元々、第八美術室は授業や部活でよく使われていた教室だった。芸術コースが設立する前の美術部だって、この場所を拠点にしていたらしい。しかし、芸術コースができたその年に増築し、次第に使われなくなっていったのだという。
 描く生徒たちの姿――それが、高嶺先輩が描き加えたかったものだ。
 さらにこのカンバスは、見る高さによって美術室に誰かがいるように見える仕掛けが施されている。正面から見ればただの美術室だが、背の低い子どもが見ると、額縁やイーゼルを懸命によじ登っている生徒が現れ、また、カンバスを高い位置から見れば、差し込んだ朝焼けの色が砂浜のように映り、うっすらと見える空の青を海だと錯覚する。額縁がなく、誰もが手が届くイーゼルに置く理由はこのためだ。仕掛けは下描き時点ですでに仕込まれており、香椎先輩が高さの違いに気付かなければ、これはなかったことにされていただろう。
「……楽しそうだなぁ」
 誰かが呟いた。じっと見つめるその姿勢は絵に引き込まれているようで、傍から見たら、私が絵に呑まれているときもあんな感じだったのかとふと思う。
 すると、隣で食いつくようにして見ていた彼女の頬に涙が伝う。彼女は「ご、ごめんなさい」慌てて拭って、どこか嬉しそうに笑う。
「今ね、千暁くんがいたような気がするの。あなたの姿もあったけど、一緒にいた彼も美術部かしら。顔に絵の具をつけながら、すっごく楽しそうに絵を描いているのが頭に浮かんだの」
 彼女はそう言って私を見る。この絵に使われたイーゼルと絵筆の灰は、すべての絵の具に混ぜられている。どれも芸術コースができるずっと前から使われてきたものだ。
「すごく素敵な世界ね。ずっと見ていたいわ」
 好きなものを追及する先輩たちの世界はこれからも続いていく。さらに広がる世界を彩るための一歩にすぎない。環境が変わっても、やると決めたことを続けていけばきっとまた出会える。空がどこまでも続くように、ここは好きなもので繋がっていく世界だ。
 ――素敵でしょう? 新しい自分に出会えるのは。
 ふと、優しい声がすぐ近くで聞こえた。一年前のあの日に出会った理事長先生の声によく似ている。先生にとって、芸術コースも美術部もどちらも大切だから、様子を見にきたのかもしれない。
「……そう、ですね」
 一年前の私が起こした行動は間違っていなかった。もしあの絵に出会えていなかったら、私は誰かと助け合うことも、一緒に何かを作り上げる喜びも知らなかったままだった。
 この先、立ち直れないほどの挫折を味わって、夢を諦めそうになってもきっと大丈夫。
 方法なんていくらでもある。何度だって試せばいい。
 絵の中でも現実でも、世界は自分の色で彩られていくのだから。
「まだ始まったばかりなんです。終わらせません」
 胸を張って宣言すると、誰かが私の頭を撫でた気がした。