これは、ずっと僕に本心を隠し続けた、優しい優しい嘘つきの君の物語。

静かな雨が降る、金曜日のことだった。
僕ー朝倉律は満員電車の中、持病である偏頭痛に苦しんでいた。
学校に行くのも諸事情があって辛く、頭が痛くなってきた瞬間、思ってしまった。
今日は学校を休んでもいいじゃん、と。
だから僕は、普通しか止まらないような、名前も知らない小さな駅で電車を降りた。 
改札を抜けると、下町の世界が広がっていた。
しかし、商店街とみえる通りの店のほとんどは閉まっていて、人の気配が全くしない。
廃れた町、という雰囲気が少し気に入った。
と、どこからか不意に、バイオリンの音色が聞こえてきた。
距離が遠いようでとても小さな音だが、繊細さや奥に秘めた芯の強さが窺える。
僕はふと、こんな素敵な音色を奏でられる人に、会ってみたいと思った。
雨の中にかすかに聞こえるバイオリンの音を頼りに、街中を歩き回る。
三十分ぐらい彷徨っていると、音がだんだん高くなってきた。
僕が求めていた演奏者がいたのは、住宅街の真ん中、小さな公園の東屋だった。
目をつぶって、リズムに体を揺らしながら、楽しそうにバイオリンを演奏している。
驚くべきことに、こんな哀愁漂う物寂しい音色を奏でているのは、まだ僕と同じぐらいの年齢に見える少女だった。
もう少しだけ、この音色を聴いていたいという気持ちになり、僕はその少女から少し離れたところに座った。
少女は、こんなにも素敵な音色を奏でることができるのに、とても苦しそうな顔をしている。
僕は、少女を真似して目をつぶって、神経を耳にだけ集中させた。
体に響いていた音色が、心にまで響き渡ってきた気がした。
「……………!」
音が止まった、と思って目を開けてみると、ひどく怯えた顔の少女がこちらを向いていた。
「あ……すみません、勝手に聴いてしまっていて」
少女は力無く首を振り、バイオリンを大切そうに胸に抱えながら、雨の中走っていってしまった。
「……あっ、あの!すごく、素敵な音色ですね!」
僕が言ったことは少女に伝わったのかはわからない。
けれども、僕の心は間違いなくその少女に持って行かれていた。
「描こうかな」
僕はカバンからいつも持ち歩いているスケッチブックを取り出す。
一応美術部で活動している僕は、人をスケッチするのが好きだった。
先程の少女を、瞼の裏に思い浮かぶ。
美しく、強く、でもとても寂しそうで。
そして、雨の中で唯一光っているようだった。
「……綺麗な子だったなぁ」
僕は思いが晴れるまでその東屋で絵を描き続けた。

「……やっば、忘れた」
自分の家に帰った後、僕は一人焦った。
いつもスケッチブックだけは絶対にカバンに入れるようにしているのに。
僕は、結構自信のある出来に仕上がったあの少女を描いた絵も入っているスケッチブックを東屋に忘れてしまったのだ。
父子家庭である僕は、基本一人暮らしだ。
母は数年前に病気で亡くなった。そして父は酒に溺れるようになり、ついこの前事故に合い、今は集中治療室で生死の間を彷徨っている、らしい。
正直言って僕は父のことが嫌いだった。
だから見舞いなんて一度も行ったことがなかった。
「取りに行こう」
多分、取りに行って帰るだけだと三十分ぐらいで済むだろう。
それだったら別に、明日にも影響はない。
僕はスマホと鍵を片手に家を飛び出した。
電車の中では、高校生がこの時間に一人で乗っていることへの好奇の視線が寄せられたが、特に嫌だとは思わなかった。
そしてさっきの駅で降り、東屋へと向かった。
「よかった、あった!」
僕のスケッチブックは、そのままの場所に置かれていた。
ただ、違ったところと言えばスケッチブックの上に見覚えのないノートが乗っかっていたのだ。
ゆっくりとその一ページ目を開くと、そこには丁寧な文字がびっしり並んでいた。

【この絵を描いている方へ。
私は今日、この東屋でバイオリンを弾いていた、夕凪羽奏と申します】

「ゆうなぎわかな……でいいのかな」
いかにも音楽が好きそうな名前だな、と僕は思う。

【今日は急に帰ってしまってごめんなさい。
私実は声が出せなくて。久しぶりに人と会ったからびっくりしてしまったんです】

声が出せない、ということも十分引っかかるが、それよりも『久しぶりに人と会った』ということに違和感を覚えた。

【とっても素敵な絵ですね!私は雨が降ったらこの東屋にいますので、また会えることを楽しみにしています】

絵が褒められたこと、そしてまた会えることを楽しみにしてくれていることが嬉しくて、僕はノートに挟まっていたペンで返事を書くことにした。

【僕の名前は朝倉律です。羽奏さんのバイオリンの演奏こそ、とても素敵でした。
また会えることを、僕も楽しみにしています】

ちょっと冷たいかな、とか色々考えたけれど、なんてコミュ障気味の僕だから、こんな感じでいいか、ということになった。
今度会った時に、色々話せばいいや。 
そして僕は、ノートとペンを東屋に残し、家に帰ることにした。

次の日。
残念ながら雨は降らず、父から『学校に行くように』というメールも届いていたので学校に行くことにした。
まあ、今日は元々部活があるので学校に行く予定ではあったけれど。
そしていつも通り存在を消しながら六限まで授業を受け、美術室へと向かった。
部活の時も、基本個人活動なので人とは話さない。
昨日、羽奏さんを描いた絵に少し色を付け加える。
すると、上出来だと思っていたものが、もっと納得いくものにもなった。
「見せてあげたいなあ」
ふとそう感じた僕は、部活を早めに終わらし、スケッチブックからその絵だけを切り取った。
そして昨日の東屋へと向かう。
やっぱりベンチにはノートとペンが置かれていた。

【朝倉律、ってとても素敵な名前ですね!律くんって呼んでいいですか?
私のことは呼び捨てでもいいですよ。っていうか、呼び捨てで呼んでほしいです】

短い文章だったけど、心がぽかぽかと温まった。
返事を書こう、と僕はベンチに腰掛ける。

【羽奏が呼び捨てなら、僕も呼び捨てで呼んでよ。
この前描いた絵、気に入ってくれたみたいだから、ノートに挟んでおくね。
失礼かもしれないけど、あれは羽奏をモデルにしたものだから、君の元にあった方がいいと思うんだ。
もしいらなかったらノートに挟んだままにしておいてください】

いきなり呼び捨ても馴れ馴れしすぎるかなと悩んだけれど、相手がそう呼んでほしいと言ってるのだから、いいかなと思った。
ちなみに、女子の名前を呼び捨てするのは僕の人生で初めてだ。
一言付け足しておこう、と僕はもう一度ノートを開いた。

【また、会えますように】

そしてノートを置いた瞬間、僕のポケットに入っていたスマホが震えた。
「はい、朝倉ですが……」
それは、父が入院している病院からの電話だった。

「容態が急変して……最善を尽くしたのですが、本当に申し訳ありませんでした」
集中治療室で僕は医者にそう言われた。
「……いえ、最後まで治療していただいて、本当にありがとうございました」
医者も看護師も、なぜ今まで僕が訪ねてこなかったのか、誰も聞いてこなかった。
そしていろいろな書類などを書き終えた後、一人の看護師が僕に駆け寄ってきた。
「私は、朝倉さんの担当をしていた山瀬と申します」
山瀬さんは、落ち着いた口調で言った。
「どうしてお父さんに会いに来なかったの」
初めて、聞かれたことだった。
会議室の中に気まずい沈黙の時間が流れる。
山瀬さんの優しい眼差しに、僕は負けた。
「……僕は父を許せなかった」
本当は、前までは、父さんが大好きだった。
いつも笑っていて、僕がどれだけひ弱でも、優しく支え続けてくれた。でも。
「母さんが死んだ後、父さんが辛かったのもわかるけれど、隣にいてほしかった」
何も言わなくていい。
父さんがいるという安心感が欲しかった。
「だから、事故に遭った時、絶対見舞いには行かないって決めた」
山瀬さんの方をチラッと見たけれど、彼女は何も言わなかった。
「なのに、なんで、なんで先に……僕だけを残して……逝ってしまうんだよ」
「……そっか」
あんなに嫌っていたはずなのに、何故か涙が出てきて止まらなかった。
「後悔、してるんです。僕の方こそ父さんの隣に、いなきゃいけなかったのに……」
山瀬さんは、ゆっくりと僕の背中を撫でた。
「朝倉さんね、昨日はとても容態が安定していたの。きっと朝倉さんはあなたのことを愛していたと思うよ」
そして山瀬さんが僕に差し出したのは、一冊の封筒だった。
それは、父さんが僕に遺した唯一のものだった。
僕は、家に帰ってゆっくりのその封を開けた。

[律。ごめんな。こんなダメな父親で。
母さんが死んだ後に、もっと支えてやるべきだったよな。
だから嫌われても仕方がないと思う。
でもひとつだけ言わせてほしいことがある。
実は母さんは、ずっと病と闘っていた。お前が生まれた時から、ずっと。
母さんはな、お前のためを思ってそれを言わなかった。
それだけは、分かっておいてくれ。
律。お前は真っ直ぐ生きろよ]

なんでそんなことを今、言うんだよ。
なんで僕だけを、騙し続けたたんだよ。
なんで、そんなことをしておいて真っ直ぐ生きろなんて言えるんだよ。
なんで、なんで、なんでー
その日の夜から、静かな雨が降り始めた。