普段の私ならきっと「仕事だからしょうがないか」と、ため息1つくらいはついただろう。
だけど、この日の私は「社長が誘ってくれた」というだけで、 今までにないようなわくわくした気持ちになった。
他のメンバーが誘ったてきていたら、間違いなくこんな風には思わなかった。
この会社の最初にして最後の飲み会だったので、どんな雰囲気になるのか、私は実は知らなかった。
これがまあ……酷い。
この会社は、わざと酒癖が悪い人を集めたのだろうか。
泣きながら恋人の愚痴を言う人。
こんこんと、説教ばかり壊れたからくり人形のように繰り返し呟く人。
何が面白いのかにもわからない話題に対してもケラケラケラケラ笑ってい人。
そんなカオスに巻き込まれるのが嫌だった私は、配られた紙コップに注いだ、唯一飲める梅酒をちびちび口にしながら、どうにか傍観者でいられる努力をした。
社長は、私とは正反対の位置に座っていた。
落ち着いた物腰で、ただひたすら、一本のワインをずっと飲んでいた。
よっぽどそれが気に入ったのだろうか。
社長はそのボトルを誰とも共有せず、少し注いではじっと眺め、一口飲み、社員の話を聞いて、笑って、一口飲む。
そんな、丁寧に味わうようなの飲み方をしていた。
他の人間が激しい飲み方をしていたせいもあるのだろう。
余計に、そんな彼の姿が目立った。
せめて、飲むなら片付けくらいして帰れ……!
終電間近で、皆が次々と
「ようしもう一軒いくぞ!」
と言ってぞろぞろと 会社を出て行った。どれだけ飲むんだろう……。
残ったのが私と社長だけ。
「やれやれ」
と言いながら、他の人間が食い散らかした後を片づけを始める。
私もそれに続く。
「最後の最後まですみませんね。」
「もう慣れました」
半ば諦めの気持ちで呟くと
「君がいなくなるのは、本当に寂しくなりますね」
「そんなこと言って、私のこと社員としては雇用できないって言ったじゃないですか」
就活の時、周囲がインターン先から次々内定をもらっているうのを見たので、私も社長に直談判したことがあった。
まさか、少しの猶予もなく却下と言われるとは思わなかった。
その時のことは、
「こんなに頑張ってもこの会社の社員として認めてもらえないのか……!」
と悲しくなり、家のぬいぐるみに八つ当たりしたのでよく覚えている。
その証拠に、ぬいぐるみの頭が少し凹んでしまった。
社長は困ったように、
「こんなところよりも活躍できる場所があると思ったから……」
「おかげで、落ち着いたところの事務職として入ることができましたけれども 」
「動物園じゃなく?」
社長が言った動物園とか、暗にこの会社の今のことを指している。
「自覚あるんですね」
「現実は認めるしかないですから」
社長が苦笑いをしたので、私はあえて、今日1番大きな声で笑って見せた。
あっという間に飲み会の場所で使った会議室が綺麗になってしまった。
もうここには来ないのかもしれない……。
離れ難くなってしまった私は、社長が帰り支度を始めたのを見た私は、考えることもせずに
「二次会付き合ってくれませんか?」
と言ってしまった。
時間は、もうすぐ次の日を迎えてしまう。
「もう帰った方が良いよ。終電でしょ」
「社長と話がしたいんですお願いです」
お酒の力は本当に恐ろしい。
ぺらぺらぺらぺらと、私はよく喋った。舌が乾くほど。
それほどまでに、社長の前からいつもの定時上がりの時のように颯爽と立ち去ることができなかった。
社長は、私に
「カバンを取ってきてください」と言った。
それから続けて
「コンビニのお酒で良いですか?」
とも言った。
コンビニのお酒という言葉の意味がわからなかったが、もう少し社長と一緒にいられるということだけが嬉しく、私は、この会社に入って初めてのスキップをした。
ぽつぽつとと小雨程度だった雨が、シャワーのように強くなる。
私の顔と体は汗で濡れているのか、雨で濡れているのか、とうとうわからなくなった。
とうやく最近慣れ始めた、体の不調を隠すためのナチュラル風メイクは、すっかり落ちてしまっただろう。
不摂生により、吹き出物や目の隈だらけの自分のスッピンを、すれ違う人に見られたくなくて、俯いた。
あの日、社長に気づかれないようにこっそりスキップした道を、私は脇目も振らず全力疾走していた。
すれ違う人々は皆、自信ありげに走るトレーニング姿の人や、相合い傘を楽しむカップルばかり。
きっと、私のような惨めな思いをしながら、この場所を通る人はいないだろう。
悲しさを振り切るように、入社したばかりの頃に買ったオフィススーツが雨に濡れるのも気にせず、脇目も振らず、より全力疾走していた。このまま息ができなくなって、倒れてしまえればどんなに楽か。
気づけば、古くからある落ち着いた高級住宅街を走り抜け、目黒川を見下ろせる、あの公園に来ていた。
あの飲み会の日、コンビニでお酒を調達した後にフラフラとたどり着いた思い出の場所。
ベンチに座って、地元よりは見えないけれど、雲一つない星空の下、風を受けながら飲んだ100円ちょっとのレモンサワーは、居心地の悪い密室で飲む、ちょっとお高めお酒よりずっと美味しいと思った。
紫陽花がすで咲き始めていた。
その色は、紫よりも青に近い、白とのグラーデーション。
もしかすると、今1番見たくなかった色だった。
色が移ろいゆく様子から、浮気を意味する花言葉。
「やっぱり、そういうことなのかな……」
あの日、互いの幼少期の話から、中高時代に流行していたマンガの話など、初めて仕事以外の話をした。
こんなふうに自分の事を話したのは 面談の時以外なかったのではないか それくらい私たちはお互いに無関心すぎた。
すでにスマホの時計は3時を回っていた。もう終電で帰るという選択肢など消えており、4年もの間、何故こんなことを聞かずに今日まで来られたのか、と思うほど、たくさんのことを語り合った。
「この会社は楽しかったですか?」
社長がふと急に、こんな事を言ったのは、もう夜が明け始め、紫から赤紫のグラデーションが美しく広がる空になった時。すでに眠気のピークは消えていた。
「どうしたんですか?急に」
お酒の力もあったのか、横に座っていた社長の太腿に、自然とボディタッチができるまでになっていた。
「僕は、君に甘えすぎて、大学生活のほとんどを奪ってしまったと思ったんです」
「いきなりなんですか?」
「僕は、君にこの会社に来てもらえて良かった。本当に助かったんです」
「それなら、いいじゃないですか」
「でも、君にはもっと良い場所で、大学生活を楽しむチャンスがあったはずなのに、僕のせいで奪ってしまったんじゃ……」
私は、社長の顔に自分の顔を自然と近づけていた。
「私が好きで選んだことを、何故社長に否定されないといけないんですか」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあ良いじゃないですか」
そう言うと、これもお酒の力だろうか、自然と社長の体に抱きついていた。
社長が、私も好きな柔軟剤を使っていることを鼻腔で知り、体が熱くなった。
「私、社長と一緒に4年間過ごせたこと、本当に良かったと思ってます」
私がそう言うと、社長が私の体を力強く抱きしめてくれた。
その後は、少し歩いた先にある、社長の一人暮らしのアパートに一緒に行き、玄関先で無我夢中で体を互いに貪りあった。
人との距離を当たり前に取っていた私が、人と距離が全くないことの安心感と心地よさを知った。
私も新社会人としての新しい生活が始まり、彼も会社の状況が一気に変化した。
恋人という立場になったものの、肉体関係を結んだのはたった1度だけ。
ラインでのやりとりが中心になり、近況報告を兼ねた食事をすることだけのデートばかりを重ねていた。
新人研修が落ち着いた6月。鎌倉に行った。彼のリクエストだった。
1つ1000円以上もするジェラートをビクビクしながら二人で分け合って食べたあと、紫陽花が有名なお寺を二人で手を繋いで登った。
その時に言われたのが「しばらく会えなくなる」ということ。
会社を立て直すことに集中しないといけない、本当に申し訳ないと頭を下げられてしまい、私は何も言えなかった。
この時、私も社長に聞いて欲しいことがたくさんあった。
せめて姿だけでも見られれば、声だけでも聞ければ、それだけで次の日も頑張ろうって思えたはず。
せめて15分でも話したい。
会いたい。
私の話を聞いて。
言いたいことが喉に突っかかって、唾と共にお腹に押し込まれる。
彼の悲しい顔だけは、どんな困り顔よりもずっと見たくないものだったので、私は「大丈夫です」の一言だけ返し、無言でそれぞれ家路についた。
それからの1年、ほとんど連絡取らないまま、今日まで来てしまった。
私は今日、休職届けを出した。
新卒の時期に頑張りすぎたことでうつ病を発症することはよくあることなのだ、と励ましてくれた人もいた。
けれど、私が励まして欲しかった人はその人ではなかった。
ここに来てしまったのは無意識だった。
気がついたらいた。
扉を開けていた。
そして見ていた。
見てしまった。
彼の1年ぶりの笑顔を。
綺麗な女性との二人きりの姿を。
ああ、お似合いだ、と思った。
「立て直さなきゃいけない」
と、紫陽花の色のような蒼白な顔色をしていた社長は、もういなかった。
もう、立っているのも辛い。
倒れそう。
「雨音!」
後ろからぐいっと引き寄せられる。
あの日以来、こっそり使っている柔軟剤の香りがした。
「雨音!どうしたんだ!?」
「社長……?なんで……」
「とにかく、僕の家に。話はそれからだ」
社長の洗い立てのシャツを身につけた私は、地べたの座り、出された紅茶の湯気も揺らめきを眺めるだけだった。
「久しぶり……」
その言葉がふさわしいほどに、私達は会っていなかった。
「まだ、会社の時間だろう?オフィスに来てくれるなんて驚いたよ」
念願だった彼との二人きり。手を伸ばそうとすればすぐに触れられる。
だけど、これは雨の日の紫陽花が見せた一時の夢かもしれない。
オフィスに帰ればあの女性がいる。
「嫌いになりたい」
思ったよりずっと、声になってしまった私の吐息。
「え?」
「もう、社長のこと、嫌いになってもいいですか?」
嫌いになってしまえば、寂しいことも、その後起きた会社での辛いことと、それを一人で耐え続けなくてはいけなかった虚しさ、苦しさが全て消えるような気がした。
「……何があった」
「……綺麗な人ですね」
「え?」
「オフィスにいた人」
思い当たったのか、苦い顔をした。
「もう、あの人が良いんですよね」
「ちょっと待ってくれ」
「あの人がいるから、私と連絡取れないのがむしろ都合がいいと思ってたんですよね!」
抱えていた不安、恐怖、衝撃がすべて混ざり合って、爆発したかのように、私の口から罵倒が飛び出した。
「社長は、私のこと一切気にならないから、連絡取らずにいてもなんとも思わなかったんでしょ!?」
「それは、仕事が……」
「なんで私ばっかり我慢しないといけないの!私だって、苦しかった。慣れない社会人生活で、アドバイス欲しいこともあったし……だめならせめて声だけでも聞きたかった。でも今が大事な時だって知ってたから我慢した。我慢して我慢して……なんで……私が……」
社長がどんな表情をしているか分からない。でも、もういい。
「社長、もう嫌いになってもいいですか……?」
顎を引き寄せられたと思うと、社長がキスをしてきた。
私の言葉を遮るような、宥めるような激しくも優しいキス。
そして、そっと唇を離すと大きなため息を溢す。
「あの人は、僕の経営を手伝ってくれてる人で……小学生のお子さんがいるんだ」
「……え?」
「だから、あの人と僕がどうこうなるとかは……ないんだけど……」
「え、でも楽しそうに笑って……」
「実は、仕事がひと段落ついたんだ。大きな契約が今日終わって」
「え?」
「それで……言われたんだ……『やっと彼女さんに会いに行けますね、あーうらやましい』って……」
「嘘……」
「そんな時だよ、君が去っていくのが見えたのは……どうしたんだろうとは思ったけど……」
「誤解……だったの?」
「ごめん。君なら何も言わなくてもわかってくれるって、甘えてた」
返事をしないと。でも、声にならない。涙がこぼれて止まらないから。
ようやく欲しかった言葉をくれたから。
「今日は……ゆっくり話そう。雨が止むまで」
「……今日だけ?」
私は、ふてくされた声で言う。
「……今日も、かな」
「じゃあいつまで……?」
彼がもう1度キスをしながら
「これから相談しよう。だから……君に嫌われない方法を教えてくれないか?」
雨はまだ、止みそうにない。