「戦時中の、光景……」
 子どもっぽい絵に見えるかもしれない。
 作品名だけで、希望に溢れたきれいな絵だと思うかもしれない。
 だから大抵の人が素通りをしていく。意味など考えることもなく、壁にかかった色鮮やかな作品に目を向け、一通り見終わったらホールを出ていく。カンバスに描かれた本当の意味など知る由もない。
 それが本当にこの絵の作者が意図して仕組んだものかは別として、そう推測した私はカンバスの前で立ち尽し、何度も絵を見て疑った。繊細で大胆なカンバスから、悲鳴と警報が今にも聴こえてくる。何度も何度も「やめて」と泣き叫ぶ声がかき消されていくのを、空に向かって泣き叫ぶ少女が煙に巻かれて消えていくのを、私は目の前で起こっているような錯覚に陥った。
 きれいなもので彩られたこの世界は、どろどろと醜いものが積み重なってできている。――怪我をした指を隠すように。汚いお金を隠すように。空に向かって飛び立つその機体に乗せた儚い命を隠したように。鮮やかで眩しい世界に見せるために、色を塗って蓋をした。

 それに気付いた時、私はぞっと背筋が凍るような悪寒に襲われた。恐怖に当てられて急に苦しくなる。胸に押し当てていた手の甲に、涙がひとつ、またひとつと零れていく。
 それでようやく、自分が絵の中に呑み込まれていたことに気付いたのだ。驚きが隠せない中でも、密かに得た好奇心に胸をときめかせた。
 少女が願った明日を知っているのは自分だけかもしれない、と。

「あら、大丈夫?」

 突然隣にいた女性に声をかけられてハッとする。自分がいるのは煙の立ち込める悲惨な惨状の街中ではなく、平和な展示会場だったことを思い出した。知らぬ間にぼろぼろと零した涙は頬を濡らし、目元を腫らしていたのを見て、横目で通り過ぎる来場客には変な奴だと思われたかもしれない。彼女もまた、その一人だったのだろう。白い髪を一つに束ね、シックな紺色のロングスカート姿のご婦人は、私を見て小さく微笑む。
 慌てて袖口で目を擦った。ポケットに入れっぱなしのハンカチなんてすっかり忘れていて「そんなに擦ると赤くなっちゃうわよ」とご婦人に注意されるも、大丈夫だと返せば笑ってくれた。
「すみません、見苦しい姿を見せました」
「いいのよ。ここにはいろんな人がいるけど、皆感じるものは違うのだから。私もこの絵をすごく気に入っているの。こんな端に追いやられて多くの人に素通りされてしまっているけれど、あなたのように涙を流してくれる人がいるのがすごく嬉しいわ」
「そう……ですか」
「ええ。私はね、この絵を描いてもらってから、美術部を創ってよかったと思ったの」
「……美術部?」
 パンフレットや学校のホームページの部活紹介の中で、美術部のことは何も書かれていなかった。むしろ学科として芸術コースがあるくらいなのだから、存在しないのかと思っていた。不思議そうに尋ねる私に、ご婦人は嬉しそうに笑う。
「ええ。とっても素敵な部よ」
 しばらくこの学校の良さについて語ると「だからね」と言葉を続けた。
「あなたにもきっと見つかると思うの。自分がしたいこと、諦めていたことも、全部」
 私はこの時、心臓に矢を突き立てられたような気がした。自分がしたいことも見つからない、やろうとしていたことも全部、できないから仕方がないと言って諦めて周りの空気を読むようにしていた。
 なにより、彼女の真っ直ぐな目が私を捉えて離さない。
「……な、んで」
「あら。私はなんでも知っているのよ。……あなたとまた会えること、楽しみにしているわね」
 ご婦人はそう言って、ふふっといたずらに笑いながら立ち去った。

 あの日以来、私の頭の中にはいつも、ご婦人の言葉とあのカンバスがあった。
 周りにいる人たちに合わせるようにしてきた自分に嫌気が差す。無関心を保っていられるはずがない。本当に自分がしたいこと――そればっかり考えていたら、すでに受験して合格を貰った進学校に行く意味がないことに気付いた。偏差値が高く、両親が出会った大学に進学してほしいとだけ言われて受験した。大学はともかく、勉強ばかりに時間を費やすのは今も変わらない。学ぶ内容のレベルが変わっただけで同じ日々を繰り返すことに、何の意味があるのか。
「……これじゃあ、ダメだ」
 それからの行動は、自分のでも驚くほど早かった。まず学校資料を片手に担任の先生に一般入試で受験できるか確認すると、両親に承諾を得て受験へ。両親にも先生にも驚かれたが、それ以上は何も言われなかった。私の成績で問題ない範囲内で、すでに合格していた高校の偏差値よりも高かったからだ。今思えば「ダメで元々」と軽視していたようにも思える。
 選んだのは普通科の進学コース。芸術コースはすでに応募が閉め切られており、更に自分の作品を提出することが前提条件だった。私は授業で習う程度で、詳しくもなければ描くのも得意な方ではない。それに今の自分に、何がしたいのかが分からなかったから、決められたコースにいるのは難しいと思った。
 ただ、今の自分を変えたい。――その一心だけで入学を決めた。
 中学三年間という長い時間の中で、私は初めて、未来の自分を期待した。