翌日、桐壺に顔を見せた千寿丸はしょげた表情をしていた。咲子を見るなりぺこりと頭を下げてくる。
「ごめんなさい、手紙は見つからなかったのです」
「いいのですよ、よく教えてくださいました。手紙がないことが分かればそれは一つの大きな成果です。千寿丸様、本当にありがとうございました」
「私はお役に立ちましたか? 本当に? よかった、藤壺の女御に叱られた甲斐がありました」
 ぺろりと舌を出す千寿丸に、咲子は心配そうに声をかける。
「それは……! 恐ろしい思いをさせてしまって申し訳ありません」
「ううん、違うのです咲子殿。抽斗を開けたから怒られたのではありません。藤壺の女御は自分が出した菓子を私が美味しそうに食べなかったのが気に入らなかったみたいなのです。もちろん美味しかったですよ、だけど、菓子というものは、そのものの味よりも誰と食べるかが大事なのだと思いました。咲子殿と食べる菓子の方が、ずっとずっと美味しいのですから」
 千寿丸の言葉に咲子は顔をほころばせる。
「あら、そう言うことでしたらお菓子を出さないわけにはいきませんね、生憎今は唐菓子しかないのですけれど、よろしいでしょうか?」
「もちろん、私は唐菓子が大好きです! なにより咲子殿と一緒に食べる菓子が好きなのです」
 女官が菓子を運んでくると、千寿丸はそれを美味しそうに頬張った。咲子はその様子を微笑ましく思いながら、一方で手紙のことを考える。予想していた通り手紙はなかった。
 手紙が見つからない今、他に藤壺の女御が犯人であると裏付けるものは何があるだろう――。仮にあったとしても、危ないものはすでに処分していることでしょう。ならば、どうすべきだろうか――。
 恐らく、時間はあまりない。帝が必死に左大臣の意見をはねのけてくれたとしても、犯人が自分であるとされている以上、いずれ処分は下される。
「私も、出来ることをしなければ」
 咲子は思い切って行動を起こすことにした。

 帝は昨夜の咲子との短い逢瀬のことを思い出していた。幸せな時間は矢のように過ぎてしまうものだと口惜しく思う。
 咲子が自分のことを心から心配してくれていたのが嬉しかった。生まれてから今まで、幾度も命を狙われたことはあったが生きていることを喜ばれたことなどない。そんな帝にとって、自分のことを想ってくれる咲子の存在はいっそうかけがえのないものになっていた。
 わずかな時間であっても咲子の優しさに触れたことで、帝の心はいくらか穏やかになっていた。自然と頭もすっきりとして、考えが整頓されてくる。 
 自分に毒を盛ったのは咲子であるという嘘は、朝廷においても後宮においてもあたかも事実であるかのように広まっていたな。噂が広まる早さが異常なまでに早い。まるで初めから用意されていたような早さだ。堀川の女御が咲子に罪を着せたときと状況が酷似しているような気がする。誰かが、意図的に噂を流しているに違いない。咲子が犯人であるはずがない。真犯人の目星はついているのだ。こちらも早く手を打つ必要がある。
「帝、お呼びでしょうかな?」
 清涼殿に姿を見せたのは左大臣よりもいくらか若い壮年の男だった。精悍な顔つきの男は、帝の前に跪く。龍が信頼のおける人物だといっていたのがこの男だ。  
「朝早くから呼び出して悪かった。右大臣、折り入って相談したいことがある」
「概ね内容は予想が付きます。例の毒のことでしょう?」
「話が早くて助かる。その毒、誰がどこから入手したのか調べてほしい」
「えぇ、桐壺の更衣が毒を入手することは不可能であったでしょう。誰がどこから手に入れたのか、真犯人を突き止めて見せましょう」
「頼む。そして、もう一つ、頼まれてほしいことがある」
「なんでしょうか?」
「犯人を炙り出した後のことだ」
 帝は右大臣に今後の計画を話し始めた。話しの全貌が分かると、右大臣は満足そうに笑みを浮かべ、大きく頷いた。
「それは、私にとって願ってもないお話でございます」
「おまえのことを信頼して託す。成功したあかつきには龍とともにおまえを大きく取り立ててやろう」
「ありがたいことです。確かに承りました」
 右大臣は深く頭を下げると、清涼殿を後にした。
 代わりに咲子を守るよう言いつけている中将が入ってきた。仮眠をとるために、他の者と交代してきたのだ。夜間帝と入れ替わり、その後眠ることなく咲子についていた中将はひどく眠そうな顔で欠伸をした。
「おいおい、仮にも帝の御前だろう?」
「大丈夫だろ、おまえがそういうことを気にしない帝だってことは俺が一番よくわかっているんだ。眠る前におまえの顔を拝んでおいてやろうと思って来てやったわけだ。俺のおかげで昨日は愛しい奥方に会えたのだろう? 感謝しろよ」
「あぁ、感謝している」
「幸せそうな顔をしやがって」
 中将は呆れたように肩をすくめながらも、嬉しそうな顔をした。それから帝のそばに跪くと、耳打ちをする。
「桐壺の更衣は自分で犯人探しをするつもりだ。恐らく、おまえと同じでおおよその見当はついているのだろう。まぁ、無理もない」
 中将の言葉に、帝は慌てた。
「だめだ、証拠もないのにことを荒立てるのは無謀というもの」
「俺もそう思うけどな。なにやら左大臣から女御宛に届いた手紙が怪しいと思っているらしい。その手紙はもう焼いてしまっているだろうと話したのだがな」
「手紙か……」
 帝は以前左大臣と藤壺の女御が話していた内容について思い出した。
万が一にでもその手紙が残っていれば確かな証拠になるだろうが、さすがに処分してしまっているだろうな……。
「女官の話によるとその手紙の中に毒が添えられていたそうだ。もう少し確かな証拠を掴みたいところだな」
「だが、調べてみる価値はある。一度後宮に届けられた手紙の記録を検めさせよう。左大臣ゆかりのものを調べ、藤壺の女御に届いた文を検める」
 帝は左大臣家の人間にも探りを入れみるつもりのようだ。
「それにしてもあの妃はなかなか肝が据わっている。役人相手にも動じず、自分が犯人だと疑われているというのに堂々としていた。その上おまえが命を狙われたとあればその真犯人を突き止めようとする。本当に面白い」
「面白がっている場合ではない、早く咲子を止めてくれ、何のためにおまえを付けたと思っている」
「いつもは冷静なおまえが桐壺の更衣のこととなると精彩を欠くな。心配なのはわかるが、おまえがやることはもう決まっているのだろう?」
「右大臣に話を付けた。あとは時を待つ」
「その時は、案外早く来るだろうよ。あぁ、俺は疲れた、少し仮眠をとってくる」
「待て龍、話しは終わっていない!」
「話しはもう付いたろう? おまえは、すぐにやってくるというその時をただ待てばいい」
 中将はそう言って、一つ大きな欠伸をしてから清涼殿を出ていった。
 
 帝との短い逢瀬を終えた咲子は満たされた気持ちになっていた。自然とこれから行動を起こすための勇気も湧いてくる。自分にとって、帝自身がいかに大切な人であるかを再認識したからだ。
 必ず帝をお守りする、この身に代えても……!
 千寿丸から手紙がなかったと聞いた咲子は、散々考えた挙句、偽の手紙を用意することにした。正確には手紙ではない、折りたたまれた紙には何も書かれておらず白紙のまま。そこに、懐紙に塩を包んだものを添える。
 和子から聞いた手紙の外見に極力似せたものだ。もしかしたら、これを見た藤壺の女御は動揺してくれるのではないかと願う。藤壺の女御が少しでもボロを出してくれたら、罪を糾弾することができるかもしれない。
 だが、これだけでは当然証拠にはならない。他に、何か出来ないかと咲子は考えを巡らせる。
「桐壺の更衣、それはいったい何でしょうか」
 和子が不思議そうな顔で尋ねると、咲子は「内緒です。でも、すぐにわかりますよ」と言って返した。
 藤壺の女御と対峙するよい機会はないだろうかと見計らっていると、近いうちに藤壺で宴が開かれることが分かった。多くの妃たちが呼ばれる席だという。
 同じ日に咲子の処分が下されることも分かった。帝の許可を得ず、左大臣が勝手に決めた日取りだという。帝は抗議したが、左大臣は「罪人の処分は早い方が後宮の平和のためです」と取り合わなかった。親子で日取りを合わせたのかもしれない。咲子は焦った。手紙以外に用意できたものは何もない。
 どうしよう、こんなに早く処分の日が来るなんて……。もう、時間がないわ、とにかく出来る限りのことをやるしかない。女御にだって後悔の気持ちがあるはず。罪の意識があれば、もしかしたら自白してくれるかもしれない。それにかけるしかないわ。
「和子、私たちにはもう後がありません。少々手荒で無謀とも言えますが、何もせず処分を受けるよりも、私はよいと考えています」
 咲子が和子に声をかけると、和子は頷いた。
「私は桐壺の更衣に従います。何もせずとも処分は決まっているのです。たとえどのような結果になっても恐れはしません」
「ありがとう和子、そう言ってもらえると勇気が出ます」
 咲子は和子を勇気づけるようにほほ笑むと、断罪の日と重なる宴の日を待った。

 その日はよく晴れた日になった。初夏のように爽やかな気候の中、藤壺では咲き誇る藤を愛でながらの宴が催された。見事に咲き誇った藤の下に、後宮内の妃たちが続々と集まってきている。
「そういえば、罪人の処分も今日なのだそうですよ」
 藤壺の女御は上機嫌にそう言った。
「罪人とは……桐壺の更衣のことでしょうか?」
「えぇ、あたりまえでしょう。なんでも私に嫉妬して帝に毒を盛ったそうではありませんか。私が憎ければ、私に毒を盛ればよいものを。幸い帝は無事でしたが、帝を殺めようとするなどなんと罪深い。本当に、下賤の者はなにを考えるかわかったものではありませんわ。本当に恐ろしい」
 藤壺の女御は楽しそうに笑った。
「本当に、愚かなことです」
「それも使った女官にまで裏切られたそうではありませんか。毒を盛らされた女官が、桐壺の更衣の指示だと言ったそうですよ」
「私も聞きました。桐壺の更衣はまともな教育を受けてこられなかったので考えることが浅はかなのですよ」
 妃たちもそう言って笑い合った。藤壺の女御も楽しそうに笑みを浮かべている。
「みなさんは本当に聡明ですわね」
 咲子は遠巻きに藤壺の女御たちの様子を伺っていた。中将に頼み込んで部屋を出してもらったのである。宴はつつがなく行われているようであった。
 折りを見て、咲子は用意した手紙を手に藤壺に姿を現した。咲子の姿を見つけた藤壺の女御は驚いて目を見開き、それからひどく嫌そうな顔をした。
「あら、なんだか臭いと思ったら、ネズミが檻から逃げ出してきたようですね。皆さん、どうかご心配なく、今追い払わせますから」
 藤壺の女御がそう言って咲子を睨んだ時、咲子は持っていた紙を取り出した。中に懐紙が包まれているのが分かるように持って見せる。
 この手紙が本物かもしれないと思って、女御が自白してくれることを願うしかない。
咲子の手元を見て、藤壺の女御は一瞬たじろいだように見えた。だが、すぐに落ち着きを取り戻す。
「こちらを拾ったのでお返しに参りました」
「なんですかその手紙は」
「これに、見覚えはありませんか? 中に厚みのある懐紙が入っているようです」
 咲子が詰め寄ると、藤壺の女御はふんと鼻を鳴らした。
「その手紙が何だというのです。どうせ、私を帝に毒を盛った犯人に仕立てるためにおまえが用意したものでしょう?」
「ち、違います。これは藤壺の女御宛の手紙ではないかと思い、お持ちしたのです」
 だめだ、すぐに偽物だとばれてしまった。どうしよう、声が震える。絶対に怪しまれてはいけないのに……!
 咲子は必死に平静を装った。心臓がバクバクと音を立てているけれど、藤壺の女御に焦りを見せるわけにはいかない。
 咲子の言葉に、ほんの一瞬だけ藤壺の女御は驚いたような顔になった。だが、すぐに平静を取り戻す。
「嘘ですよ、そのくらいわかります。それは、あなたが私を陥れるために用意した偽物の手紙に違いありません」
「ど、どうして、偽物だとわかるのですか?」
 どうか、罪を認めて……!
 だが、咲子の願いに反し、藤壺の女御はにっこりと笑顔を浮かべた。
「おまえは桐壺から一歩も出られなかったはず。そのおまえが、私宛の手紙を持っているとは到底思えません」
 だめだ、少しも動揺しない。この人は少しも心を痛めてはいないのだ。帝に、毒を盛ったということに……。
 咲子の額に冷たい汗が湧く。藤壺の女御は少しも動揺を見せない。咲子は祈るような気持ちで言葉をつづけた。
「で、ですが、見覚えがあるはずです。藤壺の女御、この懐紙の中には何が入っているのでしょうか、ご存知ではありませんか?」
 咲子の願いを吹き消すように、藤壺の女御は笑みを浮かべる。
「私にわかるわけがないと言っているでしょう? もしかして、それが毒だとでも言いたいのですか? おまえがそれを持っているということは、おまえが帝を暗殺しようと企てたのだという動かぬ証拠。まるで私がその毒を持っていたかのように言いましたが、そんな証拠はどこにもありませんよ。そもそも、私が帝を殺める理由がありません。私は、帝に愛されているのですから。捨てられたおまえとは違うのです。毒にしたって、おまえがよく文のやり取りをしているという堀川の女御に用意させたのではありませんか?」
 毒の存在を匂わせても藤壺の女御は少しも動じない。証拠の手紙も毒も、きちんと処分したという確信があるのだろう。藤壺の女御の自白を願っていた咲子は策を失ってしまった。
 これ以上は何を言ってももうこちらが不利になるばかり。和子、助けてあげられなくてごめんなさい。帝、今まで、私は幸せでした、本当に――。どうか、お幸せに……!
 咲子が女御を問い詰めることに限界を感じ、処分を受ける覚悟を決めたときだ、誰かの近づいてくる足音がした。
「今日はよい天気だな、藤の花も咲き誇り、みなもそろって宴を楽しんでいるようだ」
 姿を見せたのは帝その人であった。藤壺の女御は嬉しそうに声を上げた。
「まぁ、ようこそいらっしゃいました。私主催の宴です、どうぞ楽しんでいってください」
「いや、私は宴を楽しみに来たのではない」
「では、私に会いに来てくださったのでしょうか?」
「そうだな――」
「まあ! みなさん申し訳ありませんが、宴の続きはまた後ほどにいたしましょう。今すぐお帰りになってください」
 帝が頷いたので、藤壺の女御は慌てて他の妃たちを帰そうとする。だが、帝は首を横に振った。
「いや、このままでいい。みなにも聞いてもらった方がよい」
 帝は咲子の方をちらりと見ると、視線を後ろに向けた。帝が何を言い出すのかと、咲子は緊張した面持ちで帝を見つめる。
 ここで、私は処分を下されることになるのだろうか……。帝の口から後宮を去れと言われたら、どれほど苦しい気持ちになるのだろう……、想像しただけで恐ろしくなるわ。
 咲子は身が裂けるような思いだった。
「藤壺の女御、そういえば手紙がどうとか話をしていたな。桐壺の更衣と揉めていたようだが、何のことだ?」
 帝は一瞬視線を咲子に向けてから、藤壺の女御を見る。
「えぇえぇ、聞いてください帝。桐壺の更衣が私を陥れようと偽の手紙を持ってきたのですよ、私が帝に毒を盛った犯人だなどと恐ろしいことを言うのです。自分の罪を私に擦り付けようとするのですよ、本当に意地の悪い方ですわ」
 藤壺の女御は着物の袖で目元を隠し、悲しむようなしぐさを見せた。咲子は帝になんと説明すべきか悩んだ。手紙が偽物であることは確かなのだ。弁解のしようがない。
「ほう。だが、それはおかしいのではないか?」
 帝は芝居がかったように首を傾げた。
 どういうことだろう。咲子はすぐには帝の意図するところがわからない。
「な、何故です?」
 咲子の言葉を代弁するように、藤壺の女御が取り乱して聞き返した。
「どうしてこの手紙の存在が、お前が毒を盛った犯人だと示すことになる? 桐壺の更科はただ、この手紙を知っているかと聞いただけであろう。この手紙が今回の罪に関係しているとは、誰も言っていないのに、どういうわけか勝手にそう解釈したのだな」
 た、確かに。それはおかしい。
「そ、それは……」
 藤壺の女御は明らかに取り乱している。
「まるで、もともと本物の手紙があり、その存在を知っていたかのようだな」
「なんとなく察したのです……! 桐壺の更科が私を陥れようとしていると。言葉のあやではありませんか! そんなことで証拠にはならないはずです」
「ふん、まあ手紙のことはよい。藤壺の女御がなかったというのなら、本当になかったのだろう」
 帝の言葉に、藤壺の女御は安堵した表情を見せる。
「や、やはり帝は私のことを信じてくださるのですね! 嬉しいですわ」
 藤壺の女御は咲子を見ながらにんまりと笑みを浮かべる。
「ところで藤壺の女御、私は別でおまえに尋ねたいことがあるのだ」
「まぁ、いったいどのようなことでしょう? なんなりとお尋ねください」
「では。私が興味深いものを用意したのだ、まずは聞いてもらいたい証言がある」
 帝は視線を後ろへ向け、そこに向かって大きな声で問いかける。
「龍、そこに連れてきている者に少し話を聞いてもよいか」
「はい、かまいません」
 扉を挟んだ向こう側に、誰かいるようだ。一人は龍の中将の声だ、もう一人いるのは誰だろうか。
「よし、話してみよ。おまえは何者だ」
 辺りが静まり返ると、扉の向こうから聞いたことのない男の声がした。
「私は普段薬を扱っております。先日、左大臣に頼まれていくつか毒を売った者でございます」
 そこにいたのは商人のようだった。男の声を聞いて、妃たちがざわめき始める。藤壺の女御の顔がみるみる青ざめていくのがわかった。帝は藤壺の女御に尋ねる。
「これはなかなか興味深い証言だろう。藤壺の女御、左大臣はなんのために毒を買い付けたのだろうか、聞きたいと思っていたのだ。おまえはなにか知っているか?」
「そ、そのようなこと、知るはずがありませんわ」
「そうか――。そうだな、おまえが知るはずなどないのだろう」
「はい、もちろんでございます」
 帝の言葉に、藤壺の女御は安堵したようにうなずいた。
「そういえば先ほど大臣からの手紙の話が出ていただろう? 私の方でも思うところがあって、ここ最近後宮へ届いた手紙の記録を調べさせていたのだ。おまえは手紙などなかったと言っていたが、そのなかに左大臣から藤壺の女御に届けられた手紙の記録があったような気がしたが……、私の勘違いだろうか? 先ほど桐壺の更衣が持っていた手紙とは関係がないのか?」
 帝の言葉を聞いて、藤壺の女御ははっとしたような表情になってから、わずかに焦りを見せる。 
「か、関係ございません。届けに来てくれたのは手紙ではございません、く、薬……、そう、薬でございます。最近調子を崩したと父に手紙を書きましたので、用意してくれたのでしょう。急を要しましたので、直々に持って来てくださったのです。走り書きのようなものもほんの少しだけありましたが、私を案ずるような内容が書かれていただけです。手紙などという大層なものではありませんわ。取るに足らないものでしたので処分をいたしました。それだけでございます」
 女御はしらを切るつもりである。左大臣が毒を手に入れたからと言って、それを藤壺の女御が指示して薬を盛らせたという証拠はない。もちろん、帝に使ったという証拠にもならない。わずかに焦りを見せていた藤壺の女御であったが、出てくる証拠がどれも決定的なものではないと思ったのだろう、話しているうちに次第に落ち着きを取り戻したようだ。余裕があるのか、うっすらと笑みすら浮かべている。
 だめだわ……。ここまで来ても藤壺の女御を追い詰めることはできない……。諦めたくない、諦めたくないのに、これ以上どうしたらよいのかわからない……! 何か、何か考えなければ……!
 咲子がそう思い、祈るような気持ちで堅く目をつぶったときである。
「お、お、恐れながら、お待ちください」
 帝の後ろに控えていた女官が一人、大きな声を出した。緊張のせいか、裏返った声になっている。他でもない、和子であった。帝は振り返ると口角を持ち上げた。
「そうであった、もう一つ聞いてもらいたい証言があったのだ。そこの女官、申してみよ」
 帝がそう言うと、和子は声を張り上げる。
「桐壺に仕える和子と申します。私は嘘を申しておりました。私に毒を盛るよう指示したのは桐壺の更衣ではありません」
 和子に注目が集まる。咲子も心配そうな顔で和子を見た。
「興味深い。では、実際に指示したのは誰だ?」
 帝が聞き返すと、和子はしっかりと前を見据えて答えた。
「藤壺の女御でございます。女御は左大臣から毒を受け取り、私に帝の食事に毒を混ぜるよう指示を出しました。女御は毒を盛った罪を桐壺の更衣に着せろと仰られました。私の父はもともと左大臣にお仕えする身、愚かな私は命令に背くことができませんでした」
 和子の言葉に、藤壺の女御の表情は一変して目を吊り上げる。
「和子! おまえ、私を裏切るのですか! おまえのお父上がどうなってもよいと言うのですね! そもそも、おまえの言うことなど誰が信じるものですか、どうせまた桐壺の更衣に唆されているのでしょう!」
「帝に毒を盛った時点で、私も父も罪は免れません。ただ、私のために罪を被り、その上、私の心の弱さを赦し、守ろうとしてくださった桐壺の更衣に、これ以上濡れ衣を着せさせ続けることは、私には出来ません」
「和子……」
 咲子は和子のもとに駆け寄り、恐怖に震えるその体を抱きしめた。ただならぬ恐れの中、和子は咲子のために勇気を振り絞ったのだとわかる。
「全てわかった」
 帝は頷いた。藤壺の女御は青い顔をする。
「まさか、帝はこの女官の言うことを信じるというのですか! この女官は桐壺の更衣に操られているのです! 帝、どうか私の言うことを信じてください」
 縋りつこうとする藤壺の女御に、帝は冷たい視線を送った。
「今、藤壺の女御は女官に対して自分を裏切るのかと言っていたが、それはどういう意味だろうか」
「それは……こ、言葉通りでございます! あの女官は、私を裏切り桐壺の更衣と一緒になって私を陥れようとしているのです! 本当でございます!」
「もう一度そこの女官に聞く。偽りを申せば私がおまえとおまえの父親を改めて処分しよう。代わりに真実を話せば情状酌量の余地を認める。真実を話せ」
 帝に問いかけられ、咲子に支えられていた和子は、居住まいを正すと深々と頭を下げた。
「申し上げます。私に毒を盛るよう指示されたのは、他でもない藤壺の女御でございます。女御が左大臣から受け取ったものは薬ではなく毒でした。その毒を私に渡されたのです」
「う、嘘でございます! 出鱈目(でたらめ)を言っているのです!」
「藤壺の女御、おまえのような罪人の操る言葉になんの意味があるというのか。私は私の妃である桐壺の更衣の言葉と、更衣の女官の言葉を信じる」
「帝!」
 ついに逃げ場のなくなった藤壺の女御は帝のもとにひれ伏した。
「わ、私は父の指示に従っただけでございます! 本当は嫌だったのです。愛しいあなたに毒を盛ることなど、どうして出来ましょうか。そうです、私は父が恐ろしくて……。私に罪はありません、どうかどうか!」
 縋りつこうとする藤壺の女御を、帝はひどく冷たい目で見下ろした。
「おまえの顔など見たくもない。左大臣ともども、この後宮より去れ。後日正式に処罰を下す。それまで藤壺に籠っているがいい」
「帝! 私は無実でございます! 私はあなたに愛されたい一心で……!」
「黙れ」
 低い声が響く。帝は藤壺の女御に一言そう告げると、視線を他の妃たちに向けた。最後に優しい眼差しを咲子に向けてくる。
「騒がせてすまなかった。みな、各自部屋に戻られよ。桐壺の更衣はこちらへ」
「帝! ご慈悲を……!」
 帝は縋りつこうとする藤壺の女御を見ようとはしなかった。他の妃たちがそろそろと部屋に戻ってしまうと、帝は咲子を伴って弘徽殿へと向かう。藤壺の女御は役人に取り押さえられ、藤壺へと押し込められた。
「勝手なことをして申し訳ございませんでした」
 弘徽殿に入ると、咲子は帝に向かってひれ伏した。
「やっと、二人きりになることができた。どうか頭を上げてくれ、あなたが謝らねばならないことなど何もない。私の方こそ、不安な思いをさせて申し訳なかった」
 帝は咲子の体を優しく抱きしめてきた。
「それにしても、あなたがあんなにも大胆な方法に出るとは驚いた。龍から話を聞いた時には肝が冷えたぞ」
「申し訳ありません、必死だったものですから……」
「いいや、いいんだ。あなたがあのような場を設けてくれてよかった。おかげでみなの前で左大臣と藤壺の女御の悪事を暴くことができた」
「いえ、私の無謀な計画で和子を危険に晒してしまうところでした。あそこで帝が現れてくださらなかったらと思うと……」
 私はなんと愚かなことを……。
 恐ろしさに咲子は思わず自分の体を抱きしめた。帝はそんな咲子を優しく抱きしめる。
「左大臣が突然あなたの処分を決めてしまったので本当に焦った。右大臣や龍にも協力してもらって必死に証拠を探していたのだ、間に合ってよかった。どのように糾弾しようかと考えていたのだ。下手に追い詰めては言い逃れられてしまう可能性だってある。あなたの用意した手紙があったからこそ、左大臣と藤壺の女御が共犯であることを暴き、藤壺の女御を追い詰めることができた、ありがとう」
 帝は安堵した表情で咲子を見ると、今にも泣きそうな顔になる。咲子はその頬にそっと触れた。
「そのような顔をなさらないでください。あなたのおかげで、私は無事に後宮に残ることができました」
「どんな手を使ってでもあなたを守るつもりでいたのだ、左大臣も焦っていたのだろうな」
「私も焦っておりました。もしも、あなたのもとから去らなくてはならない日が来たらと考えただけで恐ろしくて……。正直に申し上げると、お会いできない間も本当に苦しかったのです。なにか、理由がおありだと思ってはいたのですが……」
「それは、どこから話すべきか……」
 帝は少し悩んでから、今日にいたるまでの話を始めた。
「まずはあなたに会いに行けなくなったことの弁解からさせてほしい」
「……その間、藤壺の女御をお呼びだったと聞きました。帝が他の女性と一緒におられると考えるだけで心が壊れえてしまいそうでした」
 咲子が瞳を伏せて悲しそうに言うと、帝は苦々しい顔をした。
「そんなにも私のことを想ってくれていたのか……。藤壺の女御など、誰が呼ぶものか、女御が勝手に私のもとを訪れてきたのだ。私の護衛に左大臣の息のかかったものが加わり、更には女御を部屋に帰せばあなたに危害を加えると脅されて、あなたのもとに行きたくとも行くことができなかった。帝とはいえ私の権力も盤石ではない。龍を遣わすこともできず、おかげであなたに辛く悲しい思いをさせることになってしまった。本当に申し訳ない」
「いえ! 帝が謝ることではありません。そもそも後宮とはあなた一人の愛を多くの妃で分け合う場所。それを納得できない私が悪いのです」
「私の妃はあなた一人だけだ。これまでも、これからも未来永劫それが変わることはない」
 帝はそう告げると、咲子の頬に触れた。熱を帯びた瞳に見つめられ、咲子がゆっくりと目を閉じると、柔らかな熱が唇に降りてくる。
「お会いしたかった……」
 咲子は一筋涙を流すと、帝はそれを優しく掬い取った。
「帝、続きを聞かせてください。いったい、今日までの間に何があったのかを」
「そうだな、これ以上あなたに触れるのは全ての片を付け終えた後にしよう」
 帝の言葉に、咲子は頬を赤らめる。その様子を愛おしそうに見つめてから、帝は話をつづけた。
「私が女御と夜を共にすることなどありえない。それで私に腹を立てた女御と焦りを感じた左大臣は私を暗殺するという今回のことに及んだのだろう。時間をかけ毒を盛り、私を衰弱死にでも見せかけ殺すつもりだったのだろう。上手くいけば、思い通りにいかない私を亡き者にでき、幼い東宮を帝に立てて自分が摂政になるつもりだったのだと思う。仮に私が死ななくとも、あなたに罪を着せ、後宮から追い出すことができたらよいとでも考えていたのかもしれないな」
 帝の推測を聞いた咲子は藤壺の女御と左大臣の考えの恐ろしさに眉をひそめた。
「権力のために帝に毒を盛るなんて……。それに、東宮はまだ七つになったばかりです! そのような幼子に、この国を背負わせようとなさるとは。あまりに重すぎます」
「だが彼らは決行した。先日、私の食事を確かめていた薬子が代わったのだ。思えばそこからおかしいと思わなければいけなかった。新しい薬子はいつものように銀の箸を使い、私の食事を調べたはずだった。だが、いざ私が食事に手を付けようとすると、あなたがくれた箸が黒く変色したのだ」
「そんな……」
「薬子は左大臣が用意したもの、銀の箸は偽物だったのだろう。あなたの箸がなければ、私は毒を食べ続け、今頃ここにはいないかもしれない」
「そんなことになったら私は……」
 咲子は恐ろしさに胸を押さえた。もしも、帝に何かあったらと思うと、たとえようのない悲しみが襲ってくる。
「そのような顔をするな。あなたのおかげで、私は無事だった」
「よかった、本当に。私の贈り物などがお役に立ててよかったです」
 咲子はそう言ってからはっとした。咲子に帝へ贈るため、銀の箸をすすめたのは他でもない和子なのだ。
 きっと和子が計らってくれたのだ、ありがとう和子。
 咲子は心優しい女官に感謝した。
「帝、私に銀の箸を贈るようすすめてくれたのは他でもない和子なのです。どうか、寛大な処分をお願いいたします。私は和子に感謝しているのです」
「安心しろ、彼ら親子の処分は私が検討しておく。あなたのもとに戻ることができたら礼の言葉を伝えてやるといい」
「はい、心から和子の帰りを待っています」
 二人は寄り添うと、麗らかな初夏の陽気に身をゆだねる。思えば、幼い帝と出会ったのもこのころだったと、咲子は思った。
「あぁ、ずっとこうしていたい気持ちが山々なのだが、まだまだやらなければいけない仕事が残っているのだ。私は紫宸殿(ししんでん)へと戻らねばならない。色々とことが片付いた暁には、必ずあなたのもとを訪れる」
「貴重なお時間を割いてくださりありがとうございました。お会いできて本当に幸せでした」
 帝は名残惜しそうに咲子を抱きしめると、弘徽殿を後にする。咲子は帝を見送ってから、弘徽殿を後にしようとして、ふと、部屋の中を見回した。
 取り揃えられた見事な調度品の数々、弘徽殿も桐壺同様長く使われていなかったと耳にしていたが、まるで誰かが住まっているような様子だ。
「私がここにいるということは、どなたもお使いになられていないはずだけど……。帝はあのように仰ってくださったけれど、もしかしたら帝の知らないうちに新しいお妃を迎える準備が進んでいるのかしれない」
 弘徽殿にいらっしゃるということは高貴なお家柄の方……。
 帝が新しい妃を迎えるのかもしれないと、一抹の不安がよぎる。咲子は強く目をつむり、首を横に振った。
「でも、大丈夫。私は、帝の愛を信じるだけ」
 そう言って自分を納得させると、咲子は桐壺へと戻ろうと踵を返した。
 翌日、帝は再び咲子のもとを訪れた。
「おはよう咲子、昨夜はよく眠れたか?」
「はい、心配事が消えましたから」
 咲子は笑顔で答える。真実を知るのが恐ろしくて弘徽殿のことについては尋ねることができない。
「一つあなたに伝えておきたいことがあったのだ」
「私にですか?」
「あぁ、今日、左大臣と藤壺の女御に処分が下される。その後、あなたに清涼殿に来てもらいたい」
「清涼殿にですか……? はい、わかりました。必ず伺います」
「必ずだ。本当は龍か誰かに言付けるべきなのだろうが、わずかな時間でもあなたに会いたくて自ら来てしまった」
 そんな風に想ってくださるなんて、なんて幸せなことだろう……。
 咲子は帝の言葉に頬を赤く染め、立ち上がった。
「では、お見送りをさせてください。私も同じ気持ちです、少しでも長くあなたの姿を見ていたいのです」
「嬉しいことを言ってくれる。では、また後ほど、清涼殿で待っているから」
 帝がそう言って咲子に背を向け、数歩歩みを進めた時だ。
 どこからか一本の矢が帝目がけて飛んできた。
「……帝!」
 危ない……!
 いち早く矢の存在に気がついた咲子は、帝を守るように立ちはだかる。
「咲子!」
 振り返った帝の声が響いた瞬間、胸を強く殴られたような強い衝撃が走り、鈍い痛みを感じた。息が出来ないほどの衝撃に、咲子はそのまま意識を失った。
 咲子が目を覚ましたのはそれから半日が過ぎてからだった。すっかり夜が更けてから咲子が目を覚ますと、そばに付き添っていた帝が泣きそうな顔でこちらを見ているのと目が合った。咲子の顔を見ると、その瞳から涙がこぼれ落ちる。
「咲子、目が覚めたのか! よかった、本当によかった……」
「帝、私は……ここは?」
「私の寝所だ。覚えているか、あなたは私をかばってその身に矢を受けたのだ」
 帝の言葉を聞いて、ぼんやりとしていた記憶が次第に鮮明に戻ってくる。
「……そうです……。帝の背に矢が飛んでくるのが見えて、私、夢中で――」
 矢が当たった胸のあたりに手を当てる。打ち身のような鈍い痛みはあるが、矢が刺さったような傷があるようには思えかった。そもそも、矢が刺さったのであればもっと痛むはず、場合によっては命を落としていてもおかしくない。
 咲子が不思議に思っていると、帝はあるものを取り出した。それは、小さくえぐられた銀色の何か――。
「矢は、この懸守に当たっていた。これが、あなたを守ってくれたのだ」
 咲子は銀の塊を見て真っ青になる。見覚えのあるその銀細工は、以前帝がくれた母親の形見だった。
「私の代わりに、大切なお母様の形見が……私はなんてことを! 申し訳ありません!」
 ひれ伏そうとする咲子の体を帝が抱きとめる。
「馬鹿なことを言うな! 懸守とあなたと、どちらが大切かなど比べるまでもない。そもそもこれは母が私を守るために残してくれたもの。この懸守をあなたに渡しておいて本当によかったと私は心の底から安堵したのだ。きっと母が、あなたを守ってくれたのだと思う。私にとって、最も大切な人であるあなたを――」
「そんな……恐れ多いことでございます」
 放たれた矢は咲子の身に着けていた懸守に当たり、咲子の命を守ってくれていた。
「なかなか目を覚まさないものだから本当に心配した。医師は心労がたまっているのだろうと言っていたが、それはあなたに辛い思いをさせつづけた私の責任――本当に、申し訳ない」
「謝らないでください! 私は安堵したのだと思います。帝を守ることができたのですから……」
「本当に、またあなたに守ってもらったな」
「いいえ、守られたのは私の方ですよ。帝がくださった懸守のおかげで、私はこの通り無事だったのですから」
 二人は顔を見合わせ、ほほ笑み合った。
「すぐにでもあなたに伝えたいことがあるのだが、今夜は安心してゆっくり休んでくれ」
「そのように仰られると、とても気になります!」
「あぁ、だから早くよくなってくれ。私も早く伝えたくて仕方がないのだ」
 帝は咲子の隣りに横になると、咲子を優しく抱きしめた。咲子は愛しいぬくもりに包まれ、穏やかな眠りに包まれていく。空には満ちた月が上り、優しく世界を照らしていた。
 咲子が深い眠りに就いている間に、左大臣と藤壺の女御が処罰されていた。
 矢を放った人物もすぐに捕らえられ、左大臣の放った間者であることもわかった。左大臣は自分の処分が決まる前に、どうにか帝を亡き者にしようと考えていたようである。騒動に乗じて自らの罪を有耶無耶にしてしまうつもりだったのだろう。
 捕らえられた左大臣一家は重い罰を受け、遠い地への流刑が決まり都を去ることになった。その知らせは、目を覚ました咲子のもとにも届いていた。もう二度と左大臣と女御が都の土を踏むことはないだろう。
「本当に、安心いたしました」
 咲子の髪を梳かしながら、和子は安堵したように声をかける。和子と父親の処分は軽いもので済み、和子は正式に咲子付きの女官となった。帝が計らってくれたのだ。
「さぁ、お化粧も終わりましたよ」
 咲子は和子を始めとした女官たちの手によって着飾られていた。
「ねぇ、このように着飾っていたら帝がびっくりするのではないかしら」
 朝目覚めたら、女官たちが嬉々として咲子を着飾り始めたのだ。理由を尋ねてもみなほほ笑むだけで誰一人答えてはくれない。
「えぇ、あまりの美しさに驚かれると思いますよ。まるでかぐや姫のようだと仰られるに違いありません」
「そしてまた月に帰ってしまうのかと不安に思われるかもしれませんわ」
 女官たちは楽しそうに笑っている。
「そういうことではありません、なぜこのように着飾っているのかと、お笑いになられないかしら……」
 帝がそのようなことで笑うような人ではないことはわかっているけれど、なぜいつも以上に着飾る必要があるのかわからず咲子は困惑していた。
 記憶違いでなければ、宴の類はなかったはずである。
「桐壺の更衣、帝がいらっしゃいましたよ」
 女官の言葉に、咲子の胸は高鳴った。帝に会えると思うと、それだけでたまらなく嬉しい気持ちになる。
「よ、ようこそおいでくださいました」
 いつもよりも着飾っている気恥ずかしさで思わず声が裏返る。
「すっかり顔色もいいな、安心した。それにとても綺麗だ、私が選んだ着物も、とてもよく似合っている」
「ご心配をおかけしました。もうすっかり元気ですよ」
 帝は咲子を見つめると、笑みをこぼした。
「これでようやく伝えることができる。長く待たせて申し訳なかった、矢の騒動ですっかり遅くなってしまったのだ。桐壺の更衣、改めてあなたに伝えたいことがある」
「ずっと気になっておりました。私に伝えたいこととはなんでしょうか?」
「今日をもって、あなたは右大臣の養女となった。あなたを中宮に迎えたい、どうか、弘徽殿に移ってくれないか」
 帝がそう告げると、周りの女官たちが悲鳴にも似た喜びの声を上げた。咲子は驚きのあまりに言葉を失う。ようやく音に乗せた言葉は震えていた。
「私が、あなたの中宮に……」
「他には考えられないと言っただろう? 咲子にはゆくゆく皇后になってもらう。右大臣は後に左大臣の地位に置く。反対する者などいるわけがない。今日からあなたは、私のただ一人の妻となる」
「本当に、そんな夢のようなことが……」
 帝の言葉に、咲子ははらはらと涙を流した。弘徽殿に調度品がそろっていたのは、咲子を迎え入れるためだったのだとわかり、ようやく全ての悩みがほどけたような気がした。
「私が不甲斐ないばかりに長く待たせて悪かった。だが、もう夢ではない。ようやく本当の夢を叶えることができた。これから正式にあなたが入内するための儀式を行おうと思っているのだ。さあ、共に行こう」
「そ、そんな恐れ多い! 私は改めて儀式など……」
 女官たちが嬉々として咲子を着飾っていた理由がようやくわかった。咲子が弘徽殿の女御となり、婚礼の議を行うことを知っていたのだ。
「とてもではありませんか、心の準備が出来ておりません」
「では、私の皇后にはなりたくないというのか?」
「そんなはずはありません! それは私が決して叶わないと思っていた夢ですから……! あなたのただ一人の妃になれるとしたらこんなに嬉しいことはありません」
「では、今すぐに心の準備をしてくれ。前もって知らせていなくて悪かったとは思っているのだが、少し、驚かせたかったのだ」
「とても驚きましたよ!」
 咲子が訴えると、帝は嬉しそうに目を細める。
「さぁ、おいで、私の皇后――」
 咲子が遠慮がちに差し出した手を、帝はしっかりと握る。帝に手を引かれ、弘徽殿へと向かう途中、帝は足を止めた。
「そうだ、あなたに見せたいものがあるのだった」
 そう言うと、帝は咲子を連れ出す。池にかかる欅橋(けやきばし)、その先に写る景色を見て咲子は目に涙を浮かべた。視線の先には、美しく咲き誇る桐の花があった。
「桐の樹木は桐壺にも生えてはいるのだが、あなたとの再会に感謝して新しく植えていたのだ。ようやく花をつけた。ここから、あの木を二人で見守りたい」
「……なんて綺麗な花なのでしょう。ありがとうございます……とても嬉しい」
 そのまま桐のもとへと寄り添って歩みを進める。花の咲き誇る木の下で立ち止まると、帝は一輪の花を手に取った。その薄紫の美しい花を咲子の髪に飾る。
「桐の花の美しさも、あなたの前では見劣りしてしまうな」
「そんなことはありません。あぁ、こんなにも幸せなことがあってもよいのでしょうか、すべてが夢のようです」
「夢ではない。だが、私の方も夢を見ているようだ――。どれほど、あなたを探したことか……! 本当に、長かった」 
 咲子は帝の胸に手を当てた。近江で出会った、幼い日のように――。
「温かい」
「ようやく手に入れることができた、桐花姫」
「私も、ずっとお待ちしておりました、あなただけを……」
 互いに身を寄せ合う二人は、まるで連理(れんり)の枝のようである。未来永劫離れることはない。視線の先で、風に吹かれた桐の花がそよそよと揺れていた。美しい薄紫色の花が風に揺れる。ひらりと散った花びらは、まるで二人を祝福するように天高く舞い上がっていった。