「実は、失恋したんです。でも、忘れられないんですよね。好きだった気持ちが、憎しみに変わってしまいそうで怖いです。彼女の家に行って話し合おうと思ってもずっと拒否されていて、新しい彼氏に怒鳴られました。俺に対してストーカー扱いですよ。いっそのこと刺し殺してしまって本当の犯罪者として彼女と名前をこの世に残したいなぁ」

「人間は忘れるように脳が作られているそうです。忘れられなかったり、そこだけ覚えているということも人間の悪い部分とも言えますし、いい部分とも言えますね」

「はじめてちゃんと付き合った彼女で、恋人らしいことは一通り楽しんだと思います」
 
「記憶というのは、美しく塗り替えられていくことが多いんですよ。ささいなケンカやむかっとしたことがあっても美しい思い出に塗り替えるのです。記憶は実に粋な計らいをすると思いませんか? だから、人間の体って面白いと思うのですよね」


「そんなあなたに深海の泡というカクテルを作りました」
「これが噂の創作カクテルですか?」
「人魚姫は失恋してしまい泡になって消えてしまうというお話を基に創作したカクテルです」

 差し出されたカクテルはビールのような泡が浮いており、炭酸の気泡が上に向かって消えていく。

「青いビールでしょうか? 珍しいですよね。赤いビールなんかもありますけれど」
 一口飲むと男はビールの苦みに気づく。見た感じは甘そうなのに実は、苦みを持ち合わせたカクテル。

「深海って不思議だと思いません? 長生きな魚、美しい色の魚、人魚がいてもおかしくないと思うんです。深海をイメージしています。中に入ったカラフルなゼリーは美しい魚のイメージです。心の深い部分の悲しみというのはなかなか取り除くことはできません。この深海の泡は自信作ですよ」

「きっといやなことを忘れますよ」



「マスター、今回のカクテルはどんな作用があるんですか?」
「彼女のことを全て忘れてしまいます」
「そんな……全部忘れたら、いい思い出も忘れてしまうじゃないじゃないですか」
「憎しみに変わる前に手を打たせていただきました。彼のような短絡的な考え方の方は犯罪に走るかどうかは紙一重なんです。いい思い出があるから、人間は執着するんです」
「忘れてしまったほうが幸せなことがあるのかもしれませんね」
「これで、明日の新聞に事件の記事が載ることはないでしょうね」