昼から夜への移り変わりの時間。
晴れていれば、美しい曙のグラデーションが広がっていたであろう時間。
梅雨に入ったばかりで、ごまミルク色の雲が一面に広がっている。
そんな中で、私はどうして今日ここへ来ることを選んでしまったのだろう。
大学生活のほとんどをここで過ごした…と言っても過言ではない、渋谷の一角にあるマンションの一室。
もう都会生活6年目に入るにも関わらず、決して垢抜けない私とは違う、都会がとてもよく似合うスーツ姿の綺麗な女性が、彼と楽しそうに笑っていた。
オフィスの中には、2人以外は誰もいなかった。
他の社員は、きっとお昼に出かけているのだろうか。
せめて ドアがしまっていればよかったのに。
私はインターンとして。
彼は起業したばかりのベンチャー社長として。
そもそもお金を支払う立場と支払われる立場として、私たちはこの小さなオフィスで出会った。
決して馴れ合うべき関係ではなかったのだろう。
そんなことを考えながら、私はその場から立ち去った。
大学構内の掲示板で求人が、運命を連れてきた。
決して聞いたこともない企業名。正直言えば、第一印象は「怪しすぎる」だった。
何故なら、その時見つけた求人に書かれていたのは、地元では見たこともないほどの高い時給だったから。
けれども、田舎から出てきたばかりの、なけなしの仕送りだけで生活をやり繰りしないといけない私には、大学入学直後の出費は命に直結した。削れるのは食費と光熱費くらい。
そしてその時の私は、毎日日給のチラシ配りをしなくては、サークル費どころか教科書代すらも払えないほどお金に困っていた。
体力も、限界に来ていた。
「自分の命には代えられない」
そう考えた瞬間、その場で問い合わせメールを送ってしまっていた。
社長の第一印象はとても物腰の柔らかそうな人。
だけどこの人とは結婚しないだろうな、という人だった
ぼさぼさの髪の毛。
顔に似合っていないダサいメガネ。
目の下には大きなクマ。
そして 少し黄ばんだヨレヨレのシャツ。
これが合コンであれば、速攻でお見送り案件だったろう。
唯一の交換ポイントは、髭だけは跡がのこらないほど綺麗に剃っていたことくらい。
社長は「これまでのようにはなかったまだ誰も見たことがないサービスを生み出したい」と、熱い夢を持っている人だった。
「自分の会社は起業したてで、正直今は冬の極みだ…どうすればまともな会社になるのか全くわからない」
「はあ」
こんな弱みを、普通面談の初対面で話をするだろうか?
しかも、それだけではない。
「君ならどう解決する?」
と、解決法まで求めてきた。
冬の極みの意味は、いまいち理解はできなかったものの
「だって別にそれができないからといって……とても困るわけではないですよね、誰かが死ぬほど」
と私はどストレートに思ったことを返した。
その答えに彼は
「そうだね。死ぬほどじゃないかもしれないけど……」
と、言葉尻を濁したが、少しだけ笑ってはくれた。
社長の目がその時だけはとても目が輝いていたことだけが、面談が終わった後に残った唯一の私の記憶だった。
それから家に着いた頃だった。
面談の最後に交換したLIMEに社長から
「いつから入れる?」
とだけメッセージが入ってたのは。
時給目当ての私は「すぐにでも」と返信した。
その結果、なんと次の日から勤務をすることになってしまった。
普通大学生にここまでの権利を与えるのだろうか。
せいぜいちょっとした書類整理とか、電話番をするとか、その程度の仕事くらいかな……となんとなく程度で考えていた。
けれども実際に入ってみると、その予想は覆された。
サービスの企画から取引先との打ち合わせまで、ありとあらゆる業務をこなすことになっていた。
といっても私がすることは、パソコン一つでできる資料作成くらいなのだが……その量が桁違い。
大学のレポートの10倍は作成したのではないだろうか。
何故ならば、この会社に居るのは社長と、数名のITエンジニアくらいで、事務作業が出来る人が自分以外いなかったから。
最も驚いたのは、お給料の振り込み忘れがあったこと。
聞いていたはずの日付にお給料が振り込まれていなかった。
「どういうことですか」
と社長を問い詰める私に、
「あれ振り込んだはずなのに、おかしーな」
と 慌てふためきながら 書類を探している社長。
その様子を見て、反射的に
「私がやりましょうか」
と言ってしまった。
それからは、経理や 総務と言った、会社の中枢に係る業務までこなすことになってしまった私。
もう少し大学生活を楽しむことができるバイトがあったのではないだろうかと何度も思った。
テニサーなど、 文化祭が盛り上がるような、サークルに入って、彼氏でも作り、旅行をしたり、同棲生活も挑戦するとか……。
そういった普通の大学生らしいことができたらどんなに良かったのか……と思ったことも、1度や2度ではない。
でも、このバイトのおかげで、お金にはそこそこ困らず、就職活動もそこそこのところなら内定が出たので、それについては感謝している。
インターンとして勤務したのは丸々4年。社長と私が言葉は交わす内容のほとんどは、仕事に関することだけ、
社長からは指示をもらい、私はロボットのように「はい」「かしこまりました」と返事をするだけ。
まるで、工場機械のようなもの。
その間、社長が何に苦しんだのか、普段何を考えているのか……ということは、一切知ることはなかった。
逆に、私が何が普段考えているのかなんて、彼は一切聞かなかった。
インターンが終われば、それで社長との関係が終わると思っていたから。
そうして、気がつけば大学を卒業する時がやってきた。
4年の間にインターンや社員の人数が増えて、 高校のクラス1個分の人数規模になっていた。
社長が目指す方向性に共感をしたというインターンは、皆私と違って夢を追いかけているような、ギラギラした目を持つ人たちばかり。
一方の私はと言えば。
のんびりと暮らしたい、困らない程度のお金があればそれでいいくらいにしか思っていなかった。
そのせいか、他のインターンとは距離ができていた。
でも、社長だけは、そんな私のことを気にしてくれていたと思う。
無理に飲み会に誘うことも、社長はなかった。
ある時、他のメンバーが私に対して
「もっと明るく!ハッピーオーラだしなよ」
「こっちのチームに居るんだから、大きな夢を持たなきゃダメだよね」
という意見を押し付けようとしたときもあった。
その時も社長は
「人はそれぞれなんだから、別にいいじゃない」
一言だけ言ってその場を収めたこともある。
そんな社長が、唯一私を誘ってくれた飲み会と言うのが、社内で簡単に行う卒業飲み会だった。
普段の私ならきっと「仕事だからしょうがないか」と、ため息1つくらいはついただろう。
だけど、この日の私は「社長が誘ってくれた」というだけで、 今までにないようなわくわくした気持ちになった。
他のメンバーが誘ったてきていたら、間違いなくこんな風には思わなかった。
この会社の最初にして最後の飲み会だったので、どんな雰囲気になるのか、私は実は知らなかった。
これがまあ……酷い。
この会社は、わざと酒癖が悪い人を集めたのだろうか。
泣きながら恋人の愚痴を言う人。
こんこんと、説教ばかり壊れたからくり人形のように繰り返し呟く人。
何が面白いのかにもわからない話題に対してもケラケラケラケラ笑ってい人。
そんなカオスに巻き込まれるのが嫌だった私は、配られた紙コップに注いだ、唯一飲める梅酒をちびちび口にしながら、どうにか傍観者でいられる努力をした。
社長は、私とは正反対の位置に座っていた。
落ち着いた物腰で、ただひたすら、一本のワインをずっと飲んでいた。
よっぽどそれが気に入ったのだろうか。
社長はそのボトルを誰とも共有せず、少し注いではじっと眺め、一口飲み、社員の話を聞いて、笑って、一口飲む。
そんな、丁寧に味わうようなの飲み方をしていた。
他の人間が激しい飲み方をしていたせいもあるのだろう。
余計に、そんな彼の姿が目立った。
せめて、飲むなら片付けくらいして帰れ……!
終電間近で、皆が次々と
「ようしもう一軒いくぞ!」
と言ってぞろぞろと 会社を出て行った。どれだけ飲むんだろう……。
残ったのが私と社長だけ。
「やれやれ」
と言いながら、他の人間が食い散らかした後を片づけを始める。
私もそれに続く。
「最後の最後まですみませんね。」
「もう慣れました」
半ば諦めの気持ちで呟くと
「君がいなくなるのは、本当に寂しくなりますね」
「そんなこと言って、私のこと社員としては雇用できないって言ったじゃないですか」
就活の時、周囲がインターン先から次々内定をもらっているうのを見たので、私も社長に直談判したことがあった。
まさか、少しの猶予もなく却下と言われるとは思わなかった。
その時のことは、
「こんなに頑張ってもこの会社の社員として認めてもらえないのか……!」
と悲しくなり、家のぬいぐるみに八つ当たりしたのでよく覚えている。
その証拠に、ぬいぐるみの頭が少し凹んでしまった。
社長は困ったように、
「こんなところよりも活躍できる場所があると思ったから……」
「おかげで、落ち着いたところの事務職として入ることができましたけれども 」
「動物園じゃなく?」
社長が言った動物園とか、暗にこの会社の今のことを指している。
「自覚あるんですね」
「現実は認めるしかないですから」
社長が苦笑いをしたので、私はあえて、今日1番大きな声で笑って見せた。