沈んだ気分だった。
だけど、僕は服を着て外に出る準備をする。
今日は雨が降っている。
やっと羽奏と会えて、その場で話せるのだ。
僕は重い足を引きずりながら東屋へと向かった。
東屋からバイオリンの音はしなかった。 
代わりに、羽奏がわくわくした表情で雨を眺めていた。
羽奏の姿を目に入れた瞬間、僕の心臓はどきりと跳ね上がる。
「……もしかして、羽奏、さん?」
対面で声をかけるのはほぼ初めてに等しかったので、僕は一応「さん」をつけた。
すると、羽奏は口角を少し上げる。
そして、カバンの中から小さなホワイトボードとペンを取り出した。
『律くん、だよね!羽奏です!』
交換ノートのままの、整った字体。
「よろしく、羽奏」
声は出せないけれど、羽奏はとても嬉しそうにしていた。
『律くんと出会えて嬉しいな!この際だからいろんな話しようよ!』
僕はこくりと頷いた。
心の中はまだ父さんの死のショックから立ち直れていなかった。
でも、羽奏といると、少しだけ暗い気分が晴れていく。
『前にも言ったけど、私の名前は夕凪羽奏!よろしくね!』
「僕は朝倉律。よろしく」
ぺこりと頭を下げると、羽奏も頭を下げてきた。
礼儀正し過ぎて、少し吹き出してしまう。
『一人っ子でお母さんはオペラ歌手で海外に行ってて、お父さんは歯科医師。この辺りに住んでるの』
羽奏の家族構成は、完全な人生勝ち組だった。
裕福すぎる家庭に、少し圧倒されてしまう。
「まさかお母さんって、夕凪優羽花(ゆうか)だったりする?」
夕凪優羽花とは、日本を代表する世界的オペラ歌手だ。
確かこの前ニュースでフランス公演をしていると聞いた気がする。
『うん!律くんよく知ってるね』
知ってるも何も、と言うと羽奏はケロッとして笑った。
声は、出ていないけれど。
『だからほぼお父さんとの一人暮らし。お母さんはほぼ別居状態だから音信不通だしね』
「寂しくない?」
家族がいない僕が聞くもんじゃないと知ってたけれど、聞いてみた。
『ま、私にとっての普通がそれだからさ。ある意味慣れっこかな』
音信不通と言ってるからには、連絡は取っていないのだろう。
まだ生きてるだけ、いいなと思うのに。
『バイオリンはお父さんが好きだったから教えてくれた。最近は一人でしか弾いてないけど』
「お父さん弾けるんだ。すごいね」
僕の父さんなんて、僕に嘘をつき続けて死んだのに。
『そうかな?まあ教えてもらったことは良かったと思うよ』
羽奏は考えが大人だなと感じた。
よく言えば客観的、悪く言えば一歩引いている。
『学校はサボってる。友達いないし。行く意義ないでしょ?』
「え、意外。僕も友達いないけど、単位と部活のために行くって感じかな」
高校にもなれば、単位を取らないと進級も卒業もできない。
部活は好きでやっているから休みたくはない。
学校に行くモチベーションなんて、そんなもんだ。
『まあ声出せない子とわざわざ友達になろうなんて、よっぽどの物好きだよ』
「……僕も?」
羽奏の言い方は、過去の経験を含んでいるような気がして、少し怖くなった。
僕も物好きだとしか思われてないのかと。
『律くんは違うかな。なんていうか、関わり方がさ、みんなと違う』
「ふーん」
少しコミュ障気味の僕からすれば、これはかなり頑張っている方だ。
まあ、羽奏に悪く思われていないのなら、それでいい。
『律くんって美術部?』
「うん。まあ真面目に参加してるかって言ったら嘘になるけど」
羽奏はふふふ、という感じで肩を揺らす。
『面白いね。こんな私でも普通に接してくれて』
「ありがとう」
羽奏と話していると、時間を忘れる。
いつもは長く感じる時間が、今日はとてつもなく早く過ぎるように感じた。
『律くんそろそろ帰らないと。暗くなったらこの辺街灯少ないから』
僕のことを気にかけてくれるのが、とても嬉しかった。
「そうだね。また会おう」
『うん!また雨の日に』
どうして雨の日なのか、聞こうと思ったけどやめてみた。
まだまだ羽奏とは会える気がする。
まだまだいっぱい話せる気がする。
僕にとって、羽奏がかけがえのない存在になるような気がなんとなくした。

その日からまた交換ノートは続き、僕らは他愛もない話をし続けた。

【律くん、律くん!
お父さんが機嫌悪いと思ったら虫歯だって。歯科医師なのにサボってたのかなぁ。
ま、私としてはすっごく面白かった!】

と羽奏が言うと。

【ま、お父さんも忙しいんだよ。
僕のところはいつもズボラだったからなあ。
あ、そう言えば今度、絵のコンテストがあるんだ。一応部活の顧問に参加するように言われてるからさ。
題材を何にしようか迷ってて】

と僕が悩みを打ち明ける。
あれ以来雨が全然降らなくて、会えない日は続くけれど、交換ノートのおかげで全然寂しくなかった。
羽奏に相談ごとをすると、いつも納得できる答えが返ってくる。
今まで頼れる相談相手というか、同年代の友達なんていなかったから、僕にとっては新鮮でしかなかった。

【律くんはいつもどんな感じの絵を描くの?
得意分野を描いたらいいと思うけど。
そうだ!前に律くんが描いてくれた絵、私の部屋の一番目立つところに飾ってあるよ!
ありがとう。死ぬまで大事にするね!】

母さんも父さんもいない家でひとり、僕は少し笑った。
部屋で一番目立つところに飾ってあるなんて、恥ずかしいけど、すごく嬉しい。
羽奏との交換ノートを読む時間は、とても楽しくて、幸せだ。僕に降りかかる現実から逃れさせてくれる、唯一の時間でもある。
しかし、現実とはやっぱり向き合わなければいけない。

次の日。晴れていたので学校に行き、家に帰ると玄関に一人の女性が立っていた。
「よっ、律。おかえりなさい」
「叔母さん!お久しぶりです」
それは母の妹であり、僕の叔母にあたる人だった。
両親を失った今になっては、血縁関係にある唯一の人という言い方もできる。
叔母さんを家に迎え入れつつ、来るということは何かあったんだろうなと身構えた。
「律、遅かったけど部活?」
「美術部」
「昔から絵描くの上手かったもんねー」
叔母さんは学生時代はヤンキーだったらしく、時々姐さんっぽくなる。
「一人暮らしどうよ?」
「叔母さんもでしょ」
そして結構な美人でモテそうだが、本人が恋愛に興味がなく、一人暮らしをしているという変わり者でもあった。
「あんたとは違うわよ!私は働いてるからね!で?どうなの?」
「困ったことはないですけど。可もなく不可もなくです」
実はを言うと母さんが死んだ後、父さんは帰りが遅くなって来ていたのでほぼ一人暮らしみたいなものだった。
「単刀直入に言うけどさ。律、あんたはうちに来る気ある?」
「……どういう意味ですか?」
意味は分かっていた。
でも、聞き返すしかなかった。
「あんたをうちで引き取ることを考えてる」
「……なんでですか?」
僕は充分一人で生きられるのに。
別に、他の人の力を借りなくったって。
「あんたの母さんに頼まれたからさ。死に際に」
僕はぐっと唇を噛んだ。
まただ。
また母さんは、僕にだけ嘘をついて、周りと嘘を隠し通すために口裏合わせして。
僕だって、何かできたのかもしれないのに。
「……嫌です。帰ってください」
僕はそう言って、自分の部屋に篭った。
母さんが信じられない。
父さんが信じられない。
なによりも、嘘をつかれていたことを気づかなかった自分が信じられない。
もう、誰にも裏切られたくない。
だから、一人で生きたい。
二時間ぐらい経っただろうか。
リビングに降りていくと、

[また来る]

という置き手紙を残して、叔母さんは帰って行った。