないのかな?」
…………。
ロレシオの言葉を良くかみ砕く。
確かに唯一の寄進物の花を食べたのだから、その罪について断ずるのはアスナイヌトしか居ない。一方でアスナイヌトは愛の女神で、おそらく罪を犯したリンファスを断ずることはしないだろう。
ロレシオが指摘するのは、反省すべきは花を食べたことではなく、一輪しか咲かせられなかったことだと、そう言っている。それはリンファスの、してしまったことにこだわる気持ちを、花を咲かせる未来へとむけてくれた。
リンファスは、ロレシオの言葉をぽかんと聞いていた。
まるでプルネルの言葉のように、彼の言葉もまた、リンファスを罪の意識から遠ざけてくれる。お前の行いでもそれは良い、と許してくれる。
罵倒され、蔑まれ続けてきたリンファスにとって、許されたり、受け入れられたりする経験はあまりに縁遠かった。リンファスは、今自分に語り掛けてくれた言葉を、やっと、やさしい、と感じ取ることが出来た。
「……貴方は……、おやさしい方なのですね……」
ぽつりと呟いた言葉が、彼を驚かせた。
「僕が……、やさしいだって……?」
何かおかしいことを言っただろうか。そう思ってリンファスは自分の気持ちを伝えるべく言葉を続けた。
「……はい、おやさしいと思います。……花乙女としての役割を果たしてこなかった私に未来を見せて、温情を掛けてくださいました。そのことを、私がおやさしいと思うことは、おかしかったですか……?」
リンファスが言うと、ロレシオは黙ってしまった。なにか気に障ることを言ってしまったらしい。言葉を継ごうとしたが、彼に対してどう取り繕えば良いのか、リンファスは分からなかった。
オーケストラの音楽が途切れる。場面が変わるのだ。ふと明かりの挿す広間の方を見たロレシオが、リンファスに向き直る。
「……長居しすぎた。失礼する」
先程の言葉を発した声と同じ声とは思えない程、硬い声だった。どうしたんだろう、と疑問を感じる。
「広間の音楽が変わりますね。貴方も広間に戻られるのですか?」
「君は戻るの?」
「……『友達』が居るので、戻ります」
朗らかにそう言うリンファスを、ロレシオは引き止めなかった。
「じゃあ、僕も闇に消えよう。……だが、もしまた僕の気が向くと言う幸運があれば、次の舞踏会は此処でまた会おうじゃないか」
リンファスは彼の言葉をおうむ返しにした。
「来月の……、此処で、……ですか?」
約束をする理由が分からない。彼にとってリンファスは休憩中に紛れ込んだ邪魔者ではなかったのだろうか?
「さあ、行きたまえ。じき、次の音楽が掛かる」
命令に慣れた口調でそう言うと、ロレシオはフードを目深に被りなおしてその裾を翻し、言葉通り闇に消えた。
……呆然と彼の消えた先を見つめるリンファスが広間に戻ったのは、次の曲の途中でだった。
「まあ、リンファス! 素晴らしいわ!」
舞踏会会場から帰る馬車の中で、プルネルはリンファスの身に着いた花を見てそう言った。
「右胸の花は花弁が一重でこの形だとおそらく贈り主の気持ちが貴女の境遇に寄り添った表れかと思っていたけど、
新しい花は二重で私の花と似た形をしているわね。
これはきっと贈り主の方が貴女に親しみを持った気持ちの表れだわ」
気持ちの種類で花の花弁の形が変わるのか……。
ケイトは其処までは教えてくれなかった。リンファスはまだまだ知らないことがいっぱいだ。
「花の形は想いの形によって変わるの。
情熱、思慕、尊敬、情欲、憧憬……、数え上げたらきりがないわね。人の数だけ愛情の形があるから。
花びらの形が複雑になるほど、深くて複雑な愛だと伝え聞いているけど、私たちに寄せられる愛情は等しく嬉しいわ。
だってその気持ちがあるから、アスナイヌトさまをお支え出来るんですもの」
微笑んで言うプルネルは、今日参加できて良かったわね、と言葉を継いだ。
「次の舞踏会のお約束をして頂けたんですもの。きっとその方、貴女を見初めたのよ」
ガタゴトと揺れる馬車の中で、プルネルは少し興奮気味だった。
その勢いにあの時の様子を思い出して、リンファスはその言葉に戸惑う。
そして、どうもプルネルの言うようなことではないのではないか、と推測した。
「あの方……、私を見たというより、ご自分を見てらっしゃった気がするの……。
花が咲いたときに驚いてらっしゃったし、……私が何かタイミング悪く、花を咲かせてしまったのかもしれないわ」
「まあ、そんなこと言わないで。花は何も悪くないわ。
その方が贈り主かどうかは分からなくても、約束をくださったことは事実なんでしょう?
その花の贈り主でないなら尚更、貴女に花が増えるじゃない。こんな素晴らしいことはないわ」
プルネルはまるで我がことかのように喜んでくれた。リンファスもプルネルの言葉を受け止める。
そうか。花が増えたら、アスナイヌトへの寄進が今一輪の状況よりも良くなる。
今まで感じてきたような後ろめたさも少しは軽減できるかもしれない。
今までなかなか花乙女としての役目を果たせてこなかったから、寄進できる花が増えることは単純に嬉しい。リンファスの心が少し軽くなった。
「……そうね、プルネル。まずは、明日の朝、花を寄進するわ。
その後でもう一度花が咲いたら、喜ぶことにするわ」
「きっと咲くわよ。だって、貴女を見つけたイヴラですもの」
微笑んで言うプルネルに微笑みを返す。馬車はガタゴトと揺れて行った。